128恥目 絶対に要くんに吐かせたい薫ちゃん

 澄んだ空気、吐く息はまだ白い。

 朝、なかなか離してくれない布団の誘惑を振り払い、あと少しの日にちこの寒さに耐えれば暖かい春が来る。


 2月の別名はいろいろありますが、僕のお気に入りは“梅見月”。いち早く季節の訪れを感じさせてくれる、紅色の花に心が踊ります。


 平成に居るよりも長く留まった「過去」は、まだまだ新しい顔を見せてくれる。教科書や文献ではわからない、深い所。知れば知る程離れ難くなるもんです。


 まるで音楽を聞くみたいに、こちらでの思い出を頭の中で思い出して歩く帝大への通勤路。

 この時代に来てから、出勤が苦だ感じたことは一度もありません。


 教師として生きた平成ではあんなに苦しくて、24時間息をするだけでも地獄だったのに。

 学校と聞くだけで蕁麻疹が出てしまうくらい悩んだのは、誰だっけ。と、誰が他人の話みたいに思えてしまう。


 自宅から帝大までは歩いて15分程。思い深ければいつの間にか事務室前にいる。

 ドアノブに手を掛けると、ピリっと走る静電気。春はもうすぐだと感じつつも冬はまだ色濃く存在感を示す。

 しかしこの辛さにも似た痛みを感じれば、仕事モードへとスイッチが切り替わるのです。


 変わり映えのない毎日。だけどそれが良い。出勤してまず、冬の帝大はとても冷えるから、生徒が来る前に教室を温めるのが1日の始まり。静かで冷たい室内の空気を肌で感じて、時間を進める毎に学生達の活気に耳を澄ますこの毎日が。


 そう、変わらない毎日、が――。

 扉を開けるとツンと鼻に付くアルコール臭。そして温かいはずのない事務室の中。そして朝からエゲツない猥談をする、2つの下品な笑い声。


 鼻をつまみ、朝の爽やかさを一瞬で台無しにする輩をなるべく傷つけるような目付きで見た。


「・・・・・・何をしてるんですか」


 怠惰、堕落、不精、物臭――全くやる気のない帝大生が2人、仲良しこよしで酒を呑んだくれている。来客用ソファにだらりとナメクジのように垂れて、唇の隙間から唾液を垂らす。

 怒りなんて通り越して呆れています。

 床にはビール瓶やゴミが当たり前に落ちている。人の職場を宴会場にするなんてどんな神経をしているんだか。親の顔が見てみたいですねえ。


 「何をしているんですか?」と、再び強く声を張れば輩は体に電気が走ったように体を跳ね上がらせた。


「よぉ、宇賀神! おせぇよ」

「たくみひゃあん、一緒に飲みましょぉ!」


 あくまでも酔っていないというテイで、待ってましたとまばらな拍手と大歓声。全く嬉しくない。

 今日の仕事って社会に蔓延るクズ掃除ですか? えぇ、大得意ですよ。ただ今回は“お父様“付きなので、少々やりにくいんですが、遠慮なく行かせてもらいましょう。


 今朝はこの冬の中でも記憶に残りそうな寒さ。窓ガラスに張り付く薄い氷がそう物語っている。堅くしまったネジ絞り錠を摘み、キュルキュルと音を立てて開いていく。

 この部屋の窓の施錠を全て解き、それぞれが完全に緩まったのを確認したら、勢いよく窓を全開!

 雪がちらつき始めていたから、眠気覚ましには丁度いい。部屋に吹き込む、いかにも寒そうな高音の風音。

 この刺すような寒さは惨いくらいに感じます。


「馬鹿! 閉めろ!」


 学校サボり魔の修治くん。さすが、怒号だけは一丁前ですね。尽斗さんは猫のように丸まり、ブルブル体を震わせているだけ。痛みには強いのに、寒さには弱いなんて可愛らしい。


 今はそんなこと関係ありませんけど。


「出ていったら閉めますよ。もちろん部屋の片付けをしてからですけど」

「わかったから閉めろ!」

「何がわかったのか、ちゃんと言って頂けます?」

「片付けりゃあいいんだろ!」


 逆上している態度に苛つきますが、分かってくれたのだと信じましょう。


 一気に冷えた空気で満たされる部屋。2人は約束通りに瓶やゴミを拾いあげ、事務室にある空っぽの屑籠に隙間なく詰めた。

 そうそう、最初からそうしていればいいんですよ。 ここで酒を飲んだのは褒められたもんじゃあありません――が、彼等は恐らく、学校に来て仕舞えば欠席にならないから問題ない! と安易に考えたのでしょう。馬鹿ですねぇ。


 片付けを済ませば、今度は思い出したように「頭が痛い」と騒ぎ始めて、さあ大変。

 寒さから風邪をひいて頭が痛いなんて、こめかみやら頭を抑える。僕のせいにしようとしてますけど、それはただの二日酔い。風邪をたった数分でひける体をお持ちとは思えません。そんな人、いないいですし。お門違いもいいところ。


 「少し苦しめ」と言いかけた言葉を飲み込み、お酒の入ったグラスを濯いで水を注ぐ。

 骨の抜けたようにだらけて座る彼等の前へ、それを差し出した。


「おぉ、迎え酒か・・・・・・悪いな」


 頭を押さえているのに、何故お酒を所望するのか。酒は飲んでも飲まれるなって言葉、知ってますか?


「水です。馬鹿な事言わないでください」

「ごめんなさいぃ・・・・・・拓実さんに聞きたいことがあってぇ・・・・・・だからぁ、そのぉ・・・・・・お酒飲んじゃいましたぁ・・・・・・」


 理由になっていないんですけど?


「意味不明です。その様子じゃあ講義なんか出られないでしょう。登校していないのと同じですからね。ただでさえ卒業見込みがなさそうだっていうのに」

「へっ、残念だが休学届けを出しているから平気だね。まだ傷が痛むんだ」

「その怪我でよく休学しようと思いましたね。ただの擦り傷でしょ」

「あいたたた」

「・・・・・・」


 あからさまな芝居に、呆れを通り越して哀れみしか感じない。打たれた、いや、掠っただけの腕を大袈裟に摩った。


 この人は何故大学にきたいと思ったのだろう。シラフではない状態でいかにも学生のように、身なりを整えて、カバンを持って時間通りに登校して、ノートが真っ黒になる程講義を受け、規律正しい学校生活を送りたかったと妄想ばかり語る。


「現実は酒瓶片手に飲んだくれて猥談ですか。皮肉ですねぇ」と目を細めてほくそ笑むと、「あまくせのせいで予定が狂ったんだよ」と冗談だと言うふうに笑う。


 貴方のやる気の問題でしょうが。と言っても、また言い訳されて終わりでしょうね。

 アニメや漫画なら、額に怒りマークが2つくらい描かれていそうな気がします。


 朝から出鼻を挫かれて、最低のスタート。気がつけば部屋の外からは、学生達のまだ眠たそうな声と足音が聞こえ始めていた。

 今朝は教室を温めることが出来なかった。特に義務でもなければ、仕事のうちにはないけれど。真面目に頑張っている学生達を少しでも応援したくて始めた事だから、今日のような格段に寒い日は特にそうしてやりたかったのに。  

 やっとコートを脱いだのが今だから、何の支度も整っていない。


 全く、この人達ときたら。

 今すぐつまみ出してやりたくても、そうしたのが原因で外で眠ってしまって凍死なんかされた日には皆さんに合わせる顔がなくなる。特に要さん。


 なのでここは、思っていることを吐き出すのはグッと我慢。そして酔いが覚める頃に中也さんを呼んで、僕が怒れなかった分も含めて懲らしめてもらいましょう。

 クズには制裁を。文人くんが改心したんです、このクズにも更生の見込みはある・・・・・・筈。


 彼らの存在を無視して机に向かう。いちいち相手にしていたら何も進みません。けれど、どうもイライラして集中出来ない。ハラワタぐつぐつ、煮え繰り返りそうです。

 やがて修治さんのいびきが聞こえてくると、更にイライラは増した。


 それから、ソファのすぐ側にあるテーブルに足を乗せて寝言を言う尽斗さんは要さんを見ているようで。

 要さんには言えないですけど、この寝相の悪い足の立てる音がとてつもなく煩い。


 はあ、と思わず深いため息が出る。

 通いなれた職場でこんなことが起きるなんて、片手で数えるくらい。

 出勤してすぐに警察に連行されことが一番記憶に新しい。それは原因で有る本人から謝罪があったので許しましたけど。

 

 にしても、学生といえ、いい大人が学校で酒を飲んでるって考えられますかね。

 この人達と毎日いたら堪忍袋がいくらあっても足りない。吉次がグレてこうならなくて、本当に本気でよかったとしみじみ思う。


 心の中で愚痴を垂らしていると扉がノックされた。

 私情は挟まず、感じの良い返事を返す。扉を開けたのは吉次の奥さん――つまり義理の娘である薫さん。

――アパートの隣に住んでいて、夕食は一緒に取るから毎日会っているけれど、学校で会うのは初めて。珍しい来客です。


 "モガ"と呼ばれるモダンガールな彼女は、文明開花の末に欧米の影響を受けたファッションスタイル。平成でも十分着こなせそうな、毛皮のついた黒いコートと隙間からタイトスカートに身を包んでいた。


 そして、女性らしい格好に似つかわしくない何かを包んだ新聞紙。さてはて、何をしに来たのやら。


「珍しいですね。どうかしました?」


 彼女もクセのある人なので、何を言われるのかわからない。ここにくる人達は不可解な理由で押しかけてきたりするから困ります。事務室は集会所じゃ無いんですよ。

 僕の問いに、彼女は大きな潤いのある黒い目の上の眉の角度を上げて何かを突き出した。


「んもう! たっくんお弁当忘れていったでしょ! 吉次くんに頼まれて届けに来たんだよぉ」

「あぁ、なんだぁ、お弁当かぁ。ありがとうございます!」


 新聞紙を受け取るとホンワリと温かい。

 新聞紙を開けて顔を出したのはアルマイトで作られた弁当箱。

 吉次の愛情が篭ったご飯は毎日食べても飽きないし、何より父親として誇らしい。さっき迄あれだけ苛ついていたのに、お弁当ひとつで機嫌が戻る。でもこれ、普通のお弁当じゃダメなんです。

 吉次のお弁当だから機嫌も治るってもんですよ。


「今日は明太子だって! 薫も食べたかったなー」


 その妻が言う通り、蓋を開けると、分厚い明太子が2切れと焼いたししゃもが2匹。それから彼が司さんに教わって、漬けた浅漬け。これもまた絶品です。


「2切あるので食べますか?」


 せっかく寒い中持って来てくれたのだから、お礼の一つもしないと。蓋の上に明太子を一切れ置くと、彼女は黒い瞳に光を沢山集めて輝かせた。


「えぇ!? いいよぉ、たっくんのだもん。なんか、おねだりしたみたいになっちゃったね」

「娘にあげるんです、構いませんよ」

「本当? じゃあ、明太子だけ・・・・・・」


 近くの椅子を引っ張って来て、美味しそうに明太子を頬張る。吉次が惚れた理由がなんとなくわかる気がします。  

自分に正直に生きている、無垢な笑顔が眩しい。


 最初は心配でしたけど、今は仕事もして、きちんと家事もこなす。とっても良い子です。そう、この子はまだ18才。だけどやる事はちゃんとやっているんですよ。どこかのクズとは違って。


「ねぇねぇ。お酒臭いなあって思ったら、失格さん居たんだね。隣の人は誰?」


 薫さんが修治さん達に気付くと、まだ面識のない尽斗さんに興味が行くようで。

 ただ、彼女は要さんが女性だということを知りません。万が一尽斗さんが父親だとバレてしまえば、女性だと言うことも隠せなくなるかも知れない。


 そしてそれを聞きつけた、青森にいる文治さんが要さんを弟だとは認めてくれなくなるかも知れない。

 そうしたら彼女は彼の側に居るのが難しくなる。プラス、周囲の人達から受ける影響も心配な訳で。


 だからこれは彼女を女性だと知っている人達だけの秘密にして、初代さんや薫さんの前では「檀一雄」の方を名乗ってもらおうという事になっている。


「檀さんですよ。修治さんのお友達です」


 嘘ではないのです。でも、事実でもないのです。


「へえ、失格さんって友達いるんだ! 要くんとなっちゅさん達ぐらいしか居ないと思ってた!」

「ま、まあ、同居してますからね」


 それ、多分修治さんより中也さんが怒るやつです。誰が友達だ! って怒るやつです。

 薫さんが口をもぐもぐ動かしながら、尽斗さんに近づいて行く。


 バレたらどうしようと、心臓が焦りドクドクと鼓動を打つ。落ち着け、大丈夫。要さんと尽斗さんはパッと見は似てませんし。彼だって酔っ払って寝てるので、下手な事はしないはずです。それでも手に汗を握る。


 ひえぇ、頼むから“女の勘”とかいう、理解の出来ない直感は働かないでくれよ!

 薫さんは、ジーと尽斗さんの顔を近くでまじまじと見つめる。


「なんだろ、この人誰かに似てるよね? 涎垂らしてるのとか、誰かと似てる!」

「え、えっ? そうですか?」


 女子の洞察力恐るべし。寝顔を凝視して目を細め、誰だろうと首を顰める。


「この太い眉毛も、どっかで見た事ある気がするなぁ」


 何故、何故。そこまで気づきますか、普通。パッと見でいいじゃないですか! 誰にも似てませんてば! ここでバレたら僕のせいになります。それは避けたい。


 薫さんは未だに花街の仕事を辞めておらず、その人気も衰える事はない。むしろ結婚した事で人気は爆上がり。平成でいう、花街のインフルエンサーとなった彼女が「要くんって本当は女の子でお父さんがいるんだよ!」なんて言った日には――。


 まず、初代さんにバレてあの家庭がどうなるか。考えただけで恐ろしい。初代さんは怒ると怖いと聞きますから。要さんの奥歯を折った人、ですし。


「・・・・・・め」

「あっ! 檀さんがなんか言う!」


 尽斗さんが寝言をむにゃむにゃと言いそうになっていた。余計な事を言わないでくださいよ、絶対に!薫さんは彼が何を言うかと、期待の眼差しを送る。

 すると、不穏は的中。


「かなめぇ、父さんと暮らそぉ」

「んえ?」


 薫さんのポカンとした表情――終わった。

 口癖のように要さんに言っている事だから、寝言でも思わず出てしまったのだろう。

 相変わらず生出親子は寝言も涎も凄いもんです。


「もしかして、この人」

「な、なんでしょう?」


 僕はあくまですっとぼける。何も知りません。しかし、確かにそう言ったのだから、今更気のせいでしょうなんて誤魔化しが効く訳がない。


「要くんのおと、おと――ふがぁぎゃあああ!?」


 マンドラゴラのような耳を塞ぎたくなる大きな叫び声。それを聞けばいくら酔い潰れた2人といえど、目をうっすらでも開けてしまう。


「ふぁっ、か、要どうしたのぉ・・・・・・んあれぇ? 違う・・・・・・太宰さん、いつのまに娼婦呼んだんれすかぁ? うちの要の方が可愛いですよぉ」

「あいたたた、急に叫ぶなよ尽斗。頭が痛い・・・・・・」


 目を擦り、薫さんの顔を見て“娘”の方が可愛いと言う尽斗さんと、頭が痛いと唸る修治さん。

 尽斗さんは普段と変わりありませんが、修治さんは寝ぼけ眼をゆっくり覚ましながら、やがて、彼女の存在にギョッと目を見開いて顔を引き攣らせた。


「失格さん! この人って要くんのお父さんなの!? ねえ!!」

「・・・・・・。・・・・・・イヤイヤイヤ、バカ、お前、要の父親は死んでんだぞ。存在する訳が無いだろ」


 修治さんは最初こそ理解できない顔でいたけれど、すぐに酔いが覚めたようでハッキリと返す。


「でも自分のこと、父さんって言ったよ?」

「言ってない言ってない。気のせいだ」

「言ったよ!」

「言ってない!」


 視線で火花を散らす。見えるはずのない線香がバチバチ音を立てている気がして気が気でない。どうか、尽斗さんがこれ以余計なことを言いませんようにと、心の中で願ってもそれを裏切るのがお決まりで。


「そうだよ、僕は要のお父さん! 僕の娘、可愛いだろぉ」


 修治さんの努力も虚しく、酔っ払った尽斗さんは自慢げに胸を叩いて“娘”の自慢をする。

 サアッと顔が青くなった。今までの僕らの苦労は何だったのか。苦虫を噛みつぶすような気持ちで、もう諦めた。


「むす、め?」


 薫さんも突然の告白に頭が追いついていないようで、喉が塞がったようにそれ以上は何も言えないでいた。


 酔い方にも様々なタイプがあるが、どうやら尽斗さんは「思っている事を何でも言ってしまう」人の様だ。諦めまいとして話をずらそうとする修治さんの必死さなど伝わらない。


 ただ彼はコレクターのように娘自慢をするだけの口をピーチクパーチク動す。

 呂律がうまく回っていないのが幸いして、その大体が何を言っているかわからない。

 薫さんは「何て言ったか聞き取れない」と数度返したが、それに対する返答もなく、挙句に、散々話した後に彼女を見て「誰?」と質問を返す有り様。


 僕はすかさず吉次のお嫁さんであることや、同じ花を持たされた平成人であることを話した。

水の入ったグラスを傾けながらゆっくり大きく頷く。

 口を離し中を空にしたら、腕を組んで“はいはい”と薫さんを見た。


「そっか、君が吉次くんの奥さんか。美人さんだねぇ。でもでもぉ、うちの要も可愛いよぉ。本当は中也になんかやりたくないんだもん、要はねぇ」

「なっちゅうさん、男ですけど」

「うん?」


 また始まった娘自慢に、薫さんは容赦なくツッコミを入れる。


「要くんも、男の子だよね?」

「何言ってるのぉ、あのねぇ、あんなに可愛い子が男な訳なっ」

「飲みすぎて訳わかんなくなってるんだよコイツ、そうそう、あまくせは男の割に可愛い顔してるなって意味で・・・・・・なっ! そういう事だよ!」

「へー・・・・・・」


 同じようなことを繰り返し、要さんの性別がどちらであるか混乱させようとする。それでは、より一層“男”であることが疑わしくなるだけ。これはもう本当ことがバレたととってもおかしくない。

 修治さんが慌てれば慌てるほどメッキは剥がれていく。吉次が洋食屋で、中也さんに要さんが男性であることを証明しようと必死になった時のような嘘をたくさん並べる。


 薫さんは、もうわかったのでしょう。もう聞き返すこともなく、その嘘を詳しく剥いてみようとは思わないでいる様子だ。半目で「へえ」と相槌を打つのみ。

 

 修治さんの嘘があらかたつき終わり、彼は激しい運動の後の如く息切れし、額に汗を滲ませる。ご苦労様でした。


「もうわかったろ。あいつは、男。俺の弟なんだ。これ以上性別のことを云々言うのはもうよそう。あいつは女に見られて時々困っているくらいなんだから」

「わかった。失格さん“には“、もう聞かない」

「頼むよ」


 兄である彼は、薫さんに、要さんが男性であることを真実として受け入れられたと受け取ったようです。


 ヘロヘロと眩暈に襲われたのか酷く疲れ切ってソファにもたれかかった。尽斗さんは酒に漬けられてまた眠っているばかりで、まさか自分がこの狭い大学の一室をかき回したなんて思わないのでしょう。

 僕も「まあ、そんなとこみたいです」と、有耶無耶に突き放してしまった。彼女は愛想がつきたように立ち尽くし、首を肩につきそうなくらい傾けて2人を短い時間凝視した。


 そしてパンプスから出る女性の足音を静かに立て、チョコレート色で本革のショルダーバックをかけ直しコツコツ歩き出した。


「じゃあ、薫行くね。お仕事頑張って」

「あぁ、はい、お弁当ありがとうございました」

「うん」


 扉の前で少しも笑わず、右手を軽く振り、事務室を出ていく薫さんの顔には「騙していたんだ」と書かれているような気がして、胸がずきんと突かれた様に痛んだ。



 アパートに戻りながら、以前は思いを寄せていた彼の事を考える。


 おかしいとは、思ってた。要くんが女の子に見えることはあったもん。

 どこが? って聞かれると具体的には言えないけど、例えば顔とか声とか。そう、顔だよ。


 要くんは装いや仕草、行動は男の子なのに、笑った顔が女の子みたいだと思ったことがある。歯を出して楽しそうに笑う笑顔は活発な女の子だし、目尻を下げて柔らかく笑う時は優しい女の子で、照れながら笑う時はピュアで可愛らしい顔をする。

 美少年と言われると違うし、イケメンという言葉も違和感。でも女の子と言われると・・・・・・。


 でも顔のそれだけじゃあ、女の子でしょう! とはならなくて、何も言わないで来た。ていうか、薫はそんなに気にしてなかったんだよね。さっきみたいに失格さんが異常に焦るから、そういう事だったんだと胸にストンと落ちて。

 思い起こせばなっちゅうさんの接し方とか、特に女の子扱いしていたかも。


 要くんに付き纏う、イキった取り巻きくらいにしか思ってなかったけど、あれってもしかしてヤキモチだったってこと? あぁ腑に落ちる!


 でも待って。文人くんやつっくんと話してる時は普通に男の子じゃない? 男子高校生みたいにバカふざけしてる。初代さんと本当男の子ってどういようもないね、なんて言いながら呆れたりしたもん。

 さっきの様子じゃあ、たっくんも知ってる風に見えたし、もしかしたら本当に女の子なのかもしれない。


 確認のために檀さんに聞いてもあの2人が邪魔すると思うし、あの人達に聞いてもはぐらかされるだけ。富名腰さんって人はあんまり話したことないし、聞きづらいなぁ。


 なら吉次くんは? 吉次くんは知ってるの? 彼も知っていたならさすがにショックかも。傷付かなくてもいい嘘なのに、一番好きな人に隠し事をされるのは辛い。だから知っていたかどうかは聞きたくない。


 誰に聞いたら「真実」がわかるのか。思い当たる人を順繰り聞くにふさわしいか悩んでいると、いつの間にかアパートに着いて着替えも済まし、机に頬杖までついている。

無意識ってすごい。薫ってば真剣に考えている。でも誰に聞いても納得いく気がしない。


 そもそも女の子だとしたら、どうして性別を偽る必要があるのか。隠してまで男の子でいなければいけない理由は何なのか。周りの皆も協力する理由は何なのか――。


 これは――本人の口から吐き出させるしかない、よね。


 薫にだけ秘密にしてたなら許せないもん。仲間外れって大っ嫌い! こういうことからいじめって始まっていくんだよ。要くん達、わかってないのかなぁ。


 ふつふつと湧き上がる怒りは、また無意識に体を動かしていて、結婚記念日に買ってもらった丸型の手提げに着替えを詰め込み部屋を飛び出しちゃってる。


 桃色の着物に厚底の下駄で、駅まで走って。来た電車に飛び乗り、白金台に近い駅で下車。そういえば吉次くんに置き手紙とかして来なかったや。後でたっくん経由で連絡しなきゃだ。


 目的地に向かう途中、初代さんが勤めるカフェに立ち寄った。店前の掃除をしていた初代さんの後ろからそっと近づいて、両肩を叩いてわざと驚かせてみる。そしたら猫がびっくりしたみたいに飛んで、薫の顔をじっと見るの。


「何すんのよ・・・・・・って、あら、薫ちゃん?」

「脅かしてごめんね! ねえねえ初代さん、今日泊まりに行ってもいい?」

「いいけど、今日は終わりまでだから私はいないわよ?」

「そっか。なら誰がいる?」

「うちの人は檀さんと出かけたきりだからわからないけど、要ちゃんと文人くんと富名腰さんは庭を畑にするって言っていたからいると思う。中也さんは仕事で、夕方には戻ると思うわ」

「要くんはいるんだね?」

「えぇ、あまり出歩かせないようにしてるからね」

「わかった! ありがとう! お邪魔するね!」

「待って薫ちゃん! 吉次ちゃんと何かあったの?」

「何もないよ? 今日も朝2回したもん」

「あら」


 きっと初代さんは、薫と吉次くんの間で何かあって家出したのかもしれないと思ったのかも。でも残念、薫たちは喧嘩してもすぐに仲直りできちゃうし、暇さえあればイチャイチャしてるような夫婦だもん。

 こういうのって、「カンカンショーキュー」って言うんだって。たっくんが言ってた。


 初代さんは「お盛んね」と顔を桃色に染めるから、きっと朝から下半身で仲良くしたんだと考えたのでしょう。ま、その通りなんだけどさ。


 仲良し夫婦じゃなくて、破廉恥大好きどすけべ夫婦って思われてないかしら? そんな初代さんだって失格さんとしてるくせに。純情ぶっちゃってさ。でも女の人って恥じらった方がいいって言うよね。そういえば要くんはどうだったっけ。ちょっとエッチな話にはどんな反応してた? それも試してみよう。


 うかうかしていられないと、初代さんに別れを告げてカフェを後にする。

 流石に泊まると言った手前、手土産の一つくらいはと思って八百屋さんに立ち寄った。その中で一番高い苺とおみかんに林檎、それから要くんの好きなサイダーも買う。

こうやって好物を買ってけば、「お土産もらったのに言わないのは悪いなあ」と考えるのが要くん。わかってるんだから。


 要くんには悪いけど、優しいところをとことん使わせてもらう。だって本当のことを言ってくれないのはあなただもん。

 薫が女を使えば「男」だと証明してくれるのか。または問いただして「女」であると話すのか。


 彼の家に着くと、初代さんの言う通りお庭から賑やかな声が聞こえてくる。


「なあ、なんの野菜植える?」

「僕はきゅうりがいいな。水分補給にもなるし、味噌つけて食うとうまいじゃん」

「ごまみそとかつけたら美味しいなぁ。豆板醤もええけど、売っとらんよね」

「うわ辛くて美味そう。酒飲みながら食いてぇなァ」

「炭酸でカーッと流すのもいいよね」

「うんうん」


 土を掘る音と一緒に、何を植えるかの相談をしているみたい。もしかして八百屋さんにいくお金も無いのかな。大人が6人もいるのに。失格さん以外は働いているわけでしょう? それなのにどうして食べるのもままならないんだろう。不思議。薫と吉次くんはたまに外食だってするくらいの余裕があるのに。ちょっと可哀想。


 要くんが女の子ならいいお仕事紹介してあげられるのに。

 絶対に要くんの口から真実を吐かせて、このモヤモヤっとした何んとも言い切れない騙されていた感を拭い切れたらの話だけど!

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