95恥目 死にたい理由
「要チャン、ご飯食べな? もう3日も食べてへんやん」
「・・・・・・」
あの日から平成での事を思い出してから、僕は脱出するのを諦めた。
鉄格子越しから外を見るのも辞めた。下に見える街の灯りを見ると苦しい。口を塞がれたように息が詰まるからだ。一般的な人生を送る人の気配なんか、感じたくない。
1日中、布団の上で溶けたように座っているか、寝そべっているかのどちらか。
富名腰が食事を持って来てくれても、どうも食べる気にならない。毒を疑っている訳ではない。このまま餓死して死んでしまえた方が楽かもしれない。そのほうが都合がいい。
「ほら、一口でも食べんと。あーん」
「いらない・・・・・・」
「あーん」
食べない僕を見兼ねて、ニコニコしながら箸で赤い何かを挟んで、僕の唇をツンツンと突く。
執拗に突かれると、鬱陶しくなって口を開けてしまう。口内に刺身を入れられると、舌が味を判別し、初めて鮪だとわかる。
「美味しい?」
「わかんない・・・・・・」
こんな小声も聞き取れているのか。蚊の羽音のように微かな声。富名腰はどんな言葉も拾う。地獄耳というやつだろう。
「・・・・・・ショックなのはわかるけど、ご飯は豪華やし、要チャンにはこの部屋でなら何してもええ自由もある。そやさかいボクがおる訳やし、なんでも言うてくれてええで? 逃げる事は手伝えへんけど」
「・・・・・・もう、いいんだ。ここで死ぬのを待つから、放っておいて」
鮪は舌に乗せたまま。噛む、という行為も走る事と同じぐらい体力を使うように感じる。飲み込むまでに切り身はふやけていた。
どうせ何をしても出られない。この館に入る金の為に自分が売られる運命なら、その運命を受け入れる事にした。
「要らない子」だと言った、母さんの声を思い出してから、希望を全て失った。
ずっと耳元で、母さんに「要らない」と言われているような気がする。近くで母さんが、私を殺せないから苛々して自殺を促しているような気もする。
嫌な事を少しずつ思い出す。どれも切り取られていて、全ては思い出せない。
日本庭園のある和風建築の家、殺風景な白い部屋、薄汚い倉庫、顔の思い出せない金髪の男性、20万円、墓石、産婦人科医の看板――何を意味しているのか、一つも理解できなかった。
唯一、全部を思い出せたこと。
父さんが死んですぐの事を思い出した。黒い喪服を着たあの夏のこと。
棺の中で、ボロボロに傷ついた父さんが目を瞑っていた。体は冷たくて、肌も硬かった。もう動かないとわかってはいるけれど、温かくなれば起きて「おはよう」と言ってくれるのではないかと期待した。
まだ幼かった私は、父さんが居なくなる事を分かってはいたけれど、受け入れ切れてはいなかったはずだ。
その棺に一緒に入ってしまえば、父さんと一緒に居れるんじゃないかと考えて中に入ろうとした。
恐らく葬儀会社の人だと思われる男性に優しく注意されて、それでも隣に居たいから、棺に体をぴったりくっつけて父さんを求める。
近くの部屋で大人が私を誰が引取るかで揉めているのは聞こえる。
お爺ちゃんはいつの間か亡くなっていて、お婆ちゃんは若年性認知症で施設にいる。それすら、誰も父さんには知らせてくれなかった。知っていたのかな。知っていたけど、会いに行けなかったのかな。その真相はわからない。
親戚も「犯罪同然の事を起こした人の子供なんて」と難色を示していた。
じゃあ児童養護施設に入れようかと言った人もいるが、世間体が悪いと皆反対する。だけど、誰も受け入れない。
自分が「要らない人」だと言われている。違う、きっと、要らなくはない。必要とされる子になって欲しいって、父さんは言っていたんだから。
僕は大人の声が聞こえないように。父さんの使っていた穴の空いた青色のタオルケットに包まって耳を塞いだ。父さんの匂いが残るこのタオルケットは一生使おうと誓った。
何日か後の夜にお通夜が開かれた。
きっとたくさん人が来るのだと思っていたら、少しの親戚と職場の代表くらい。喪主は私が全く知らない人がやった。
お坊さんがお経を唱えている最中、悲しくなって泣いてしまった。すると、隣に座っていた親戚の叔母さんに太ももを強めに突かれる。
口パクで「泣くな」と言う。泣くなと言われたって、こんなに悲しいのにどうやって涙を止めたらいいんだ。
とにかく声は出さないようにして、口の中を噛んだり精一杯出来る限りのことはした記憶がある。
火葬された時も、骨になった父さんを見て「もう2度と会えないんだ」と思い知らされた。肉がない。目が合わない。藍色のグリングリンの髪の毛は一本も落ちていない。掴むと、ポロポロと粒になった骨が落ちる。お菓子のカスのように簡単に。少しも取りこぼさないように、懸命に拾い上げた。
けれど大人たちは、骨拾いも皆雑で、早く終わらせようと骨壺の中へ父さんを乱暴に入れる。
「もっと、優しくしてあげて」
私がそう言っても、彼らは無視をして同じように入れるだけだった。
全ての葬儀が終わって、お墓に行って。
誰かが迎えに来ると言われて自宅に返されたが、そこに父さんは居ない。生きていた証はあるのに、居ない。郵便受けにも父さん宛の郵便物があるのに。
父さんが死んでしまった事、親戚中が父さんにも私にも冷ややかな事、この先どう生きていくか.・・・・・・その日は泣くしかなかった。
――この日の事を思い出しただけで、今も涙が出る。そして吐気が襲う。
部屋にあった木桶に戻してしまうと、富名腰が飛んできて背中をさすってくれた。彼は何も聞かない。ただそばに居て、その使命どおりに僕の世話をしてくれるだけだ。
それがまた何日が続くと、僕は富名腰を気にかけ始めていた。僕はもう1人でいいと思った。この先奴隷となって死ぬのなら、この人に裏切られてもダメージはないだろうと考えたのだ。
今日もいつも通り、食事は何が食べたいかと聞かれる。
普段は問いかけにも黙っているだけだったから、彼は今日もそうだろうと南京錠に鍵を差し込む。僕はその背中に珍しく声をかけた。
「・・・・・・ハンバーグ」
「ふぇ・・・・・・」
富名腰は勢いよく振り返ると、驚いた顔する。でもすぐ、ニコニコっと笑った。
「力付きそうやな! ええで! ほな、調理場に頼んでくるなぁ!」
やけに嬉しそうに行く。
数日前の僕ならこの隙に逃げようと思ったかもしれない。でも平成のことを少しでも思い出した僕は、その人生に嫌気がさしていた。
昭和で過ごした時間は幻で、昭和の生出要は全くの別人だった。
本当の僕は、人のために頑張れる程強い人じゃなかった。いつか、文人に言われたように、いい人になりたかっただけだったんだ。
下へ降りても、僕は記憶の戻った生出要でしか帰れない。
また何か思い出したら、死にたくて、死にたくて、消えてしまいたくなる。
苦しい。殺してもらいたい。生きている意味がない。邪魔、要らない。
いつも母さんがそう言って、“家族にしてくれなかった“。
1人で絶望していると、暫くして富名腰が戻って来た。
言った通り、ハンバーグの乗った皿と、器用に他のさらも何枚か持って急いできたのがすぐわかる。
「要チャン、お待たせ!」
さっさと台の上に皿を乗せる。並べられたハンバーグから湯気が立っていて、また別な日の事を思い出した。
「ご飯食べてくれるの嬉しいなぁ、食べられるくらいでええからね。ずっと食べてへんかったから、胃ぃびっくりしてまうかもだし・・・・・・」
「うん」
「・・・・・・泣いとるの?」
別な日、とは。
中也さんと先生と吉次と、ご飯を食べに行った日の事。あの時お金がなくて、洋食屋なのにおにぎりと味噌汁を注文しようとしてくれたっけ。
中也さんがハンバーグを食べさせてくれて、それがすごい美味しくて。
それから、花を裂いて、僕の助けになるって言ってくれた。
その時の事を思い出して、泣いてしまった。忘れたくて、ハンバーグにフォークをぶっ刺し、行儀とかは考えずに貪る。デミグラスソースが口周りに飛び散っても拭き取らない。
「中也さんと、食べた時の方が、美味しい・・・・・・」
泣きじゃくりながら食べ続ける。死にたいのに、食べたいと思う。もう戻れないのに、ハンバーグを見た途端、楽しい事ばかり思い出す。色々あったけど、楽かった毎日のこと。毎食貧しい食事なのに、何よりも美味しかったこと。
また一緒に何か、食べたいなぁ。
「・・・・・・ほんまに中也サンって人の事好きなんやな」
「うん」
「聞きたいなあ、中也サンって人のこと」
「うん」
相槌だけを打った。食べるだけ食べて、皿を空にすると久々の満腹感に心地よさを感じる。
完全に死にたいとは思ってなくて、心の何処でやっぱりどこか、希望は探している。
皿を片付けてくれた富名腰に初めて「ありがとう」と礼を言った。彼はいつものようにニッコリと笑って、「どういたしまして」と返す。たったそれだけを話すと、心の中が落ち着いた。
それから2人並んで、一段高くなった小上がりに腰をかける。
「ここに来て1週間。少しは落ち着いた?」
「落ち着く訳ない・・・・・・嫌なことばっかり思い出すよ」
「なんとなく分かっとったで。この館に絶望してる以外に、なんかあるなって。夜も寝言でいろんな人に謝ってるし、しんどいんやろうなとは思とった」
「寝言・・・・・・?」
「ままま、今は中也サンの話聞かせてや。ね?」
“富名腰さん“は誤魔化して、そう言う。それから、昭和に来た時の事から話してあげた。
しゅーさんと出会うためにバイトを掛け持ちした事。
吉次と先生が何もない僕を助けてくれた事。
司が恩人のために家を守り続けていること事。
文人が改心し、今は人のために生きている事。
薫は可愛くて天真爛漫、幸せのために誰よりまっすぐな事。
あの日、檀さんの握った手が優しくて父さんを感じた事。
中也さんが男でも女でも好きだと、僕を守ってくれると言ってくれた事。
喧嘩して家を飛び出して、此処に連れてこられた事まで話した。
「皆の事、えらい好きやったんやね・・・・・・そら帰らな」
「でも帰れないんでしょ。それにね、僕は汚れてるから中也さんにはもう会えないよ」
「まだ汚れてへんやろ。お勤めは一回も――」
“此処“では汚れていないだけ。話すかどうか迷ったが、話した方が諦めがつく気がした。
それを口に出して、認めて、こんな僕はもう彼らに会えないと腹を括るためだ。富名腰さんは、僕が女だとわかっているから、なお都合がいい。
「ダメだよ。いろんな人に犯された過去がある。義理の父、義理の兄、もしかしたら、思い出していないだけで、他にもいたかもしれない。そんな体だった事を思い出したら会えないよ」
重たい空気が流れる。富名腰は「嘘やろ」と、右手で口を塞いでいた。もういい、全部吐いてしまえ。このタイミングで、もう一つ思い出してしまった。
これはあまり認めたくないこと。けれど、自分を追い込んだ方がいい。
「それに、僕の体は、女であって女じゃない。男でもない。僕はどっちなんだろう。父さんは教えてくれなかった。僕の体にあるべきはずのものがない事を・・・・・・それを知ったから、全部、全部知ったから」
悲しみに叫びそうになるを喉を閉めて堪えた。胸がないの事や、声が他の女性より低い事じゃない。
下腹部に手を当てる。本当は、此処に新しい命が宿る場所があるはずなのに――。
「女なのに、ないんだよ。子宮が」
それを知ったのは21歳の6月上旬。初潮がきていない僕は、違和感を感じて病院に行った。
その時、告げられた病気の名前。聞いたことのない病気。
ロキタンスキー症候群。生まれつき生殖器に欠損がある病気。原因はわからない。ただ、無いということはわかる。
ショックだった。女でも男でもない、何者でもない気がした。
父さんはともかく、母さんはそれを知っていたんだ。母さんに連絡した時に、彼女は生まれた時から知っていたと、確かにそう言ったんだ。その事実を知ってどん底に落とされた僕を笑い、嘲笑った。
女なのに、女じゃない。こんな人生に何の希望を見出せばいいのか。その時の僕は諦めが悪かったから、6月に友達と約束した事を最後のチャンスとした。
東京の三鷹にいる友達に会う約束を取り付けていた。ちゃんと遊べたらこのまま生きてみよう。彼女はドタキャン魔だから、しつこく約束を繰り返した。大丈夫、信じよう。彼女を信じて、それを最後のチャンスにした。
もし、いつも通りドタキャンされたら。
その時は、もう人を信じるのは怖いから玉川上水に行こう。
そして死のう。僕を育ててくれた、太宰治が死んだ場所で。父さんとの思い出だけ背負って、死のう。決意が鈍っても、きっと彼の死んだ場所に行くよう仕向けてくれる友人がいる。
ああ、そうだ。僕も自殺志願者だった。
死にたい理由。これだって言うものはない。積み重なった辛さが、僕を殺すだけの事。
嬉しかったことも、喜んだこともない。何をしても加害者として扱われる人生。
犯されるのも、生まれたのも、父さんが悪いと責められ続けた人生。
父さんは悪くない。父さんも、僕は悪くないって、言ってくれるよね。だけど、僕の味方はこの世にいない。でも、僕がいなければ、父さんは幸せだったのかな。
母さんの言う通り、僕と言う存在が邪魔なのかな。
こんな体で中也さんには会えない。会いたくない。愛される自信がない。
しゅーさんを守れるような、できた人間でもない。人生経験が浅いのに、君をとやかく言う資格なんか、ないんだ。
だからこの場所がお似合いだ。奴隷になるまでに死のう。この部屋で死のう。決めた。僕という存在を消そう。
「富名腰さん。せめて、あなたが僕の最期を看取ってね」
彼に我儘を言う。どうせ忘れられるとしても、骨を拾ってくれという我儘くらい、聞いておくれ。
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