8恥目 明日を望むカルモチン
品川からだいぶ来ていた。空を見上げるたび、夜は深まる。冬に向かう季節の変わり目、夜の海へ向かうのだから、寒くて仕方がない。
自転車で切る風が、ゾクゾクと鳥肌を立たせる。ああしんどい。漕いでも、漕いでも、辿り着きやしない。
道を尋ねた人達は皆、自転車で行くには遠過ぎると必死になって止めてくれた。けれどそれじゃあダメだ。
バスや電車を待つ時間が惜しかった。何より朝を待つのが怖かった。待てば自転車より早く着くと言われても、ダメだった。気持ちがソワソワと落ち着かず、気持ちが許さないんだ。
止まったら、間違いが起きてしまう気がするから。絶対にダメなのだ。
神奈川なんてそもそも来たことがない。横浜市、箱根町、鎌倉市だって知っているのは街の名前だけ。名前しか知らない土地に、心中を測っているかもしれない人を探しに行くなんて、到底無茶な事をしているんだとわかっている。
例え無茶だったとしても、だ。花が気になった事、それから他の偶然とは思えない考え事が、やっぱりただの思い込みで、鎌倉に行っても何もなかったとなれば、1人疲れて帰ればいい。
それだけの話。しゅーさんが無事でいるなら、僕はそれだけで今は充分だ。100円貯金にまた精を出せばいいんだから。
暫く走った。時々現れる「江ノ島」への案内板を頼りに走った。「鎌倉は江ノ島」という頭がある。だからそこを目指せばいいんじゃないかと、人が歩かなくなった夜道を勘だけを頼りに自転車を漕いでいた。
月明かりが反射して不気味に光る海が見える。時間はわからないが、深夜になっているのは間違いない。周辺に人なんて歩いているわけもなく、大船駅の目の前を通りかかってからは自転車を降りて探した。
「しゅーさん! 居るんだろう!」
夜も深いとわかっていたが、冷静じゃなかった。堪らなくしゅーさんが気になって、御構い無しに叫び散らした。海岸線を縫うように歩いて、遠くの空がだんだんと夜明けに近づく頃、やっと江ノ島駅の前を通過。
どれだけ疲れても、足を止めることも、休む事も考えない。しゅーさん、どこだ! さっさと出て来い! と何度も叫ぶ。どこかで寒さに震えてるんじゃないのか、考えるのはそればっかりだ。
「道化の華」にヒントがあるだろうと本を開いたが、辺りが暗いので文字が読めずわからない。昔読んだ記憶を確かにさっき思い出したが、心中描写がある事だけで肝心の心中方法は思い出せなかった。ええい、このポンコツ頭!
目の前の情報を頼りに、心中方法を考える。目と鼻の先にある島の崖から身を投げた? それとも、歩いたまま海に入って沖まで行ってしまった? ここに来たということはやっぱり、海の中に――。
「ダメだ……!」
海の中に入って溺死。しゅーさんが誰かと海に入っていくのを想像した。僕は、海で溺れることがどれだけ苦しいか知っている。そういう体験をしているからだ。もし海に入ってしまったなら、一刻を争う。
自転車から手を離し、お構いなしに放った。ガシャン! と大きい音が立った。僕は振り向きもせずに腰越駅付近の浜へと猛ダッシュで走る。砂浜に足を取られながら、1日で1番暗い夜明け前の海に走った。そのまま冷たい海水の中に足を入れて、浅瀬に両手を沈め、掻き回しながら叫んだ。
「海の中なのか! どこだ!」
声は聞こえない。まさか、遅かったのか? 不安と焦りが全身を駆け巡る。体は自分の物じゃないみたいに、ぐるぐると縦にも横にも回るようだ。
「助けるって約束した! そうだろう! 絶対に助けるからな!」
聞こえるのは波の音だけだ。引いたり、押したり。冷たい海水に足を取られそうなる。恐怖と焦燥は交互にやって来て、恐れているはずの海の中へ、ズブズブと足をついて歩ける所まで入っていく。
「探させることばっかしやがって!」
袴は水を吸って、鉛のように重くなっていた。水圧と波に負けまいと袴を上に引っ張り、大股で歩く。この探しきれない程大きな太平洋のどこかにしゅーさんがいると信じて。
――探すうちに朝日が昇りはじめた。刺すような朝日は目が開けられないくらい明るい。僕は朝が来た事に少し安心していた。朝が来た事で、やっぱり勘違いだったんだと思ったのだ。人は光を浴びると理由もなく安心する。僕もその、無責任な生き物だ。
海から砂浜へと上がると一気に疲れが押し寄せた。丸1日立ち止まらなかった足は怠く、そのまま座り込んでしまいそうになる。
きっと爺さんや吉次が心配しているだろう。飴屋に帰ろうと、放って来た自転車を探しに来た道を戻り歩いた。ひっかくような北風が、濡れた衣類をさらに冷やし、歯をガタガタ言わせてくる。
途中、岬の前を通ると足がぴたりと止まった。
……なんだ? 朝日が登って来たとしても、まだ起きている人は少ないだろう。現に人は歩いちゃいない。しかし、どこかで確実に「うー」と苦しそうに呻く声が聞こえる。気のせいだろうか。いいや、聞き覚えのある声だ。
安心はまた不安に変わる。ざわざわと嫌な胸騒ぎがする。どこだ、どこからだ? 胸に手を当て、あたりから人の気配がないかと神経を尖らせる。ああ、間違いない。この岬の方からだ。
僕は迷わず、足場が悪い岬の岩場を無我夢中に這っていく。そして、岬の先端に近づくにつれて、声が大きく聞こえてくる。吐きそうで吐けないような、とにかく苦しそうな声。
そうして畳岩の上に出た。岩の上には、女性1人が泡を噴いて倒れ、その隣に男性が1人呻いていた。側には黄色い箱と、カルモチン錠と書かれた瓶がゴロンと転がっている。
――カルモチン。気のせいで良かったのに、気のせいじゃなかった!
「しゅーさん!」
思わず体に飛びついた。体を揺さぶって、朦朧としている彼に必死に声をかけた。大量のカルモチンを摂取したのだろう。瓶は空っぽになって、死ぬに死ねない肉体的な苦しさがこの人を襲っている。
「吐け! 吐けないのか! しっかりしろ!」
背中をバシバシと叩いて嘔吐を促す。少しずつダラダラ垂らすだけで、楽ではなさそうだ。
しゅーさんの背中を叩きながら、隣に倒れている女性の首を触ったが、既に息を引き取っている。触れて思い出した。本に書いてあった文章を鮮明に思い出してしまった。
この人は田部シメ子さんだ。まだ若い。18歳くらいだったろうか。銀座のカフェで働く人で、確か画家の旦那さんが居たはずである。息をしていなくてもはっきりわかる美人で、きっと死ななければ、明るい明日があっただろうと残念に思った。
もっと早く思い出していれば――悔やんでも仕方がないのに、やりきれない。
「シメ子さん、必ず後から来ます。だから少し待っていてください。ごめんなさい」
遺体にそっと、着ていた井桁模様の袴を被せた。濡れているけど、ごめんねと呟いて。亡くなったシメ子さんの隣で、苦悩する津島修治とやらを救わなきゃいけないのかと思うと無性に怒りが湧いてくる。
お前が誘ったんだろう。お前が誘ったから、この人は死んだんだろう! そう言ってやりたいが、気持ちとは裏腹に体はそうではないらしい。
「この、あんぽんたん! バカ! くそったれ! おぶされ! せめてアンタだけでも!」
無理矢理、自分の背中にしゅーさんをおぶさった。駅のすぐ側にある看板を頼りに「腰越恵風園」を目掛けて歩いた。モゴモゴと背中で何か言っている。海水で濡れた服に文句を言っているのか? クソ野郎、服のことでなくったって文句を言う資格はないからな!
今までに経験したことのないような怒りがそうさせるのだろうか。自分より背の高い人を背負っているとは思えないほど速く歩けた。しかし、重い。歯をくいしばって、すり減った下駄を地面に叩きつけるように歩いた。自分が女だと忘れてしまったかのように、荒々しく。
程なくして鎌倉高校に近い、腰越恵風園に着いた。どんな場所かと思ったら 病院だ。不幸中の幸いとはこのことだ。
「すいません! 開けてください! 死にそうです、助けてください!」
ガラスのドアを割れそうになるまで、力一杯叩いた。歪んだように波打つガラスを右手を握りしめて力任せに叩く。
「はいはいはい、なんです、なんですか!」
病院の奥から、バタバタとまだ寝間着の男性が駆けて来てドアを開けた。起きたばかりだというのがわかる顔つきだ。
状況を理解できていないようだったので、図々しくも下駄を履いたまま中へ入った。
「瓶が空になるくらいにカルモチンを飲んでます。どうしたっていいです、僕に医療のことはわかりません! だから助けてあげてください!」
「あ、ああ……わかった!」
しゅーさんの体を下ろし、診察室のベッドに寝かせた。次はシメ子さんを運ばなければと、ベッドから離れようとすると、ワイシャツが力なく後ろに引かれた。後ろを振り返るとなんとも言えない顔で、しゅーさんがつまむようにワイシャツを掴んでいる。
苦しくて何も言えない口がパクパクと「どうして」と動く。「どうして」だと? 何回も言わせるな! 雨の中会った日に言ったはずだ!
感情的になった僕はぎゅっと右手で拳を作り、その手を彼の顔のギリギリまで振りかざした。そうして鼻にコツンと中指だけを当てて、殴ったことにしてやった。しゅーさんは震えながら目を瞑っている。びっくりしたのだろう。
心中は平気でするくせに、本当は、もしかしたら、ちょっとした事でびびってしまう人なんだ。この人はきっと弱い。弱いから心中したんだろうか。
いいや、知らん。
「何度だって殴ってやる。痛いってわかるように、殴ってやる」
シメ子さんが苦しかった分、しゅーさんは苦しまなければならない。だって不公平だ。あの人は死ななくて良かったはずなのだから。償って、苦しんで、その苦しさを噛み締めろ。それが何かは僕か教えてやる。
――津島修治。あなたは今日の朝日を見た。カルモチンは明日を望んだのだ。あなたは望まなかったかも知れない、それを。
「生きろ」
顔は見せずに診察室のドアから素早くでた。僕は泣いていた。この数ヶ月、ずっと頭の中を占拠していたその人が生死を彷徨ってしまったから。
怒りとやりきれなさと、それから――僕はあなたが居なくなってしまうのではないかと思って、寂しくなってしまったのだった。
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