60恥目 なりたい自分になるために

「薫さん!」

 

 護りたいその人の名前を、何度も何度も叫んだ。

 花街の鮮やかな光は、薫さんを探すのに、眩しいから余計だった。彼女の事を光なしで探す事も出来ると本気で思うからだ。


 普段は花街と言うだけあって賑やかなこの街全体が、何かに怯えている。何かに怯えて逃げている。夢を売るのとは程遠い、言葉無くとも恐ろしいとわかる叫び声。

 万人が怯える事態の核に、薫さんがいる。彼女はもっと怖い思いをしている筈なんだ。


「薫さん……!」


 僕が助けなきゃ。薫さんを助けられるのは僕だけだから、きっと、誰が相手でも向かって行かないといけないんだ。


 体を張る覚悟は出来ている。大丈夫、きっと少し怪我をするだけだ。ヤクザなんて言っても、人間なんだから人を殺したりなんか、簡単にしない筈です。


 要さんみたいに前を見ていれば、絶対に上手くいく。


 自分でも痛感する程の無責任な自信と、薫さんを助けたいという絶対の意思。それでも暗示をかける。

 要さんみたいに、要さんの真似をすればきっと大丈夫――だと。


 これは彼女の英雄になれるチャンスなんだ。絶対に失敗しない!


「薫さん!」


 興奮と期待、そして不安が入り混じり高ぶった感情が一段と声を張り上げる。


「吉次! 待て!」


 息を切らす中也さん腕を掴まれた。後ろに体が倒れそうになるので、強制的に立ち止まるしかなくなる。この数秒にものすごい苛立ちを感じた。


 きっと僕は今、年上のこの人を生意気な顔で睨んでいるだろう。


「なんですか! 時間がないんです!」

「相手が誰だかわからないのに突っ走るな! お前に何かあったら、要が責任取らなきゃいけないんだぞ!」


 またお説教だ。

 結局はこの人だって、好きな子のために走って来たんじゃないか。僕も同じことをしているだけなのに、どうして怒られなきゃいけないんだ!


「だって行かなきゃ! 何かあってからじゃ遅いんですよ!? 要さんなら、それくらいわかってくれます!」


 焦る、早く、早くと。胃がムカムカして、英雄気取りの仮初の勇気が気持ちを急かす。


「そうやって周りを見ないから、避けられてるんじゃないのか?」

「――っ!」


 なんで、こんな時に痛いとこを突いてくるんだ。

 僕に出来ることなんか、薫さんを見つけて一緒に逃げてあげることしか出来ないのに。


 でも、その先は、その先はどうするんだ?

 要さんならどうするんでしょう……悪人相手に戦う? 体を張るってそういう事?


 そういえば、修治さんを守る時の要さんっていつも傷だらけだ。時々骨も折って、入院して、足を引き摺って。それでも要さんは笑ってる。


 僕も憧れの人と同じ様に、大事な人を守る覚悟がある筈なんだ。だから中也さんの言葉なんて無視して走り出せばいい。


「大丈夫ですよ……僕は男だし、要さんが出来るなら……」


 全てを言い切る前に、胸ぐらを掴まれた。

 首が少し揺さぶられるだけで痛いと思ってしまった。違う、ワイシャツの襟が擦れて熱いと思っただけ。自分の中で思っただけなのに、この言い訳は誰に向かってのものなんだろう。


「あの女が追ってるのはヤクザだって聞いた。考え無しに突っ込んだら――」


 僕の考えは本当に甘い。どこまでも甘い。洋菓子よりも甘い。


「本当に死ぬぞ」


 中也さんの真剣な顔。ヤクザなんか、僕は言葉でしか知らない。でも、ヤクザと聞いただけで体は震えている。

 立ち止まって冷静に考えればわかることなんだ。ならず者、そう言われる様な人たちに「勇気」だけ持って立ち向ったって、安全には帰って来れない事なんか。


 死にたくない。それらしい言葉の装飾だけで彼女を救えるなら、治安隊なんていらないんです。体だけ大きくなった子供。

 彼女を助けたいのに、僕はまだ自分が可愛い。痛いのも、怖いのも無しで薫さんを助けたいなんて、都合の良い事を考えている。


 要さんみたいに出来ると、本気で思っていた。苦しい、情けない。

 なんて馬鹿馬鹿しくて、浅はかなんだ。掴まれた胸ぐらにこんなに驚いてるような僕が、助けられるわけないんだ。


「すみま、せん……」


 首元が緩くなる。ほら、すでに今、殴られないって安心した。

 立ち尽くして、提灯を力一杯握り、やり場のない僕自身への怒りを下唇にぎゅっと凝縮する。

 

 僕はなりたい自分には、なれないなんだ。



「待てオラァ!」


 汚い怒声、女1人を追いかけるのに3人のならず者。

 転んだとか、そういう自然じゃない傷を持った男に、耳の片方がない男、指のない男。


 女の子をまるで性処理するだけの道具だと思って見てる様な罵声。

 そんな人達と誰が遊びたいと思うの? 気持ち良くなりたいのは体だけじゃなくて、心もなんだよ? 薫は誰彼構わず脱ぐわけじゃないの!

 お酒くさいのはいいとして、口臭きついし、肌はガサガサそうだし、ていうか全部雑そう!


 そう思ったから断っただけなのに! 嫌だって言っただけなのに! 薫、悪くない! 悪くないもん!


 いつもみたいにやんわり断っただけなの! それだけのことが、ナイフを持って追いかけてくる事なの? 薫以外に女の子はいるし、お金を積めばなんだってしてくれる子はたくさんいるのに!


「あれだけ金を積ませて出来ねェだと! 殺してやる!」


 それはお店のお酒を飲んだお金じゃない! 薫を抱くためのお金じゃないもん、薫は知らない! お店がお金を返してくれたら事は落ち着いたかもしれないのに、お店は薫を守ってくれなかった!


 要くんと通った道を身なり構わず走り抜く。月明かりに光るナイフが、薫の心臓を狙っている。一瞬でも振り返って転んだりしたら、本当に一突きで殺されてしまいそう。


「要くん! 助けて! 薫まだ、死にたくないの!」


 自業自得。因果応報。

 薫が今まで誰かにして来たことが、自分に全部返って来てる。

 要くんは近くに居たって来てくれっこない。

 だってあんな事しちゃった。薫の事を軽蔑してるに決まってる。


 自分がされたら嫌な事はしない。小さい頃、お母さんやお父さんが教えてくれたのに、大人になったら守れないのはどうしてなの?


 答えはカンタン。自分が可愛いから。

 自分が満足出来たら、誰が傷つこうと関係ないの。でも自分は傷つきたくない、絶対心も体も痛いのは嫌だもん! 本当に“恥ずかしい人間”だと思うよ。わかってるよ。


 でもそれが本音だよ、これが永沢薫っていう人間なんだもん。


 全部謝るから、誰か助けてくれないかな。もう息が苦しいよ。胸の当たりが壊れちゃいそう。本当はまだ死にたくない、出来るなら平成に帰りたい!


 薫は幸せになりたいだけなのに、どうしてこうとしかならないの!?


「――要くん! あっ」


 走り疲れた足は電池切れしたみたいに、力が抜けて動かない。砂の道に体が叩きつけられると、砂埃が舞って視界も煙たくなる。

 3人のチンピラの嫌な目つきと、命を脅かす冷たい色をしたナイフが薫を見下ろした。


 もうダメだ、死んじゃう、死んじゃう。


 恐怖で歯と歯がぶつかってガタガタ音をたてる。力も入らない。怖くて怖くて、涎と涙が垂れる。


「死にたくないよ――ッ!」


 きっと最期の叫びだ。これはきっと断末魔ってヤツだよ。薫は恐怖に頭を侵されて死んでいくんだ。


 もう少し、我慢しながら生きるんだった。




――死にたくないよ!


 確かに最期に怯える悲痛な叫び声が聞こえた。

 そんなに遠くない、走れば間に合う距離だ。でも、僕が勝てる相手なのかな。


 いつも要さんの真似をした。アルバイトも、まっすぐ前を向くフリをすることも、人に優しくすることも、全部出来る様になったと錯覚していただけ。


 誰かのために生きるのが、かっこいい事だと憧れていただけなんだ。

 でも薫さんを可愛いと思ったのは本心だ。もっと本音を言うと、実はあの時、あの場で薫さんを好きだと言ったら、きっと素敵な人になれるとカッコつけただけなんだ。


 誰かのために生きていける人になりたい、という願いを叶えたいが為だけの、エゴだ。


「治安隊が来てる。任せよう」


 中也さんが僕の手を引いて戻ろうとする。――でも、これでいいのかな。


 僕はこのまま薫さんを救わずに、「本気の恋」だと口だけで終わるのか。

 中也さんにもあんなに生意気な口を聞いたのに。


 もし、万が一、薫さんが死んだら、僕は後悔しないのかな。


「中也さんはどうして要さんに付いて回るんですか」


 手を強く握り返し、中也さんに尋ねた。


「なんだ急に。好きだからに決まってるだろ」

「それだけ、ですか?」

「それ以外に理由があるか?」

「……やっぱり、理由なんてそんなもんですよね」


 僕は決めた。本当に決めた。今回は本当だ。理由なんか、そのくらいでいい。


「吉次!」

「止めたってダメです! 僕だってあなたと同じだ!」


 提灯は投げた。中也さんの手も振り払った。

 僕らを見ていた人たちを押しのけて、声の聞こえた方へ足を交互に出して、地面を蹴りあげたんだ。


 あとで叱られてもいい。ボロボロになってダサいって、笑われてもいい。“恥ずかしい奴”だって、後ろ指を刺されたって構わない。


 僕はなりたい自分になるんだ。


 薫さんを好きな事も本当なんだ。早まった事もたくさんあったかもしれないけど、今は彼女を助けたい。


 大怪我したっていいから、助けたいんだ!


 要さんがだってそうするんだ。憧れた、あなたのようになりたいから。声のする方へ走った。小石に足を取られそうになりながら、少しでも早く。


――。


「わかった、ご奉仕するよ! するから殺さないで!」


 薫さんの声が近くなる。恐怖に支配された声は、か細い蝋燭の火のように、今にも消えそうだ。


「やめて!」


 路地を出ると、彼女の姿を捉えた。


 僕は歯を食いしばって、男三人と薫さんの間に頭から突っ込んだ。

 一人の男の上着をつかみ、全身で腰に体重をかけて彼女に近づかないよう地面を踏ん張る。


「い、嫌がってるでしょう!」

「んだテメェ、殺されてェのか!」


 うわあ、怖い。

 糸魚川さんみたいな話し方なのに、ヤクザともなると圧が違う。

 ヒラヒラ飛んでいきそうな、薄っぺらい冗談じゃない。こんな人達が相手なら、本当に殺されてしまいそうだ。


 それも3人が相手なら、僕の心臓なんか刺したい放題だろう。


「薫さん、はや、く! 逃げて!」

「無理だよ! 怖くて走れないもん!」


 そうですよね、薫さんだって怖いですよね。

 僕も怖い。いつも手に持って野菜を切るために使う包丁にそっくりなのに、こんなに怖い。


 尻目で薫さんを見ると。せっかくのお化粧が涙と砂でドロドロ。それでも可愛いや。

 お金を積んで、少しの時間でも独り占めしたくなる気持ち、わかるなぁ。


「邪魔くせンだよ!」


 指のない男に腹を思い切り殴り飛ばされる。

 臓器を剥き出しにされて殴られたような、体を失ってしまうような痛み。勢いもあって、僕を近くの店に簡単に飛ばし、それの戸を壊す勢いだ。


「吉次くん!」


 やっと薫さんが僕の名前を呼んでくれた。今日で会うのは3回目だけど、初めてだった。


 痛くて仕方がないのに俄然、力が湧いてくる。

 中也さん、恋ってすごいです。なんでもできる気がしますよ。拳を作ってあの人たちの顔面に一発ずつ、パンチを喰らわせてあげたいです。


 でもやり返したりしない。だって僕に暴力は向いてないから。


 僕は手足を使い、腹這いで薫さんに近ずくと、彼女に治安隊の法被を着せた。


「要さん、みたいには、出来ないけど」


 そうこうしてるうちに、頭を蹴られる。すごい衝撃だ。なんと例えたらいいのかな。

 目の前が真っ白にも、真っ黒にもなった。


 地面に僕の顔をにじる男は「弱っちい」と唾を吐いて、嘲笑う。ナイフなしでも殺せると、なめくさって嘲笑うんだ。


「痛……」

「やめて! 死んだらどうするの!」

「先に手を出して来たのはコイツだろ? 威勢はいいが、口だけだな」


 口、だけ。そうさ、僕は口だけさ。

 それでも、今死んだって後悔しないと思います。薫さんに心配されて、名前を呼ばれて。幸せですもん。


 僕は持てるだけの力で足を払いのき、薫さんを包むように抱きしめて、絶対に彼女には怪我がないように僕が出来る最善を尽くした。背中は蹴られるし、後頭部も痛い。

 だけどどうせ死ぬなら、薫さんにはこの痛みが与えられませんように。


 そのくらいのカッコつけ、許してもらえますよね。


「ねえ、死んじゃうよぉ!」

「いいから! 僕が、守るって、決めたんだ!」


 僕を蹴る足を一本でも振り払おうとする細い手が外へ伸びる。すかさず手を掴んで、苦しいと言われるくらい、彼女を抱きしめた。


 とても痛いけど、何故か満たされている。薫さんを守っている事実が僕の心を満たしてく。


 耳も遠くなり始めた。鼓膜でも破れたのかな。微かに、大量の足音がガザガザと砂道に砂埃を立てながらこちらに向ってくる気配がした。


「はい終わり終わり! 治安隊だ! ヤクザにはヤクザで! さあ、やっちゃえよ!」


 ああ、よかった。要さんの声だ。かすみ目でも、その人の姿は確認出来る。

 何十人という柄の悪い男性を引き連れて、先頭を切っていた。


 男性らは、僕と薫さんを無視して、多過ぎるくらいの数で3人を追い回している。さすがにこの人数では3人は逃げ回るしかないようだ。


「ボケカスが! 逃げんな!」

「要も行くのかよ」


 要さんも金属の棒を振り回して追っていった。もちろん中也さんもついている。


 その隙に、隊長さんが僕と薫さんの体を持ち上げて救い出してくれた。人気のない路地で降ろされ、真っ直ぐ立とうとしてみたけれど、ぐらぐら世界が回っているように見える。


「あと少し遅かったら逝ってたかもな。大丈夫かい」


 体を支えられたら、やっと立てる。体のあちこちが痛くて、泣き叫んでしまそうだ。


「あ、ありがとうございます……僕より薫さんを」

「薫は転んだだけだから平気だよ!」

「そうだ吉次、お前さんの方が良くない。さっさと救護小屋に――」


 隊長さんと後2人の男性が僕を優先して連れて行こうとする。


「いえ、薫さんが先です。僕のお嫁さんです、隅から隅まで手当てしてください」

「お前が治安隊に入ったのはこれか」


 隊長さんの問いかけに僕は頷いてすぐ、急に意識が飛んだ。


「吉次くん!」


 ぐわんと回る世界に、僕の名前を金平糖のようにキラキラして甘い声で呼んでくれる薫さんがいる。


 よかった。


 痛いけど、後悔なんかしてない。薫さんに大事がないなら、僕は満足だ。

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