第3話 サキのアルバイト

駅員室の外で金髪と赤髪が待っていた。


 サキは心の中で舌打ちした。これからが一番大事なところなのに。


「じゃあ、僕はこれで」


 後から出てきた佐伯が小さく手を上げて、足早に歩いていく。少しでも早くこの場から離れたいという態度だった。サキはその背中をじっと見ていた。


「あのさあ、君たち大丈夫?」


 赤髪のほうがいった。いかにも君のことを心配しているよ、といった表情をしているが、心の中は見え見えだった。せっかく出逢ったかわいい女の子ともっと関わりたい、できれば付き合いたい、ってところだろう。


「何でしょう。私たちに何か御用ですか」


 サキはわざと冷たくいった。


「あっ、いや……」赤髪の目が泳いだ。お礼のひとつでも言ってもらえると思っていたはずだ。


 サキはもう一度、佐伯の歩いて行った方向を見た。どんどん背中が小さくなっていく。これ以上、離れると見失ってしまいそうだ。


「助けていただいて有難うございました。では、これで」


 サキは両手を身体の前で重ねてお辞儀すると、レイカの手を取った。


「行こう」


名残惜しそうなレイカを強引に引っぱり、サキは走った。後ろで男が何か叫んでいたが、いっさい振り返らなかった。


帰宅時間と重なった駅のホームで、行き交う会社員の間をすりぬけながら、サキたちは進んだ。階段を駆け足で降りる。


 人混みの間から、佐伯が改札口を出るのが見えた。サキも続いた。特徴のない佐伯の後姿は、少しでも目を離すと見失ってしまいそうだった。


「ちょっと待って」


 ようやく追いついたのは、SL広場にある喫煙所の前だった。


 佐伯が振り返り、サキたちを認めると大きく目を剥いた。


 サキは制服の胸に手を当てて息を整えてから、佐伯を見上げた。そうしている間も佐伯は凍り付いたように同じ姿勢のままで、サキとレイカに交互に視線を泳がせていた。


「何だ、まだ何か……」


 通り過ぎていくサラリーマンたちが佐伯とサキたちに、じろじろと無遠慮な視線を浴びせてくる。親子にも見えない三十男と制服姿の女子高生が、こんなところで真剣な顔で向き合っていれば、奇異に映るのも無理はない。


 サキは佐伯に一歩、近づいた。佐伯が怯んだ顔で後ずさった。


「佐伯社長さん、そんな怯えなくてもいいじゃないですか」


 サキが唇を緩めながらいうと、佐伯はますます表情を歪めた。


「キャハっ、このオッサン、だっせー」


 レイカがいかにも楽しそうにいい、サキの肩に手を置いた。


「まだ僕に何か用があるのか」


「用があるから、こうして来てるんじゃないですか。佐伯社長サン」


「僕はもう、君に用はない」佐伯の鼻の頭に汗が浮いていた。


 サキは目を細め、佐伯のつま先から頭の先まで、ゆっくりと視線を動かした。そうしておいて、また佐伯と目を合わせる。


「アンタに用がなくってもコッチは違うんだよ」低い声でいった。


 佐伯の唇がわなわなと震えだした。やがてその動きは顔全体に広がり、肩、躰、脚へと伝染していく。想定した以上の効果だった。


 だが、女子高生と向き合った中年男がこんなところで震えているのはいかにも拙い。何か、只ならぬことが起こっているのが見え見えだからだ。この位置は駅前交番も近い。いつ警官が近寄ってくるとも限らない。


「ちょっとアンタ、こっち来な」


 サキは佐伯の腕を取り、信号を渡って繁華街の中に入った。原色のネオンや呼び込みの放送が賑やかなここなら、多少の声を出しても目に留まりにくい。佐伯は全く抵抗しなかった。


 サキは改めて佐伯を見上げた。通行人の目を意識して、口元に笑みを浮かべるのを忘れなかった。


「アタシさあ、駅員室ではああいったけど、実際アンタを許す気なんてないんだよね」


 隣に立ったレイカが、そういったサキの顔を見てから佐伯に顔を向けた。


「だって。どうする? 佐伯シャッチョサン」


「な、何を……」


「お小遣い、欲しいんだよね」


 サキは髪をかき上げながら、できるだけさり気なくいった。


 佐伯は口を半開きにしたまま、サキを見下ろしていた。唐突すぎて何を言われたのか理解できないといった表情だった。


「ねえ、分かってる? サキはお小遣いが欲しいんだって」


 レイカの言葉に、佐伯がはっと我に返った。頬を手でごしごしと擦り、表情を険しくさせた。


「脅迫するつもりか」


「はあ? 脅迫う? わけわかんないんだけど」レイカがひらひらと掌を振った。


「どう取ろうとアンタの勝手。でも忘れないでね。私は佐伯さんの会社も住所も電話番号もわかってる」


 佐伯の青白い顔がみるみる赤くなった。だらりと下げた両腕の拳がぎゅっと握りしめられる。


「貴様ッ――」


「殴るのっ?」サキはひときわ声を大きくした。目を強くしてまっすぐに見据える。それで、前に伸びた佐伯の両腕が、胸元の手前でぴたりと停止した。


 通行人が何ごとかと目を向けていく。中にはいったん横を通り過ぎてから立ち止まり、何度も振り返っている者もいる。


 サキはわざと汚らしいものでも見るような目つきで、それらの一人一人と目を合わせた。皆が皆、他人のトラブルを楽しむ、嫌らしい、好奇心が滲んだ目つきをしていた。


 佐伯が深く息を吐いて、両腕を戻した。


 サキは笑みを作り、うな垂れた佐伯の肩をポンと叩いた。


「嫌だ、暴力反対よ」


 レイカも笑った。傍から見れば、何か冗談を言いあっているように見えるはずだ。その証拠に、道行く人はサキたちから目を離し、また無関心の雑踏に戻っていた。


「君たち、大人を舐めるんじゃないぞ」


 佐伯が目だけを怒らせていった。


「佐伯さんこそ、もっと現状を把握したら? アンタ、電車内での痴漢行為を認めてんじゃん。しかも第三者の証人もいる」


 サキがそういうと、佐伯は目を見開いた。


「まさか……、そのために……」


「今頃、気が付いた?」サキは肩をすくめた。「自分の会社の社長が痴漢だったなんて知ったら、社員はどう思うんだろ。奥さんは?」


「き、貴様」


佐伯がむき出しにした歯の間からいった。


「よーくわかったでしょ、自分の置かれてる状況が。アンタはもう逃げられないの」


 レイカがにやにやしながらスカートのポケットに手を突っ込んだ。


 サキは胸の前で腕を組んだ。


「理解できた? 佐伯社長サン」


「い……、いくら欲しいんだ」佐伯が上着に手を入れた。


「ちょっとアンタ、こんなところで財布出さないでよ。私たちがカツアゲしてるみたいでしょ」


「お前らのやっていることとカツアゲがどう違うんだ」


「ぜんっぜんっ、違うでしょ。私はアンタから与えられた精神的苦痛に対する慰謝料を請求してるんだもん」


「まったく……、ものは言いようだな」佐伯の顔がふっと泣き笑いになった。「じゃあ、どうすればいいんだ」


「五十万」


「えっ」


「五十万円ちょうだい。慰謝料として」


「馬鹿馬鹿しい」佐伯が吐き捨てるようにいった。「そんな金が今あるはずがない」


「アンタ、社長だろ。五十万くらいの金、口座に入ってるんじゃねえの」レイカがいった。


「ないものはない。無い袖は振れない」


「じゃあ、会社にばれてもいいのかよ、家族にばれてもいいってこと?」


 レイカが佐伯に詰めよった。


「待ちなよ」サキは佐伯とレイカの間に腕を伸ばした。


「本当にないの?」


「ない。二万や三万ならともなく、五十万なんて常識はずれ過ぎる」


「社長だったら、五十万くらい会社の経費で何とでもなるんじゃないの」


 佐伯は口端をねじまげた。たぶん笑ったつもりなのだろう。


「君らには会社経営なんてわかるはずもないだろうから、詳しくはいわないが、昔みたいに何でも経費で落ちるってもんじゃないんだよ」


「佐伯さんって、ひょっとして奥さんに家の金握られてるタイプ?」


「何だ、唐突に」


佐伯の目が泳いだ。それでサキにはぴんと来た。ますます好都合だと思った。


「慰謝料として五十万円って金額が常識はずれだと、私は全然思わない。実際、裁判になって和解金ってことになれば、そんな金額じゃすまないよ」


「君たち、さっきから聞いていれば、裁判だ、和解金だ、とずいぶんと慣れてるみたいだな」


 サキはふんと鼻から息を吐いた。慣れているのは間違いがないが、ここで認める馬鹿はいない。


「こんなことに慣れてる女子高生って何? 失礼なこといわないでよ」髪をかきあげながら、続けた。「そんなことよりさあ、ちょっと私のほうから提案があるんだけど」


「提案?」


 佐伯は怪訝そうに眉を寄せた。


「この方法なら、口座から五十万円引き出されることもないし、だから奥さんから何に使ったの、って責められることもないよ」


「何を……馬鹿なことを」


 サキはこのアルバイトを始めてから、世の中のサラリーマンの小遣いの少なさを知った。自分で汗水たらして稼いだ金なのに、自分で自由に使えないなんて本当に可哀想、などと思った時期もあった。


「まあ、聞くだけ聞いてよ」


 サキはそういって目を上げた瞬間、息を呑んだ。


 佐伯の背後に制服姿の警官が二人、立っていた。


 サキの表情の変化に気が付いたのか、佐伯が振り返り「あっ」と声を上げた。


「ちょっと、すいませんね」


 背の低いほうの警官が佐伯にいった。もう一人の警官はサキとレイカに交互に視線を動かしている。二人とも三十代後半くらいに見えた。


「あ、ああ。はいはい、何でしょう」佐伯が引きつった笑顔になった。


「ここで何をしてらっしゃるんですか」


 警官が佐伯とレイカたちにゆっくりと顔を巡らせた。


 サキは目があっても答えなかった。こいつに訊けば、とばかりに佐伯に視線を流した。恐れはなかった。佐伯が、今までのやり取りを警察にいうはずがないと考えていたからだ。


「ああ、ええと、そうですねえ――」


 警官に見つめられ、佐伯はしどろもどろになった。目が宙を泳いでいる。


「食事できるところを探してるんです」


 サキはいった。ひとことも話さない背の高いほうの警官の鋭い視線が頬に痛かった。


「ははあ、食事ねえ」


「そうです。ねっ、賢治おじさん」目顔でうまく答えろよ、と伝えた。


「本当ですか」警官が佐伯に訊いた。


「あっ、ええ、ええ。本当です。彼女は私のいとこでしてね。それで隣の彼女はその友達なんですが、ちょっと学校が終わったら食事でもしようってことになりましてね」


「こう見えても賢治おじさんは社長なんですよ。だから美味しい物ご馳走になっちゃおうって、いろいろ迷っているうちに、ここで時間を食っちゃって、ねえ」


「あ、ああ、そうだね」


 相変わらず佐伯の演技は不自然だった。サキは警官に気が付かれないように視線を強くした。


 警官が制帽のひさしに手をかけた。


「失礼ですか、名刺を見せていただいて宜しいですか」


「ああ、いいですよ」


 受け取った名刺に目を落としながら「ほう、まだお若くてらっしゃるのに大したものですなあ」と警官がいった。


「君らは?」


 ずっと黙っていた背の高いほうの警官がサキに訊いてきた。


「私たちは聖葉女学院高校の学生です。三年生です」


「学生証、見せて」


 サキたちは鞄から学生証を取り出して、警官に渡した。


 警官は学生証を開き、写真とふたりを確認してから何もいわずに戻した。何となく感じの悪い奴だとサキは思った。


 警官たちが目を合わせ、小さく頷いた。


「いや、失礼をいたしました。楽しい食事を楽しんでください」


 背の低い方がいい、警官たちは繁華街の奥に歩いて行った。


 サキは、はーっと口から息を吐いた。それで自分が緊張していたことに気が付いた。


 背中を繁華街の奥に進ませていく警官たちを佐伯がじっと見つめている。その目には本当にこれでよかったのか、とでもいいたげな迷いが見て取れた。


「佐伯さん、わかったでしょ。私たちが告発したら、アンタあいつらに捕まっちゃうんだよ」警官が歩いて行った方向にサキは顎をしゃくった。


「アンタも怖いんでしょ。だから警察に嘘ついたんだよ」レイカがにやにやしていた。


「もう、アンタも共犯ってこと」


 サキはにやりと唇を緩めた。

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