83恥目 昭和にて、死を待つ人


 翌る日、朝から帝大は騒ついていた。その騒がしさは門に入る前から分かる程だった。ここは不味いと、校舎から怯えて出て来る生徒が見られる。

 校内でただならぬ何かが起きているのは確かだ。


「どうしたんだろう」

「さあ」


 いつも通り自転車の荷台にしゅーさんを乗せて、学校前に居た僕達も気になって仕方がない。

 

 通りすがりの学生を捕まえて事情を聞く。しかし、関わりたくないと手を払われてしまうので何もわからず仕舞いだ。


「今日は学校無理じゃない? 帰る?」

「よし、帰ろう。今すぐ帰ろう」


 学校に行かなくていい事に喜んでいる。早く自転車を動かせとサドルをしつこく叩くのだから。

 中の状況がわからないのなら、しゅーさんを校内へ見送るのは不安だ。


 巨大な毒蛇でも出たのか、それとも死体でも転がってたか。このくらいの騒ぎになるのではとても授業どころではないだろう。


 せっかく来たのにもったいない気もするが、僕は自転車のペダルに足をかけて踏ん張り、漕ぎ出した。自転車をゆっくり漕ぐとバランスが取りづらい。しかし、どうしても気になるので、学生達が何か噂をしていないか耳を澄ましながら来た道を戻る。

 騒ぎについて話す声は聞こえるが、これといった情報はない。


 執念深く熱心に探ると、やっと気になる話が聞こえてくるじゃないか。


「気持ち悪かったな」

「仏文科の教室だろ? どんなだった」

「血で名前が書いてあってさ、太宰って。誰だろう」


 僕らの胸はざわついた。「太宰」とは、自転車の荷台に乗るこの男の事だ。

 もちろん本人も噂話は聞いていたいようで、面倒はゴメンだと地面を必死に蹴っている。


 僕は詳しい話をする学生2人の横にぴったりとついて、左足で自転車を支え、右足を勢いよく壁を突いた。


「詳しく」


 学生は驚いて、暴力を振るわれると思ったのか、知っている事は話すと言って、怯えながら全て吐いた。殴ったりしないっつうの。


 しゅーさんが通う仏文科の教室に、血で名前の書かれた大量の紙が散らばっていたと。黒板にも所狭しと同じ名前が書き込まれていたようだ。


 さらに、花壇用の鉄製のジョウロの中に血を溜めた形跡があり、独特の匂いが部屋いっぱいに充満しているらしい。いちばん気味が悪いのが、教室には爪を剥がして、それをハサミで切り、それでまた名前を象っていたという。


 どうやらその狂気的な行いに使われた名前が「太宰治」だったらしい。

 まだ知名度の低いしゅーさんのペンネームを知っている人なんて、たかが知れてる。


 恐怖に慄くしゅーさんの呼吸が乱れ始めた。まずいなも、僕と彼を結ぶタスキ紐をキツく縛る。「心当たりはあるか」なんて聞いても、今はとっても答えられやしないだろう。


 学生らに礼を言うと、自転車の向きを帝大に変え、勢いをつけてペダルを踏んだ。


 帝大へ、一直線。

 タスキ紐を少し緩め、体を動かせる程に余裕を作り、彼を抱き抱えた。

 「お家騒動」と言われたあの日以来、仏文科の教室へは行っていないが、場所はなんとなく覚えている。


 教室がある階に着いた。そのなんとも不気味な部屋を怖いもの見たさや、面白がって遠くから見つめる学生達が廊下に溢れている。


「あまくせさん! 久々に見たなぁ。噂、聞いたの?」

「うん。ちょっとどいて」


 顔見知りの学生に強めに一言言い放つ。僕はゆっくり、彼を抱き抱えた手を決して離さないように力を込めた。


 開いたドアを潜り、目にしたのは「燃えるような赤」だった。

 「太宰治」と書かれた紙がそこらじゅうに咲いている。まるで「ヒガンバナ」が咲いているようだった。

 

 鼻をつく血の匂い。壁に這う、血の手形。ガラスに伸びる「太宰治」の文字。血飛沫。


 赤が多い尽くすこの部屋は、愛されない悲しみを表しているように見えた。赤でしか、自分を表現出来ない。狂気で人を惹きつけたい。


 ――思う人は、あなた一人。そう言いたいような部屋に仕上がっていた。


 僕はこの部屋によく似た部屋を知っている。


 だから、不安になる。僕があなたを思う時は、どうして、悲しい思い出しか出て来ないのだろう。



 貧血だ。体の液体という液体全てが無くなっていくように感じた。血を出し過ぎたのだ。


 頭がクラクラ、息苦しい、氷が食べたい。氷でなくてもいいから、何か硬いものを齧りたい。爪を噛む悪い癖はもうできない。だって爪は、愛のために使った。爪を剥がした指先の感覚が鈍くなって、力を入れたら、やっと痛いと感じた。

 氷の代わりに何かないかと、手の届く範囲にあるもの探る。何もなかった。


 帰宅してから、「私」は服も着替えずに、乱れた布団の上にだらりと倒れ込んでいた。

 丑三つ時に学校へ忍び込み、愛の部屋を作ったのだ。これで太宰さんは「私達」を見てくれるに違いない。

 生前、同じことをやって失敗したが、彼の名前を売ることが出来たから感謝されるかもしれない。


 自分でも不気味な笑いが口から漏れた。誰が犯人かわからないから「私」を頼って、此処の住所を探り、訪ねて来てくれるかもしれないと思った。こっそりと太宰さんの教科書に、此処の所在地を挟めて置いたのだ。


 部屋でジョウロを使ってあげたから、コソコソ「私」を調べる宇賀神とやらは、私物があったことを疑われて警察行きだろうに。


 ――すると、その心中を見抜いているかのようなわざとらしい溜め息が頭上で聞こえた。


「2度目はありませんからね。死んだらどうするんですか?」


 「私」を弔うような線香の匂い。それに混じる不快な香水の匂い。


 ベージュの燕尾服の男は「私」を見て腹を立てているようだ。

 こいつは自殺志願者である若者の前に現れる、地獄の住人。自殺直後に時を止めて、もう一度生きるチャンスをくれる「救済人」だ。この現実にはありえない行動をするには理由があるらしく、「私」が彼にとって不都合なことを起こしてしまうと現れるのだ。


 そして、毎回似たような小言を言っては叱りつけてくる。


「何度も言いますが、自殺者が多くって地獄はパンパン! 神様プンプン! 知ってますか? 閻魔様って雇われなんですよ。クライアントのご機嫌取らないと、私の地位も危いって言いますか……つまり、自殺志願者を減らさないと閻魔様クビになっちゃうんですね! 本当は禁忌なんですけど、自殺する直後に考え直す時間を与えてあげてる訳ですよ! 平成人の若い君達が、少しでも神様のお気持ちを無碍にしないよう、生きる事を選択するよう」


 クドイ。煩い。頭に響く。

 何遍聞いても、頭の悪いファンタジー脳の発言にしか聞こえない。それを信じ切っている、金を貪るだけの悪徳宗教団体の信者の発言にも聞こえる。どちらでもいい。ともかく相変わらず馬鹿なことばかり言う、と言いたのだ。毎度毎度、何を言ってるんだ。


 ――神様、閻魔様、クライアント、自殺志願者、禁忌、頭の悪い厨二病か。理解し難い話と、いい中年の男に似あわない高い声。


 「私」がぐったりしているのをわかっていても、彼は話すのをやめない。こういうところが嫌いなんだ。


「それなのにあなたったら、昭和に飛ばして早々、“檀一雄“の事を殺しちゃうんですもん。檀一雄になりたい! なんて思っていたのは嘘だったんですかねぇ?」

「そんな事、思ったことも、ない」


 貧血に苦しむ「私」は声を絞り出して、男に返した。


「覚えていないだけでしょ。ああ、もしかして“別なあなた“ですかぁ? 全く、私もなぁんで多重人格なんて面倒を背負った人なんか最初にしたんでしょう! まあ、その分クライアントには楽しんでいただいているようなので? いいんですけど? これがもう趣味だし? ……で、どうですか、新生檀一雄の気分は」

「どうって、私は……」

「見たところ、“私“と言っているあなたが“檀一雄“を殺したんですから、それそうの償いは行って頂きますよ。何度もお話している通りです。わかっていますね?」

「あぁ、わかったさ」


 話に付き合うのは面倒だったので、適当に返事をした。すると男は、怪しんだ様子で、幽霊のように壁の中へ薄くなって消えていった。


 くどくど、クドクド。聞き流しているから曖昧だが、何度だって聞いている。


 「私達」は自殺直後、あの男に会った。もう一度チャンスをあげるから、本当に死ぬかどうか考えなさい、と。

 渡された花の花言葉が自らに足りないもの。移行先で出会った偉人が、それを教えてくれる人。あの男はそう言っていた。


 「尽斗」は太宰治と仲の良い「檀一雄」を羨ましがっていた。彼の本を読み漁り、親友のこと書き綴った本を読み漁っては、太宰治と同じ時代に生きてみたい、檀さんみたいに料理上手になりたいと憧れていた。


 だから、本来であれば「尽斗」の対象は「檀一雄」。渡された「ヒガンバナ」の花言葉の意味を理解し、共に生きれば、平成に戻れるはずだった。

 しかし昭和に来た時の人格は「私」。彼がどんな男かも忘れてしまった。

 恐らく彼を殺した時の記憶はあの親父に消されているのだろう。意識が戻った時には「私達」が「檀一雄」ということになっていたのだから。

 記憶にあるのは「尽斗」のために檀一雄を殺し、「彼になれば全て上手くいく」と、その存在自体をプレゼントしてあげた事。


 しかし対象が死ねば、もう元には戻れない。「生出尽斗」は平成で死んだ。


 あまりにもあっさりルールを破った「私」は「尽斗」に人格が2つある事をいいことに、特例としてもう一つの花「ムギワラギク」を差し出してこう言ったのだ。


「あなたの“後悔“を呼びましょう。“後悔“もまた、自殺志願者です。あの人の場合は、救われるのが難しいかもしれません。次、失敗すれば、尽斗さんの輪廻転生は金輪際なくなります。本来であれば、自殺も殺人も最も重い罪なんですからね」


 「尽斗」にとっての後悔とは、きっと要のこと。ユリさんに愛されない人生を呪った「私」が自殺を決意し、実行すると「僕」がそれを望んでいなかったの激しく叱責してきたのだ。


 「僕」は、要を遺して死ぬなんてありえない。

 ユリさんに愛されなくても、「僕ら」は要を愛してあげなければいけない。あの子はまだ幼いのだから「僕ら」よりも独りで生きていけない年頃なのに、と。


 「僕」いや――「尽斗」の心はとっくに父親になっていた。


 それを「私」は許せなかった。酷く傷ついて来たこの心に限界を感じ、もう2度と「尽斗」が貰えない愛で傷つかないように守るため、死を選んだのだから。


 苦渋の決断だったのだ。「私」は「尽斗」が傷つくことに耐えられなかった。

 今は要なんてどうでもいい。要が居たから、ユリさんは愛してくれなかったのだから。要が居たから、「尽斗」は次に進めなかった。


 だから、娘は要らない。


 要を助けるために生きろなんて言われても、「私」は知らない。どうせ関われば過去を思い出し、苦しい思いをするだけ。昭和で死を待つことしか出来ない「尽斗」には、今度こそ幸せになって欲しいのだ。


 「僕」のヒガンバナと「私」のムギワラギク。


 要が何を思って自殺を志願しているのか考えたくもない。花言葉を理解して要のために生きるなど「私」は絶対に許さない。


 「私」は「尽斗」のために生きる。そう決めたのだから。

 その為にも必ず太宰さんが欲しい。ユリさんが愛した偉人が欲しい。愛した人に愛がもらえないのなら、キッカケになった彼女の愛する人である太宰さんを自分達だけのものにしたらいい。


 愛の部屋を作ったから、ペンネームは売り込めた。ただ、津島修治は孤立するだろう。

 あれはよく効くはずだ。周囲は名を書かれた人を気味悪がって、近寄らなくなる。

 

 そこに「私」が居てあげれば、優しさにしがみついて「私」だけを頼るようになる。愛する人の唯一になれるのはこの上ない幸せだ。


 体調が戻ったら、次の行動に移ろう。出来るだけ早い方が良い。次はどうしようかな。やっぱり弟が邪魔だ。


 貧血に良い大豆を生のまま、口いっぱいに含んでから、水を飲み、眠りに落ちた。

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