第48章 夢の終わり、夢の続き

 それからもしばらくハンナの行方は分からなかった。

 ストロベリーフィールドでは、結界で閉じている間は、ライラとルーク、ジャックの三人だけが朝から晩まで働き続けていた。精霊の力が無ければとっくに倒れていた事だろう。今年二度目の出荷が完了した頃、ミチコは息を引き取ったのだが、ほとんどの仕事を終えてから旅立つのは、全くミチコらしかった。

 けれど、ハンナのことが心残りであったに違いなかったろう。もうずいぶん前から覚悟はしていたが、ルークとライラの祈りの力でミチコは生き永らえていたのだ。ライラの提案で、ハンナが戻って来るまでは、その亡骸はスノーマウンテンの麓の精霊の谷で、そのまま保管することになったのだが、それもそろそろ限界だった。夏が近づいているのだ。

 ストロべリーフィールドはもうすっかり全てが緑色に変わり、ところどころで白い花が見えていた。虫たちは忙しく働いてくれていた。このエリアが閉ざされてからもう三度目の収穫時期を迎えようとしている。パトラが消えてからというもの、ハンナのママ、ミチコとふたりで守られていたストロベリーフィールドは、ミチコ亡き後は、それを引き継いだライラがひとりで守っていた。

 虫たちは、もうずいぶん前からライラにストロベリーフィールドの結界を解けと言っていた。確かに虫たちの言う通り、狭い世界で閉じていても問題の解決にはならなかった。何よりライラは、結界を張り続けることで相当疲弊していたのだ。ライラの状態を見かねた妖精たちや虫たちは、ミチコと同じようになるのではと心配し、もう十分だ、自分たちのことは自分たちで何とかするからと言っていたが、ライラはいつもこう答えていた。

「パトラにできたことが、あたしにできないなんて、自分が許せないんだよ」

 けれど、それももう限界だった。ルークにもずっと手伝わせるわけにはいかなかった。誰の目にも荒れ地にしか見えなかったストロベリーフィールドは、そうしてついに、ライラがその結界を解くと、その本来の姿を完全に露わにした。

 呪いをかけられていると噂になっていたフィールドは、実際には昔のままだった。結界が解かれ、花の香りが漂い始めると、ひとり、ふたりと村人が見に来た。そうして「畑に緑が戻って来た! 土が蘇った! 畑に花が咲いている!」と歓喜の声をあげ人々を次々と連れてくるようになった。すぐに昔のように皆が力を合わせて働き始めるようになり、ようやくライラは畑仕事からは少し解放されるようになっていった。

 誰かと何かをすることはライラにとっては苦手なことだった。他の人に頼ることも苦手だったライラだったが、誰に何を言われなくとも、互いに協力しながら手伝おうとし始める村人を見て、ライラは不思議な気持ちだった。

 パトラに変わり、精霊使いになったライラを、村人は最初遠巻きに監視しているようだった。けれど、その美しいストロベリーフィールドをほぼひとりで守っていたのがライラだったと分かると、村人の態度は一変した。

「ライラ様、今日もいい天気ですね。まだ村の花は戻りませんが、きっとまた元に戻りますよ。ここは我々に任せていいですから、少しは休んでください。経験者や守り人の偽物を捕らえたのもライラ様なんでしょう。おかげで私たち騙されずに済んだんですよ。収穫が終わったら、皆でお祝いしましょうね。また祭りができるようになればいいですね」

 そう言って、村人は、お供えだと言ってライラのところへ野菜や生活に必要なものを届けてくれるようになった。ライラは、そうやって人々に感謝されることが気恥ずかしく、感謝の表現がどうにもできずにいた。けれど、パン屋のアミカから教えてもらったように、無表情ながらも、「ありがとう」という言葉だけは言えるようになっていった。

 ライラが、疲弊していたのには、もう一つ理由があった。小さなころから真面目で生きることに不器用なライラは、精霊使いとなってからも週に三日、誰もいない早朝にパンを焼き、それらを店に並べてからフィールドに戻って虫たちと畑で汗を流していたのだ。心配したアミカの手紙が、何度か村の下宿の郵便受けに入っていたこともあったが、給料はもうずっと受け取ってはいなかった。

《下宿は引き払ってもらえますか。お給料は、いただいていくパン代にさせてください。いつか戻ります》という手紙だけを店に残して、ライラはいつも余分にパンを作り、ルークたちの食糧にと持って帰って来ていた。もちろん給料の方がずっと高いのだけれど、食べて寝ることができるだけでライラにはもう必要なものはなかった。パンを作っている時だけは、ライラは精霊使いであることを忘れられたのだ。

 実際は、ライラは、店が開く直前にアミカと何度もニアミス、というか店で出くわしていたのだが、姿を消しているライラの姿はアミカには見えてはいなかった。

 アミカが『今日も会えなかった。一体何時に来ているんだろう』と、夫でパン職人のトリーゴに愚痴をこぼしている姿をライラは何度も店の外から見ていた。

 ここで楽しく働きたかった……。

 後悔して後ろを振り返りそうになる心の闇を、ライラは必死で振りほどき続けた。

『未来へ一歩進もうとする時、過去の栄光や輝きは、心の闇と繋がり、前に進む力を失わせる』

 その言葉をライラは、ユラ神様から何度も聞いていた。その時のライラには分からなかったが、今は、「あの道を選んでいれば」という心の声が、その迷いが、前に進めなく力となることを今のライラは知っていた。

『どんな結果になろうとも、自分で選んだ道は《間違い》ではない。人から与えられた道を歩くことこそ間違いなのだよ。間違った道を歩いたことに気づけたなら、また曲がって、違う場所に行けばいいだけさ。気づけた自分を褒めてあげればいい。知らない方向へ進むことは、何も怖いことでは無いんだよ』

 苦しい時、そのユラ神様の言葉が、いつもライラを励ましていた。

 そうして、いよいよアミカが、『こうなったら、店に泊まり込んで見張ってやる!』と、言い出した時、ライラは店に行くことを諦めた。

《遅刻したら、即解雇》

 トリーゴが書いた汚くて読めない文字を思い出し、ライラはほんの少し涙ぐんだ。

「クビになっちゃったけど、こっちの材料で作るんなら文句ないだろ……」

 ミチコに再会してからライラの心はすっかり乱れていた。だが、ミチコが亡くなってからは、ライラは精霊の谷のキッチンで、精霊たちが集めたウエストエンドの粉でパンを作り、精霊たちに頼んで、出来上がった山のような数のパンを毎日アミカの店に届けさせるようになり、それがライラにとって、心の安定剤のような役割を果たしていた。

 偽の《経験者》と《守り人》たちが捕まり、彼らの何人かが下働きを終えた後、心を入れ替えて村に戻れるようになると、ライラがパトラに変わって村の精霊使いになったということが村に徐々に広まっていった。それまで、村から精霊使いがいなくなったことに落胆していた人々は、また花に溢れたフラワーバレーが戻って来ると期待し、喜んだ。

 それからしばらくして、村のパンアミカピストリナは突然閉店し、その跡地にはすぐに別のパン屋ができた。それを知った時のライラのショックは大きかった。閉店の理由はライラには分からなかったが、アミカも、トリーゴも、畑には一切顔を出すことは無く、行方が分からなくなってしまっていた。

 こうしてライラのささやかな楽しみと心安らぐ時間は、完全に消えてしまった。

 ストロベリーフィールドで、声をかけ合い、汗を拭きながら笑顔で働く村人たちを見ながら、ライラは呟いた。

「いったい私は何のために、こんなことをやってんのかね。でも私にはまだやるべきことがあるようだからね。そうだろ?」

 天を仰ぎ、ライラはミチコの笑顔を思い出した。

 大量の荷を抱えたペガサスに乗ったルークが、畑の外で座り込んで空を見上げているライラに向かって声をかける。

「こんなことをしたところで、焼け石に水では無いのですか? 広げたエリアの苗は、相変わらず生育が悪いようです。ところで、うちにいるあの偽物たちですが、いったいいつまで……」

 ルークがそう言いかけた時だった、青い光がひと筋、東の空から立ち昇り、ルークの頭に声が響いた。



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