第43章 老科学者と助手

 これは何の匂い?

 ハンナは咄嗟に鼻と口を押さえた。薄暗い部屋の中で声が響く。

「いい加減、挨拶ぐらいすべきではないかね。人の家に入るのに無言とは。まったくどんな教育を受けとるんじゃ」

 声のする方を見つめようとハンナは一歩前に出た。いつの間にか至近距離にあの老人が立っている。もう帽子は被っていない。耳は小さく平たかった。グリーングラスをあれほど嫌っている様子を見せていたので分かってはいたが、老人がグリーングラス人ではないことがはっきりと分かって、ハンナは肩の力が抜け、緊張が少し緩んだ。

「さ、消毒完了だ。その子をそこへ」

 老人が指さしたところは少し離れたところにあった。部屋の隅がふっと明るくなり、銀色の台が見えている。それは、あの塔の部屋で見たものとそっくりだ。ハンナはレオを背負ったまま動けなくなった。

「あなた、誰? レオをどうするつもり?」

 ハンナの声に、老人は声を荒げた。

「一体全体、どういう教育をしたら、こんな失礼な子供ができるんだか。だから子供は嫌いなんじゃ。さっさと手伝いなさい!」

 驚くほどの剣幕の声が聞こえたかと思うと、ハンナは足元に何かが当たるような違和感を覚えた。誰かが真後ろに立っている。と、驚いたハンナの背からレオを奪い取り、その影はハンナを突き飛ばした。不意を突かれたハンナは力なくよろけ、壁に肩を思い切りぶつけそうになった。

「……何?」

 ハンナの視線の先には小柄な子供に見える人物がいた。レオと同じくらいにしか見えない子供のようだ。その子供は、レオを台の上に乗せると大きなドーム状のカバーの取っ手らしきものに手をかけ、老人に声をかけた。

「博士、準備できました。まったく、休みをくれるんじゃなかったんですか。また騙された」

 老人はその声を聞くと、忙しそうにドームの向こう側で手を動かし始めた。ハンナは、呆気にとられてその様子を何も言えないまま見つめていたのだが、ドームが自動で閉じ始めたのを見て、慌ててレオを救い出そうとドームに触れようとした。

「馬鹿もの! この子を殺す気か。人の好意を踏みにじるつもりならそれもよかろう。しかし、それを開けた途端に途端にその子は終わりじゃ。お前には何もできんのじゃから、せめて邪魔をせずにじっとしておれ!」

 老人の言う通りだった。いずれにしても自分にはレオをどうすることもできないのだ。ハンナの隣では上目遣いにさっきの子供がハンナを見つめている。

「手当をしているだけだよ。今のところ」

 子供が言った《今のところ》という言葉に引っかかりながらも、ハンナはここまで自分に危害を加えようとしなかった老人を信じるしかないと考えた。

「全く、お前はいつも一言多いな。静かにしてくれ。この子は、相当疲弊しておるようだ。あのままでは危なかったな。一体何があった」

 忙しそうに手を動かす老人を見つめながら、ハンナは呟いた。

「お願い、レオを助けて」

 それだけを言うと、ハンナの目には緊張の糸が切れたように涙が溢れた。

「そんなことは聞いておらん。何があったのかと聞いておる」

 一旦泣き始めると堰を切ったように涙が溢れ、ハンナはしゃくりあげ始めた。

「あ……分から……ない。けど……グリーングラスで、何か……黒いものに……わたし……家に帰りたい……」

 しゃくりあげながら言葉が思うように出て来ない様子のハンナと、ドームの前にある幾つものスイッチを交互に見つめながら、老人は険しい顔をしている。

「なんでグリーングラスの奴らなんか連れて来たんです。まさか、研究目的の誘拐?」

 泣いているハンナの横を子供が文句を言いながら通り過ぎ、何か大きな器具を持つと、また老人の方へと移動した。

「わしゃ、連れてきてはおらん」

「うそばっかり」

「勝手についてきよったんじゃ」

「はいはい」

「『はい』は、一回で良い。二回目を言うと吸収したはずの貴重な情報が脳から漏れる」

「はいはい」

「だから、お前は成長しないんじゃ」

「はいいいいいい。超非科学的!」

 子供は生意気そうに老人に口答えをすると、ハンナのところへやって来てハンナを見上げた。

「こっちの子も、なんか装置が付いてるような……」

 その声に反応してハンナは泣くのを止め、その子供を見つめた。

「ああ知っとる。それにしても、よくこの身体で生きておったな。相当酷い目にあったようじゃ。これで良し、と。しかし、わしらの言語が分からんようになるのは問題じゃな。取り外してから付け替えるか。ふたり分の外部装置を準備しなさい。すぐ終わるぞ」

「え、もう? ですか?」

「わしを誰だと思っておる。この程度のもの、時間がかかる方が不思議じゃ」

「なんだ、つまらない。久しぶりだったのに」

「お前、休みたいと言ったのはやはり嘘じゃな。することが無くて暇すぎて辛かったんじゃろ。ほれ、正直に言ってみろ」

「博士こそ生き生きしてんじゃないですか。だから、俺たちバカンスなんて無理なんですって」

「お前は分かっておらん、そもそも超非科学的比較文化人類学に心を奪われた医師というものはじゃな、貴重なバカンスの時間を使って、出会ったことのない諸外国のものたちの身体組成や、文化や、食事や、その暮らしぶりを見て……」

「時間ですよ~」

 長い話になると思ったのか、何度も聞かされている話なのか、小さな子供の方はうんざりした顔で、時計のようなものを博士と呼ばれた老人の顔の前で振り動かした。老人は、むっとした顔でドームを開くと、今度は研究者の顔つきになりレオの状態を観察し始めた。レオは相変わらず目を閉じたままだ。老人は、今度はハンナに近づくと、その耳をじっと見つめた。

「どれ、その装置、とってやるから、こっちへ来なさい。そんなものをつけていたら物騒で仕方がない」

 博士は高い台の上に乗っていて、その前に立つようにとハンナは言われた。ハンナは一瞬たじろいだが、博士の言うことに素直に従った。グリーングラスの男が言っていた《追跡装置》が、自分にあるかもしれないことが気がかりでならなかったからだった。

 老人は、「じっとしていなさい」と声をかけると、ハンナの頭の部分に大きなヘルメットのようなもの被せた。ドーム状のヘルメットの中は真っ暗だった。グリーングラスで検査された時の状態にあまりにも似ていて、ハンナは一瞬パニックになった。固定されたように手も足も力が上手く入らず動かないのだ。

「じっとしていなさい。立ったままやるのは繊細な作業だからね、動くと危ない」

 何処からか声がして、ハンナはぎくりとなった。下に目線を移すと、台の上で左右に動く博士の足らしきものが見えている。外の景色が少し見えていることに安心して、ハンナは少し落ち着きを取り戻した。

「心拍安定しています、博士。やっぱ、グリーングラス人だね。心拍数が桁違いだ」

「構造はグリーングラスとやはり同じだ。これで問題なさそうだな」

 その声の後、ハンナは痺れるようなくすぐったいような感覚を耳の奥に感じた。ドームの中は明るくなり、すぐさま博士と呼ばれている老人が、ハンナの顔の前にあったドームを開けて顔をのぞかせた。

「終わったよ。スカイよ、真空処理して完全破壊しておきなさい。部品は再利用するからな」

 ハンナは、何が起こったのか分からなかったが、スカイが透明な瓶に何かを入れているのが見えていた。それから博士はもう一度ハンナの耳に触れた。

「わしの言葉、まだ聞こえているね?」

 ハンナは驚いて頷いた。

「その耳に、取り外し可能な装置を付けておる。外してみなさい」

 ハンナが右側の耳を触ると、耳の上あたりに何かが引っ掛けられているのがわかった。頭からそれを手で取り外すと、ブローチのようなものだった。それは三日月形のシルバー色でキラキラと光る石が沢山ついているとても美しいものだった。

 その美しさに見とれていると、博士が奇妙な言語で話し始めた。不思議な高音が、何度も響くが、その意味はさっぱり不明だ。博士が、身振りで耳を触って何かを言っている。ハンナが首をかしげていると、博士はハンナの手からその装置を取り上げ、もう一度ハンナの髪にその小さな金具を引っ掛けた。

「これはな、言語変換装置じゃ。先端が耳についていれば簡単には外れん。相手の言語を判断して、脳内へ変換した言語シグナルを送っている。右が入力インプット用で、左が出力アウトプット用だ。グリーングラスのは小型の埋め込み型で追跡装置が付いておった。皮膚組織に埋め込まれておったから取り除いておいたよ。これで安心じゃ。言葉が分からんと不便だろうから、ここにいる間はこれを付けておきなさい。そっちの子にも同じものを付けておる。

 ああ因みに、二十時間ほどで機能消失するようになっているからな。バッテリー次第じゃが。明日の昼過ぎには自然破壊される。ここに長居されても困るし、言葉が全部分かると、我々にとっても色々と都合の悪いこともあるのでな」

 ハンナは、また突然意味が解るようになった博士の言葉を不思議な思いで聞いていた。

「栄養状態は管理されておったようだから問題はないんじゃが、筋力がかなり衰えておる。長い間拘束でもされておったのじゃろう。各臓器で遺伝子分離検査も相当されておるな。で、お前、何をして拘束されたのじゃ。何故、山奥にいた? どうやって来た?」

 ハンナは、呼吸を整えると答えた。

「知らない間に、グリーングラスに……つかまっていたの。でも、私、グリーングラスの人間じゃない。本当です。ねぇ、レオは大丈夫?」

 子供が呆れ声でハンナに尋ねる。

「だから、博士は、そのつかまっていた理由を聞いているんだよ。君、名前は? どうやって、ここに来たの?」

「何も分からない……。すごく身体のあちこちが痛くて、起きたら灰色の部屋にいて……」

 ハンナは怖かったことを思い出し、また泣き始めた。それを見て、ふたりはやれやれという顔をしている。

「礼儀がなってないね……」

 小さな声が聞こえた。それはレオの声だった。

「レオ!」

 ハンナが台に駆け寄ると、老人が怒鳴った。

「装置に触れるんじゃない! 何度言えばわかるんじゃ。この馬鹿者」

 驚いたハンナが台のぎりぎりのところで立ち止まると、子供がレオに近寄り、レオの顔に何かの機械を近づけてチェックした。

「大丈夫そうだね。降りてみる?」

 レオは、こくりと頷くと、小さくありがとうと言い、台から降りた。小さな子供に見える子はレオに笑顔で礼を言われたことに驚いた表情を見せていた。台に近寄ったハンナは力強くレオを抱きしめた。

「ああ、良かった。レオ、長いこと助けてあげられなくてごめんね、ごめんね」

 レオは、大丈夫だよと言い、老人と子供の方へ向き直ると、笑顔で声を発した。

「僕ね、レオって言うの。守り人レオじゃないよ。こんにちは」

 子供の方が、まずそれに答える。

「僕は、スカイ。このステラ博士の助手。あのさ、君、子供だからわかんないかもしれないけど、夜の挨拶は、《こんにちは》じゃなくて、《こんばんは》だよ。それに、もう少し細かく言うと、初めて会う人には、《初めまして》が、より良いかもね」

 レオはそれを聞くとキラキラした目をして頷きながら、もう一度挨拶をした。

「初めまして、ステラ博士。初めまして、スカイ。僕ね、とても体が軽くなった。とっても気分が良くなったよ。もう動けないかと思ってたの。ありがとう」

 それを聞いて、慌ててハンナも名前だけの挨拶をすると、老人は「ふん」と言いながら、また忙しく手を動かし始めた。レオはそれを見て、悲しそうな顔になる。スカイと名乗った子供が、苦笑いしながらレオに言う。

「博士はさ、子供が好きじゃないんだ。論理的ではないからだって」

「君は、子供じゃないの? ロンリテキってなに?」

 レオは眉間にしわを寄せている。

「違うよ。子供じゃない。見てわからないの? 論理的って言うのは、考えたことを正しく理由を付けて順序だてて説明できるってこと」

「ふうん……。子供は論理的じゃないんだ。じゃ、大人は皆、論理的なの? ね、君は、ハンナのママが言っていた、小さな大人?」

 レオは合点がいかないような顔をしているが、子供だと思っていた人物は顔を真っ赤にしてすぐさま反論した。

「ぼくたちの種族は、産まれるまでが子供で、産まれた時には大人だよ! そんなことも知らないの?」

「さてと、飯にしよう。来なさい」

 突然の博士の意外な提案に、レオとハンナは顔を見合わせ、しばらく目配せをした後に頷き合った。スカイがふたりに声をかける。

「安心してよ。博士の手料理じゃないから、たぶんだけど、美味しいよ」

 壁のように見えていた場所がガラスに変わると、ガラスの壁が左右に開き、辺りに香ばしい香りが広がった。スカイの後ろに続いて、ガラスの部屋に入ると、部屋の壁は再び色を変える。

「今日は南国の景色にしようかな」

 スカイがそう言うと、ガラスの壁は見る間に変わり、テーブルの周りは一面の海になった。

「わしは、夜の海は嫌いじゃ。そもそも秋らしくない」

 博士が言うと、突然壁は丸太に変わった。床も壁も木でできている。

「やっぱり、これが落ち着くわい」

 満足そうな顔で博士は木でできた椅子に腰をかけた。スカイが「またか」と文句を言いながら席に着く。

「椅子が硬いのか難点じゃがな。映像にクッションを追加しておかねばならん」

「座らないの?」

 部屋の景色が次々変化することに驚いた様子のレオとハンナに、スカイが声をかけた。スカイは、いい香りのする白い箱を、一回り大きな四角い箱から次々に取り出し、テーブルに並べて置いている。

「お前たち、何か月も《噛む》という事をしていなかったようだ。薬漬けで生かされておったのじゃろう。内臓と筋肉が元に戻ってから初めての食事だからな。よく噛んで食べなさい」

 博士はそう言いながら、箱から取り出した大きな塊を次々に口に入れている。その物体が何かはハンナには分からなかったが、言われるがまま目の前の箱を見ると、その中には見慣れた形のサンドイッチがあった。

「コロッケパン……」

 ハンナが呟くと、レオも自分の前にある箱の中を覗き込んだ。ハンナはそのパンをひと口、口に入れると驚いて動けなくなった。同じようにレオも目を丸くして立ち上がっている。

「ねぇ、ハンナ、このコロッケパン、ハンナのママの作った味と同じ味がするね。すごく美味しい」

 それは、ハンナが思っていたことと全く同じことだった。スカイが当たり前のような顔で、答えた。

「この料理はね、脳に反応させて食べるものだから、食べたい味を思い出すんだよ」

 博士が隣で頷いた。

「その時に食べたいものが自動で現れるようになっておる。食べたことが無い物は出て来ないのと、食べたことがない物を食べたいと思って出現させたとしても、その味が分からんのが唯一の欠点じゃ。お前たちの知っている味が、美味しい味で何より。どういう理由でこんな山にいたか分からんが、少なくともお前たちが育った場所では美味しい食事を食べられるほどには愛されていたという事じゃろう」

 その味は、ハンナのママを思い出させるものだった。ハンナの脳裏にある言葉が蘇る。ハンナの心はたちまち不安で一杯になり、パンを口へ運ぶその手を止めた。

 途中で食べるのを止めてしまったハンナの様子を見て、スカイが怪訝な顔で声をかけた。

「どうしたの?」

 ハンナは答えられなかった。声に出すとそれが現実になりそうな気がしたからだ。想像するだけで手が震えてきたハンナは、パンを箱に戻した。博士は黙々と食事を口にしながら、スカイに言う。

「何か、思い出したくないことがあったんじゃろうな。味から記憶が導かれたのじゃろ。脳はいたずら好きじゃからな。答えたくない者に答えさせなくてよい。じゃが、食べることだけは、忘れてはいかん。まぁ、脳が拒否した時点で、もう味はせんじゃろうがの。ふたりには明日にはここを離れてもらわねばならんが、その前に色々と聞きたいことがある。どうせ今日はもう何処へも行けんじゃろうから、今日はとりあえず休みなさい。遅いから話は明日にしよう。スカイよ、悪いがこのふたりを頼む。さっきの追跡装置を見る限り、グリーングラスから追われていることは確かなようだ。ひと寝入りしたら、朝日が昇る頃に奥の間に連れてきなさい。わしはまだやることが残っておるので先に失礼する」

 博士はあっという間に食事を済ませると、そそくさと部屋の外へと消えていった。

「マジかよ……。バカンスじゃなかったのかよぉ」

 スカイは、休日出勤の超過勤務だとひとしきり文句を言ってから、追加の食事をテーブルに並べ出した。よく見ると白い箱の中から、湯気の立った物体が次々と現れてきているようだ。レオは心配そうにハンナを見つめたままだ。ハンナは不安な心を押し殺したままで、その不思議な白い箱を見つめながら、博士に言われたようにすっかり味がしなくなった物体を口に運んでいた。

 ママ……この人たちを信じてもいいよね。

 レオの赤いバングルが一瞬点滅した気がして、ハンナはレオを見つめた。レオもそれに気づいたようだ。スカイは黙々と食事をとっている。ハンナはふと、もしかしたら、今ならルークが呼べるのだろうかと思い、心で念じ始めた。

 ルーク、聞こえる?

 ハンナの指輪から青白い光が漂う。天に抜けるはずのその光は、揺らめきながら天井でとどまり消えた。今度は流石にスカイもそれに気づき、険しい顔になった。

「お前、何をした?」

 さっきまでの友好的な笑顔は消え、スカイはハンナを睨み付けた。丸太小屋の温かみのあった部屋はたちまちガラスの部屋に変わり、食卓の上には四角い箱に入った物体だけが並んだ。

 スカイは急いでガラス扉の向こう側へと姿を消した。スカイが消えると同時に部屋の中は暗くなり、灰色の壁が四方を囲む。グリーングラスの塔の部屋にそっくりな部屋にハンナとレオは怯えながら寄り添った。

「あの、ごめんなさい。悪気はなかったの。どうしても会いたい人がいたの。ごめんなさい」

 ハンナが叫ぶと、部屋の端の壁が開き、ベッドが二台現れた。天井のほうからはスカイの声がする。

「テーブルの上の食べ残しは食べてもいいけど、単なる栄養剤に変わっているから味はしないと思うよ。博士は一度研究室に入ったら出て来ないんだ。悪いけど、君たちをどうするかは明日だ。お休み」

 その声を最期にスカイは返事をしなくなった。博士の命令を聞いているならば、おそらくどこかでふたりを見張っているのだろう。ハンナは大きくため息をひとつつくと、怯えた顔のレオを抱き寄せた。

「ハンナ、コロッケパン消えちゃったね」

「うん。もともとなかったのかもね」

 ハンナはテーブルの上に転がる丸い物体を手に取り答えた。白や赤、緑の丸い物体がいくつか転がっている。ハンナは立ち上がり、怖がるレオを部屋の奥に見えていたベッドに寝かしつけると子守歌代わりの唄を歌い始めた。明日にはここから出られるという博士の言葉を信じるしかなかった。ひとりならとっくに心が折れていたかもしれない状況だった。けれど今は元気になったレオがいる。ハンナはレオの背中を優しくなでながら、眼を閉じた。

 ここは病院なのかな。フラワーバレーで見たことない物ばっかりだった。でもとにかく助けてくれたんだ。これからもきっとレオと精霊が私を守ってくれる。私も必ずレオを守ってみせる……。

 フラワーバレーの伝説の唄が、暗い室内に響くと、その音に合わせて部屋の景色が変わり始めた。花にあふれたフラワーバレーと、白いストロベリーフィールド、その上を忙しそうに黄色のテントウムシが飛んでいる。レンガ造りの図書館と遠くに見えるスノーマウンテン、真っ青な空の高いところに七色蝶が飛び輪を作る。

 部屋の四方の壁がそんな明るい色彩に彩られていくことに気づくことも無く、ハンナは目を閉じ唄っていた。あの食べ物に睡眠薬でも入っていたのだろうか、子守歌を歌いながら自分自身も少しずつ深い眠りに落ちていく。

 温かい春の日の景色は、少しずつ途切れ、映像が乱れた後に突然消失した。

 隣室にはスカイがいた。一度研究室に入ると滅多なことでは出て来ない博士も、研究室から出てきてスカイの部屋にいる。

「これはどういうことだ?」

「不思議ですね」

 スカイが丁寧に答えると、博士は首を傾げながら頷いた。

「報告しようと思っていたんですが、さっき部屋に青白い光が漂ったんです。多分ですが、あのハンナという娘の指輪からだと思います」

 博士と助手がいた奥の部屋は、バカンス中のスカイの寝室でもあり、研究室でもあり、兼、隣の捕獲室にいる検体を見張るための監視部屋でもあった。

 ハンナとレオのいる部屋の映像は、ついさっきまでスカイの部屋の壁一面にも映されていた。

「パンパスグラスの言語を話してますけど……」

「レオという者の方は?」

「グリーングラスと他の種族の混合遺伝子で間違いないかな。ただ気になる点が……」

「何だ」

「かなり不安定、というか遺伝子結合が妙です。分離速度が通常の数十倍以上の速さで。でももう少し調べてみないと……。」

「何故追われているか。だな」

「異種ですが、あの年齢まで生きられたんなら、やっぱりスパイにされたとか。いずれにせよ、あの国では生きにくそうですよね」

 博士はしばらく考え込んだ後、スカイに指示を出した。

「脳内記録の解析はどの程度可能だ?」

「この年齢なら、朝まであれば、半分くらいまでは完了すると思いますけど……。この映像みたいに、脳が自然に思い出して見えているのとは違いますからね。全部把握できるように映像化するには時間が……」

「では、頼む。ボーナスは弾むよ。君にしか任せられんからな。じゃ宜しく」

「はぁああああ。やっぱり今回も休みなしかぁ。出来る男って辛いよなぁ」

 スカイの溜息を聞きながら、博士は嬉しそうに再び自室へと戻っていた。表情を変えたスカイは、不思議なかたちのゴーグルをかけると、映像の映る壁に近寄り、忙しく空中で前後左右に手を動かし始めた。


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