75恥目 決して、諦めない!
「兄、さん……?」
夢だと思った。助けて欲しいと願ったから、絶対にそうしてはくれなさそうな人の声が、無理だと現実を突きつけて来るように、空耳で聞こえたんだと思った。
「お前を連れて帰らないと弟と嫁が泣く。特に弟が面倒だ! お前のせいでゲッソリ痩せてんだからな!」
俺の目の前に、兄さんが小刻みに震えて立っている。
いつもと雰囲気が違うが、絶対に兄さんだ。この人はこんな表情が出来る人なのか。
震えおののいているのに、自分がやらねばならない事なのだと他に手段がないと決心したような言い方だ。
キツく手首に縛られた縄は、血の流れを止めちまいそうなくらい痛む。どうやら夢じゃァ無いみたいだ。
――俺、守られてんだ。こんな状況でも守ってくれる人がいたんだ。
要に借金を背負わせた時点で、もう帰る場所はないと思っていたのに。
俺はどうしてあの時、素直にならなかったんだろう。
勤め先の息子に嫉妬してクビになった事。自分でも「またやった」と、あの時の薫のように悔やんだ。
人を傷つけてでしか自分を守れない。
友達も家族も、みんな、俺の横暴な態度が原因で、誰も居なくなっていった。ずっと、人を見下す事で自分の地位を築けていたつもりでいたんだ。
俺の言う事を聞くやつはいい奴で、望むのなら一緒に居てやってもいい。そう思ってた。
そんなことが都合よく続くわけもなく、ネットだけが自分の居場所になっていった。
匿名で自分の感情を吐き出そうとしても、かまってちゃんに見られるのが嫌で何も書き込めない。
初めて誰かを乏しめるような書き込みをしたら、顔の知らない世界のどこかの人間が、こぞって俺の言葉に賛同してくれた。
人に飢えていた俺は、それを認められたと勘違いしたんだ。俺の考えは間違っていないと、言ってくれた。
確信した。俺はバカな人間に「私刑」を下すことが出来る強者。
それからは、認めてもらうためのターゲット探しに勤しむ日々を送った。どこかにノロマな馬鹿はいないか、叩きがいのあるサンドバックはないか――。
誹謗中傷をすることでしか自分を表せなくなっていたんだ。散々、人のあることやないことをバラ撒いた俺は、その報いとして、ついに自分の正体をネット上で暴かれてしまった。
どこから漏れたかもわからない、俺の個人情報。鳴り止まない着信、メール、SNSの通知、身に覚えのない宅配便。
全て怖かった。自分が顔の知らない誰かにやっていたことなのに。
また1人になる。今度こそ、誰も認めてくれなくなる。 怪我をするより、死ぬより、独りになるのが堪らなく怖くて、怖くて、怖くて。
どうせ俺は性格が災いして、なんも出来やしねぇんだよ。失敗だらけの人生を諦めて、生まれ変わろう。
死んだ方がマシだって思ったから、積丹ブルーが輝くあの岬から飛び降りた。
澄んだ青が、きっと俺のきったねぇ部分を洗い流してくれるって。
海面が近付いた時、時間が止まって、知らない親父に花を渡された。
「君が見ていた、ネット記事の白瀬矗。あなた、スゲェなァと思いましたねぇ。さてさて、そんな文人さんには赤のペチュニアを。花言葉は“決して諦めない“。文人クンにこの意味がわかるかな?」
「意味なんか、わかるかよ!」
死んで、それで全部終わると思っていたのに。
叫んだ時には、全てが再スタートさせれているかのように昭和にいた。
今度はいい人になって、やり直そう。決めたはずだったのに、うまくいかないとすぐ投げ出す。人を見下す。懲りない奴だ。
だからジジィの名前で金使って、風俗の女に金を払って寂しさを埋めてもらう。そうしたらすごい額になっていて。返さなきゃ行けないとは思ってたけど、怖くなって逃げた。それをジジィのせいにして。最低だ。
死のうとしたのに死にたくない。
寂しいだけなのに誰も隣にいてくれない。
そうさせたのは自分だ。わかってるよ。
食い逃げして、要と中也に捕まって、その後一緒に暮らして。拓実や吉次、薫、司、兄さん、姉さん、知り合いも出来た。仕事も上手くいっていたのに。
兄さんと姉さん夫婦。薫と吉次が結婚して、要と中也が好き同士。
なんか、それを見てたらまた1人になる気がして焦ったんだ。恋人居ない事に焦ったのか。違う、また1人になると思ったんだよ。
だから、難癖つけて捻くれて今に至る。自業自得だよ、マジでさ。元旦に薫が乗り込んで来た時、ぜってえコイツみたくはならねェ! って思ってたはずなのに。
何度やり直しても変わんねェよ、俺。やっぱり無理なんだ。はァ、だっせェ。
――なのに、兄さんはこんなクズのために一生懸命だ。
「コイツの借金の返済は別にいい。どうせ要は受け取りやしない。あいつが求めてんのは、糸魚川と飯食って、寝て、それだけのことだ。ハツコも同じ。ここで死なれたら、中原に殴られるだろうし、俺も困る訳でね」
「白瀬中尉はそうもいかない」
兄さんとジジィの部下が睨み合うのを、見上げている。
殺されてもおかしくないのにな。兄さん、足ガクガクじゃんか。
「俺、金返すよ! ちゃんと働く! なあ、ジジィ……いや、矗さん、約束するからさ!」
俺も必死に訴えた。心を入れ替える。今度こそは死ぬ気で生きる。一体、何回目の「絶対」なんだろう。
「信じられる訳ないだろう。借金を残し、全ての責任を放棄し、名古屋から逃げていった奴のことなんか。そうでしょう、白瀬中尉!」
「……」
ジジィは俯いたままだ。ああ、やっぱ、無理か。
出会った頃は若かった矗さんも、いつの間にか年取ったよなぁ。
このシワだらけのジジィに全部擦りつけたんだ。そりゃあ黙るし、信用もされないよ。つくづく救えないクズだよ、俺は。
死んだ方が人のためになるのかもなァ。矗さんを支持する人は、みんな俺のことが嫌いなんだ。この命を失えば、俺という存在は昭和からも平成からも消えるし、誰かを傷つけたことも、なかったことになる。そのほうが人のためだ。
俺がいなくなって、辛い人間はいない。悲しいが、それが現実だ。
「じゃあ、僕が保証人になるよ! 毎月いくら払えばいい! いくら払えば、糸魚川を殺さないでくれる!?」
「要!」
壇上に上がってくる、見慣れない緑色の着物の女と、水色セーターのメガネの男。今、男はしっかりと「要」と呼んだ。
もしかして、コイツら……。
「また次から次へと……」
「僕は生出要! 糸魚川の友達だ! 金で友達が死ぬくらいなら、僕がその金を返す! なあ、白瀬さん! いくらだ!」
真っ直ぐな目をしたお前は、本当にお人好しだよ。まだ食い逃げの時の金も返してないのに。
中也も中也だ。俺を要らないというくせに、ちゃっかり縄を切ってくれている。
「勘違いするなよ、これは」
「要のためだろ」
解かれた縄は体に痕を残す。これの痕はずっと残ってくれたらいい。いつかまた、道を踏み外しそうになった時、これを見れば道を正せる筈だから。
兄さんの前へ出て、矗さんの部下から血を求めるように光る短刀を奪い取る。
そして壇上の演台に立つ矗さんに退いてもらい、左手を広げてその上に置く。
「何をする気だ……?」
短刀の柄を右手でしっかり握る。手汗をかいてるな、滑るなよ。これは信頼を得るための、本当に最後のチャンスなんだ!
鼻息が荒いのは怖いからだ。どんな「痛み」だって、怖く無いものは無い。
さあ、覚悟はできたか。崖から飛び込むよりマシだよなぁ! さあ、やるぞ!
「うあああああ!」
左の手の甲を目掛けて、一直線。掌に貫通させるまでを、何度も刺した。メッタ刺しにしてやれば、血を飲み続ける刃は満足げに貫通している。
すっげェ、痛ェ!
でも、矗さんや要、今まで傷つけて来た人達の痛みに比べたら――もう1回、いや、何回でもやらなきゃ、誠意が伝わらない!
もう一度刃を抜いて、もっと傷が深くなるように振りかぶった。もっと痛みを、許されるような痛みを求めて。
「やめろ!」
俺の手に刺さる寸前で、矗さんの声が会場に響き渡った。覇気を感じ、体はピタリと動きを止めた。
「矗さん……?」
「あと2年あれば返し終わる……その期間分でいい。それだけで、いい」
シワにシワを重ねて、矗さんは泣いていた。弱った足腰に負担がかかるはずなのに、走り寄って来てくれた。そうして、白くカサついて薄くなった手で、血が流れる俺の左手を握りしめた。
血に涙が混じると、そこの部分の赤が薄くなって、許されていくようだ。
「お前の話を聞かなかった私にも責任がある。あんなに、一緒に居たのに何も聞かなかった。寂しかった、そうか、そうだよな」
「なんでジジィが謝るんだよ……俺がクズなだけだったろ。北極の事だって――」
全部俺が悪い。それなのにジジィは全てを言わせてくれない。
「あの時は、ああするしか無かった! 私も考えていた事だ! 健康なお前が歩き回ったとて、知識がないんじゃ、死ぬのも同然! 犬を殺して食うしかなかった、それをお前だけのせいにして、お前に全てを押し付けた! だからお前は嫌われたんだ……それを、見て見ぬ振りして――」
これはジジィの気遣いなのだろうか。嘘をついてくれてるのだろうか。
だとしたら、俺は恵まれている。数日風呂に入っていない俺を抱きしめて、泣くジジィがとても小さく感じた。
「それは……ずっと、俺のせいにすりゃ、よかったじゃん,北極のことは責められても、おかしくねぇことしたんだから」
「北極と千島の区別がつかない素人が、責められていいわけがない!」
「お、おい。俺が行ったのは、北極じゃねェのか?」
ジジィは涙を流しながら、違うと笑った。俺の“恥ずかしい”勘違いに笑ってくれたんだ。
俺はもっとちゃんと人の話を聞いて、話をしなきゃいけなかった。どうせこうだと、推測だけで決めつけて、人を解った気になっていた。
どうしたら、俺は変われるのか。今日初めて、答えが解ったんだ。
殺されてもおかしくない俺を、救ってくれる友達がいる。
どうしようもない俺のことを、見てくれている人がいる。
なんだ、結構恵まれてんじゃん。
俺は、俺の人生をこれからは――決して、諦めない!
*
「ちゃんっと謝ってこいよ!」
「お前の金は、お前が返せ!」
「わーってるよ。ほんじゃ、行って、きます」
あれから数日。ジジィは名古屋に帰っていった。
毎月、返済金と手紙のやり取りをすることを条件に、部下や有志には殺されずに済んだ。
これからはちゃんと働かないといけない。だからあの小料理屋に土下座しに行こうと思う。
また雇ってくれるとは思えないが、雇って貰えるまで諦めないつもりだ。
「文人くん!」
「あ、姉さん」
家を出てすぐに姉さんが駆け寄って来た。この人にも随分心配をかけて、迷惑もかけた。
それでも、俺の帰りを待っていてくれていたというんだから、惚れざる得ない。
人妻だから、こういう時の好きは言わない方がいい。陽炎のように不確かな感情だし、また迷惑をかけるだろうからな。
「これ、忘れ物」
「ああ」
手には“赤いペチュニア“の花。それを受け取ると、そっと白い麻布肩掛けカバンの中に閉まった。
「今晩は鮭雑炊作ってね! 待ってるから!」
「あァ、わかった」
姉さんの笑顔に思わず釣られて笑う。いつも俺の帰りを待っててくれて、唯一「文人」と呼ぶこの人は可愛いと思った。
「人の嫁に手を出すなよー」
隣を通りながら大学へ行く兄さんに釘を打たれると、人妻だということを思い出した。あぶね、また道踏み外すとこだったわ。
姉さんに挨拶を済ませ、兄さんの隣に駆け寄った。
「兄さん、この間はありがとう。すげェかっこよかった」
「もうあんなのゴメンだ。2度とやるか」
「悪かったよ。ごめんなさい」
深々と頭を下げると、兄さんは立ち止まってまじまじと俺を見る。
「綺麗な文人は違和感があるな。汚れてる方がお前らしいや」
バカにしたように笑うとまた再び歩き出した。今「文人」って呼んでくれた、よな?
もう誰も傷つけない。ことはできないかも知れないが、今度は誰かに手を差し伸べられる人になろう。要のようにお人好しには慣れないかもしれないが。
少しずつでいい。今までが“恥ずかしすぎ“たんだ。俺は、俺がやれる事からやっていこう。
「兄さんも似たようなもんだろ!」
「一緒にすんな」
「おかえり」を言ってくれる人がいる。その場所に居るために。
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