94恥目 要らない人
目を覚ますと、鮮やかな赤が印象的な和室に身を転がされていた。
紅の絨毯、紅葉色の柱、襖には大きな赤丸が描かれている。天井は照明が5つ付いたペンダントライト。わざと薄暗いようにされている。
「あ、目ぇ覚ましました?」
聴き慣れない関西系の方言の方を向くと、ソバカスが特徴的な顔が口をUの字にして、ニッコリと僕を見ていた。
前髪は真ん中で分けて、横髪が顎の下ぐらいまで長い。先はパッツンというのか、毛先が揃えられていて、それ以外は短い黒髪の男。手には畳んだ扇子。
詰襟に黒ズボン、黒色の法被を肩にかけている。さっきの3人のうちの1人に違いない。
「死んだんかと思いはったわ。ま、旦那はんも殺すまでせんか」
ニッコリ笑った顔を崩さずに扇子を勢いよく広げ、ひらりひらりと仰いで見せる。
「なんなんだよ……もう」
「ボク、富名腰志蓮いいます。キミのお世話係ってとこどすなぁ」
「お世話係? 要らないよ。もう此処から出るし、帰る方法知らない?」
富名腰と名乗る男は僕の身の回りの世話をしてくれるらしい。自分の事は自分で出来る。
そもそもお世話をしてもらう理由がないんだ。僕はここから出ていく。
出口がないか部屋をもう一度、舐めるように見た。
寝そべってばっかりいては事が進まないので、一箇所の丸窓障子をを開ける。
正面から堂々と出ては捕まるのがオチ。ここから飛び降りたら出られるだろう。
随分山奥に連れてこられたから、窓からは木々の景色が見えるだろうと思っていたが、どうやら違う。
決して逃さないという、冷たい鉄格子。
この日の為に取り付けられたのか、真新しい鉄がギラギラ光って、二重に設置されている。その奥に、外から見えたカーテンが吊り下げられてあった。外からは見えない隠れた檻のようだ。
「何だこれ」
「びっくりするんも無理ないわぁ。飛び降りよう思ったんでっしゃろ? ここは最上階の3階。打ちどころが悪かったら死んでまうよ。まあ、そん格子をどないにか出来たらの話やけど」
尺に触る京都弁。ああそうですか、と頷いてやるもんか。
数本の鉄棒と睨めっこしたままでは埒が開かないので、片足を上げて鉄格子にかけてみた。両手で引いてもびくともしない。
その様子を見ていた男は「無理やて」と、小馬鹿にしたように笑う。はんなりしたイメージの京都弁を覆すような、嫌味ったらしい言い方だ。
「あんまり暴れられたら困るんや。生出要ちゃん――やったかいな、お互いなんて呼ぼうか。ボクらは長い付き合いになるよぉ」
ニタニタした顔、パタパタ仰ぐ扇子。うわ、胡散臭い。
「悪いけど、長居する気なんかないよ」
「まあそない言わんと、おにーちゃんやと思って仲ようしておくれや」
「なんで仲良くしなきゃいけないんだよ。外に出してくれんならいいけどさ」
「そら無理やね! いっぺん入ったら出られへん、それが祗候館。おいでやす、地獄へ !――なんてね」
手を広げて、まるでテーマパークのスタッフみたいに手を振る。胡散臭さ、増し増し。
「うっさいなあ! 絶対出るんだよ! やらなきゃいけないことがたくさんあるんだから!」
「外んことは忘れましょ。もう戻れへんもん。それに要チャン、お父さんに売られてしもたんでっしゃろ?」
「父さんは死んでんだよ。もっとマシな嘘をつけ!」
富名腰の言葉で思い出したが、男らは檀さんが僕を売ったと言っていた。檀さんは確かに父さんに似ていた。まるでそのまま、生き写し。
でも、違う。父さんはもっと髭があって、ナヨナヨした話し方だった。あんなにキッパリしていない。
「私」なんて言った事は聞いた記憶がない。
それに、死んでるんだから此処に居るワケがないんだ。自殺志願者だったとしても、最終的には平成に帰る。死んでいるなら戸籍だってないはずだし、僕は父さんの存在自体を忘れているだろう。その平成に父さんのお墓はないはずだ。
そもそも、父さんが私を売る――?
一番無い。嘘もいい所。金に困った誰かが僕を売ったことはあり得るかもしれないけど。誰だろうと考えない。だって人を疑うのは恥ずかしいことだ。絶望させて、諦めさせるの作戦に違いない。
今はただ、ここから出る事に集中にしよう。無茶だと言われても、この鉄格子をなんとかしてぶっ壊して逃げる。
「人攫いはんが言うとったやろ? 檀一雄って人がお父さんやないん? それに倒れる前、要チャンもハッとした顔してたやんか」
富名腰はまだ話を続ける。確かに僕はハッとした。だけどそれは、僕を女だと知っていたからで。だけど彼じゃないと信じるから、もうそんな細かいことはいい。
「檀さんは父さんと瓜二つなだけだ! ドッペルゲンガーかなんかだよ! だから僕は信じない。父さんも、檀さんも、身近な人は誰1人疑わない。皆助けに来てくれるかもしれないんだ!絶対に此処を出て行く! つかいってえな、なんなんだよこれ! びくともしねえな!」
「はあ」
少しも動かない鉄格子に苛立って蹴飛ばすが、ジンと骨に電気が走るだけ。僕が通れるくらいのスペースを作るまで、何日かかるんだろう。
それでも、襷紐で引いたり、擦ったりして抗うのはやめない。
富名腰は「どっちやていいけど」と、またニンマリ笑った。
特にこの男と話をしたいとも思わない。どうせ味方じゃないし、世話係なんて聞こえのいい役割は監視役と変わらない。逐一僕の行動をあの汚いデブに報告するだけの簡単なお仕事。
何分も、何時間も鉄格子に向き合った。
男は何もせず、薄い座布団に正座で座り、ニコニコしながら僕を見ているだけ。退屈しないのか? と何度か見てみた。何度見ても置物のように動く事がない。
僕も変わらない状況にちょっと飽きてきた。
外が真っ暗になると、遠く下の方に街の明かりがうっすら見えた。よかった。思ったより街は遠くない。この山を降りたらまっすぐ走ろう。
にしても、疲れた。息も上がり、掌も真っ赤になっていた。
「あーあ、可愛いらしい手が真っ赤。手当せんと」
「うわっ」
手を見つめるのに夢中になっていて気づかなかっただけなのか。気配を消して、僕の隣で覗き込んでいる。
「音立てろよ! びっくりしたわ!」
「元は用心棒なんでね。手当しはる前にお風呂入りまひょか。お世話なんで、ボクも一緒どすけど」
「断る! 絶対入んないからな! めちゃくちゃに臭くなって追い出してもらうんだ!」
「何べんも言うけど、そら無理やわ」
今までニコニコ笑顔だった富名腰は仮面を取り外したように、真顔になり、目を開ける。
富名腰の顔はタレ目で、物腰柔らかそうな感じにも見えた。なんだかさっきと印象が違う。目だけでこんなに人の雰囲気は変わるのか。
とにかく手当をと言われ、向かい合って正座する。
赤くなった掌、タスキ紐を握り過ぎて擦れた傷。富名腰はまず、中指に軟膏をつけて潰れた豆につけようとしてくれた。
「染みへん?」
「あ、あ、うん」
手つきは意外に優しい。僕の様子を伺いながら、ゆっくり、ゆっくり、撫でるように伸ばす。
「苦労、してきたんやね」
「なんで?」
「古い豆と傷。昨日今日に出来た傷ちゃうやろ?」
掌は硬い豆と、深い切り傷の跡。苦労、か。
苦労してきた人程優しいというんだから、僕は当て嵌まらない。
僕が選んできた道の数で、不器用だから付いただけの事。この傷が付いたから、しゅーさんや皆と過ごせてきた。
「まあな……なあ、本当に出られないのか?」
「出られへんよ。あの鉄格子が出さへんって言うとるやろ?それに、正面の襖を開けても、分厚い扉があって、そこに南京錠もかけてある。1個やないよ? 中と外に3つずつ、全部で6個や。出られると思う?」
「そんなに!?」
施錠の多さ、頑丈なセキュリティ。正面は無理だと思っていたが、まさかそこまでされているなんて。
富名腰は軟膏やガーゼを弄りながら続けて話す。
「ここではね、高値で買うた男をね、軍人や金のある人に男の体を売るん所なんやで」
「は」
それは、男娼、ということか? 僕は、ちゃんと“男“としてここに売られて来たのか?
「夢と快楽を与え尽くしたら、その子たちはね、炭鉱夫になるならまだええ。問題は金で買われた時や。外の国の薬の治験やら、人体実験として回されたり、戦火に放り出されて、息をするだけでやっとの日本人を殺す役目をさせられたり、貴人の奴隷にされて泥水啜らされたり・・・・・・ここから居ぃひんくなった子は皆そないな運命を辿る。要チャンも例外ちゃうよ。死んでも擦り切れるまで使われる。逃げ場なんかない。地獄、ここは、地獄……」
今いるこの場所が、富名腰の言う通りなら本当に地獄。
この目で確かめていないから半信半疑。でも、祗候館という館、かなりヤバい。
いずれにせよ此処に長く居ればいる程、死に向かうリスクが高まって行く。
僕が男に体を売る――? 絶対に嫌だ。
確かに、一度なろうとはした。だけどあれは、本当にお金に困っていて、必ずやるなんて思っていなかった。面接に行く時の足は何度も止まったんだ。
しゅーさんが助けてくれた。僕に男娼は似合わないって言ったんだ。
「な、なあ。実は、僕、女なんだ。出してくれないかなあ、なあ」
このままここで死を待つのは嫌だ。富名腰に泣きそうになるを堪えながら詰め寄った。
「女の子なら――要チャンは旦那はんに気に入られてもうたさかい。飽きるまで玩具にされてまうで。その、中也サンやらいう人にまだ見られてへん体を毎日可愛がられるやろうな」
「嫌だ! 絶対に嫌だ! ここから出る! 僕は体を売りたくない! まだ、まだ……」
女であっても地獄。右も左も地獄。
青のデブはどういう訳か僕を気に入ったらしい。
僕が気を失っている間に、僕と喧嘩した男2人を殺したと聞いた。金になるのは僕だから、多少の乱暴は多めに見ると上機嫌だったようだ。
どうして僕が金になると思ったのか不思議だったが、あんな奴の頭の中なんかわかるはずがない。
「嫌だ! 出るんだよ!」
襖に走り、外につながる大きな扉を引いても押しても、複数の南京錠のせいで開くことはない。振り返っても鉄格子。僕を保存しておくための蓋でしかなかった。
呼吸が乱れる。もう、皆に会うことは出来ないのかな。中也さんと喧嘩したまま、あのまま謝ることはもう出来ない。
あの時、家出なんかしなければこうはならなかった。
もう汚れていくしかないなんて。分厚いドアの前でヘタリと座り込む。
「要チャンは今までで1番高い値段で買われた子。年の瀬までにこの傷やアザを治して、大金叩いてくれるええお客はんにだけ売られるんやで。だからほら、部屋も立派で、優遇やん?こんなん今まであらへん。ボクも居るさかい、そないな落ち込まんといて」
慰めているつもりなのだろうか。背中をさする掌はヒンヤリと冷たい。
恐怖に支配された心は、この掌に縋りたいとまで考える。
檀さんはお金に困っていたのかな。それとも、しゅーさんや文人が、檀さんに頼んで僕を売ったのかな。いいや、そんなことするはずないよ。そんな人達じゃない。とも、言い切れない。
僕は嫌われていたのかな。口煩かったから、生意気で、威張って、それが皆には面倒くさくて嫌だったのかな。
僕の知らないところで、僕が居なくなって、大金が入るならそれがいいとなっていたのかも知れない。
人を疑うな。しゅーさんや父さんが教えてくれた事だけど、そんなの綺麗事だ。
この赤い部屋は僕が死を待つ場所。幸せを望むことは許されない。 伝えられた現実と先のない未来に涙も出ない。
死にたい、死にたい、死にたい、死にたい。
首を吊って死のう。襷紐を探すが、もう富名腰が回収していてそれも出来ない。
何か無いかと着物の中を探した。何もない。今から無数の絶望を味合わせられるのに、死ぬという選択肢も無い。
此処は、祗候館。軍人や貴人が性の極楽浄土を求めに来る場所。
僕はこの館の最上階にいる。選ばれた上客しか入る事のない特別な部屋。
年末に開かれるという競に出すために、傷を癒し、客を楽しませるための教育をこの富名腰から施されるという。
僕は往生際が悪い。その上客が中也さんである事を強く願ってしまっている。お金なんかあるわけないのに。そんなお金があったら、僕らとなんかいないよ。
――僕はあと何回、傷ついたら幸せになれるんだろう。
この状況に、追い討ちを掛けるように頭が痛くなる。
当然、海馬はこんな時に過去の記憶を呼び起こす。今まで少しも思い出せなかった、父さんが死んだ後の記憶。
僕には4人の兄がいる。その中の1人に毎晩、毎晩、兄の欲求を満たすために悪戯されていた。ああ、そうだった。初めても何もないね。僕の体はずっと汚れていたよ。
強姦魔の娘としての制裁だと言われ、犯され続けた日々の事。僕はこの場で思い出してしまった。風邪のひき始めのような悪寒が襲う。
「要チャン、どないしたの?」
もういいや。最初から望まれてなかった命だったんだから。
過去の記憶が一気に頭と心を支配すると、逃げようとも思わなくなった。平成の時と同じだと割り切れば良いと。
「要チャン? ……要チャン!?」
富名腰が僕の体を揺さぶった。
人はショックを受けると気を失える。そうさせたのは舌を思い切り噛んだから。時々父さんもしていたもん、きっとやり続ければ死ねるんだ。このまま死なさせてくれたらいいよ。
過去も、今も、未来も。無くなればいいのに。
僕の名前は生出要。
要とは「要らない、必要ないの意味である」
――母さんがそう言っていました。だから、これからは、それを信じようと思います。
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