87恥目 揺らぎ


 「私」は戸惑っている。


 新宿で人攫いの男と話をした直後に要に会ってしまった。

 もう二度と生前のように要が原因で人生を邪魔されまいと行動しているのに。「私」はこんなに娘が憎いはずなのに、手を取ってしまった。


 挙句、家出しているという要の身を案じて、家に連れて行こうと手を引いている。


 確かに意識は「私」なのに、気持ちはどちらかわからないでいる。

 自分がどうしたいのか十分理解しているのに、その意に反する行動をするのは何故か。決して食べないと誓ったはずのものを目の前に出されて、さっきそう誓ったばかりなのに、むしゃむしゃと好物のように齧り付き、食ってしまったと後悔する感覚と似ている。


 嫌悪感の中に少しのウレシイがちらついている。真逆の感情の間でユラユラと優柔不断でいるのだ。その揺らぎが仕組まれたようにタイミングが良い。


 数時間前、人攫いに言われたのだ。「私」は揺らいでいる――と。



「攫えない? 何故」


 新宿のくらい路地。いつもの待ち合わせ場所。

 顔の見えない男に、要を拐うことを断られた。予想外のことで声が大きくなった。 

 しつこく問い詰めると、男はその理由をめんどくさそうに話し始めた。


「アイツの行動範囲の広さと居場所、それから人目に着くところに居過ぎる。常に誰かと一緒にいたんじゃ、アンタの思い通りにゃ行かないよ」

「……そうか」


 確かに、人の多いところにいれば攫いづらいし、失敗する確率の方が高い。警察に探られれでもしたら、男は捕まるかも知れないし「私」の身だって危うい。男は、それにと続けた。


「アンタ、嘘ついたろ」

「嘘?」


 嘘をついたと言われて気分が悪い。暗がりをいいことに、思い切り男を睨んだ。そんな男が「私」の胸に突き付けたのは、要の戸籍。 暗い路地裏ではよく見えないので、月明かりに透かしてみる。


 目を疑った。

 要が弟と言っているのが謎だったが、それはこの紙ペラ一枚でようやく理解できた。


「男……!?」

「そう、アイツは男。アンタは娘と言ったが、どうやっても男。確かに女みたいな顔はしてたが、胸はないし肌は汚い。あげくに細いのに筋肉質でゴツく見える。あれじゃ、女としては売れないよ」


 どういうことだ。要は女のはずなのに、男で存在しているって。何かの間違いに違いない。


「ま、待って! 本当にちゃんと調べたのか! 要は女だ、正真正銘、“僕“の大事な娘なんだぞ!」


 時間の無駄だと言って立ち去ろうとする男を止める。

 勢いよく踏み出すと、爪のない爪先がズキンと痛んで顔が引きつった。

 それでも真実ではない事実の確認をしなければ「僕」の気が収まらない。


「いいや、男だった。女が建設現場で働けるか? ない、絶対ない。そもそも、アンタは娘とやらを売りたいんだ」


 男の問いかけに、「私」はすぐに答えた。


「邪魔なんだよ! これから私は、愛したい人と一緒に生きるんだ! 要が居たらまた失敗する!」


 「私」は太宰さんと生きたい。太宰さんは、ユリさんだ。

 彼女は彼の言葉を吐く。だから、愛されたい。

 それだけのことだけなのだから。彼女は娘を大いに嫌った。要が居てはダメ。ダメなんだよ。また、汚点だと言われてしまうじゃないか!


 すると男は深いため息をついて、「私」に全身を向けた。


「特別、金に困ってはないんだろ? 何度か話をしてるが、アンタ変だよ。毎回毎回、人が違うみたいでね。娘を売りたいと言えば、いざ男だとわかると大事な娘だっつったり。こっちも暇じゃないんだ。本当に邪魔なら自分で手を掛けな」

「……手を掛ける?」

「ああ、そうさ。消したいと思った時に一思いにやるんだ。まあ、自分の子供を大事だと言うやつにそんな事出来るとは思わんけどね」


 要は攫えない。

 なんせこの人攫いの男は女を売るのが仕事だ。日本で売れないなら、中国や朝鮮へ安く売ってやる。


 しかし、それも出来ない。何故なら要は男だから。

 別に殺したいわけじゃないんだ。だから、手を掛けるなんて。いくら「私」でもとても出来ない。少し遠くへやってくれたらいいのに。


 やっぱり、「私達」には愛される資格なんてないのか――?


「俺は人攫いを良いと思ったことはない。金に困ってんだ。金に困るとね、人はなんでもよくなるんだよ。少しでも大切だと思ってんならやめときな。昔、自分の娘を売ったからよくわかる。この職についたのは、アンタと真逆。見知らぬ女子供を売って、自分の娘を取り返したいだけさ。 悪いことは言わない、迷ってるんだろう? ならアドバイスをあげよう。大事だと思ったら辞めなさい」


 その時、「私」は初めて男の顔をみた。

 哀愁漂う、無理に作った笑顔に、自分の過ちを憂えているように見えた。自分のようにはなるな、と言ってるようにみえる。

 その顔を見てこうはなりたくないと、心から思った。後悔なんか、二度としたくない、惨めで要らないと突き放される孤独はもう御免だ。


 一瞬、ねじ伏せておいた「僕」が出たのが良くなかっただけだと思いたかった。

 なのに図星を突かれたように心に重たくのしかかったのだ。


 「私」は迷ってるのか? 何故、別人かも知れない要に声かけた?


 津軽三味線の音色に惹かれて、フラフラ彷徨っていたら其処に居ただけのこと。人攫いの男の言う通り、邪魔なら殺してしまえばいいのに。首を絞めれば、ぽきりとイチコロで死にそうな細い首に手を回してキツく締めればいい。


 そう思っているのに、憎いのに、居なくなってほしいのに「檀さん」と呼ばれる度に「父さん」と聞こえて、認めたくないが、目頭が熱くなる。


 結局、判断を迷ったまま要を家に入れてしまった。まあ、殺すなら家の中がいいだろう。ここは誰にも教えていないし、都合がいい。


 当の要は、そんなことも知らずに部屋の中をキョロキョロ見渡している。

 きっと乱雑した部屋を見て汚いと思っているんだろう。引越しの片付けが終わっていないけだ。と言いたいところだが、「尽斗」が荒らしたところもある。


 すると要は「私」を見て笑顔を取り繕い、下に散らかるものを踏まないように爪先で避けながら言う。


「小説書く人って片付け苦手なんですね……」

「だざ……修治さんにもそう言ってるのか?」

「もっとストレートに言いますよ。片付けろよ! って」

「容赦ないな」


 はははと、笑ってしまった。口を塞ぎ、いけないと下唇を噛む。なんと、らしくない。変わらず、「私」の心は騒ついたままだ。

 要が発する言葉一つ一つに、胸が騒ぐ。「私」が居なくなってしまいそうだ。


「あの、本当にいいんですか? 泊まらせてもらって」

「行く当てがないなら好きにどうぞ」

「あ、はい……ありがとうございます」


 要は「私」の言い方に少し違和感を抱いたようだ。

そうだ。「私」らしく冷たく、突っぱねようと思うのに、「私」と来たら布団を用意してやっている。意識と反して完全に要をもてなしているのだ。


 そうだ、なるべく話さないようすれば良い。これ以上息が詰まりそうになるのはごめんだ。そう決めているのに、彼女、いや、彼に話しかけられると揺らぐ。


 「明日の朝に帰るので」と言う要に「そう」と突っぱねてやりたいのに、「気の済むまでいればいい」と口が動く。

 勝手に髪の毛を指先で弄る要に「触るな」と叱ってやりたいのに、叱れない。


 ――そのあげく。

 「父さん」と、無意識に呼んだ要に対して、「うん?」と普通に返事をしてまった。

 要がキョトンとしたのを見て「私」も漸く違和感に気付かされる。誤って返事をしてしまった。


「えっ、ま、間違えました! 檀さん、檀さんですよね、ごめんなさい!」


 自分の間違えを謝る要に、こちらも危うくつられて同様しそうになる。口の中で頬の裏側をガッチリ噛み、あくまで冷静に返した。


「いや、檀と言っていたよ」

「そ、そうですか。気を遣ってくれたのならごめんなさい。あの、檀さん、僕の父さんにすごく似てて――だからずっと話してみたくって! 今、すごい嬉しいんです!」

「そう。それで今、お父さんは?」


 きっとこの子は要だと、もうわかっている。でも「私」が「尽斗」だと言う事は隠したい。バラしては、きっと支障になるに違いないからだ。

 だからここで、敢えて自分は「尽斗」ではない事を要に教えてやる。


「自殺で死んじゃいました。でも、父さんが決めた事だから、いいんです」

「そう。それは辛い事を聞いたね。悪かった」

「いえ、もう乗り越えましたから。でもよかった。檀さんが何かの間違えで父さんだったらとか、夢みたいな事考えてたので……全然違ったや。だって父さん、もっとドジだったもん。よかった。うん、スッキリした」


 自分に言い聞かせるように、何度も「うん」と繰り返す。布団の上に正座をして、袴をギュッと握り、下を向く。


 それが乗り越えた奴のする顔なもんか。泣きそうな顔で「私」に父親の姿を重ねていたくせに。

 「尽斗」ならどうしてやるんだろう。「私」は要に何か言ってやる事が出来ない。無意識に父親を出すことはあっても、優しくは出来ない。その資格がない。


 殺そうなんて、微塵も考えられなかった。ただ、今は攫われずに済んだのだと、ホッとしている。自分で仕向けたことなのに、言葉を交わすと恨み辛みの皮を被った、寂しさが顔を出した。

 愛されなかったことを彼女のせいにして、自分の好きな人を悪者にしたくないと思ったからだ。綺麗な思い出が、黒に侵食されていくのが嫌だった。結ばれなかった悲恋にして納得したかった。


 でも、違った。要にあんな顔をさせたくなかった。今までの行いを酷く悔やんだ。愛されていたのに、その愛に気づけていなかった「私」が愚かだったのだと。


「疲れたろう。もう眠りなさい。私は隣の部屋に居るから」


 耐えられなくなり、逃げるように寝室としている場所を出た。静かに襖を閉める。力がだらんと抜けていく。


「檀さん、おやすみなさい」


 襖越しに聞こえる、暖かい声。今まで欲しかった物が、その就寝の挨拶ひとつで解決してしまった。

 息を殺し、顔を覆うと嗚咽が出そうになる。


「ごめん、ね」


 ――「私」か「僕」か。一体どちらが言ったのだろう。きっと、どちらもだ。



 その後、要がぐっすり眠って居る姿を確認しに襖を少し開けた。

 相変わらず寝相が悪い。髪型は変わったが、要は要のまま大きくなった。

 声はあの頃よりも低い気もする。確かに電話越しなら男声に聞こえるかもしれない。

 男でも女でも、その布団で眠っているのは「生出要」で間違いない。


 寝顔見ると満足した。こんな気持ちはいつぶりだろう。今日は気分が良い。「私」と「僕」がうまくやってくれている気がする。イビキでさえも愛おしく感じた。

 座布団を2つに折り、その上に座った。血だらけの包帯と足袋の交換をしながら、必然と昔のことを思い出す。


 ――要が生まれる前の事。それから生まれた後の事。全てを思い出そうとしていた。

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