19恥目 御家騒動
――先生としゅーさんが大学の事務室で話をしている同時刻。
空は夏の照りつける日差しを西へと仕舞い込んで、夜の空気を連れてきた。その空の下を、今日の夕飯はどうしようかと悩む、僕、吉次はああでもこうでもないと店を渡り歩いてる。
飴屋のお爺さんが庭で育てている熟れたトマトを一つ片手に持ちながら、それに合う食材を探しているんです。
「よ……ちゃん」
すると、誰かが僕を呼んだ様な気がした。あまり聴き慣れない声。確かに「吉次ちゃん」と呼ぶ、女性の声。
町を見渡せど、特に異変はなく。同じく買い出しにやって来た主婦や、飲み屋へ入るお客ばかり。
なんだ、気のせいか。再び進行方向を向く。すると目の前が影がかかり、目に人から発せられる熱が息のように生暖かくかかる。
「よ、し、じ、ちゃん!」
「あ! は、初代さん! こ、こんばんは」
吉次を呼んだのは初代で、表情はカラッと明るく、要さんを殴り倒した日の事など微塵も感じさせない雰囲気になっていたようです。
「は、初代さんも買い物ですか?」
「今からあの人に会いに行くの。なんでもレストランに連れて行ってくれるって」
「レストラン?修治さんとですか?」
「当たり前じゃない!最近いろんな食べ物や物を買ってくれるのよ。一時はほんっとに殺してやろうかと思ったけど、ちゃあんと新婚らしい事してるから嬉しくって」
キャッキャっとはしゃぐ初代さんを他所に、僕は思うのです。
明らかに町をゆく女性達とは違う、品のある着物姿と髪留め。絶対に前会った時よりも明らかに華やかになっている。
砂埃が舞うと初代さんは顰めっ面で裾を払うけど、僕にはその気にし方が、何か高価な物が汚れるのを嫌がる様に見えるのです。
「それは、だ、誰のお金ですか……?」
休む暇なく働き続ける要さんの姿が目に浮かぶ。
*
それからすぐの事。ワイヤワイヤと帝大前は大賑わい。何かのシンパかと思いきや、久々に現れた1人の少年に皆熱中している。
それが、この僕。生出要。僕は聞いた。先生と吉次、それから飴屋の常連から――。
極め付けは五反田に借りているアパートの大家さんから、家賃の催促が来たことでわかってしまったのだ。
「もうかれこれ3ヶ月は払ってもらってないよ!」
得意の土下座して滞納した家賃を6月に働いた賃金で全て支払った。
それでも大家さんからの信頼は回復しないだろう。その理由はもう一つある。
しゅーさんと初代さんは、五反田のアパートに僕の荷物だけをおいて、シンパ活動のためにあっちだこっちだと引越しをしているらしい。
アパートを出る際には挨拶も特になく、夜逃げするようにこそこそ逃げていったのだから。
ほぼ空になったアパートの一室。僕はたしかに1番高い戸棚に平成の荷物を置いていた。リュックやスマホ、この時代に珍しいものはそのまま。
なのにアレだけ、ない! リュックをひっくり返せど、服をめくれど、ポケットや部屋のあらゆるところを埃が部屋を舞うまで探したのに!
しゅーさんに100円を持ってこいと言われた時に貯めていた、約50円。汚い茶封筒に入れて、それをカーディガンで包んでいたのに!
「やられた……」
しゅーさん達は僕が毎月送る生活費と貯金、文治さんの仕送り全てでやりたい放題して居たというのだ。
必要な事には一切使わずに!
酷く頭にくる。初代さんすら殴ってやりたい気分。
怒りを纏いながら帝大の校舎内へ入ると、野次馬が野次馬を呼び、学生皆が僕を見ているようだ。
下駄で校舎の廊下を地団太を踏むように忙しく足を踏み鳴し歩く。
「あれが津島修治の弟か。女みたいだな」
「バカ、あれが女な訳あるか。津島の奴、自殺未遂をやったろ? その時にあまくせさんは、どうやらあの飴屋から鎌倉まで歩いたらしいぞ。女には出来ないね」
「はあ!? 飛脚の妖怪か?」
学生らがこそこそ話しているのには触れない。僕はそもそも女だし、鎌倉までこの足で歩いたり、走ったりしたのは事実だ。
しかし学生らにはそれが嘘や幻、都市伝説のように聞こえるようだ。無理もない。僕だって、同じ立場ならそう思うに違いない。
騒ぎは校舎内の学生達にもたちまち広がって行った。しゅーさんはあっちにいた、こっちにいた、言われるがままに広い校舎を怒りをかかえながら歩き、ようやくたどり着いたその部屋。
「あまくせさん、あまくせさん。中にいますよ」
「見ろ、呑気に本を読んでるぞ」
こっそり話かけてきた学生をチラリ見て、部外者である僕は学生達の聖域に花火が打ち上がったような音を立てた。
ドアを開ければ広がる、鎮まり返った教室。教室の真ん中より少し前にしゅーさんは目を見開いて座っていた。
「ご機嫌よう、お兄様」
高圧的に、煽るように言う。
「あまくせ! お前、ここは!」
金のことだと察したか、部外者は帰れ! と言うように言葉を被せるしゅーさん。
僕はたまらず「クソ野郎」と放ち、直ぐに胸ぐらを掴んで押し倒して、あの日、自分がされたようにしてやった。
勢いであたりの机や椅子は転がり、教室の学生らは僕らからすかさず距離を取る。
ドーナツ化された空間はしんとしていた。
「僕は生活費にって言ったんだぞ! 遊ぶ金をやったんじゃねえよ!」
「生活費だろ! 俺とハツコが生活するために使ったよ!」
「家賃も学費も納めてないのにか!?」
「!」
「奥さんに着物買って、毎日レストランに行って、訳のわかんない活動に金使って、酒飲んで、生活費か!? 僕が、僕がどんな想いで仕事してたと思ってんだよ! 馬鹿!」
馬乗りになって殴ってやろうと思って来た。
でもあまりにも情けなくて殴る気すら失せる。せっかく握り拳に力を込めていたのに。振り翳すふりさえ、もう出来ない。ただ掌にくっきり指後が残るだけ。
威勢がいいのは最初だけで、僕がまさか暴力を振るう訳ないと思ったのだろうに。
下にある顔は涙を垂らして怯えている。
呼吸は不規則でヒイヒイと肩が震えているのだ。まるでこっちがいじめっ子。
大丈夫だろうと信じて、新婚生活のために2人にした。
それを簡単に裏切られたのに、悪いのはまるで僕。理不尽だ、こんなの。泣きたくなるのはこっちだよ。
そう言ったって解決はしない。だからと言って許すのも負に落ちない。
「津島はとんだクズだな」
「弟が働いた金を女と一緒に使ったんだと」
「しかも学費も払ってないって」
「家は大地主だろうに、何でああ無責任なるかね」
学生達が僕には聞こえないように話しているが、えらく大きな声に聞こえる。
「家族は不幸だな」
「シンパで頭いかれたんじゃないか?」
「警察にもマークされてるってさ」
「女がいるから浮かれていたんだな」
「みんな避けていたのが分かるわ」
「田舎者は田舎に帰ればいいのさ」
「ああ、自己紹介でツシマスージって言ってたな。笑った笑った」
誰かがそう言ってクスクスと笑う声がする。気分の悪い声量、言葉、人数、視線――。
万人が1人を笑う、歪んだ空間。
「ああ! 確かに無責任だ! クズ! バカ! ほんっとうにどうしようもない! みんなの言うとおり! 金返せよ! 泣くなよグズ!」
自分でも驚いた。スクッと立ち上がり、多くのギャラリーに向かって、兄であるしゅーさんをひどい言葉で罵ってみせた。
「だけどな、しゅーさんはこれからえらく有名になる! たくさんの文章を書いて金を稼いで、僕を楽にしてくれるんだ!」
「あまくせさん、よせよ。そんな奴が偉くなる訳ないだろ」
僕の熱弁を多くの学生が「そうだ」と否定に賛同する。当たり前の光景だ。
手を広げ、ぐるり、ゆっくり周りながら続ける。
「本当さ! 弟の僕が言うんだ、絶対になるよ! ただの暗い見栄っ張りなグズじゃないさ。明るいところや素敵なところもちゃんとある、お前らが知らないだけでな! だから僕は不幸じゃない! 訂正する! 絶対不幸じゃない!」
今、この場にしゅーさんの味方はいない。この場を荒らしたのと、敵をつくったのは僕だが、不幸と言われるのは違う。勝手に信じて裏切られた気でいるのは僕。
やられた事は最低で許せないが、しゅーさんに価値がないという言い方を他の誰かにされるのは胸がザワザワと落ちつかない。むしろカチンとくる。
「僕以外にしゅーさんを悪く言う奴は絶対に許さない。悪口言う時は一対一だ! 1人対多数は卑怯者! お前らもクズだ! この人を育ててくれた田舎を悪く言うな! お前を同じようにしてやろうか!」
田舎者と馬鹿にした学生を指差す。その学生は他の者の後ろに隠れて何も言わなかった。
皆引いているのか、悪く言うヤジもなくなる。
「しゅーさん、帰ろう」
仕事で鍛えた体は女性らしさがなくなっている。僕は寝たままで顔を手で隠した細い体のしゅーさんを、お姫様抱っこで担ぎ、教室を出ようとした。
溢れかえる学生は僕らをジッと見て何も言わない。
「愛、かな」
誰かが言った。聞き間違いか、なんか恥ずかしい言葉だった気がして立ち止まる。
「素晴らしい兄弟愛に俺は感動した! こんなどうしようもない兄を叱り、愛する弟!美しい!」
小太りでメガネをかけた学生が僕らに拍手喝采。
わかりやすく例えるなら、平成のオタクと呼ばれる人達が自分の好きなものを尊い! と言うように似ている。
1人そういう奴がいると、あとはそれが感染していくだけ。
先程とは打って変わって、僕ら2人は素晴らしき兄弟愛で讃えられるようになった。
「羨ましいぞ! 津島!」
そんな声も聞こえる。
「愛だってさ」
「しんずられね」
しゅーさんはわざと津軽弁で言ったのだろう。
この日の騒ぎは「御家騒動」と呼ばれ、学生らの間で数日話題になったと先生が笑っていた。
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