110恥目  あなたと見る景色


 身体が動かない。


 右腕の力が無くなった。しかし、感覚はある。だらんと、骨が抜けたように、自分のものでは無くなったのか。いや、感覚があるという事は、動かないだけでまだ自分の物であるようだ。


 二の腕ではない方の腕、つまり、ジョウハクが痛む。その部分だけを突き飛ばされたような、じわじわと焼けるような痛み。

 傷みからゆっくりと、ドロっとした生温い液体が前腕を伝い、指に沿って、ぽたりぽたりと落ちているようだ。


 目視していないのだから、定かでは無い。

 感覚だけの話だ。視界が目が回る様に揺らぎ、座ったのか、倒れたのか区別も付いてない。

 自分の身に何が起きたのか。猛烈に熱い右のジョウハクは現実、どうなっているのか。わからない。


「兄さん! 兄さん!」


 文人の必死な問いかけにも答えられない。

 顔面に温い水滴がいくつか落ちてくる。お前は泣いているのか。泣いていると言う事は、俺は撃たれたのだろう。

 だからこんなに腕が熱くて、体は怠くて、そして、気が遠くなっていくのか。そうか。撃ち合いに俺は負けたのか。


 きっともう時期、死が迎えに来る。


 自殺未遂だなんだって、死にたがって居たのを神様とか仏様とか、そういう生死を決めそうな人達に、しっかり見られていたんだ。

 文人は死の迎えに俺が連れて行かれない様、何度も何度も叫び続けてくれる。


「兄さん! 目ェ開けろよ! 兄さん、兄さん!」

「呼びかけを止めるんやないよ!」


 富名腰も、ちゃんと居る。ジョウハクに何かが巻かれて、その中に棒の様な何かもある。その後、それらで腕をキツく縛られた。

 激痛が走るが、痛がる為に体を動かす気力はない。


 そして体が持ち上がった。魂が体から抜けた訳ではないみたいだ。文人と富名腰が俺をどうにか生かそうとしてくれてるに違いない。

 身体が小刻みに揺れる。何処かに運ばれているんだ。


 振動の心地悪さと、文人の泣き声の入った問いかけが煩くて、目を瞑ろうにも瞑れない。

 この感じは、三日寝ていない時の朝の不快感に似ている。気が遠くなる様な眠気があるのに、寝かせてくれない要の声。煩かったなぁ。


 そういえば、彼奴は俺が居なくなったら、元の時代には帰れないんだっけ。

 まあ、帰れなくてもいいのかもしれない。この時代には父親である檀もいる。出来た父親だとは思わないが、きっと幸せになれるだろう。

 中原だってお前を大事にしてやるだろうし、同じ時代から来た奴らもお前の味方。

 優しくした分だけ味方がいる。大丈夫。この時代でもやっていけるさ。


 薬中の借金まみれ、人徳もない俺にべったりくっついて歩き回る事が無くなれば要も楽になる。


 これから、煎餅もイカも、ラムネもお前の分を取るやつはいないよ。

 ガミガミと叱る必要もないし、身を粉にして働く必要もない。

 そういえば、葡萄狩りに行く約束もすっぽかしたままだ。


 ああ、とんだ酷い兄貴だった。いや、俺は弟としても、息子としても、旦那としても良くなかった。

 この後悔も何度目だ。その時ばかりで後はすぐ元に戻る。

 死ぬ間際に何百回目かの「今回は本当」を繰り返して後悔しても、もう遅い。


 死ぬのなら、どうか、いつか見た弟の心の中の黒が無くなる事を祈る。貴女は幸せになるべきだよ。

 やはり最期くらいは善い人でいたい。だから、1番自分を愛してくれた人を想って――ナンテ、変だけど。


 愛すべき弟の笑顔を瞼に浮かべて、眠る様に意識は消えた。


 最期に。


 貴女と見た世界は、何よりも平凡で、なんでもないようなものだったに、それはどんな名画よりも美しかったよ。



 けたたましい銃声が同時にいくつか聞こえた。身体がブルっと寒くなって、身の危険を感じる。

 もしもの時、すぐ逃げられるようにしておこう。こんな高そうな着物を着せられて、なんとなく慣れ始めてはいたが、すぐ走り出すには邪魔ったらありゃしない。


 でも、この館の誰かが僕を助けてくれるかな。

 富名腰さんもお元気で、と言うくらいだから、此処から出る事なんかやっぱり無いのかもしれない。

 それでも運命に足掻く様に、平成から着て来たやつれたワイシャツに袖を通し、富名腰さんの黒ズボンに足を突っ込む。


 此処に来る時に着ていた着物と袴はボロボロだ。

 明らかに踏んだり蹴られた跡がある。売られたのに大事にされてるんだが、されていないんだか判別がつかない。   

 富名腰さんが大事に扱ってくれているってわかるけど、さっきのおでこに顔をつけた意味はなんだったんだろう。


 意味を考えながら、鉄格子越しに外を見た。外は寒そうだ。きっと長い時間居たら、芯から凍えるだろう。冬空には、白い粒がキラキラ光り輝いている。澄んだ空の下では、きっと、皆で一つの火鉢を囲んで身も心も温めあっているに違いない。


「・・・・・・しゅーさん、風邪引いてないかな」


 もう二度と会えないかもしれない対象を気にかけるのは、おかしいかな。

 数年後、しゅーさんが太宰治として有名になった時、僕がまだ生きていたらの話。街や何処かで、名前を一度でも聞いたら、きっと生きていてくれてると安心できるかな。


 しゅーさんのことは僕が居なくても、周りが助けてくれる。

 なんだかんだ言っても皆、しゅーさんが好きだから僕の代わりに助けてくれるはずだ。


 お金を返す事や、学校までの送り迎えなんかはしてあげられないけど。

 僕の分のお菓子やラムネも飲んでいいし、もう口煩く着いて歩いたりしない。

 迷惑だったかもしれないけど、全部君に生きて欲しい一心でしてきたことなんだよ。


 僕は此処に来て何度か死のうとしたけれど、自殺未遂オタクのしゅーさんが僕を死なせてはくれなかった。

 「津軽」に記載された、たった一文に僕は何度も生かされて来た。どんなに辛くても、僕は絶望しない。元気でいよう。


 その日々を繰り返していたら、きっと報われる。世間が貴方を認めてくれる日までは必ず生きてみせる。また、なんでもないような美しい日々を過ごせると信じてみよう。


 命がある限り、僕には貴方を守る義務がある。

 焚き火が燃え尽きてしまいそうな時は、当然薪をくべる。だから僕も同じ様に、死にたくなったら一文を噛み締めて、生きる為に津軽三味線を鳴らす。 

 此処に居るよと、存在を知らせる為に鳴らすのだ。生きていたら、きっとまた会えるかもしれないから、そうする。


 三味線を鳴らしていると、突然南京錠を乱暴に動かす様な音がする。音に驚いて体が跳ねた。誰だろう。富名腰さんは鍵を持っているからこんな事しない。


 もしかして下で暴れてるとかいう、客か? それに繋がるように思い出す、富名腰さんの言葉。


 ――軍人さんなら鉄砲くらい持っとるよ。


 ヤバくないでしょうか。あっ、もしかしてフラグ立てた? 死なない事を選びますよ、みたいなこと考えてたから、それを心の読める誰かに知られてしまった的な。


 何か太刀打ちできる物はないか。津軽三味線はダメだし、箸もダメ。後は布団と、それからスタンドと・・・・・・。


 部屋にある物でなんとかしようと考えているうちに、富名腰さんが言った通り、また銃声が扉一枚隔てて聞こえた。


「んひい!」


 変な声が出た。生出要の死因が決定しました。

 恐らく、いえ、ほぼ確実に銃殺です。あまりの恐怖に体も表情も凍りつきます。


 物を立てたら死ぬ。死にたいなんて嘘だ。痛みに怯えるということは、死に怯えると同じ事。僕は死にたいなんて微塵も思っちゃいなかった。


 とにかく南京錠が壊されない事を願うしかない。僕は手を合わせて、扉に向かって正座をしながら、今までで1番神に願った。銃殺はマジで勘弁してください!


「・・・・・・め・・・・・・」


 扉の向こうで誰かが何か言った。耳を研ぎ澄まして、何も返さずに口を結んだ。


「要」

「・・・・・・え?」


 声の主が僕が思っている人と違っていなければ、僕はどんな顔したらいいんだろう。

 迎えに来てくれるならこの人がいいと思っていたよ。いたはずなんだ。だけど、いざ本当にそうなるとなると――。


「中也、さん?」


 此処に来てくれた事への喜びと感謝。


 それと裏腹に、思い出してしまった過去を知られたくない気持ち。例え知らなくても、汚れている体と、他の女性にはある筈の物が足りない体。

 きっと嫌われてしまうから。人を疑うのは悪い事だ。そう信じて生きて来た。

 だけど怖い。僕は怖い。嫌われるのが怖い。


「要、居るんだろ? 中から開けられないか?」


 南京錠を外そうとする音が耳に入ると、自分の汚いところを曝け出さなきゃいけない気がして怖い。


「よし!」


 一つの錠が外れる音がした。もうすぐ、もうすぐ言わなきゃいけなくなる。

 こんなに命を懸けて助けに来たのに、実はとんでもない汚れ物だったって軽蔑されて、嫌われてしまう。

 

 助かりたいけど、嫌われたくない。

 だからその扉を開けられないように、僕は結んでいた口を開いた。


「開けないで!」

「・・・・・・どうして?」


 過呼吸になりそうだ。それでも彼は僕の叫びを無視して、コツを掴んだのか南京錠を壊し続けた。

 中は鍵がされていない。外にあるのは3つだと聞いたから、あと2つ。


 僕が初日に何度壊そうとしたかわからないソレを、中也さんは難なく壊していく。


 1つ、2つ、そして――3つ目が壊された。

――そして重い扉がゆっくり、ゆっくりと開く。


「要・・・・・・」


 部屋に足を踏み入れられた。手に鉄砲を握って、いつもの茶色の背広。

 ズボンには泥がついていた。髪は少し乱れている。走ったんだろう。


 僕は正座をしたまま、両手を畳について彼を見上げた。

言葉は出ない。もう全てを話したら嫌われるだけだから、黙っていた方がマシ。助けに来てもらった以上、黙ってはいられないんだけど。


「助けに、来てくれたんですね」

「うん・・・・・・」

「ありがとう、ございます」


 喧嘩してそれきり会っていないから、尚のこと気まずい。


「あの・・・・・・」


 軽蔑されるなら早いうちに。この山を降りた時、この人の前からすぐに消えるためには、此処で言わなきゃタイミングがなくなる。


「僕・・・・・・あの、昔・・・・・・」


 喉が詰まる。過去に悪戯された事が動画のように頭の中で再生される。

 初めて悪戯された時は痛かった。その次も、ずっとずっと痛かった。僕はその嫌な経験を無かったことにしたくて、中也さんとのそういう事を期待し続けていたんだ。


 体中のアザはその時の物と、母さんからつけられたもの、それからこの時代でできた物。

 中も外も汚いのに、なんで僕は純粋を求めていたんだろう。


 あげくに子供も作れない。僕は女でも男でもない。女性としての魅力がこれっぽっちもない。

 そんな僕を愛して欲しいだなんて、虫が良すぎる。だから、中也さんが他の人と、ちゃんとそういう風になって、幸せになれるように、早く言わなきゃいけないんだ。


「あの、その・・・・・・」


 僕は汚いです。それだけ言えたら、後は言えると思うのに、口は動かない。


「言いたくない事を無理に言わなくていいんだよ」

「でも、言わなきゃ、きっと中也さんを不幸にするから・・・・・・」


 ブルブル震える手、過呼吸寸前の呼吸。苦しくて流れる涙。

 ああ、逃げたいなあ。ここに閉じ込められているより苦しいな。嫌われるのが結果とわかっているのに、言わなきゃいけないんだもの。富名腰さんには言えたのに、どうして言えないんだろう。


 下を向けば、言えるかもしれない。思う通りに下を見ると、久々に感じる好きな人の匂いに包まれた。

 こんな僕を、中也さんは優しく抱きしめてくれたのだ。


「不幸かどうかは俺が決める事。要が決める事じゃない。言っただろ、プラトニックだって」


 まだ言う事は言っていないのに。全てを受け入れて貰えた気がした。

 そう思わせたのはプラトニックという言葉。文人が言ってた、スケベがない好きの事。

 体の関係に固執していたのは僕だけ、か。急に中也さんを信じられなかったことが“恥ずかしくなった“。


 今は、素直に助けに来てくれた事を喜んでいいんだ。


「帰ろう」


 僕の顔を真っ直ぐ見て微笑んでくれる。


「はい!」


 僕は苦しくて泣いていた涙を、嬉し涙に変えて出来るだけの笑顔でそう応えた。


 また過ごせる――皆と過ごす美しい日々を。

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