第42章 瀕死の龍
大きな川を目前にして巨大な龍は突然その高度を下げ始めた。はるか彼方には、小さくスノーマウンテンが見えている。
「レオ、どうしたの?」
ハンナの呼びかけに、龍は答えなかった。見える景色はどんどん低くなってきて、前方に見えていた川は完全に見えなくなった。龍は急速にその飛ぶ力を失い、高度はさらに下がる。
低い防波堤のように見えていたものが実際には川の手前にある山脈だとハンナは気が付いた。
「レオ、山にぶつかるわ!」
その声に反応したのか、山の上ぎりぎりのところまで高度を下げた龍は、口を開き空気を吸うと必死の形相で再び僅かに高度を上げた。けれどやはりハンナの呼びかけには答えることは無かった。あともう一息で川を超えるという寸前で、龍は再び完全に力を失ったように川面めがけて落ちていく。
「レオ! レオ!」
ハンナが叫ぶと、龍は薄く目と口を開けた。小さく息を吸うと、龍はその身体をねじりながら川の中央に浮かぶように見えていた島へと飛ぶ方向を変えた。川の真ん中に浮く小さな島は、海の中から押し出されたかのようなドーム状の山のような姿で、島の両端が切り立った崖になっている。
遂に龍は力なく島の山肌に腹をこすりながら地面に激突した。辺り一面が砂ぼこりで真っ白になり、地響きがうなりを立てる。
龍は激突した後にその衝撃で何度も転がった。最期に力尽きた場所は、島の端の切り立った崖ぎりぎりのところだった。身を投げ出されたハンナは、それでも龍から身体が離れず、崖から落ちる寸前のところで龍の尾の先端に近いところにぶらさがっていた。龍は最期の力を振り絞ると、自分の尾を持ち上げ、ハンナを崖の上に放り上げた。地面に投げ出されたハンナの身体が龍から離れると、龍は自らその姿を変えた。
崖から半分足を投げ出した状態で、うつ伏せになってレオが倒れている。辺り一面が岩だらけで薄暗く、寒かった。地面から起き上がろうとするハンナの息が白く曇る。
崖の左右にはグリーングラスの塔と、スノーマウンテンがちょうど反対側に位置して見えていた。スノーマウンテンの方がはるかに大きく見えている。夕日が沈んでいく側の川向こうには、フラワーバレーがあるはずだ。けれど崖はとても高く、眼下に見える川幅は恐ろしく広い。
よろけるように立ち上がったハンナは、レオのところまで近づき、レオの脚を崖から引きあげた。ハンナの周りは、動く度に景色がいびつに歪み、さっきまで見えていた夕焼け色の空が、無機質な灰色に見える。目がおかしいのだろうかと、ハンナは頭を振った。引き上げたレオに触れると、レオは、うう……と小さく声を発した。
「レオ、やっぱりレオだよね。一体どうしたの?」
蛟から巨大な龍となっていたはずのレオは、その姿を変えると以前の小さなレオのままだった。ぐったりした表情で、何も答えない。
崖に激突した時にハンナを守ろうとして、衝撃をその龍となった身体で防いだせいだろうかとハンナは心配になった。ハンナには擦り傷ひとつなかったからだ。
『精霊と繋がっている間は、レオは傷つかない』というルークの言葉をハンナは思い出した。それが事実なら、レオの身体は龍となる前からこの状態だったという事だ。
もう石に触れなくても自ら姿を変え始めるようになったということが良い事なのだろうかと、ハンナはざわつく気持ちで何度もレオに声をかけた。
「レオ、しっかりして。ねぇ、レオ、レオ……」
ハンナは、咄嗟に緑の石に祈った。
《パナケイアよ、この一瞬、この石に宿り給え……》
けれど、石は光らなかった。その色は深い緑色のままだ。あの実験室のような部屋の中で、石に何かされたのだろうか、それともレオ自身の力が尽きようとしているのかと、ハンナは恐ろしくなった。日暮れの山は、どんどん暗くなっていく。小さく息をするレオは、僅かに意識を取り戻すと、うっすらと目を開け囁くような声を出した。
「ハンナ、僕、もう力が出ない……寒いよ……」
そう言って再び目を閉じたレオを見て、ハンナはどうしていいか分からなくなった。もしかしたら、レオは全ての力を自分に渡してしまったのかもしれない。ハンナは心細くなってすすり泣き始めた。寒さはますます募ってくる。
「レオ、レオ、起きて。お願い……」
その時、ハンナの後ろでがさがさと物音がした。大きな岩の向こうで何かが動いている。咄嗟にハンナは、長いローブをまとった男が言っていた《追跡装置》という物のことを思い出して身構え、その耳をピンと立ちあげた。
この足音は虫や動物のものではなさそうだけど……。
ひとつの足音がしている。岩山の上を歩いているはずなのに、その音は硬い物の上を歩いているような響く音だ。ハンナはレオを抱え、緊張でその身体をこわばらせた。
「そこにいるのは誰だ?」
大きな岩の向こうから、声がした。しゃがれた声だ。けれど、ハンナにはその意味が分からなかった。目の前に横たわる大きな岩の影から、尖った帽子が見え隠れしている。ハンナはレオを抱えた手に力を込めた。
「来ないで!」
足音は止まり、しばらくの沈黙の後、ハンナの耳に声が響いた。
「パンパスグラスの言語だな。そこにいるのは誰だ?」
今度は意味の分かる言葉が聞こえたのでハンナは驚き、動く小さな帽子を見つめ、答えた。
「あなたは誰?」
「質問に、同じ質問で返すとは。そこで何をしている」
相変わらず姿は見えないが、その声だけが聞こえている。
「あなたは精霊なの? 島の精霊?」
ハンナが問うと、小さな帽子は「よいしょ」と言いながら岩をよじ登ってきた。その本体を現すと、それは老人のように見えた。老人は、驚くというよりは怪訝そうなトーンの声を出しながら、大きな岩から飛び降りた。
「なんだ、随分小さな子供じゃな。ふたりだけか? しかもグリーングラス人だったのか。何の装置も無く、みごとに他言語を操るものじゃな。今時まだスパイなどいるのか」
現れた人物は、地面につくほどの長さの尖った帽子を被っている。顔は老人のように見えるが、レオとあまり背丈が変わらない。口元の動きと、ハンナの耳に響いている声には若干のずれがあった。
これ、あの灰色の塔で見たのと同じ感じだ。この人もグリーングラス人?
ハンナはその特徴である耳を確認しようとしたが、老人がすっぽりと頭から被っている帽子のせいで、その耳は見えなかった。が、その老人は緑の衣装は身に付けてはいなかった。ハンナの傍まで近寄って来ると、老人は帽子や服についた白いホコリを払いながら、文句を言い始めた。
「一体全体、何をどうやってこんなところに……。長年放置しておいて、まったく……。洗ったばかりの服がホコリまみれになったわい。まったくグリーングラス人のやることは、いつも支離滅裂じゃ。今度はこんな子供をスパイや兵器にするとは」
その言葉に反応して、ハンナは怒ったような声を出した。
「わたし、グリーングラス人じゃない! スパイや兵器なんかじゃない! あなたは何の精霊なの?」
老人は、びっくりしたという表情をしてから、ハンナをぎろりと睨んだ。レオをしっかりと抱えたハンナは、老人から守るようにレオを遠ざけた。
「君の理解では、見たことのない小さなものは全て精霊なのか? どれ、その子をちょっと見せてみなさい。どうせ、知識のないお前には、そうやっていることしかできんのじゃろうが」
反論できないままハンナがレオを抱きしめ背を向けていると、老人は「ふん。では好きにしろ」と言い踵を返した。そうしてから老人は、ふと足を止めると肩越しに振り返った。その横顔は大きな帽子で覆い隠されていて表情までは読み取れない。
「なぜそれほどに怯えている? グリーングラスなら、心配せんでもすぐに迎えに来てくれるはずじゃ。言っとくが、わしは今、この中立エリアで久々のバカンス中でな。ここで無駄な仕事をする気はさらさら無いんじゃ。
ここならだれも来んから気が散らずにのんびりできると思っておったのに。おい、お前、お前たちが喧嘩を売るってんなら買わんでもないが、出来たら放っておいてくれるとありがたい。
そもそも、お前らとパンパスグラスが喧嘩したせいで、こっちは好きな時に好きなところに自由に行けなくなるし、イチゴ畑は減るわ、川幅はでかくなるわ、南の海の島は消えていくわで、めちゃくちゃ迷惑しとるんじゃ。分かったか!」
ハンナは文句を言い続ける老人をただ黙って見つめているしかなかった。どちらかと言えば今喧嘩を売られているのはこっちだと思いながら、自分はグリーングラス人ではないことをもう一度言おうとしたが、話の途中で口を挟むなと叱られた。とにかく、質問する隙が一切ないのだ。
老人は、もう一度振り返ると、不満そうな表情のハンナの顔の前に、その身体の割には長い、節の大きな指を一本立て、ハンナの前に突き出して言った。
「しかーし、だ。それでも、この心の広いわしが、一期一会の記念にと、たとえグリーングラスの人間であろうとも、飯くらいおごってやらんことは無いと考えておったのに、お前は挨拶さえしようとせん。だから子供は嫌いなんじゃ。要求するだけで、与えるという事を知らん。さてと、もうじき日が完全に落ちる。夜の山中、自分でなんとかできるというなら、そのままそこにいればいいさ。この人工的な寒さに耐えることはできぬじゃろうが。
まぁ、わしの知ったこっちゃない。じゃあな」
老人が手を振り背を向けて離れて行く姿を見て、ハンナは焦った。
「待って!」
老人は振り向かなかった。ハンナは慌てて、レオを背負うと老人の後を追い始めた。老人は全く振り向くことなく、小さな体でどんな岩も「よいしょ」と言いながら越えて行く。ハンナは姿を見失うまいと必死に後を追うのだが、老人は小さすぎて時々その姿を岩陰に消した。
フラワーバレーを離れてから、出会う他の国の大人たちは皆、親切じゃない嫌な人たちばかりだ。大人なんか大嫌い。誰も信じない。
そう思いながらも、ハンナはその場所にじっとしていることは出来なかった。老人が言うように、グリーングラスが追って来るかもしれないのだ。
ハンナはずっと耳を立ち上げてその後を追っていた。老人はハンナを待つ気も、襲う気もないようだ。しばらくすると、聞いたことの無いような不思議な音がして、再び同じ音がしたかと思うと辺りは静まり返った。
何処へ行ったの?
辺りは暗くなり、寒さはより厳しくなってくる。空には月が姿を現し、岩の影はより一層色濃くなった。虫か精霊に道を聞こうと思ったが、ここにも虫一匹さえいないようだ。崖の上から見た時には、島の麓には緑の木々が見えていたのに、周りは岩だらけだった。ハンナは寒さに震えながら立ち止まり辺りを見回した。
『その子を助けたいんなら、早く来なさい。グリーングラスの耳を持つ者なら、わしの声が聞こえておるはずじゃろう? そのまま進めは、森が見えるはずじゃ』
呟く老人の声が聞こえた。ハンナが耳をピンと立て、声のする方向へ進むと、遠くに一瞬灯りが見えた気がした。さらに進むと、声が教えてくれたとおり、木々が見え始めた。岩だらけの景色は突然深い森に変わった。北の森によく似ているが、小屋のようなものは見えない。さらに奥へと進んでいくと、一部分だけ色濃く見える場所があった。
近づくと、そこに大きな壁のようなものが見えてきた。グリーングラス王国で見た灰色の壁に似ているが、壁の色は深い緑色と茶色の模様で、森の中で木々の景色と同化していて、はっきりとは見分けがつきにくい。
「あれ……なに?」
ハンナが小さな声で呟くと、呼応するようにまだら模様の景色が一部分だけ突然明るくなった。一面ガラス張りの壁の向こうに老人が立っていて、こちらを見つめている。驚いたハンナと無表情の老人の目が合うと、一瞬で再びガラスの壁はまだら模様の壁に変化した。ハンナは恐る恐る壁の方へとさらに近づいた。
『急ぎなさい』
ハンナの耳に再び声が聞こえる。ハンナはレオを背負ったまま息を切らせ壁の前まで来ると、壁に触れた。確か明るくなったのはこの辺りだったがと、ハンナが手を壁に触れ続けていると、突然目の前に再び光の部屋が現れた。
『入りなさい』
壁の一部が開き、声に誘われるまま部屋に足を踏み入れると、後ろの壁が音もなく閉じた。再び暗くなった部屋の中では、空気が少し薄くなった。呼吸が苦しくなり、もしかしたら騙されたのかもしれないという恐怖でハンナは押し潰されそうになった。
その部屋に、鼻をつくような香りが充満し始めていた。
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