詐欺師万起雄の善行2

@kosukeKatori

第1話 今日のカモ

レイカがガムを噛みながら、サキの隣に立っている男に顎をしゃくった。


 サキは吊り下げ広告を見るふりをしながら、男の顔を見上げた。


 年齢は三十代前半くらい。髪を七三に分けた銀ぶち眼鏡。紺のスーツに白いワイシャツ、細かいストライプのネクタイ。つり革を握ったまま。じっと窓を流れる景色をながめている。


レイカが目を付ける男は、いつも同じタイプだ。真面目に勉強して、いい大学に入って、いい会社に就職できましたって感じの優等生。でもそんなレイカの勘は外れたことがない。


(オッケー)


 サキはレイカにウィンクすると、息を吸いこんだ。


「やめてくださいっ」


 とたんに乗客の視線が集まった。隣の男も目を丸くしてサキを見下ろしていた。


「いやらしいことするの、やめてもらえませんか」


 サキはわざと大きな声でいい、男を睨みつけた。


 男は自分に言葉が向けられていると思っていないようだ。レイカと目を合わさずに、きょろきょろと周りを見まわしている。


いや、本当はわかっているのだ。周りへの恥ずかしさから、自分とは関係ないふりをしている。こういうとき、男はほとんど同じ態度を見せるのが、サキにはおかしくてたまらなかった。


「他の誰かじゃありません。あなたです」


 視線を男にすえたまま、サキは続けた。もちろん、唇をわなわなと震わせながら。


「え? 僕?」


 男は眼鏡の奥の目をぱちぱちと瞬かせた。


「あんたに決まってるでしょ。アタシ、最初から見てたんだから」


 レイカが満員の乗客を押しのけながらいい、男の向かいに移動した。


 サキは黙って男の顔を見つめていた。その目には精一杯、怒りの色を滲ませているつもりだった。


(さあ、どう出る? 大声出して逆ギレする? それとも完全無視?)


 サキには、男が次にとる行動がほとんど予想できていた。男なんてみんな一緒だ、と思っていた。 


電車がレールを踏みならす音が規則正しく続いている。ビルの谷間からこぼれた西日が電車の窓からオレンジ色に差し込んでいた。


 周りの乗客で、まだこちらに目に向けている者はほとんどいなかった。けれど連中が、すました横顔の全神経を耳に集中させてやり取りに聞き入っていることを、サキはわかっていた。


「まいったな」男が頭を掻いた。「僕が何をしたっていうんだ」落ち着き払った声でいった。


 おやっ、と思った。こういう反応をする男は初めてだった。公衆の面前で痴漢呼ばわりされて冷静でいられる男はいない。ましてや身に覚えの全くないことなのだから尚更だ。なのに、この男は――まさか、こういう経験が初めてじゃないのか? ひょっとして本物の痴漢?


「とぼけんじゃないわよ。アンタさっきからこの娘のお尻ずっとさわってたじゃない。『僕が何をしたっていうんだ』なんて、気取った言い方してんじゃないわよ」


「何も気取っているわけじゃない。僕は――」


「だから、それが気取ってるって言ってんのよ。痴漢しといて『僕が――』なんって常識人みたいな口きいてんじゃねえっつうの」


 レイカが更に声を張り上げた。いつもながら迫力満点だった。


「何を言ってるんだ、君は」


「はあ? それはこっちが訊きたいよ。あんたこそいい歳こいて、いったい何をやってんのよ。すっ呆けんじゃないわよ」


「いや、そんな……」


 とうとう男もレイカの迫力に押し切られたようだ。汗でずり落ちた眼鏡を人差し指で押し上げながら、言葉を濁した。


「しかし……やってないものはやってない」


「あんた、逃げられると思ってんの。冗談じゃないわよ、ぜったい許さないからね。ねえ、サキ」


 レイカが顔を向けてきた。サキは男から目を逸らさずに頷いた。男を追い込むのはいつもレイカだが、とどめを刺すのはサキだ。


 電車は浜松町を出てから、まもなく新橋に到着する。乗降のどさくさで男に逃げられないようにするためにも、そろそろカタに嵌めておく必要があった。


 サキはうっと顔を伏せ、嗚咽の声を漏らした。そうしている間に目に涙をためる。


「サキ……、大丈夫?」


 レイカが背中に手を添えた。少し手間取ったけれど、ここまではシナリオ通りだ。サキは涙で頬を濡らせたまま、顔を上げた。


「次の駅で降りてもらえませんか」


「は? 何で?」


 男がひきつった笑みを浮かべながら、ゆらゆらと顔を左右に振った。


「こんな卑怯なことをしておいて、あなたは何もしないつもりなのですか。少なくともあなたに謝ってもらわないと私の気がおさまらないです」


 恥ずかしさや恐怖に耐えながら、けなげに抗議する少女。そんな姿を演じながらサキはいった。


(さーて、そろそろ来るかな?)


「馬鹿な、やってもいないことに謝るなんて、できるわけが――」


「おいオッサン、いい加減にしろよ」


 男の言葉をさえぎって、突然うしろで声がした。


(来たっ)


サキは心の中でほくそえみながら振り返った。


毎回、このくだりにさしかかると、必ずといっていいほど乗り合わせた男が声を挟んでくる。薄っぺらい正義感だ。痴漢の被害者に加勢するという立場ならば、自分は面倒に巻き込まれず、完全な安全圏の中で相手を責め立てられるからだ。


 サキはそんな男たちに、痴漢と同じくらいの狡猾さを、毎回感じとっていた。


 声を上げたのはジーンズ姿の若い男だった。髪を金髪に染めて耳にピアスが光っている。二人連れらしく、隣にも同じような格好の男が目を鋭くさせていた。こちらの髪は真っ赤だ。薄っぺらい正義感がお似合いな、薄っぺらい連中だった。


「君、大丈夫かい」


 赤髪がサキの肩に手を置いた。


「大丈夫です。すいません」馴れ馴れしく触ってんじゃねえよ、とはいわない。


「おいオッサン、往生際が悪りいんだよ。とっとと認めろよ」


 金髪が、低く太い声で凄んだ。


「何だ、君らは。関係ないじゃないか」


「ああ? 関係ねえ女の子に痴漢してんのは、あんたじゃねえか」眼鏡男の胸倉をつかんだ。


「あっ」


サキは思わず声をあげた。


 まずい。この馬鹿が手でも出そうものなら、本当に警察沙汰になってしまう。サキは金髪男の手に触れた。


「あ、あの……ワタシ、大丈夫ですから」


「え、そう……なの?」


 金髪男がなぜか顔を赤らめて、サキに顔を向けた。


「ちゃんとこの人に話をしますから」


「ちょっと待ってくれよ。話って何だい。僕は君と話をすることなんかないぞ」


「テメエ、まだそんなこと言ってやがるのかっ」


 金髪男が怒鳴るのと同時に、新橋駅への到着をつげるアナウンスが流れた。


「逃げようたって無駄だかんな。オレらが駅員室まで連れてってやっからよ」


 金髪がチラチラとサキに目を遣りながらいった。


「えー、オニイさんたち、何か格好いいー」


 レイカの甲高い声に、マキは噴き出しそうになった。きっと金髪か赤髪のどちらかが、タイプなのだろう。最近のレイカは『いい男いる?』が口癖になっている。


 電車が新橋駅に到着した。金髪と赤髪が、抵抗する眼鏡男を強引にホームに引きずり出した。


「おい、テメエ大人しくしろっ」


「離せっ、僕は何もしていないっ」


「だから、それをはっきりさせようって言ってんだよっ」


 眼鏡男が二人の男から逃れようと、激しく抵抗している。だが、男たちは眼鏡男の両腕を掴んで離さない。


 サキはその様子を眺めていた。もちろん他人から見れば、自分では何もすることができず、ただ茫然と立ち尽くしているという表情を作りながら。


 騒動に気が付いた駅員が駆け寄ってきた。


「どうしましたっ」


「駅員さん、コイツ痴漢だよ。今から駅員室連れてくからさあ、手伝ってよ」


「俺は何もしていないっ。駅員さん、僕は無実だっ、言いがかりだっ」


 眼鏡男は完全に取り乱していた。最初の落ち着き払った態度が嘘のようだった。


「テメエ、まだそんなこと言ってやがんのか」


 金髪が眼鏡の頭を小突いた。


「まあまあ、お客さんも落ち着いて下さい」


 駅員が金髪にいってから、眼鏡男に顔を向けた。


「あなたも、落ち着いて下さい。ひとまず話を聞かせていただけませんか」


「何を話すっていうんだ。何もしていないんだから、話しようがないじゃないか」


「ですから、そこのところをはっきりさせればよろしいじゃないですか」駅員がサキを見た。「あの、えっと、あなたたちが……」


「そうです」


 レイカが答えた。


「そうですか、ではお手数ですがあなた方も来ていただいてよろしいですか」


「もちろんです。卑怯な男は許せませんから」


「なに――」


 眼鏡男が目を怒らせたので、レイカがきゃっ、と大袈裟に後ずさった。

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