82恥目 ジキルとハイド


 新宿で男に会ってから、今日で10日目くらいだろうか。特に知らせはない。

 学校は太宰さんの弟を探っている噂が広まって、都合が悪くなったので休学した。


 その時間を使って「私」は、引越したばかりの部屋を片付けていた。前の部屋は本来住んでいた故人の家族にバレたら面倒だから引っ越した。荷物は殆ど置いてきたが、どうしても必要なものだけ拝借。その中の重たい荷物を持った途端、体制を崩して、舌を噛んだ。


 思った以上に強く噛んでしまった。口内に生血の味が広がる。不快な鉄か微かに香った。普段よりも強く、そして衝撃もあったため悶絶。痛みのショックでパニックになり、体が痙攣を起こし、手足が電気を流されているように跳ねる。


 ――意識が徐々に薄れ始めた。

 

 一方「僕」の方が衝撃で目が覚めて、それを黙って見ている。「私」の意識が完全に無くなるのを待って、息を潜めていた。そして「私」の意識が無くなるのを確認すると、「僕」は息をし始める。


「久々に僕だぁ……」


 掌を見つめて、指を動かし、感覚を確かめてみる。 手首に指を当てれば、脈もある。顎を触ると、「僕」がチャームポイントにしたい顎髭が無い。「私」は髭を嫌うんだよな。入れ替わると、決まって髭を剃られてしまう。剃るなって言ったのに。


 ツルツルの顎を不機嫌に撫で回す。悔しいけど、触ってると気持ちいい。


 独りぼっちの部屋に体は1つ、意識は2つ。生きている時もだったけど、本当にめんどくさくて嫌だ。趣味も性格も全く違くて分かり合えないんだもの。

 まさか死んでからも悩まされるなんて、と、頭をボリボリ掻くと、グリングリンの抜け毛が安物件の薄汚い畳の上に、ポロポロと落ちる。誰に叱られる訳じゃないのに、慌ててそれを手でかき集めて屑籠へポイ。


 頭の中が、ゆらゆら揺れている。油断していたら「私」に体を乗っ取られてしまいそうだ。「僕」の意識がきちんと体に馴染むまで、壁に背中をつけて体の力を抜いてボーっと天井を見つめた。


 この世に来てから何があったか考えてみる。「僕ら」は、何故か太宰治の友達の「檀一雄」で存在していて、帝大の経済学部に所属している。

 自分で志望したわけじゃない。入学手続きもした覚えはない。けれどちゃんと学生証があって、教科書だってある。

そもそも、大学に行ったとして経済学部なんか志望しない。経済なんかわからない。経済って、なん、です、か!って叫びたい。


 でも、そのおかげで太宰さんに出会えた。写真や資料とはイメージが違くて、明るい人だった。大ファンだから本当に嬉しかったなぁ。「僕」はちょびっとしか会ってないけど、心配してくれた時は、手汗がビッシャビシャで握手なんかとても、お願い出来なかった。次あったら、もう一度お願いしてみようか。


 あとは、それから――。


「要……」


 生出要という、僕の娘と同じ名前の子がいる。


 それも太宰さんの弟って言うからびっくりだ。でも苗字が違うのに弟って、なんだろうか。訳ありの兄弟とかかな。家庭の事情っていろいろあるもんね。 

 だからきっと、名前が同じだけの他人に違いない。要は女の子だ。弟というのはおかしい。弟なら男の子だもんねぇ。


「はぁ」


 要の顔を思い出すと胸が苦しくなった。ぎゅうって、小さい子に力一杯抱き締められるような強さ。懐かしい、強さ。

僕はまだ9歳の要を残して死んだ事を悔やんでいる。違う、10歳だった。そうかぁ、命日は要の誕生日だった。自分の娘の誕生日に死んだんだ。何やってんだろう。

 最低な父親だよ。お祝いしてあげなきゃいけない日なのに自分の都合を選んで、その日に死ぬなんて。


 確かに死にたいと思ったけど。本当の死ぬ気は「僕」にはなかったんだ。死にたい思った理由は沢山あるけど、いざ死んだら後悔しかなくて、もう生き返りたい。失敗した。

 もしも――もしも「僕ら」が死ぬ事を選択せずに、生きていたら。要は"本当"の「父さん」を受け入れてくれたろうか。


 「僕ら」はまだ、父親としての役目を果たし切っていない。彼女が生きるこれからの人生で、必ずぶつかるであろう壁の話もしていないんだ。"重大な"ことを、成長したらどう話そうか、悩んでいたっけ。


 ――要の体は、大丈夫かな。

 本当にあの子が要なら、僕は沢山伝えなきゃいけない事があるんだ。だからまずは確かめなければいけない。

 ここの空間も、時間も、時代はわからないけれど、もし本当に要だったらと思うと、ダラけている場合じゃない。それから他に何か大事な事を言わなきゃいけないんだけど、なんだっけかなぁ。


 きっと太宰さんを迎えに学校に来るはずだから、行けば会えるかもしれない。きっちり壁にかけらた時計を見ると、とっくに昼は過ぎている。


「はわわ、学校、学校行かないと」


 餡子玉を口に一つ放り込み、バタバタと必要な物を小脇に抱えて外へ繰り出した。すると、視界がぼんやり白がかっている。そう言えば「僕」は視力が悪い。慌ただしく家に戻り、玄関の段差につまづきながら、手探りで黒い丸メガネを取る。


 縁は太いけど、アーティスティックでおしゃれな眼鏡だ。いかにも小説家って感じが気に入ってる。これを耳にかければ、全てがはっきり見えると思い込んでいた。


「って、レンズ汚いよぉ! なんなんだアイツぅ!」


 「僕」がしばらくかけていなかったからか、レンズは埃がついて汚くなっていた。「私」は眼鏡も嫌いだ。曇るし、重いし、嫌なんだって。

 着物の袖で拭き取ると余計汚れが伸びてしまう。汚れたままよりマシだろう。残りは時間がないからと諦めて、また外に出ては帝大へ向かう。


 下駄を履いた通学路。前に履物をスポーンと飛ばしては、片足で跳ねて取りに行く。遊んでいるわけじゃないよ。飛んでっちゃうんだ。下駄は履きづらいし、歩きづらい。周りの人はそんなことないのに。「僕」って、なんでこんなに鈍臭いんだろう。


 帝大付近で学生が多いこの道は、いろんなお店がある。定食屋さんに本屋さん、それからこれは文房具屋さんかな。

いや、雑貨屋さんにも見える。家具とか、台所周りの物とか、文房具とか、お菓子とか。コンビニ、みたいだ。多分ここはコンビニ屋さん。要は小さい時、どんなお店も「なんとか屋さん」と言っていたっけ。普通にコンビニって言うと、ムスッとした顔で訂正されて。また、懐かしい思い出だなぁ。


 すると何処からか突然、ベン、ベン、と、三味線の音がする。耳を澄まして、音が聞こえるコンビニ屋さんの前で立ち止まってみる。


「三味線だ……」


 そういえば、通販で山のように購入した津軽三味線のCDを要と聞いたっけ。あまり感情を出さない要が唯一、弾く真似をしながら熱心に聞いていたのがそれだったな。


 じっと店を見つめながら聴き入っていると、中からおかっぱの少年が顔を出して微笑んだ。


「何かご用事ですか?」


 突然の問いかけに僕は戸惑う。だって僕は人見知りが激しい、所謂地味系男子。人との会話なんて「私」に任せっきりなんだもん!


「あっ、あっ、あの、す、素敵な、お、音、だなあって……ごめんなさい!」


 あまりにも爽やかな笑顔を向けられちゃあ、隅っこでだんまりしてる地味はその眩しさに消えてしまうよ! 消えてしまわないように荷物で顔を隠しながら走り出す。


「うあっ」


 昭和の塗装されないボコボコ道。下駄は「僕」の言う事を聞かないから、僕は顔からズッコケる。


 本当、やんなっちゃうよぉ。


 ――。


 学校に行くのに、こんなに命がけだなんて。あれから学校に着くまでの間、何度転んだかわからない。

おかげであっちこっち傷だらけ。


 しかも学校に着いたら講義は終わっている。

学校を出ていく学生達とは逆に、今更登校。

秋風が音を立てて吹く。まるで僕を笑っているみたいだ。


「おや? 檀さん?」


 不意に声を掛けられる。 

 振り向くと、また眩しい笑顔! この人は確か、事務員の宇賀神さん。手にはジョウロがあるから、花壇に咲く秋桜に水やりをしているようだ。爽やかだなぁ。


「あ、あ、あ、あ、こ、こんば、こんに、ばんちは」


 舌をカミカミ、体はガタガタ、足もガクガク。

 まともに声も出ない程緊張して震えている。東京の皆さん! 「アレ? 地面揺れた?」って感じたらそれは僕ですぅ! 震源地、ココですぅ!


「お帰りですか?」

「い、いっ、いっま、来て、ソノッ、えっと……」

「ん?」


 焦げ茶色の長い髪の毛、男性なのに女の人みたいな優しいほわほわしたオーラと綺麗な顔。

 その顔が、僕の顔を覗き込んで「なんですか?」と首をかしげる。上級スキル持ちの超コミュ力高め美男子なんて聞いてないよぉ!


「んえっとぉッ」


 僕はその真逆だから、吃るしオドオド。それだけで"恥ずかしい"のに、おまけに腹が鳴った。卑しいよう、恥ずかしいよう。

 宇賀神さんはその音を聞いて優しく笑うんだ。


「ふふ、お腹が空いたんですね。よかったらお話しませんか? カステラ、ありますよ」


 ――カステラ。頭の中に過ぎる、甘い黄色の四角いフワフワ。餡子玉しか食べていない体が欲している、甘いフワフワを!


「食べ、たい、です……」


 宇賀神さんのご好意に甘えて、カステラをご馳走になりに事務室にお邪魔することになった。

 初めて入る事務室は綺麗に整頓されている。その中でも一際目立つ赤い花。なんという花だろう。そしてその隣には、歳を取った男性の写真。

 どちらも手垢一つない机に並べられいた。宇賀神さんは綺麗好きでもあるのか。


 来客用のソファに腰掛けるように言われたので、そっと尻を置く。


 宇賀神さんはカステラが赤い皿に2切、それから来賓用と見られる湯飲みにお茶が注ぐ。

 なんて素敵な組み合わせだろう。涎が垂れる。それが「僕」の目の前に出されると、綺麗な机よりも、カステラが輝いて見えた。


 「いただきます」と小さく言うと、カステラを切り、口に運ぶ。

 口に広がる卵の優しさ。ジャリジャリと歯に当たるザラメが血液中を流れていくみたいだ。


「お口に合いましたか?」

「すごく美味ひぃでふ」


 口一杯にカステラを詰め込むと、もう一切れくれた。なんていい人なんだろう、宇賀神さん。神様かな。


「実は、檀さんにお聞きしたい事があるんですけどね」

「ハッヒッ」


 何を聞かれるのか、ドキリとした。裏返った声はカステラを喉に詰まらせ、咳き込ませる。

 お茶を一気に飲むと火傷するし、そのせいで口から吹き出すし、僕は迷惑ばかりかけた。

 すみませんと何度も頭を下げてると、宇賀神さんは笑ってくれた。


「それで、あまくせさんって知ってますか?」

「あまくせさん?」


 誰の事だろう。甘くて臭い人? それとも珍しい苗字の人? 質問をされる検討も付かず、首を傾げた。


「し、知らないんですか……?」

「はい。誰、ですか……?」


 宇賀神さんは僕の顔見て絶句しているようだ。


「あまくせさんについて調べ回ったことも知らない、と?」

「そんな、事してませんよぉ……人と、話すの、苦手ですから……」


 何の事だろう。「僕」はずっと家に居たと思うけど。見に覚えのないことばかりだ。もしかして「私」が何かしたのかな。

 「僕」は人事に宇賀神さんの話を聞いていたが、あまりに必死な顔でいろいろ質問してくる。


「じゃあ、修治さんの弟さんのことは?」


 太宰さんの弟? それなら「僕」も知っている?


「要です! 要!」

「要さんを、知っているんですね?」

「はい!」


 僕は嬉しくなって、今日1番の大声を出した。要と同じ名前の子。だから知ってる。それが照れ臭くなり、最後の一口分のカステラを口に入れて、噛んだ。


 ――ガチン。舌が裂けるような痛みが走る。


「痛っ」


 ――舌を噛んだ。


 まずい。「私」が来る! 噛んだ舌から滲み出る血が多くなればなる程、そのリスクは上がる。このままでは「僕」と真逆の「私」になってしまう!


 宇賀神さんが「僕」を見て心配してくれているのに、返事が返せないのは、声を出したら「入れ替わってしまう」から。

 「僕」は「私」を見られたくなくて、口を覆いながら事務室を飛び出した。


 ごめんなさい、宇賀神さん。別人だとしても、要の事を知っているなら、尚更見せられません。そしてカステラのご恩は忘れません。


 誰にも知られたくないことがある。それを"恥"だと思っている事がある。


 きっと、これが最後のように思える。

 「僕」はきっと、もう外には出してもらえないようだ。「僕」は鈍臭くて、ノロマで、役に立たない。「私」ばかり頼ってきたから、きっと怒っている。


 別人でいい。もう一度だけ、会いたかった会って、「父さん」と呼んで欲しかった。ただ、それだけ、それだけでいいから。


「要ぇ」


 「僕」は最後に「要」の名前を呟いた。すると「僕」を追い出すように「私」は、胃や口の中に入った物全てを花壇に嘔吐する。


 汚物を吐き出した「私」は口元を腕で拭い、耳にかかった眼鏡を、帝大の側のアスファルトの道に叩きつけて踏み潰した。


「また付け込まれたいのか……!?」


 人の優しいとは弱さだ。弱いから、他者に優しくしなければ生きていけない。


 優しさとは、裏切りを兼ねている。

裏切られる方はいつも弱く、優しいと言われる馬鹿ばかり。


 「私」はソレを辞めた。あの人に突き放されたあの日から、辞めた。


 裏切られるなら、こちらから裏切る。

 傷つけられたのなら、こちらも傷つける。

 逃げられたのなら、逃げぬように縛ればいい。

 「尽斗」を幸せにしないモノは、全て消してしまえばいい。


 愛したい人が居たら、自由を奪い、中傷し、不安にさせた方がいいのだから。


 好きならめちゃくちゃにしてもいい。全部、ユリさんが教えてくれた事。


――「私」は、生出尽斗のもう一つの人格。


 「尽斗」は解離性同一性障害なのだ。二重人格、と言えばわかるだろう。「私」はジキル博士とハイド氏でいう、「ハイド」側の人間だ。

 「僕」である「尽斗」が、自らを守るために無意識に作り出した裏面。

 「尽斗」が傷つかないよう、彼が助けを求めた時出るのが「私」であった。


 さて、どうした事だろう。


 「私」も「僕」も自分こそが本当の「尽斗」になりたくて競い始めている。しかし、勝敗のなど簡単に決まる。人間は誰しも、自分が傷つかない方を選びたくなってしまうものだ。


 「尽斗」は無意識に「私」を選んで行動する。要の存在を意識すると、辛い思い出が多すぎるから死にたくなる。「尽斗」はそれをわかっていない。


 要より先に死んだ事、教えるべき事を教えなかった事。仮にあの弟が要なら、彼女に責められる事は避けられない。怒られるのが怖い、まるで子供のようだ。


 だから舌を噛んで、「私」を呼んだんだ。無意識にね。本当はわかっているはずさ。


 他人にはいくら血を流してもらっても構わない。

「私達」が流した血という涙は、計り知れないのだから。


 愛する人を自分だけの物にするには、多少の犠牲は必要なのだ。死こそ、バッドエンドにしてハッピーエンド。


 さあ、次こそきちんと愛されよう。生前、愛されなかった分まで愛してもらおう。他人なんかどうだっていいから、「私達」は幸せになりたいのです。


 軽蔑してくれて構わないよ。こんなに自分達を哀せるのが羨ましいかい?


“ざまを見ろ、これからが「私」の人生だ――“

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