86恥目 とある2人の共同戦線

「ったく、大将も無茶言うぜ。オレのことなんだと思ってんのかねぇ」


 浅草っていうのは昔も“今”も賑やかで、人の波に攫われて、目的地へまっすぐ行く事は困難だ。

 田舎者だからだろと言われちゃぁ、そうですねと言って一笑するしかない。まあそうさ。東北南部から、決して安くはない交通費を叩いて何日もかけてようやっと辿り着いたのだ。


 用事があって田舎から東京に出てきたので、用事が済めばすぐ帰るつもりでいる。さっさと“大将”の言いつけだけ聞いて帰ろう。東京は息ひとつするのも、煙たくって苦しいねぇ。


 人に押されながら歩いていると大通りに出た。環境なんて気にしちゃぁいない時代。

 自動車が排泄物のように吐き出した、真っ黒なガスが体内に入り込む。


 体は異変を察知して、ゴホゴホと過剰に咳き込ませた。

持病の喘息が余計に反応するから、痰も出る。

 一度咳込むと、止まらない。

 これがこの病気の厄介な所だ。だから都会は、東京は苦手なんだ。


 立ち止まる事も出来ず、人並みに流されて行く。近くの人間の冷ややかな目が痛い。

 それよりも肺が苦しい。どこかで休みたい。そうすればこの咳は落ち着く。


 体は海に漂う藻屑みたいにフワフワと流される。前を見て歩いていないなかったので、向こう側から来た女性にぶつかってしまった。


「すいまっ、ケヒンッ、せん」

「こっち」


 女性にしては低い声だ。もしかすると、高い着物に唾を吹っかけられたと怒ったのかもしれない。手首を強く掴まれて路地に引きづり込まれた。


 浅草は女も怖えのかい。引きづり込まれた映画街の高いのぼりがオレを囲み、絶対に逃すまいと見張っているようだ。

 ぐいぐい引っ張られて、すぐ近くの人気の無いところに連れて行かれる。

 きっとクリーニング代とか言って、馬鹿高い金額を請求されるんだ。オレ、そんな金持ってねえよ。長い年月大将のためにと思って貯めた金、全部渡す羽目になんのかなぁ。


 女が手を離すと、今度はその場にしゃがむように言われ、背中をさすってきた。

 

「さあ、座るんだわよ」

「は、はあ、げほっ」


 咳が治まらない。一度出ると、ブレーキがかからない。気管の切れそうな高い音。


 女はオレの咳が落ち着くまで、ずっと隣にいてくれた。

どこの誰とも知らない優しい人だと思ったが、後から身包みを剥がされるかもしれないと思うと背中が寒くなる。


「ありがとう、ございます……」

「いいえ。大変そうね。歩き慣れてないんでしょ、ココ」

「そっすね……自分東京人じゃないんで……ヒェッ」

「それだけじゃあ、ないんじゃない?」


 オレの前髪を右手で全て掬い上げ、顔をジッと見つめる。オレの目を真っ直ぐ見て、深刻な顔付きをする。

 この女は整った顔をしている。美しい黒髪は、色気のある肌着のように官能的だ。男をその気にさせようすれば容易いはずだ。

 しかし、この女にそんな気は微塵も感じられなかった。この視線の中に、確かなぶれない軸があるのだ。


「アンタ、危ないよ」

「えっと、何がっすか?」


 女は歯をギシリと噛み締めた。危機感の無いオレに苛立ったようだ。


「アンタ、顔が良いから攫われそう。知ってる? 綺麗な顔の男を刈りとる、黒い噂」

「黒い噂? 東京のすか? 知らないっすね」

「そう」

「あの、なんすか? 攫われるって」


 さっき東京の地面を踏んだばかりだというのに、噂など知るわけもなかった。

 顔がいいのは自覚がある。だから攫われるっていうのは、ストーカー的な物に狙われるってことかね?

 

 皆目見当もつかない噂の詳細は簡単に教えちゃくれなかった。

 美女は用心深く辺りを見回して、上も下も見て、聞き耳を立てている奴がいないかさえ確認した。


「アタシは愛子、アンタは?」と、女は名乗った。

「ま、学です」と返す。


 愛子と名乗る女は、噂について軽々しく口外しないことと、それを悪用して悪事を働かないことを条件に話すと言いつけてきた。

 内容もわからないが、決してそうすることはないだろうと思い、二つ返事で誓った。


「最近ね、顔のいい男を攫って無理やり男娼にする人攫いが増えてんだわよ。条件に見合う男を上野の洋館に連れて行けば高く売れるって話ね」

「男娼って、なんすか……?」


 男娼という言葉は耳にしたことがない。すると愛子が「男性の娼婦」と言い切る。漸く理解できた。

 が、理解できたのが嫌だった。要するに、オレの顔がいいから男娼候補として攫われちまうって話だ。そりゃあ困る。

 大将のところに帰らなきゃ行けねぇのに、おちおち捕まって、戻れないとなれば心配かけるに違いない。

 困る! と云うと、そりゃそうだわね! と食い気味に怒られた。おっかねぇ。


「しかもアンタ、そこに連れて行かれたら一生戻ってこれないんだわよ? 本当、あくまで噂だけどね。男娼として使いもんにならなくなったら、奴隷にされて、人体実験に使われたり、殺されるって話。イヤでしょ、そんなの」

「あたりめぇですよ! オレがその対象になりかねねってことだべ!? なんか、狙われないようにする方法とかねえのすか!? 用事が終われば帰るつもりすけど、その期間中狙われんのはおっかねくて!」


 恐れおののいて、早口になった。大将とばっかり話しているから、できるだけ標準語で話していたのに、焦って方言がぼろんと口から出てきた。愛子は、北の人かと聞いてきた。とりあえず、頷いてみる。


「アンタ、東京に何しにきたのさ。出稼ぎって感じじゃあ、ないんだわね」

「友達の願いを叶えに来たんですよ。石川啄木っていう、小説家が遺したノートの内容が知りたくて」

「ふうん?」


 もう少し細かく説明すると、対象は石川啄木という詩人の大ファンだ。


 これも噂でしかなかったが、生前、彼は浅草に通っていたらしく、そこでの記録を綴ったノートがあるらしい。

 それを知った大将は、きっと素晴らしい短歌やし詩が書き留められていると言って、オレに見て来いと命令してきたのだった。内容さえ知れたら帰るつもり。そんなノート、本当にあるのか定かでねえのに、無茶振りだ。

 

 目的を話すと、愛子は何かを思いついたような不敵な笑みを向ける。


「学、アタシと取引しよう。アンタはその石川啄木とかって人のノートが欲しいんだわね? 浅草のツテを使って、探すのを協力してあげるわ」

「はあ、助かりますけど。取引って、オレは何を?」


 オレはの目的は、正直大したことがない。確かでないものを求めるのだから、諦めたらそれでいい。しかし、愛子はどうだろう。もっと重大な目的に違いない。


「アタシね、守りたい子が居るの。その子が、男娼にならないように手伝って欲しいんだわよ。噂なら、年末の競りの期間まで耐えれば、一年は凌げる。奴隷になるのは、その競なんだわ」

「い、いやいや! オレだって危ねぇのに!」

「アタシとずっといれば大丈夫。1人でいるから危ないんだわ。どうせ宿の当てもないんでよう? お金だってあまりなさそうだし」

「まあ、そうすけど」


 金銭的にいい話だとは思うが、気が重い。

 どこかの誰かを男娼にしないための手助けなんぞ、きっと向いてない。好きな男が条件に当てはまってるんだろう。


「ちなみに、なんでその人を守りたいんすか。女性と四六時中いるのは、気が引けるんすが……」


 面倒があっては行けないと、念のため理由を聞いてみた。すると彼女は、突然悲しそうな顔をする。言葉を詰まらせて、必死に辞書で当てはまる単語を探しているみたいだ。


「アタシを同じ人間として受け入れてくれたから……だわ」


 ようやく答えてくれたものの、それはざっくりしていて、中身はなかった。それなのずっしり重たい。それ以上聞くのは、もう少し時間が必要だろう。


「なんか、すいません。そいで、どうするんすか? 何したらいいんすか?」

「その子を1人にさせないの。絶対に誰かが狙ってる。遠くからでいい、見守って、決して1人にさせないのよ」


 これまたざっくりしてんなあと思いつつ、愛子の誘いに乗ることにした。


 期間は一ヶ月。

 その期間内でオレはノートを、愛子は洋館に守りたい子を売られないために阻止することを目的に。


 契約の印に愛子と握手を交わした。出会ったばかりなのに信用するのは無防備だと怒る人もいるだろう。持病のこともあるし、身の安全を考えれば誘いに乗るのが懸命だと思った。


 オレは、愛子を信じようと思う。脳裏に“人は疑っちゃいけない”と言っていた子を思い出した。5歳年の離れた、妹のことだ。妹に何もしてやれなかったから、弟のような大将を可愛がる。


 大将のためなら、多少の「困難」も付き物だと覚悟した。

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