81恥目 ふざけんな!
「要、おい……要!」
「はっ」
隣で野菜を洗う文人に声をかけられ、ようやく我に帰る。目は今初めて見えたようにジワジワ見える範囲を広げた。僕は今、何をしていたんだっけ。
「はっ! じゃねェよ。最近変だぞ?」
「そ、そうかな、普通だよ」
「何が普通だ。あぶねェから包丁置け。代わりに飯やってくんねェか?」
ボーっとしているからと文人に取り上げられてしまった。ぼうっとしていたことを謝るが、そこに心はない。だから、ガスコンロの上でピーピー鳴いている鍋の音も気づかなかった。
とにかくご飯の支度をしてくれと言われたから、やらなきゃいけない。ご飯が炊けたらお釜からお櫃に入れ替える。ご飯が冷めないように、「おひつふご」と呼ばれる、藁で編んだお櫃用のカバーも用意しなくちゃ。必要なものを頭の中で思い浮かべ、まずは棚からお櫃を取った。
それをそのまま居間に運び、ちゃぶ台の上に置いた。空っぽの木の筒は軽い音を立てる。
「カタンって……おい、中身は?」
言われて気がつく、お櫃の中にご飯を移し替えていないことを。何をやっているんだ。
「え? 中身? あぁ、忘れてた。ご飯、ご飯……ご飯ね、ご飯……」
ご飯とは口だけで、思考は別な事を考えている。いけないと思って台所に戻っても、お櫃だけを置いて自分だけが居間に帰ってくる。
ご飯を入れ替えて、茶碗にご飯を盛ろうと空の茶碗を持つが、右手には杓文字を持った気になって箸を握っている。
このどうしようもない役立たずに耐え兼ねたしゅーさんが、台所に行って中途半端に入れ替えたご飯を、お釜からお櫃に移し替えに行くくらいだ。
僕の最近おかしいぞ案件は他にもある。お風呂はワイシャツを着たまま入ろうとしたり、歯磨きも何度も繰り返したり。どれも皆に指摘されて、それから気がつくのだ。
文人達の言う通り、僕の様子はおかしい。檀さんを見たあの日から、僕の心は落ち着かなかった。あんなに父さんにそっくりな顔が近くに居る。
それも、しゅーさんの友達で会える距離にいるんだ。
僕は、僕の心が、父さんを求めてる。
他人でもいいから、全てがそっくりなあの顔に会いたい。懐かしい顔についた2つの目で、僕を見てほしい。
檀さんに頭を撫でて、抱き締めて、名前を呼んでほしい。イカの匂いなんてしなくていいから、あの天然パーマを指に絡めて遊びたい。
下手な料理を僕に作って欲しい。
瓶に入った牛乳を飲んで白い髭を作り、ゲラゲラ笑いたい。
大人になった僕をそのまま愛して欲しい。
今までの僕の人生の話を聞いて欲しい。
褒めて、認めて、助けられなかったことを許してほしい。
それを檀さんに求めたら迷惑だと、わかっていても、どうか受け入れてほしい。偽りでいいから。一度だけ、父さんのフリをして欲しい。
檀さんに「父さんそっくりです!」なんて言ったら、驚かれるだろうし嫌な顔されるだろうか。優しい人なら、少し演技とかをして、父さんを演じてくれないかな。僕ってすごい身勝手な奴だな。
こんなに様子がおかしい僕でも、檀さんを探す時だけは一生懸命に走れた。仕事が終わったらすぐに帝大に行って、グルグルと学校の周りを、しゅーさんを初めて探した時のように駆け回った。
それにしゅーさんは気づいている。初めは何も言わずに僕をスルーし、別々に帰っていた。
しかし、ある日の大禍時。彼は駆け回る僕の前に立ちはだかったのは兄。顔はぼんやり、モザイクがかって見える気がする。
「何?」
父さんが近くにいるかもしれないのに、どうして邪魔するのか。いつもの嫌がらせか、とため息混じりに聞いた。僕の顔は不機嫌で、反抗期の少年のような顔付きだったんだろう。彼も僕の鏡になるように全く同じようにしたからだ。
「お探しの檀は居ないぞ。もうずっと学校に来てないよ」
「え……」
道理で、どれだけ探しても居ないわけだ。檀さんは居ないと言われて、何故か肩の荷が下りた気がした。もう探さなくていいんだ、気のせいだったんだ。力が抜けると、ずっと詰まっていた喉が唾液を飲み込む感覚を思い出したようだ。
ボンヤリとしていたしゅーさんの顔もハッキリ見えた。
何故、学校に来ていないかまではしゅーさんもわからないらしく、知ることは出来なかった。こんなに探していたのに、学校に来ない理由まで知りたいとは考えなかった。理由は何となく察しがついた。
僕が探していたから、それが迷惑で居なくなったんだと思う。しゅーさんにも同じような事をしたことがあるし、きっと僕のせいだ。
仲の良いしゅーさんが居ないと言ったら居ない。それが分かれば他は知りたくない。
「まぁた疲れた顔しやがって」
「全然、疲れてないけど」
頬を指先で軽く突かれる。
「あのな、死んだ奴の影を追うのは疲れるんだよ」
「そうなの?」
「そうなの」
しゅーさんは僕より最初に家路を歩き始めた。
「待ってよ」
秋の深まった東京に光る月は落ちて来そうな程丸くて大きい。
どこか寂しげな秋の日々に父さんの姿を追うのは、季節のせいだろうか。そうだ。この夜の寂しさを埋めて欲しいと願っただけだ。しゅーさんの言う通り、死んだ人の事を思うのは辛くて苦しい。優しい思い出が多い程、その辛さは重さを増して心にキツくのしかかるのだ。
僕は父さんの事になると、とても弱くなる。先を歩いていくしゅーさんにさえ、いやだ、待って置いていかないでと、込み上げてくる悲しみに胸焼けして、助けを求めてしまいそうになる。
もう檀さんは探さない。そう決めても、父さんの面影は探してしまうだろう。あの顔を見てしまえば、愛されたくなる。 苦しい。喉が、胸が熱くなる。
しゅーさんが着ているマントを摘んで、子供のように、ぬぐい切れない寂しさを埋めようとした。
なんと肌触りの良い、この秋風から体を守ってくれる温かいマント。体温が布に染み付いて、まるで布団のように安心する。
――って、ん? 待て、このマント、家にあったか? 一度はいいと思ったが、見慣れないマントに違和感を感じ、僕は「待て」と服を引っ張った。
「こんなマント持ってなかっただろ」
「えっ? あっ、ああ、まあ、あの、もらった、もらったんだよ! そうだ! お汁粉でも食って帰るか! 寒いし、疲れたら、甘味! なっ!」
「ふざけんな!」
冷や汗ダラダラ、目が泳ぐ。その目の泳ぎは何泳ぎですか? 平泳ぎですか、クロールですか? いいえ、その慌て様から見てバタフライですね。
なにやともあれこのマント、相当のお値打ちみたいです。
全く、僕が何かに目を逸らすとすぐお金を使うんだから。うかうかよそ見もしてらんないよ。
*
――。―――。
「本当にいいんですか? 一緒に帰ればいいのに」
「津島といた方が安全だ。多分何もしてこないでしょうけど、後をつけている可能性もありますから」
「なるほど……まさか、本当に檀さんが聞き回っていたとは。なんのためでしょうね?」
「さあ」
建物と建物の間から顔を少し出し、要と津島が帝大前で出会ったのを見届ける。この何週間かの間、拓実さんと怪しい男について調べまくった。
要を探っていたのは、やはり「檀一雄」。探っている理由を知ることは出来なかったが、収穫はいくつかあった。
まずは、津島に異常な程執着していること。
これが1番多く聞いた話だ。まるで恋人のように寄り添っていたと聞いた。太宰さんと呼び、誰にも取られまいとして独占する。俺もこの目で確認しているが、どこでもそうしているということがわかる。
そして2つ目。津島以外の人間にはシャイな性格、または蔑む様な態度を取ること。その証拠に、俺には後者である蔑んだ態度を取って来ていた。そして、拓実さんにはシャイな性格でオドオド話しかける。
この差はなんなのか? それはわからない。一瞬浮かんだのが「身長」だったのがムカつく。絶対違うと思いたい。
――最後に、要のお父さんに顔が似ているということ。これは要の見間違い、または他人の空似に違いないだろう。が、要の様子が最近おかしいので念のため。
話を聞き重ねていく事に、檀という男はまるで複数人いるかのように人柄が違った。
今は登校はしておらず、行方がわからない。津島以外に交流の深い友人もいない。家族は遠方に住んでいるらしく、会って話を聞くことは無理だ。もちろん連絡を取るのは不可能。拓実さんに無理を言って学生名簿から住所を盗み見し、日中家に行ってみたが既に間抜けの殻。
――何か、怪しい。
何故、突然消えた? そこが1番怪しい。何か悪さをする前の下準備ではないか。そう予感してならない。だから要が何かに巻き込まれないように、絶対に嫌われたくないであろう津島と一緒にいた方がいい。それを影から見つつ、檀が下手な行動をしないか見張っているのだ。
「こういうのあんまり好きじゃないんですけど、中也さんが要さんのためにここまでやるとは。妄想が膨らみますよ」
拓実さんは呑気に空想にふけり、顔をニヤつかせてメモを取っていた。またあの過激な妄想小説を。現実はキス止まりなのに、拓実さんのノートの中の俺達は獣のように盛っている。
今この状況でどんなネタが思いついたのか教えてほしい。どこにそんな要素があったんだよ。現状は真逆で、甘ったるい想像なんかできっこない。
「俺、結構怒ってるんですよね」
「要さんに?」
「まさか」
そう、俺は怒っている。もちろん要ではない、檀に。要の父親に似ているってだけで、この数日間、要の頭の中を支配してこんなに夢中にさせた。本当の要の父親ではないのに、こんなに想わせて腹が立つ。
それから、なんだ。コソコソコソコソ。金まで使って要の事を探りやがって――ったく、ふざけんな!
もし要の魅力に気づいてしまった檀が、津島から要に乗り換えたりなんかしたらどうなる? 顔だけ印象的なクソ野郎が、ただで済むと思うなよ!
心の中だけで留めておこうと思ったが、つい口に出てしまっていた。おまけに建物の壁を殴っている。左手がジンと痛んだ。
「それ嫉妬って言うんですよー……」
そう言われてもいい。要は絶対に渡さない。渡したくないからこそ、今は津島と並んで歩いていく要を黙って見送れる。
胸ポケットにある半分の花。
誓ったんだ、必ず助けると。全ては要の為。君を守るためだから。
*
夜の新宿の街を歩く「私」は、ある男と落ち合った。
面識もなく、信用もない。ただ、「私」の目的の為には必要不可欠である事は確かだった。人目につかぬ路地へ入り、曲がり、曲がり、突き当たりに男はいた。
「いくら貰える?」
「私」は尋ねた。
「さあ、見てからじゃないとねえ」
暗がりで顔の見えない男の声は、わざと聞き取りにくくされたように汚い声だった。一見、身なりは整っているが、その衣類には所々ほつれがある。どうやら買い換える余裕はないようだ。
「必ず攫えるのか? 殺す以外の方法で頼むよ」
「攫ってみて、体がダメなら朝鮮や中国にやるさ。何、殺しはしない。少しでも金になるなら使わせてもらうさね」
「そうかい」
言葉を交わせる回数は少なかったが、目的は伝えてあるので余計な事は要らない。「私」は男に紙を一枚渡してその場を立ち去った。1つ仕事を終えると興奮で笑いが止まらなかった。歩きながら高揚感を抑えるのは無理だ。口元を押さえても笑いは指の間から漏れていく。
太宰さん、もうすぐ2人になれますよ。今度こそ自分の物にしてみせる。それを邪魔をするアバズレは、いくら弟と言えども、要りませんよね。
貴方にお金がないなら、尚更不要な物は売ってしまいましょう。
笑いが落ち着くと何もなかったかのように新宿の街へ溶け込み、姿を晦ませる。なんていい街だろう。通行人ひとりひとりに金を配って歩きたい気分だ。
――なんてことするんだ! ふざけんな! ああ、要、逃げて、逃げて! 「父さん」じゃない「父さん」に殺されてしまうよ!
頭の中で騒ぐ「僕」を舌を噛んで黙らせる。ほうら、圧を掛ければ何も言ってこなくなった。生前も「私」が主導権を握れていたら「僕」は苦しまずに済んだかもしれないのに。
「余計な事言うなよ」
言い聞かせるためにもう一回、ガチンと舌を噛んだ。「私」の決意は堅いのだ。全ては「尽斗」の為の行い。それを邪魔するのなら、いくら「尽斗」だって許さないよ。
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