98恥目 最後の希望

「帰って来ないじゃん・・・・・・」


 富名腰さんが帰って来ない。半日で戻ると言って朝に出て行ったのに、鉄格子先の外を見れば、もうとっくに日が暮れた。

 富名腰さんがいなければ、ご飯も食べられない。朝ご飯は食べたけど、昼はもちろん、夕飯を食べても良い頃なのに、誰も来る気配がない。豪華な金色と赤が特徴的な厚い扉を叩いても、外からの返事もない。


 1人きりの時間にわかったことがある。ここに来てから、あの人に生かされていたのだと知る。僕の現在を知る、唯一の人。

 昭和に来てから常に誰かと一緒にいたからか、久々の1人きりになると寂しいという感情が濁流のように押し寄せてくる。死にたいのにおかしな話だと、独り言。 

 

 死にたいと嘆いたのは、救ってほしいという甘えだったのか。それとも、本心なのか。


 きっと前者だ。「死にたい」と口に出せば、誰かが手を差し伸ばしてくれると思っているからだろう。

 本当にそう思うのなら、富名腰さんの帰りを待つことなく、今この瞬間に自らの命を絶てばいいのだから。


 しかし、誠に前者かと言われるとそうでもない。死にたいと生きたいは、変わるがわる僕を襲うのだ。

 原因の一つに、今、僕は鍵のかけられた逃げ場のない部屋に閉じ込められている。そう意識すると、母さんに引き取られた時の事を思い出してしまう。身寄りがあるのは救いだと思ったけれど、実際は天涯孤独の方が良かったかもしれない。


 葬儀が終わって数日後、結局母さんが迎えに来た。初めて会う母親は父さんから聞いた話とは違って、とても「怖い」印象を持ったを覚えている。

 家のインターホンも押さずに、換気して開けていた縁側の窓から土足で堂々と入り込んできた。それだけでも恐ろしかったのに、その後の方がもっともっと恐ろしかった。

 母親らしい言葉をかけるでもないし、挨拶もない。父さんが、誰かに会ったときはちゃんと挨拶をしなさい言っていたから、教えの通り「初めまして」と僕から声をかけてみた。

 帰ってきた言葉はよく覚えていないけど、僕を人間として扱わないような言葉を吐かれたと思う。

 

 幼い僕を引き取る事は「母親」として当たり前だと、周りにはいい顔をするのに、僕に向ける目は憎悪の目じゃないか。

 この人について行きたくないと拒んでも、じゃあ小学生が1人でどうやって生きていくんですかって話で。


「裏切られても、それでもやっばりユリさんが大好きなんだ」


 頭の中で父さんが笑ってそう言うから、僕は従うしかない。疑っちゃいけない、父さんの好きな人を疑ったら、きっと悲しませてしまうから。

 受け入れることしか出来なった僕は、住み慣れた地元を離れることになった。母さんと2人、平家にある物を片付けしていた時のこと。


 自分の物はあまりなく、遺品整理のような形で父さんの物を整理していた。書きかけの小説をクリアファイルに入れ、なんでもない買い物のメモも纏めた。これを後からノートか何かに貼って大切に保管しようと考えていた。ここにある物全て、思い出にしようと考えていたのだ。


 しかし――。


「気持ち悪い!」


 ヒステリックな甲高い声で、ゴミ袋に無造作に僕の思い出を詰め込んで行く。手にはめられた白い手袋、直接空気を吸わないようにと顔につけられた立派なマスク。


「気持ち悪い、気持ち悪い! 人の名前をこんなに書いて、呪いみたいじゃない! ああ、もう、人の写真まで・・・・・・ああ!」


 母さんの名前が書かれた原稿用紙や写真。父さんがどれだけ大切にしていたか知らないくせに、この人は暴れ、ビリビリ破りながら、捨てていく。

 それから、父さんを思い出して嫌だからと、太宰治に関わる物も捨て始めた。コンビニでコピーした写真、2人でいつか行こうと約束した青森旅行のノート、津軽三味線のCD――。


「やめて! オジサンは捨てないで!」

「はあ?」


 僕はゴミ袋に飛びついて、引っ張った。母さんに関わる物は捨ててもいいよ。でもヤダ、太宰治は父さんとの思い出だもん。母さんが好きだったから、父さんも好きになって、僕も父さんが好きだったから好きになった。それなのに、父さんを思い出すからって理由で勝手に捨てていく。


 暫く引き合いが続くと、母さんはパッと手を離して、その手で僕の頬を勢いよく叩いた。耳までジンジン痛んで、頭が揺れる。初めての衝撃に呆然としたのを覚えている。


「そもそもお前が出来なきゃこうはなってないんだよ! 周りが不倫してたから流行りに乗っただけじゃない! なのに、なんでアタシだけ・・・・・・死ななければうまくいったのに!」


 その時はまだ小さかったから、不倫とか、そういう事はわからなかった。今思えば、母さんの言い分はこうだったと思う。

 周りの不倫ブームに乗っかって、面白半分で自分に好意を寄せている男子生徒と密な関係になってみようかな。ぐらいの軽い気持ち。父さんに好意なんかない。ほら、よく言うでしょう。若いエキスを吸うと元気になるって。そういう事だったんだろうな、と今は思う。

 スリルと、自分はまだまだイケる、という自信が欲しかっただけだったんだろう。父さんの言う通り、母さんは本当に美人だ。当時は40代前半ぐらいだったのかな。年齢を言われても、口を開けて本当ですかと聞き返してしまうほどだろう。


 母さんは全部父さんのせいにして自分は悲劇のヒロイン気取って、誰からも責められずに生きていくつもりなのだ。


 狡い。父さんがどれだけ苦しんだかも知らないくせに。母さんが父さんが僕にくれた4冊の本と、自分の衣類を入れた段ボールに思い出の一部を隠して入れた。


 母さんの家に行くための僕の荷物は段ボール3つ分。とても少なかった。でも、そのくらいでよかったのかもしれない。与えられた場所は大きな家の敷地にある。古びた倉庫だった訳だし。


 ご飯だって、平日だけで土日祝日はご家族揃ってお出かけだったもんですから、頂けない訳でしたし。

 帰って来たタイミングで倉庫の中から叫ぼうものなら、引っ叩かれて黙らさせられた。

 母さんと義理の父さん、それから義理の兄が4人居る家庭。むしゃくしゃしたら、僕を吐口にする人達。

 それが虐待だって大人になって気づいた。ニュースで見る事件に酷く心を痛めたのは、あの場所にいた僕自身と重ったからだ。


 母さんは僕は女の子だから、絶対に「四十九院」の姓は名乗らせないと言って、家族にしてくれなかった。性別になんの関係があるのかわからない。「生出」のままが良かったし、母さんと同じ苗字になりたいとは思わないけれど、それでもやっぱり、受け入れてもらえないことへの寂しさは今でも残っている。


 母さんに引き取られた僕は残りの小学校生活と中学生時代を仙台市で過ごした。女川町とは違う、都会の縮小版のような街は歩きづらい。僕にお金をかけたくないから兄さんたちの制服を着させられ学校に通うように言われていたし、この町でも父さんの噂が広まって話せる人も出来なかった。


 中学を卒業して直ぐに、逃げるように家を出て就職した。バイトを掛け持ちして、父さんのお墓がある女川町に戻って、安いボロアパートに住んだ。このアパートは自分で契約した記憶はない。ぼんやりしているから定かではないけど、誰かがにここに住めって言われた気がした。僕が女川に戻れたのは、きっとその人のおかげだ。後で思い出せたらいいな。


 生活は苦しかったけど、父さんの遺族年金と遺してくれた少しの貯金。それを切り崩しながら、バイト代とでなんとか暮らしたんだ。


 もちろん中卒の僕に対する社会の目は冷たかった。不良、中卒で親も居ないなんてろくな奴じゃないと決めつけられたことも、父さんが強姦魔だと罵られたこともあった。

 それでも僕は生きていた。何度裏切られても、死ぬ勇気はなかった。いろいろな事を教えてくれたオジサンの本を読んでいれば過ごせてきたんだ。


 死ぬな、生きろ。そう言われてるみたいでさ。自分は自分で死んだくせに、僕には生きろなんて狡いなって。

 元気でいれば、いつか素敵な誰かと出会えて、本当は父さんが母さんとなりたかった形に、僕はなる事が出来るんじゃないかなって。期待していたんだ。

 でも、自分の病気を知ってからはそう思う事も苦しい。女なのに女でない僕の隣に一生居てくれる人はいない、と突きつけられたからだ。


 ここまで思い出せば、もう死ぬ理由には充分だと思う。やっぱり、死のう。さあ、立て掛けてある津軽三味線の弦を切って、首に巻こう。

 もう期待する必要ないじゃないか。踏ん切りがつかない、絶望してはまた希望を探す。ずっとこれ、堂々巡り。いつまで続ける?富名腰さんがいない今がチャンスで、絶好の死に時だ。


 そうだよ、富名腰さんも帰ってこない。約束したのに、また裏切られた。大人は信用できない。ねえ、ほら、早く。


 僕は自分に弦を取れと強く催促した。死んだら、もう裏切られたり、誰かを信じたり、悲しんだりすることなんてしなくていいんだから。全て0になる。それが一番楽だから。


 弦に手を伸ばし、指をかけると音がポンと鳴る。


「上手だよ、本当に」


 その音が壁に溶けて消えると、どこからか声がした。


「富名腰さん?」


 帰ってきたのかと思って、扉の方を見ても誰もいない。じゃあ他に、誰が? 居る訳がないのに、誰かの声を探している。

 そうか、まだ期待しているのだ。何か希望に縋っている。甘えるな、次は弦を取る。指に触れると、また同じ音がなる。だから、また同じ声がする。


 恋しい、誰かの声がする。


「男とか女とか関係ないよ」

「大事だと思うと、性の対象として見れなくなるもんだ」

「俺達は俺達の在り方を考えればいい。じゃなきゃ、無責任に花なんか裂かないよ」


 僕の恋しい人。これまで中也さんに言われてきた言葉を思い出している。頭の中で、彼が言ってくれている。


 この昭和に来て、素敵な人に出会ってしまった。半分になったムラサキケマンを手に取ると、好きが溢れてくる。きっと酷い顔で私は今、泣いてるんだろうな。

 死にたい、生きたいの繰り返し。どちらでも会いたいと思うのは同じ人。まだ、ごめんなさいって言えてない。せめて手紙一つ交わせたらそれでいいから、それな叶ってから死んでも遅くないんじゃないかな。


 でも出来れば迎えに来て欲しい。決して叶わないとわかっているから、この望みが叶えばもう死にたいなんて思わないかもしれない。

 年の終わりまで来なかったら死のう。それまでに来てください。でも、喧嘩してるから、来てくれないかな。どうせ死ぬなら、希望に縋って光が完全に消えてからにしよう。


 人は、辛い事ばかり信じてしまう弱い生き物だから。私の「要」は必要とされていない方のソレかもしれないけれど、あともう一回だけ信じたい。

 縋りたくなったのは、喧嘩したあの日、すれ違い様に言われた言葉のおかげだ。中也さんが言った言葉が本当は聞こえていた事を思い出した。


「俺は要が大切なだけなんだよ」


 確かにそう言ってくれたから。思い出して、久々に口元が緩んだ。絶望するな、元気でいこう。しゅーさんも、そう言ってたもん。


 もしこの部屋から救い出してくれる人がいるなら、他の誰でもない、中也さんがいい。


 だからもう少しだけ生きる為に、命の火を燃やそう。津軽三味線を手に取って、撥を握ればその火は灯る。


 無我夢中に掻き鳴らす。僕の生きる音。




 すっかり日が暮れてしまった。要チャン、死んでしまっているだろうか?


 祗候館の裏口から急いで最上階へ階段へ向い、団飛ばしで駆け上がる。とにかく彼女が心配だ。

 もう客が入ってるのか、館内からは三味線の音がする。珍しい、誰か弾けた男娼なんかいたやろうか?誰が弾けたか思い起こしながら階段を上がると、三味線の音は大きくなっていく。


「もしかして・・・・・・要チャン?」


 そっと南京錠を開け、扉を少し開けてそっと中を見る。毎日を虚な目で過ごし、死のうと考えている子は居なくなっていた。汗をかきながら、必死に三味線を弾く要チャン。


 今は入らんでおこう。この音色が鳴り止むまで何分も待った。死にたい人が出す音ではない。生きたいと言っているようだ。死ななくてもいい命を守れるかもしれないと、胸を撫で下ろす。ボク1人じゃ決めれんかったから、良かった。ボクも救われるかもしれん。この図有のない日々とおさらばできるかもしれんと、期待している。


 今頃、中也サン達はここに来る準備をしているだろう。きっと迎えにくるはず。あの顔はそういう顔だ。金さえあればきっと来る。申し訳ないけど、ボク1人でこの館を壊す行動を決意できる程強い人間じゃない。


 その日まで。出来る限り守ってあげよう。ボクに出来る事は、逃す事ではない。中也サンにもまだ見られていない要チャンを、見知らぬ誰かに見られぬようにする事だ。

 だから敢えて、今日は薬を塗らない。傷があればお勤めはしないはず。旦那はんも値打ちが下がるような扱いはせえへんはず。


 だから、それまではなんとか時間を稼いで――。


「イカ、イカがない!」


 三味線の音がピタリと止むと、要チャンは訳の分からない事を言いだす。慌てて中に入ると、彼女は部屋のあちこちを見回して何かを探し回っている。


「どないしたの。イカがなんとか、って」


 帰宅の挨拶もせずに聞くと彼女はこう返す。


「イカのブローチがないの! 僕が来た時胸元についてなかった!?」


 食い気味で詰め寄ってこられる。彼女の目は初日に脱出しようと試みていたものと同じ。

1人になって、三味線を鳴らして何かが変わったのか。わからない。けど、いい事やん。

生きるを選び続けた、そう言うこっちゃ。


「うーん、なかったけどねぇ」


 津軽三味線、本が一冊、着替え・・・・・・確かそれだけのはずだ。そう伝えると、要チャンの顔は青くなった。


「嘘! やだ、どうしよう! あれ誕生日に貰ったんだよ、イカの型した木彫りのブローチ! 探すの手伝って貰えませんか!?」

「イカの、ブローチて・・・・・・」


 随分趣味の悪そうなものだと思ったが、言葉を飲んだ。なんやねん、イカのブローチって。どこに売ってるん。送った方のセンスも疑うわ。けど、必死に探す要チャンを馬鹿にできない。やれやれと捜索を手伝ったものの、部屋の中では見当たらない。


「そのブローチ、そないに大事やの?他のでええならあげられるけど」

「大事だよ! 中也さんがくれたんだから! もし迎えに来てくれた時、無かったら悲しませちゃうだろ」


 「そんなとこにないわ」といいそうな所まで必死に探すお嬢さん。趣味の悪いモンでも、好きな人に貰ったら大事ってことか。じゃあボクもこの子に何か貰えたら、大事だと思うんだろうか。なんてね。情が移ってしまったみたいで、色恋感情ではないやろ。


 きっとこの子に絶望とか、暗い言葉は似合わない。耐えがたい過去、苦しい事も一人で乗り越えてきた猛者――。

こうやって助けてを信じている方が、要チャンらしいんやろうなぁ。


 彼女は急に立ち上がり、昨日まで見るのをやめていた窓の前に立った。鉄格子を両手で掴むなり、彼女は叫ぶ。


「ブローチ見つけるまで来ないでくださいねー!」


 そしてボクに「中也さん怒ると酒瓶振り回すから、おっかなくって」とか、「そんな中也さんも好きだけど」と、笑う。

 朝とは打って変わって中也サン、中也サンと騒がしい要チャンを見て、何故か胸がときめいた。気持ちの表現って難しいなあ。


 着物の中でチラつく、紫色の半分になった花。二人はほんまに好き同士なんや思い知らされる。

 あー、なんか急にモヤモヤしてきた。必死に生きる要チャン、めっちゃ可愛いなぁ。


 いつの間にか探すのを止めて、彼女の動きを目で追っている。要チャンは何か感じたのか、こっちを見て顰めっ面。


「ん?」


 首を傾げて問いかけて見る。何か悟られたろうか。


「・・・・・・ご飯は?」

「なんやの! 忙しい子やね!」


 お腹をギュウと鳴らして腹減ったアピール。「だってお腹空いたんだもん」なんて割れたら、ちょっとキュンとしてもうたやないの!

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