9恥目 金で買う絶望


「残念ですが……」


 午前中、警察が来てそう言われた。やっぱりシメ子さんはダメだったのだ。僕が来るよりずっと前に息を引き取ってしまったらしい。「ごめんなさい」とポツリ呟いた。


 隣にいた医者は「知り合いですか」と聞いて来た。僕は「一方的にですが」と返した。何も言えなくなったのか、医者は部屋を出ていってしまった。

 悔やんだってどうにもならない。命が無くなったらそれからどうしようとしたって無理なんだ。


 歴史の通りに時代が進んでいるのだ。“女だけが死ぬ“道化の華もそうだ。こればっかりは変えられない。僕には濡れた袴をギュッと握るしか出来ない。


 この先どうなるんだっけか。もっと辛いことが、起きてしまうんだっけか。助けるなんて大それたことが出来ないんじゃないかと、自信が無くなってしまう。


「こんな気持ちに耐えられるのかな……」


 俯く僕がいるこの部屋には、津島修治という男が眠っている。僕が助けなければいけない人だ。それなのに、どうしてこの人だけがと思ってしまう。


 心中しようとカルモチンの服用し、昏睡状態にはあったが、命に別状はないらしかった。医者曰く、おそらくカルモチンに対しての耐性がついていたのと、死なない程度を知っていたんだろうという診断だ。


 つまりこいつは最初から、死ぬ気がなかったんだ。ほとほと呆れた。なら、なんのために心中した? その理由なんて本人じゃないからわかる訳がない。

 もしかして、僕が助けなくたって、勝手に助かるんじゃないかと思う。

 

 それから警察から詳しいことを聞かれたが、僕も疲労困憊していたのもあって家族が来てから聴取を受けることになった。

 

 第一、この男が目を覚まさなければ何も進まない。何を思うにも思考がしっかりと働かないのだ。体も心も酷く疲れきって、生きているのかどうかもわからない感覚になって。

 

 体がもうダメだと、丸椅子に座り、津島修治が眠るベッドの脇に上半身だけを置いてうつ伏せになって眠った。


 *


 それから一日以上眠っていた。日付はとっくに変わって、津島修治も目を覚ましている。そして部屋には3人の知らない男性が立っていた。 1人は明らかに警察官で、1人はいい着物を着た30代くらいの人。そして端っこに痩せ細って、今にも死にそうな若い人。

 そのうちの1人が近づいて来て、深々と礼をしたので、僕も頭を下げた。


「目を覚まされましたか。私、修治さんのお兄さんから頼まれてやって参りました。中畑慶吉と申します」


 30代くらいの「中畑慶吉」と名乗る男性は続けて「この度は……」と畏まって挨拶して来た。僕はうまく言葉が返せず、名前だけ名乗った。聞けばこの人は、津島家に出入りしている青森県在住の呉服屋で、しゅーさんの兄である文治さんから頼まれて、遠路はるばるやって来たという。


 話されている最中、しゅーさんは狸寝入りするようにまだ眠り始めた。え? このタイミングで? すげぇ嘘くさい。

 この場で起きる努力もせず、自分は関係ないと言わんばかりの態度にまた腹が立って来る。


 それより気になったのは、痩せ細った男性だ。風に吹かれたら倒れてしまいそうな細さ。椅子を譲らなければ折れてしまうんではないかと、そわそわする。


「あちらの方は?」


 中畑さんに小声で訪ねる。すると耳を貸せとジェスチャーで上半身を右に傾けてコソコソと「亡くなった田部さんの旦那さんです」と気の毒そうに言った。

 どうりでやつれてるわけだ。無神経にも程がある。田部さんを見て、このまま座ってはいられない。すぐに椅子から降りて、膝と手をついて頭を下げた。床に頭を擦り付けた。


「間に合いませんでした! 謝って済むとは思ってません、本当にごめんなさい!」

「いいえ、いいえ。私が、悪いんです」


 田部さんは消え入りそうな声で俯きながら、ブツブツと自分を責めているようだった。どうしてだ。この人は悪くないのに。内縁の妻が、ただの客だっただけの知らぬ男と心中したんだ。悲しすぎて、泣けもしないんだろうか。

 田部さんは下を向いてうわ言を繰り返すだけになって、気の毒になった警察官が病室の外へ連れ出した。出て行ったのを確認した中畑さんは、ひと段落終えたような顔で椅子に腰掛ける。


「私ね、最初、遺体を見て不思議に思ったんですよ。あの人はヒョロヒョロっとして、神経衰弱で30歳前だっていうのに頼りない。だから本当に旦那さんなのかってね。でも、そうでした。遺体が鼻血を出しましたから」

「鼻血を出したから?」

「ええ」


 遺体が鼻血を出すとなんなのか? 目をパチパチ、瞬きを何度もすると「遺体に親近者が近づくと鼻血を流すって言うんです」と、ため息混じりに言った。

 今の昭和には当たり前にある、迷信みたいなものなのだろうか。その迷信が身近ではなかったので「そうですか」としか返せない。


 それから中畑さんはこれからの事を話してくれた。どうやら鎌倉では、日没になってからでないと火葬にできないらしく、日没待ちということらしい。つまり、シメ子さんの遺体は今日のうちに焼かれる。


 骨は中畑さんが一旦安置して、田部さんが段取りを済ませてから渡すと考えているようだ。今夜は宿に泊まって、事が済んだら青森に帰るらしい。それで田畑さんは少し考えた後に、僕を見て首を傾げた。


「ところで、要さんはどうしてここに? 修ちゃんのご友人ですか」

「僕は……」


 なんと言ったらいいんだろう。ここで「未来から来ました。だからこの事件が起きるのを知ってました」と言って通用するだろうか。多分、この人には絶対通じない。

 爺さんは信じているのかわからないが、先生と吉次以外の人に言ってもはきっと信じてもらえない。

 

 だからと言って「たまたま」でもない。気の利いた誤魔化し方もわからない。だから足を擦り合わせて、あの、えっと……しか言えないでいる。


「……知り合いだ」

「修ちゃん! 寝ていたんでねぃのかい!」


 誰が話したかと思ったら、しゅーさんだ。やっぱりコイツ、狸寝入りを! 一発ぶん殴ってやろうと思ったが、やけに静かな顔をするので殴るのも気が引ける。中畑さんが故郷の家族の話をしても、何も言わずに遠くを見つめるだけで会話はしない。


 何もかも諦めた顔にも見えた。しばらく話して日没を迎えると、警察官が来て火葬すると、中畑さんを迎えに来た。返事をして部屋を出る時、中畑さんが僕の手に紙の束を握らせた。


「不謹慎ですが、偶然でも要さんが居て良かった。ありがとうございます。ありがとうございます。これはお国のお兄さんからの、ほんのお礼です。受け取ってください」


 手渡された封筒は厚い。中には紙が入っている。この紙は――金だ。人の生き死にを目の前に、生々しく金が出てくる。しかも100円。僕が働いて、コツコツ貯めている額をポンと渡してくるんだ。


 中畑さん、あなた何で満足そうな顔してるの? お礼? 何が? ぐずぐずして、道に迷って、歴史がそうだったって、人1人を救えなかったのに? もっと、僕が、私が早く思い出していたら間に合ったかもしれない。


 記憶を思い出すのに何かが邪魔をした? 平成に帰れなくなることからの恐れ? 違うよ、だって歴史は変わらないんだよ。対象者以外の、しゅーさん以外の人の寿命を延ばしても、平成の史実に影響しないって、紙にそう書いてあった。

 僕は感謝される側なんかじゃない、責められる側だ。なんでもっと早く気づかなかったんだって。胸が苦しい。締め付けられて、暗いところに沈められて、ごめんなさいが溢れてくる。

 

 ごめんなさいが溢れてたら、怒りも込み上げてくる。まるで噴火前の活火山のようだ。熱い、熱い、ああ、もうだめだ!


「こんなもん、いらねぇよ!」


 渡された金を床に叩きつけた。金はふわふわ舞いながら下に落ちていく。音も立てずに、虚しく、床に。しゅーさんを中畑さんも警察官も驚いている。


「どうして金を渡されるんだ! 1人の命が死んだのに、生きた方から、ありがとうって金を渡されて何が嬉しい! なんの金だよ! 今は違うだろ! 亡くなったシメ子さんのことを考えろ!」


 もう止まらなかった。僕は言いたい放題言ってやる。だからもう、気づいたらしゅーさんの胸ぐらを掴んで、鈍い音を立てて一発、頰を殴っていた。彼は痛がって顔をあげない。泣いたって無駄だ。


「痛いだろ! なあ! シメ子さんも、いっぱいいっぱい、苦しかったんだよ! 本当にあんたと死にたかったのか! 本当にあんたを想って死んだか!?」

「落ち着きなさい!」


 警察官に取り抑えられても御構い無しに吠えた。狭い病室に反響する声が虚しく飛び交っている。どれだけ吠えたって事が変わる事はないのだ。


「私らは火葬に行きます。あんたも憔悴しとんじゃろ。ここで待ってろじゃ」


 しんとした室内から、警察官と中畑さんが出て行った。僕は殴った男と2人にされた。あんなに怒り狂ってどうしようもなかったのに、散らばった金を見て急に冷静になってしまう。一瞬カッとなって周りのことも御構い無しに暴走してしまうのは、この時代に来てからの事だ。理由はわからない。恥ずかしくなって、ばら撒いた金を拾い上げていると後ろで布団が捲れる音がした。

 それは頰を押さえたしゅーさん。そんな彼を見ては「やりすぎた」と少し後悔した。


 ――もし本当に、シメ子さんとしゅーさんが好き同士で心中しようと決めていたら。僕はお門違いなことをしてしまったことになる。


 何か理由があって一緒に死のうとなっていたなら……謝った方がいいのか、謝らなくていいのか。「ごめんなさい」なんて、ちょっと気が弱すぎる気もする。

 あたふた、あたふた。山の天気より変わりやすい感情が気持ち悪い。


「……俺の名前じゃなかった」

「何?」


 ボソボソと何か言った。聞き取れず、聞き返す。


「最後に言った名前」

「名前?」

「お前が聞いたんだろう」


 しゅーさんが言った事は「本当にあんたを想って死んだか」と聞いたからか。


「誰の名前だったの……?」

「多分、旦那の名前」

「……なんで心中したんだよ。若いから、気の迷いで?」

「……」


 都合の悪い事なのか、理由を聞くとすぐに黙った。なんだろう。この人が言いにくい事。少し考えると、今回はパッと思い出すことが出来た。必要な時に必要な分だけ、しゅーさんに関する記憶を思い出す。僕は道化の華をしっかり読んでいたんだ。

 心中した理由は金に困っていたんだ。2人共、金に困っていた。


「しゅーさん、結婚するんだろ。その結婚が理由で、本当は仕送りでどうにかなるはずだった、カフェへの支払いが出来なくなった。違う?」


 丸椅子を起こして座り、記憶の通りにしゅーさんに聞いた。彼は僕を見たまま何も言わず黙ったまま。ああ、図星なんだと、話を続ける。


「カフェはさ、溜まったツケはシメ子さんが払わなきゃいけない仕組みで、彼女も支払えなくて困ってたんじゃないか? 支払えなくて、どうしようもないから、一緒に死のうとしたんだろ。だから最後に旦那さんの名前を呼んだんだ。支払いさえ出来ていたら死なずに済んだんだから」

「……気味が悪い。なぜそこまで知っているんだ。まるでずっと見られていた気分だ!」


 全部図星。だから気味が悪い。僕から逃げようとして病室を出ようとする。死ぬ時よりも震え上がって、全て暴かれる前に消えようと逃げる。

 扉の前で彼の腰にしがみ付いた。それを振り払おうとするから、揉み合いになる。


「逃げんなよ!」

「どうして知っているんだ! お前は!」

「だから、未来から来たって言ってんだろ!」

「ならこの後俺はどうなる! 捕まって刑務所行きか! 殺人罪で捕まるのか!」


 えっと、どうだったっけ。肝心な時に思い出せない!本当に役に立たない頭だ。


「ひっ、秘密だよ!」


 わかんねぇよ! だから秘技「秘密だよ」で乗り切る!


「ほら。今回は偶然だ!」


 案の定、嘘だと思われた。本当だけど、秘密は嘘なんですよね。未来から来た事を信じて欲しいとは思わない、だけど僕は信じて欲しい。 今は僕にある正義感だけを貫くことしか出来ない。


「もし、殺人罪を犯したと思うなら、逃げたら本当に罪人になるんじゃない?」


 挑発的に腕を組む。そして知っているような態度を取る。


「嘘はついちゃいけない。でも、しゅーさんが怖いと思う事に立ち向かわなきゃ、ずっと怖い物に追いかけられるままだ。シメ子さんの事は変えられない。責任もある。その覚悟があったから、薬だって死なない程度に飲んだんだろ?」


 起きた事からは逃げられない。それを理解したしゅーさんは大人しくなった。やっぱり「死なせてしまった」事には、確実に胸を痛めている。痛いから、狸寝入りをした。死のうとした、逃げようとした。


「なら、どうしたらいいんだ」


 僕が来なかったら、金で解決していただろう。でもそれで、この人の心は救われない。あの調子だと、中畑さんや家族がうまく取り繕ってこの事を有耶無耶にするだろう。それでいいんだろうか。助けるって、そう言うことだろうか。金で解決してしまったら、それこそ辛いままにならないか?


「向き合って、ちゃんと傷付こう」

「それは嫌だ!」


 傷つきたくない、それは誰だってそうだ。責任なんか背負いたくないんだから。


「わがまま言うな!」


 ほら、僕が怒鳴るとビクッと体が跳ね上がる。


「人を死なせてしまったんだ。それは受けなきゃいけない痛みだよ」


 しゅーさんは睫毛を伏せた。あなたは生きる事を知らない。常に絶望の隣にいる人。幸せを信じないくせに希望を探しているような人。シメ子さんもそれを嗅ぎとっていたのかもしれない。もしかしたら可哀想だと思って、心中に付き合ってしまったのかもしれない。


 しゅーさんがなんだか寂しい人に見えるのだ。この人の欲しい物はなんだろう。僕は彼の背中にそっと右手を添え、摩った。


「僕は金がないけど、痛みを半分引き受けることなら出来る。このことを知っていたのに救えなかった。なら僕も同罪じゃないかな。ほら、それに僕、助けるって言ったろ」

「嘘だ!」


 差し伸べる手を必要以上に拒む。


「そうだよね、そうだ。嘘に聞こえるだろう。でもなあ、しゅーさん。僕はあなたを助けたいんだ」

「信用出来ないね」


 僕が怖いかい。いいや、全部が怖い、そうでしょう。


「でも僕はしゅーさんを助けに鎌倉まで来たよ」


 しゅーさんは少し目を大きく開いた。この人はお金持ちの世間知らずだから、きっと人一倍、痛みに弱い。弱いから立ち向かう術さえ知らない。僕がこの人を「恵まれたダメ人間」だと思うのは、そういうところだったのか。


 自分で向き合わなきゃいけない問題から、うまく逃げようとする。それを周りの人間が気付かぬうちに支援する。金でなんとかしようとしてもらう。ドラマや映画で見るようによくある、簡単だけど贅沢で悲しい話だ。


「人の心を疑うのは、もっとも恥ずべき悪徳だよ。すぐに信じなくて良い。助けることが嘘じゃないって、時間が掛かってもちゃんと証明するよ」


 この台詞は僕の言葉だったっけか。しゅーさんは鼻で笑ったが、その場を離れずにいた。そして一言「お前、海くさいなぁ」と小さく笑った。

 海水に濡れて、おまけに2日くらい取り替えていない服だ。金をばら撒く前までの僕なら、笑うなんて不謹慎だ!と思ったかもしれない。


 しかし今はなんとなく、しゅーさんが僅かでも心を開いてくれたんじゃないかと思った。

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