第2話 サキという女

村山春雄は向かいに座った男を見た。


 歳は三十代前半くらい。村山とほぼ同年代だろう。地味な紺のスーツに七三に分けた髪、銀ぶち眼鏡。挙動不審にきょろきょろと動いている目を除けば、本当にどこにでもいるタイプの男だった。


 村山は新橋駅の駅員になってから三年が経つ。痴漢を働く男の大半が、今、目の前に座っている男のように、特徴のない、普通の会社員なのだということを、この三年間で嫌というほど知った。


 日本のサラリーマンは疲れている。


 こんな言葉を、村山は駅員室で痴漢を疑われる男たちと向かい合うたびに実感する。


 だからといって痴漢を許しているわけではない。無抵抗の女性を、自分のストレスや性的な欲求を満たすためのはけ口とする卑劣な犯罪行為だとの気持ちは持っている。いや、むしろそんな状況に日々接しているからこそ、怒りはより大きいとさえ考えていた。


 それでもなお、こうして男たちと向かい合うたびに、いいようのないやり切れなさが心の中に広がっていくのを、村山は抑えることができなかった。


「失礼ですが、お名前をお聞かせいただいてよろしいですか」


 村山はできるだけ穏やかな口調を心掛けていった。


「いう必要はないな」


 男は村山と目を合わさず、胸の前で腕を組んだ。


「ちょっと、おじさん。何よ、その言い方」


 村山の後ろに立っている女がいった。最初は彼女のほうが被害者だと思っていたが、そうではなかった。ショートヘアが気の強そうな切れ長の目によく似あっている。確認した学生証には松村麗華とあった。良家の子女が多く通うことで有名な私立高校の学生だった。


「お前ら、何の目的があってこんなことをするんだ。僕に何か恨みがあるのか」


 男が麗華を睨みつけた。


「まだ、そんなこといってる。駅員さん、早くこのオジサン、警察に突き出しちゃってください」


「いや、まあまあ」


 村山は苦笑しながら隣に座る澤田沙希に目を向けた。長い睫毛に縁どられた、黒目がちの大きな目。艶のある長い黒髪に、すっと伸びた白く長い首の小ぶりな顔。座る姿勢も美しい。椅子に浅く腰掛けた背筋を真っすぐに伸ばし、揃えた膝の上で両手を重ねている。松村麗華とは正反対のしっとりと落ち着いた、いかにも良家の子女という雰囲気をまとっていた。


 村山は男に目を戻した。


「ご存じかどうか分かりませんが、痴漢というのは親告罪なのです。あなたがどのように言おうとも、こちらの方が被害にあった、とおっしゃる限りは罪に問われてしまうのです」


 男は目を剥き、身を乗り出してきた。


「そんな馬鹿な話があるかっ。やってもいないことで罪に問われるなんて」


「ですから――」


「警察に届けるつもりはありません」


 村山の言葉に被せて、沙希が静かにいった。


 村山は、もう一度沙希に目を向けた。あどけない少女の白い横顔が何故かひどく冷たいものに見えた。


「駅員さん」沙希が村山に顔を向けた。「この方にも、ご家族があって会社での立場もあると思います。今、私が警察に届ければ、そういった方々はどうなりますか」


「いやあ、それは……」滅茶苦茶になってしまうだろう、とはこの場で口にできなかった。


村山は、痴漢で告発され、この駅員室から警官に連行された人間を何人も見てきた。連中がその後どうなったかまでは知らないが、容易に想像がついた。痴漢で何日も禁固されることはないはずだ、だが『痴漢をした男』というレッテルが彼らに貼りついてしまうのは間違いがない。


 沙希が、言葉を濁している村山をじっと見つめた後、また男に目を戻した。


「わかってらっしゃると思いますが、あなたが痴漢をしたという事実は、警察に届けた段階で家族や会社の知るところになると思います。その事実を知った家族――」そこまでいって唐突に沙希が言葉を切った。


村山は沙希を見た。男がテーブルに置いた指先を見ている。左手の薬指に指輪が光っていた。


「奥さんや、会社の同僚の皆さんは、どういう態度を取るのでしょうか。そもそも痴漢は犯罪です。前科を持つ人間を、会社は雇用してくれるのでしょうか」


「僕はやっていない。従って痴漢で逮捕されるなんてことはあり得ない」


「では、やってないとあなたが主張するとします。当然、私はあなたの行為を警察に告発します。あなたは認めない。おそらく裁判になると思います。そうなればあなたは、裁判のために長期間拘束されます。会社側も、そんなあなたに責任ある仕事を任せることはできない。万が一、敗訴になれば、掛かった費用は全てあなた持ちです」


 沙希が白い横顔を微動だにせず、淡々と続けた。


 村山は、その横顔を眺めながら背筋に冷たいものを感じるのを抑えられなかった。いったいこの娘は何なのだ。


 男の態度が明らかに変化してきた。髪を掻きむしり、ネクタイを緩める。眼鏡のレンズが顔じゅうに浮かんだ汗で白く曇っていた。


「な、何を言いたいんだ。君は」絞り出すような声でいった。


「あ、わかった」


 麗華が、この場に似あわない甲高い声をあげた。村山は思わず振り返り見上げた。


「サキは、あんたに謝ってほしいのよ。警察になんていわない。ただ、あんたが罪を認めて謝ってくれれば、それでいいんだよ。ねっサキ、そうだよね」


「そうなんですか」


 村山は沙希の横顔にいった。沙希は何も答えなかった。ただじっと男を見つめている。


「そう、なのか……?」


 男が窺うような目を上げた。その目には狡猾な光が滲んでいるように村山には見えた。


「名刺をいただけませんか」白い横顔がいった。


 男が沙希に向けていた目を見開いた。だがそんな視線にかまわず沙希が続ける。


「ご自分の素性を明らかにした上で謝っていただきたいのです。そうでなければ、あなたの謝罪に責任が生まれないと思うからです」


「ちゃんと明らかにした上で、謝れば警察には訴えないってさ。わかる? おっさん」


 男は黙って沙希を見ていた。迷っている、と村山には見えた。この男が本当に痴漢を働いたのかどうかは、わからない。けれど、今この場で認めて謝ってしまえば警察に突き出されることもない。一時的な恥をしのげば、又、元の生活に戻れる、けれど本当にそうなのか、本当にこの娘は約束を守るのか――男の心の中が手に取るようにわかった。


「どうされますか」


 村山は男にいった。その言葉が男の心を決めたようだ。上着に手を入れ、名刺入れから一枚を抜き出した。


「三枚、いただけませんか」沙希がいった。「一枚では他人の名刺を出すこともできますから」


「この期に及んでそんなことをするはずがないだろう」そういった男の声には、もはや芯がなかった。完全に抵抗する気を失っているように見えた。


 男は名刺入れからあと二枚を取り出して、テーブルの上を滑らせた。


「へえ、社長さんなんですね」沙希が上半身を倒して名刺に顔を近づけた。名刺にはいっさい触れようとしなかった。


 村山はそんな沙希の姿を改めて見た。名刺を一枚でなく、三枚くれといってみたり、さっきの見事な裁判のくだりといい、痴漢の被害にあったのは初めてだと聞いたが、とても初めての場での態度には見えなかった。落ち着き払っているし、何より他人を寄せ付けない毅然としたものを感じる。最近の高校生は皆、大人びていると感じていたが、これほどなのだろうか。


 男の名刺には『株式会社基材産業 代表取締役 佐伯賢治』とあった。村山は意外な感じを受けた。この男の持つ神経質そうな雰囲気と、村山が持っている経営者のイメージが結びつかなかったからだ。


「何をしている会社なんですか」沙希が訊いた。


「そんなことは何だっていいだろう」


「あー、そんな言い方したらまずいんじゃないの。せっかくサキが許してくれるっていってるのに」


 麗華の言葉に、佐伯が顔を歪めた。


「いろいろな会社に提供する新しい素材の研究開発を行っている」憮然としていった。


「へえ、新しい素材ですか」


 沙希が顔を上げた。大きな目がさらに見開かれて、瞳がきらきらと輝いているように見えた。初めて見せた高校生らしい顔つきだった。


「どんな素材なんですか」


「そんなこと言えるはずがないだろう」


「あっ、企業秘密ですか」


「そうだよ」佐伯が投げやりにいい、うんざりといった様子で顔を横に向けた。


「じゃあ、どんなところに提供しているんですか」


「それも――」


「ねえ佐伯さん。あんまり調子に乗ってたら駄目だよ。今の自分の立場をもっとわきまえないと」


 また麗華が口を挟んできたが、沙希が目顔で制するように振り返った。麗華が小さく舌を出し、肩をすくめる。


 その様子を見て、村山は沙希と麗華の関係を見たような気がした。


 佐伯は渋々、沙希の質問に答えた。出てきた会社名は誰もが知っている大企業ばかりだった。


「へーえ、じゃあ佐伯さんの会社は大儲けだ」


 村山はその言葉にまた沙希を見た。薄い唇から白い歯が覗いている。何かそのものいいに、抱いていたイメージとは別のものを感じ取ったからだ。


 佐伯が沙希に深々と頭を下げて謝罪した。


 村山は、その様子を無表情で見つめる沙希の横顔を見ていた。


 初めてこの娘を見たときの印象が完全に変わっていた。


 村山は沙希という娘に何か得体の知れない、薄気味悪さすら覚えはじめていた。

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