88恥目 生出家
「尽斗」は高校に進学するまで、地味な見た目で口下手、優柔不断で意思表示も下手な性格だった。
頼りないと言う言葉がよく似合う男だ。
運動はてんで出来ない。球技はキャッチが出来ないし、投げることは地面に叩きつけることだと思っている。
日常生活では「尽斗」が歩けば電柱にぶつかるし、何もない所で足を挫く事もある。
いじめられることこそなかったが、何の苦痛も面白みもない時間をただ生きるだけ。学校と家を行き来するだけの退屈な日々。
思春期を迎えると「こんなんでいいのかなあ」と言いながら、唐突に宮城県縦断の旅に出かけたりもした。足の強さにだけは人一倍自信があったのだ。
しかし、いくら行動しても、何も変わらない。それからも自分を変える努力もせず、暇があれば布団や机に突っ伏して寝腐っていた。怠惰な少年だ。
そんな「尽斗」も、高校に入学すると変わる。
一回り以上年上の「ユリさん」が担任になって、一目惚れして恋に落ちた。
既婚者だから無理だとわかっていたのに、「尽斗」は一途に彼女に気持ちを伝え続ける。そこに付き合って欲しいだとか、恋人のような繋がりは求めてなどいなかった。
ユリさんの好きなものは「太宰治」とかいう、小説家だったから「尽斗」は必死に読み込んで、自分も好きだとアピールした。
ただ好きな人に好きだと言うため、少し長く話せたら嬉しいと必死に読んだ。
立場と関係は理解していたつもり。そこにやましい気持ちはない。嘘ではない。年頃の男の子なのに。デートがしたいとも思わなかった。
貴女はとても魅力的な女性ですと、伝えたかっただけ。姿を見て、目の保養にしたかっただけだった。
しかし高校3年生になったある日、ユリさんは「尽斗」を多目的教室に呼び出した。
もう2年もこの人を見ている。年齢を聞いたって、一度では信じられないくらいの美人だった。男子校だったから、生徒からの人気は一番だったし、容姿だけでなく、性格も良く、保護者や教師からの人気もあった。
焦げ茶だけれど、どこかアジアンビューティを彷彿とさせる長髪と、ぱっちり開いた、茶色の大きな目。
スレンダーではないが、女性らしい体型にその象徴には豊満な肉がついていて、それがいい。柔らかそうで、例えるならマシュマロのようなものだ。女教師って感じのタイトスーツが男性の本能を揺らしているようだ。
そんな好きな人に教室に呼び出されたら、緊張して目を向けられない。
もしかすると「何か怒られることしたっけぇ」などと、カッコ悪い自分を見せることにビビっていた。生徒と先生なのだから、普通のことも一生の恥として心に刻み込まれる気がしたのだ。
するとユリさんは「尽斗」に体を押し付けながら迫り、こう言った。
「死ぬ気で恋愛をしてみないか」
「ヒェッ!?」
突然の出来事に「尽斗」は驚いて、後ろにあった長机に手をかけた。
慌てるから、運動神経の悪さが影響して体制を崩すと、ユリさんはクスリと笑う。尻餅をついた「尽斗」に手を差し伸べて、大丈夫? と声をかけてくれた。
「あれ、知らない? 君なら知ってると思ったのに」
「だ、太宰ですか・・・・・・?」
「そう、正解。私の大好きな文豪ね。彼がいなかったら、私、国語の教師になろうなんて思わなかったわ。道を示してくれた恩人よ」
「は、はあ。それで、なんでまた、そんなセリフを」
ユリさんは太宰治がいなかったら、今の自分は無いと豪語していた。 事あるごとに彼が遺した名言を言っては、そのコアなファンぶりを見せつける。
それはわかっていたが、何故よりによって、愛人に言ったセリフを僕なんかに……と疑問に思ったのだ。
「生出くん、私の事が好きってたくさん言ってくれるから。思ったの。私も太宰みたいに、旦那以外に愛する人が居てもいいかなあって」
「えっ、いや、僕はそういうつもりじゃなくて」
人生で一番、それはもうたくさん慌てた。
もし、ユリさんが僕を好きなら嬉しいけれど、皆にバレたらそれはきっと批判されるに違いない。まだ未成年の僕に責任なんか負えないし、この人を守れるくらいの力など持っているわけがなかった。お金、価値観、地位、経験値。どれをとってもスタートタインにも立てていない。
だから立場を弁えて僕は断ったのだ。
「大丈夫よ。私は大人だから、責任だってきちんと取れる」
ユリさんがそういうと、多目的教室のカーテンと鍵をガチャンと閉めて、僕の下半身をそっと撫でた。いくら頭で道理がわかっていても、体というのは心に勝てない時がある。
思春期で多感な「尽斗」も例外ではなかった。
半ば押される感じではあったが、彼女に好きだと言われて嬉しくない訳がなかったのだ。
初恋は実らないというけれど、例外もある。その時間は何よりも幸せだった気がする。
事が終われば「内緒の関係ね」と頬を赤らめて教室を出る貴女に酔っていた。
それから2人で会う事はあったが、話す程度で何もなかった。一度繋がっただけなのに、僕はすっかり恋人気分で、あんなに欲はないと思っていたのに、溢れるように出てくる。
彼女もその気のようなことを言うから、いつか一緒になってくれると本気で信じていたのだ。
――だが、事があってから4ヶ月くらい経つと、ユリさんはよく学校を休むようになった。
それが何日か続いたある日、校長や教頭、市の教育委員会の人、両親、そしてユリさんとその家族が揃いも揃って学校にいる。
進路相談か何かだろうと思ったが、そのただならぬ顔ぶれに心臓が大きく鼓動を打つ。
会議室に入ってすぐ、知らない男性に顔面を殴られた。
「僕」は訳が分からなくて殴られていることしか出来なかったが、その後すぐに、理由はわかった。男性は「僕」に対して怒りを込めた拳を何度も振るってきた。左手の薬指に嵌められた指輪が、こめかみにめり込む。ああ、きっとバレたんだ。殺気に満ちた表情。
この人は、ユリさんの旦那さんだと確信した。
「生出君に無理矢理、そういう事を強要されて……」
「え――?」
そこからだ、崩れていったのは。
ユリさんが泣き崩れると、その場に居た誰かから、この人のお腹に新しい命が居ると聞かされた。「僕」が無理矢理犯して、出来てしまったと。
事実とは違う。合意の上だった。どう訴えても、誰も聞く耳を持っちゃくれない。
年頃の男の子が下品に盛ったのだと、そう言われるだけ。
ユリさんは責任を取ると言ったのに、全ての責任を「尽斗」に押しつけて、あくまで被害者だと訴えた。
裏切られた気持ちでいっぱいだ。どうしたら、本当のことをわかってもらえるだろう。
ユリさんを1番好きなのは自分だと思い知らせるために、多目的室で自分の血と、血に見立てた塗料を使ってユリさんの名前と、愛の言葉を散々書き散らかした。
赤は、愛の色。伝わるはずだ。まともに話せないなら、こうして想いを伝えなければ。
それはユリさんの目に留まった。こんなに愛してるんだから、当たり前だ。
思い出して欲しい。ここで2人、好きだと言い合ったあの日のことを。
しかしそれもすぐに問題になって、歪んだ愛情と言われてしまう。
教師であり、4人の息子を育てた良き母であり、人格者である事を売りにしていたユリさんは「強姦された事は辛いことだけど、お腹の子に罪はない」と言って、お腹の子を産む事を選んだ。
周囲はユリさんを評価して、僕はクズだと罵られる。
それから学校で避けられ、校内外の友達にも嫌われ、親に勘当され、大学受験は愚か就職も出来なかった。
要がこの世に生を受けた事でユリさんは嘘を吐き、会ってくれなくなってしまった。同意の上で、たった一回交わったのに、僕は強姦したとして高校を退学させられた。
数ヶ月後、ユリさんが出産したと彼女の親族からひらがなだらけのメールが届いた。その1週間後、彼女の親族らは両親に1人で住めと言われ、女川町の古い平家を訪ねてきた。
生後間もない赤ん坊と必要最低限の費用、用具を手渡し、それから一切連絡を取らないと言ってそそくさと帰っていく。
突然引き渡された、名前もない、生まれたての赤ん坊。
親に連絡しても「自己責任だ」と電話をガチャ切りされ、助けを求める術がなくなった。
この子を育てなきゃいけないんだ。真っ暗なところにほっぽり出されたようで、酷く絶望した。
けれど、腕の中でおとなしく眠る赤ん坊を見ると「可愛い」と口から漏れて、自分の子なんだなぁと微笑ましくもなった。
「僕」はその晩、寝ずに赤ん坊の名前を考えた。
必ず誰かに必要とされる子に、真っ直ぐで、お人好しで、弱い人を助けられる人になるような名前。
候補の名前をいくつか口に出して行く。なんだかしっくりこない。優柔不断な性格が災いしてるんだ。でも名前は大事。
自分の名前由来は、母親が信じている宗教の偉い人に決めてもらったとかで、意味はない。それがたまらなく嫌で、もし自分に子供ができたらしっかり名前をつけてあげると決めていた。
だからこそ悩む。いくつか抱いて、最後の候補。出してみる。
「か、要」
すると寝転がる赤ん坊は「あっ」と高い声を出して、返事をしたようだった。顔を近づけて、「尽斗」を認識すると目が線になる様に笑ったように見えた。
「要」
もう一度呼んでみた。赤ん坊はやはり、返事のような声を出す。
「要、そうだ、君は要。要だよ」
赤ん坊を抱き抱えてそう呼ぶと、何度も返事をする。小さい手が僕の服を一生懸命掴んでいる。
僕は名前が決まったと嬉しくなって、ユリさんに電話を掛けた。しかし、番号が変わっていて繋がらない。
ツーツー、という無機質な音だけ聞こえる。
やっぱり、僕は捨てられたのだと自覚した。惚れた女に想いを寄せ、それを知ったあの人は秘密だと散々愛の言葉を囁いてくれたのに、いざとなれば掌を返して突き放した。
まだ未成年の僕が、生まれたばかりの赤ん坊を1人で育てるなんて考えた事がない。
親に勘当はされたけれど、毎月数万円の生活費だけは振り込んでくれた。
なんとか朝の時間だけでもと、近くの加工場に頭を下げて働き、在宅ワークの仕事を見つけてお金を稼ぎながら要を育てる日々。
裏切られて、突然父親になって、誰も助けてくれない。未熟な僕には重すぎる。壊れていきそうな心。
その壊れていきそうな「僕」を守るために生まれたのが「私」だ。
きっと「私」はユリさんに裏切られた時からいた。「私」は「僕」のために辛いと思った時出てきてくれる。
夜通し要が泣いた日は、変わりばんこに世話をした。体は一つなのに、もう1人いる。不思議だけど、いくらか気持ちが楽になった。
疲れ切った「僕」が「要が居なければユリさんとは一緒にいれたのかな」なんて酷いこと聞いてみると「私」が代わりに出て行ってその気持ちを落ち着かせてくれる。
手の掛かる時期もあらかた過ぎ、要に自我が芽生える。要は我儘なんか一つも言わない、大人しい子だ。笑うことも少ない。後ろをちょろちょろ付いてきたり、在宅ワークの仕事をしてると無言で抱っこを要求してくる。無言の甘えん坊さん。
要との生活をするその傍、小説家になろうともしていた。
太宰治のように小説家になればユリさんがまた見てくれるかもしれないと、いろんな小説サイトや出版社に原稿を送る日々。
時々投稿した短編小説が雑誌の隅っこに乗ったこともあり、才能はあるのかもしれないと自信を持てた。
彼を参考にするため、関連する物はとことん集めた。「僕」は太宰より、「檀一雄」って人の方が好きだ。しかしこれは彼女に認めてもらうための行動。
部屋のいろんなところにコンビニに行って、コピーした写真を貼りまくってモチベーションにした。
もちろん、要を連れて。
「コンビニ屋さん行くの?」
「そうだよ。お菓子一個だけなら買ってあげる」
「お菓子要らない。イカ」
コンビニに連れていくたびにイカを強請られる。これが結構厄介だった。
どうしてイカが好きか聞くと「父さんの匂いがする」とデカイ声で言うから、何度か脂汗をかいたこともある。
加工場でイカの処理をしているのが原因だったが、あんまりいい意味じゃない気がして口を塞いだもんだ。
皮肉にも太宰治に触れると、ユリさんの事を思い出だす。
辛い時間もあった。夜になると涙が溢れて「私」に変わってもらっていた。彼女を思い出して泣くのは「私」の担当と勝手に決めた。
裏切られても嫌いになる事はなくて、会えないからこそ好きが積もりつもっていって。
いつか、会ってくれる時が来たら親子3人で太宰治の話なんかしたいなあと思って、要に英才教育を施したりした。
「またオジサン?」
「オジサンじゃないの。ちゃんと教えたでしょ」
「ださいおさむ」
「だ、ださくないの!」
最初は上手くいかなかったが、年を重ねるごとに要の日課として太宰の本を読む事が習慣になっていく。なんて素直な子なんだ。物覚えがいいし、「オジサン」と言って、笑うようになった。
要が居るから平気だった。毎日成長して、頼ってくれて、必要としてくれる要が大好きだった。
ずっと守っていこう。この子には僕しか居ないのだから、沢山愛して、いつかお嫁に行くまで大事にしてあげようと毎日心に誓っていた。
「僕」はそう思っていたよ。
「私」はどうだったろうか。
――。――――。
「私」は要を見る時が辛い事があった。
成長するにつれて、ユリさんに似てくるような気がして恐ろしかった。
「僕」が要に愛を注ぐ度に、1番楽しいこの年齢を棒に振っているようで悲しかった。要が宿らなければ、ユリさんは「尽斗」の隣に居てくれたのだと。家族を捨てて、こちらを選んでくれたに違いないと考えている。
「死ぬ気で恋愛をしてみないか」と言ったんだから、絶対そうだ。
「私」は「僕」に子守を頼まれる時、要の首に手をかけそうになった事が、何度かある。あの人に心を奪われる前へ戻って、やり直せたらいいのに、と。
でも「僕」がそれを望まないのなら、「私」にはそれが出来なかった。
ユリさんのことは大好きだ。
それは変わらない。だから太宰さんが好き。ユリさんが大好きだった太宰さんが好き。
あの人の事は好きだけれど、要には似てほしくない。裏切ったあの人のようになって欲しくはない。
もしこの子が似てしまったら、「尽斗」のような純粋な子を傷つけてしまうとも思った。そんなことをしてしまったと聞いたら、幻滅してしまう。犯罪者の子をもった気分になる。
そうしたらきっと、殺したくなる程憎むだろうと。
だから「尽斗」似だと、必死に言って聞かせた。
要には無意識に人を救えるような、誰も傷つけない子になって欲しい。
幸いにも、今「私たち」の家で眠っている要はユリさんとは全く似ていない。殺す必要も、どこかに攫われる必要もなかった。
「私」は何を勘違いしていたんだ。
成長した要は勝手にユリさんに似ているに違いないと決め込んだ。これからは要と生きればいい。太宰さんには謝ろう。頭を深く下げて、許されなくても謝ろう。
「私」は「尽斗」が幸せになれるなら、それでよかったんだ。
太宰さんを愛すれば、彼の真似事をするユリさんと一緒にいれると錯覚したかっただけ。今考えると、馬鹿馬鹿しい。頭のおかしな事だった。
人攫いのいう通りだ。
大事だと思っている。要を遺して死んだことを後悔している。だからここに連れてきた。
要を抱き締めた時からあった胸の騒めきは「安心」なのだと、やっとわかった。久々の感情で戸惑っていただけ。
思い出に更けていると戸の隙間から白い光が差し込んで、掃除の行き届かない部屋の埃がキラキラ光って見える。
もう朝が来た。
辛くても、悲しくても、明日を望んでも、そうでなくても朝は来る。
時間が解決してくれることもあるのに、「私たち」は負の感情に耐えられない。自分が死を選んだ時の事を思い出そうとすると吐き気がする。1番嫌な思い出は、こんな温かい気持ちの朝に似つかわしくない。
もう大丈夫だ。 「僕ら」はこの昭和でしっかり要と向き合える。
要が何故自殺を志願してここに来たのか、きちんと聞いてあげる役目がある。伝えなければいけない事もある。それからも逃げない。きちんと話す。
この時代では、平成の時よりも大切にしてあげよう。
もう何も憎まなくていい。「尽斗」だと明かそう。突然だと驚くだろうから、少し気づかせてあげる。
だから最初に、朝ご飯を作ってあげる。大したものはないけれど、下手な料理を要に振る舞おう。
「おはようございます、檀さん」
すると襖から、まだ目の開ききらない要が起きてくる。
髪の毛の寝癖、尻をボリボリ掻きながら起きてくるから、これは女の子として見られないなと、おかしくなった。
「おはよう、要。朝ご飯何がいい?」
台所に立った「僕」を見た要が泣きそうな顔をしていた。
自分でもよくわかる。今、1番優しい顔をしている事に。本当はずっと続けたかった生活。
「父さんみたいに笑うんですね」
「そう思ってくれていいよ」
ここはあの平家と同じ、生出家だ。
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