58恥目 宇賀神吉次、17歳

「すみません、急に呼び出しちゃって……」

「大丈夫だけど、顔色悪くない?」

「はひぃ……」


 糸魚川が食い逃げした喫茶店で、吉次と待ち合わせ。

 女給さんらは僕らを見て「また何かをしにきた」とビクビクとしながら様子を伺っている。


 今日は何もしませんから、とか言ったところで、中也さんのあの姿はおっかなくて、はいそうですなんて、忘れられるわけないか。


「吉次、なんか食べなよ」

「食欲なくって」

「胃に入れないともたないぞ」

「わかっては、いるんですけどね……」


 僕らを呼び出した吉次の顔は、まさにこの世の終わりだった。ご飯も随分食べていないようで、出された水にも口をつけず、深い溜息ばかりでかなりやつれている。


 僕はお金がないのにクリームソーダを注文した。しゅーさん貯金と名付けたヘソクリから、少しだけお金を持って来た。ちゃんと払うもん。

 さすがにガツガツ食べるのは申し訳なくて、ちびりちびりとバニラアイスを口にした。


 吉次が自分のタイミングで話したいというので待つと、バニラアイスを食べ終えた頃にようやく水を一口飲んだ。話すために、口内を潤したのだろう。


「薫さん、全然会ってくれなくて、困ってるんです。五反田中を探しても見つけられない。でも、お客さんは取ってるみたいなので、確実に居るみたいなんですけど……」


 喋るのもやっとのようで、みるみる体力を消耗してゆく。恋の病は恐ろしいのです。いつも通りに生活が出来なくなる、世界共通の永久の流行病だ。


「会ってない? どのくらい?」

「警察に釈放されたのが1月末でした。その時に身受け引き受け人として行ったのが最後です」

「あー……」


 かれこれ2週間近く会っていないと。僕らの記憶だと、薫は吉次が嫌だと言って、だいぶ突き放していた。

 警察に行き、身寄りのない薫の世話をしたのは吉次。それなのに彼女は彼を毛嫌いし、その優しさを無碍にする。気の毒としか言いようがない。


「最後に将来に向けて、婚姻届を持って迎えに行ってたんですけど、“もう薫に近づかないで“って言われて……てっきり照れ隠しだと思ってたんですよ! 僕が好きを貫けば薫さんは幸せになれるじゃないですか! だからこう! 最後に抱きしめたんですね!」

「待って!」


 僕と中也さんは情報量の多さに混乱した。ツッコミが追いつかない。

 まだ17歳の子が突っ走り過ぎ、婚姻届って何?薫じゃなくても戸惑うわ。いや、薫は同じ事を僕にして来たから平気か?


 いやいや、にしたって根っからのヤバイ女と、真面目イイ子なヤバイの組み合わせは、シンプルにヤバイだけだと思いますけど?


 その証拠に次の発言を聞いてください。


「何か間違えましたか? 僕」


 彼はだいぶ"男性"にはなりましたが、まだまだ純粋さと可愛さの残る吉次くん。

 曇りない目で首を傾げる。やつれていてもキラキラと光る黒目、うわあ眩しい!


「間違え過ぎだろ! まず婚姻届ってなんだ!」

「先生が結婚する時は必要だって。この紙があれば、夫婦として認めてもらえるみたいなんです」

「ち、が、う! 俺が聞いてるのは、突然婚姻届を出すのはどうかって聞いてるんだよ」


 そうだ、全く中也さんの言う通りだ。用紙の使い方をきいてるんじゃあないんだよ。


「本気で好きなら渡す物ではないんですか?」

「何、吉次の中では婚姻届ってラブレターかなんかなのか?」

「ラブレターとはまた別ですよ? もしかして中也さんは要さんに渡してないんですか?」

「は?」


 吉次は薄目で中也さんを見た。

 僕は婚姻届の云々は早いというか、そもそも昭和での戸籍は、いつの間にか男性で登録されている。


 好き同士で一緒に暮らして、それだけで満たされてるのに、結婚とか一切考えてなかった。

 あれ?好きな人と住んでる僕、勝ち組じゃない?


 しかし、結婚しか頭に無い吉次くんは止まりません。


「あれだけ要さんに好きだとかなんとか言っておきながら、渡してないって――もしかして本気じゃないんじゃないですか?」


 吉次の挑発的であまりにストレートな発言。ちょっと失礼っていうか、いや失礼だよ。

 吉次の中では好きイコール結婚かもしれないけど、僕らはそうじゃない。


「お前、俺に喧嘩売るために呼んだのか?」  


 ほらみろ。眉間に皺が大集合だ。


「喧嘩?僕 はどうなのか聞いただけですよ? 好き同士ならいずれ結婚という流れになりますよね? そうではない好きって、なんですか?」

「ああそうか。そうか! よーくわかった!」


 まるで小さな子供のように、疑問に思ったことは思うがままに口に出してしまう吉次。


 僕はハラハラした。何も言えない、会話に入れない。

 だってこんなん、中也さんにチクチク針をさしてるようなもんじゃないですか。

 さっきちょっとイイ感じになったばっかりなのに、また波乱の予感がする。


 中也さんは立ち上がって、乱暴に椅子をテーブルの中にしまい、羽織を手に持った。案の定、お給仕さん達は一斉に此方を見る。


「え、どこ行くんですか?」

「役所」

「だぁああ! 落ち着いて中也さん! ――僕の戸籍は男だから! 仮に婚姻届書いても受理されませんよ!」

「吉次が教えてくれたからさぁ、取ってこないと示しがつかないって事だろ?」


 顔は笑ってるけど、体から出てる怒りのオーラが半端じゃないんですけど。作り笑い怖過ぎだよ! 煽られたと思って完全に喧嘩買ってますよね! 見てください、この握り拳!血管がボコボコ浮き上がってる!


 糸魚川文人なら、椅子で殴打三昧のフルボッコにされてますよ!


「そうですよ! やっぱり婚姻届は本気の象徴です!」


 吉次が余計煽るから、ブチッとこめかみも血管が浮き出てきている。


「偏った考えだから! それ! はい、仕切り直し! ねっ! 婚姻届の話やめ!」


 僕は立ち上がった中也さんを椅子に座ってもらうように説得して、吉次にも思ったことは全部言っちゃダメだと忠告した。

 3人分のコーヒーを注文して、とりあえず、とりあえず落ち着いてもらう。


 2度とさっきみたいなことが起きないよう今度は僕が話の舵を握取った。


 用は、薫に会えないのが悩みなわけだ。薫だって、好きではない相手に婚姻届を渡されて、突然抱きつかれたら、そりゃあ会いたくもなくなる。

 薫にだって気持ちはある。これは確かな事だ。


「吉次は気が早すぎるんだよ。物事には順序があるんだから。僕もしゅーさんに初めて話を聞いてもらう時、100円を貯めたろう? なら、薫がどうしたら話してくれるか彼女の立場になって考えないと」

「薫さんの立場?」

「そう。薫も偏った考えを持ってるけど、それが自分の中で正義なんだ。でも僕の正義とは違う。だから僕と薫は恋人にはならなかった。もし吉次が薫と本気でそうなりたいなら、自分の中の正義より、薫自身のことを考えて行動するんだよ」


 僕は最もらしい事を言ってみせた。


「恋愛はきっと、自分自身だけを考えたら上手くいかない。時々相手のことを考えて行動してあげないと、好き同士でも拗れてしまうんだ。だから吉次だけが好きだと一方的に迫ってもダメ。まずは薫からの信頼を得ないとね」

「しん、らい、ですか……?」


 僕には一つ考えがあった。

 僕は大船に乗ったつもりでついて来いと吉次にぎこちないウィンクをして見せる。


「出来てないです」

「いいんだよ、そこはツッコむな」


 吉次はすぐ思った事を言うから。小っ恥ずかしくなる。気を取り直して、僕の考えを述べた。


 きっと長い時間がかかる。薫はまだ花街で働いてる。ならまずは薫じゃなくて、"華恋"を助けたらいいんだ。華恋が僕を好きになったのは、僕が彼女を助け続けたから。

助け続け、助けると約束したから好意を抱いてくれた。

 

 なら吉次もそこから始めたらいい。

 僕のやり方でやるなら、華恋だけじゃなく、他の女性も同じようにして顔を広めていくんだ。

 吉次には気の遠くなる、もどかしい日々を過ごすことになるだろう。


「それで薫さんは会ってくれるでしょうか……」


 吉次は不安を露わにした。

 好きな人に会えないのは、どうも体も心もおかしくさせる。どこも悪くないのに辛くさせる。最強の病気だ。


 だが、信頼は婚姻届や抱擁では得られない。


「愛は最高の奉仕だ! みじんも、自分の満足を思ってはいけないよ」

「要の得意分野だ、話に乗ればいい」


 またしゅーさんの言葉を借りて、如何にも自分の言葉のように話してしまった。

 中也さんもそうした方が上手く行くと頷けば、吉次は素直な子なので、 「要さん、中也さん!どうかご指導、よろしくお願いします!」と、真っ直ぐな目で頭を下げた。


 そして僕らは誓いの杯を飲むように、クリームソーダを3つ注文して、一気に飲み干した。


 宇賀神吉次、17歳。どうやら「男」になるみたいです。

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