第39章 見知らぬ過去

 ハンナは、かつて自分が体験した夢の中にいた。けれどそれが夢ではなく、実際に自分がいた過去の映像だと判るまでそれほど時間はかからなかった。幼い自分の姿がそこにはあった。目の前にお気に入りのワンピースを着ている自分の背中が見えている。もうずいぶん前に着られなくなったはずの小さなサイズの服だ。それはボバリー家の玄関先で、まだ幼かった自分がセバスチャンに薬を渡している場面だった。ハンナのママの予言通り、赤ちゃんが生まれてきた瞬間だ。陽は傾き、少しずつ太陽の周りが朱色に染まりだしていく。雲の色は刻々と変わり、そのグラデーションはまるで虹のように美しい。

 過去の映像の中の幼いハンナは、お使いごとを果たすと、嬉しそうにスキップをして門の外へと鼻歌を歌いながらお屋敷から離れて行く。ハンナが、今目の前に見えている幼い過去の自分の姿の後を追うべきか、この屋敷に入るべきなのかと躊躇した時、またひとつ大きな産声が聞こえてきた。

 ハーモニーを奏でるように二つの異なる声が響き合っていることにハンナは気づき、訝しい思いで玄関の方に向き直った。

 パトラが話していた、もう一人のレオ?

 ハンナが考えていると、間もなくセバスチャンが険しい顔で、小さな布包みを抱え外に飛び出してきた。

 驚いて声をあげたハンナをセバスチャンは全く気にも留めず走り去る。やはり自分は見えないらしい。これは過去の映像なのだ。そう思いながら走り去る後姿を目で追うと、セバスチャンがヤギ小屋へと走り込んでいく姿が見えた。ハンナは、今度は判断に迷うことなくセバスチャンの後を追った。知るべき過去は、こちら側だと心が教えているようだった。

 セバスチャンが、ヤギ小屋の中央にある井戸のような場所へと消えていく。ハンナもその後を追った。小屋の中央にある石の隠し階段に驚きながら、その階段を一番下まで降り、細い通路を走り抜けると、その端には広い空間があった。夢中でセバスチャンの後を追っていたハンナは、その信じられない部屋の光景に呆然として動けなくなり立ち止まった。

「レオ様、すみません。苦いでしょうね。後で、美味しいミルクをお持ちします。ああ、何て可哀そうな。お願いです。どうか、これを飲み込んでください。お母様の為にも生き延びて欲しいのです」

 セバスチャンの瞳には涙が溢れているように見えた。ハンナはその小さな包みがレオと呼ばれたことに衝撃を受け、しばらくはセバスチャンが抱えるその布包みから目が離せなかった。セバスチャンは布包みと共に手に握りしめていた小さな袋の中へ人差し指を入れている。それは、ついさっき幼いハンナが手渡した薬草の粉が入った袋で、ハンナのママが作ったものに間違いなかった。

 セバスチャンが灰色の粉末の付いた指を小さな包みの中へ怖々運ぶと、弱々しい赤ん坊の声が聞こえ始めた。セバスチャンは、何度も同じようにその作業を繰り返し、その度に少しずつ赤ん坊の泣き声は力強さを増していく。ハンナはその光景を見て、言葉にできないような感情で呼吸が苦しくなってくるのを感じた。

 レオは……レオは、どうして、こんなところに……。

「どうしてこんなことを?」

 ハンナは思わず呻くような声を発した。一瞬赤ん坊が泣き声を止める。セバスチャンは怯えたように辺りを見回し、慌てて赤ん坊を放り出し部屋の外へと消えていった。

 その背中を見送ると、ハンナはそっと布包みの前まで近寄った。そこには力なく泣いている布にくるまれた小さな赤ちゃんがいた。パトラの話が確かであるならば、それは間違いなくレオだということだ。

 その赤ん坊は弱々しい声をあげながら、硬そうなベッドの上でぐったりとしている。恐る恐るハンナがその手に触れようとすると、赤ん坊はうっすら開けていた目を閉じ、泣き声を止めた。呼吸が止まったように動かなくなり、見る間に唇の色は紫色へと変わっていく。

 レオ、私たち、もう少ししたらまた会えるからね。レオはこれから、沢山の人に出会って、愛されていくんだよ。今は会えてないだけだよ。お願い、負けないで、生きて。

 ハンナは指輪に光る緑の石に祈りをささげた。それが過去の映像の中で役に立つかどうかなど考えず、ただレオの幸せと無事を心から祈った。

《パナケイアよ、この一瞬、この石に宿り給え》

 緑色の強い光が赤ん坊のレオの身体を包み、その光が部屋中に広がったかと思うと、ハンナは一瞬視界を奪われ何も見えなくなった。ようやく視界が戻った時にハンナが次に見たものは、人々の長い長い行列だった。レオの姿もあの暗い部屋も完全に消えてしまっている。

 その行列の先頭には、見覚えのある模様の旗を持つ人がいて、脚が動いていないのに前へ前へと進んでいた。その後ろには、濃い緑色の厚い布が掛けてある長い箱があって、それは大きな台の上に乗せられている。大きな台も宙を浮くように前へ前へと進んでいて、箱を覆う緑の布の縁は金色の糸で縁取られ、箱の上にも周りにもカラフルな花々の飾りがいくつもあった。その後ろには、緑の布を頭からすっぽりと被った人々が二列になっていて、やはり脚を動かさずに前に進んでいる。その列はいつまでも続いていて、長い行列の両側には、幾重にも群衆が重なり、それらの人々はそれぞれにカラフルな花を携えていた

 まるで、フラワーバレーのお祭りのようだ。

 ハンナは、かつて見たことのある花にあふれたお祭りを思い出していた。列を見送る沿道の人の前に立って、行き去る列をぼんやりと眺めながら、宙を浮くように前へ進む人々の地面が動いていることに驚いて、ハンナは「え?」と、声をあげた。自分の足元の緑色の地面はとても固く、その足元は動いてはいないのに、目の前を行く列の地面だけが左から右方向へと向かって緩やかに登りながら動いている。

 ハンナは、これも過去の映像なのだろうかと辺りを見回した。そして、これがお祭りなどではないことに気が付いた。なぜなら、その場に集う人々は皆、沈痛な表情をして花を抱え、一様に俯いていたからだ。

 人々が抱える花は、色とりどりの花なのだが、同じ大きさと形をしている造り物のような花だった。誰一人笑顔の者はおらず、涙を流している者もいる。そして、人々がすすり泣く姿を見て、ようやく緑の布に包まれた長い箱が棺なのだということがハンナには分かった。その棺の周りの花だけが、大きさが異なる様々な種類の花で、自然な様子の花に見えた。

 その列は、葬列に違いなかった。先頭でたなびく旗は、まぎれもなくグリーングラスの国旗だ。葬列の後ろの方には、緑色の軍服を着た人々が連なり、その軍列が終わった後には、少し間を開けて花を携えた人々が繋がっていた。ハンナの周りにいた人々も、次々にその列の後ろへと繋がっていく。繋がった人々の脚は何故かピタリと動かなくなるのだが、それでも前へ前へと進んでいる。葬列が通り過ぎた後も、その長い列は後ろへ続く花を抱えた人々でますます長くなっていった。

「女王様……ルベウス王と共に、王子たちと共に、どうぞ安らかに」

 誰かが、嗚咽しながら声を出した。ハンナは、その名を聞くと、列の先頭へと夢中で駆け出した。葬列のすぐ横の地面、ハンナの足元にある地面は動いていなかった。ただ、ハンナの知る石だらけの地面と違って、その緑色の道は踏みしめると何故かふわふわと柔らかい。先頭の棺のところまで息を切らして走り、ようやく先頭にハンナが追いつきかけた時、前方にそびえたつ銀色の建物のガラスが突然大きく動き始めた。

 ハンナは何もないように見えていた場所が巨大なガラス板だったことに驚くとともに、それがさらに動いたことに面食らってその動きを止めた。境目も枠もないガラスがまるでドアのように開き、長い葬列は、急に速度を上げてガラスの向こう側へと消えていく。

 呆気にとられていたハンナは、自分の前のガラスは動いておらず、ガラスの向こうへ行けないことが分かると、何とか動く列に加わろうとしたのだが、途切れない列が続いている動く地面を歩く方法が分からなかった。

 躊躇するハンナの前で、あっという間に最期の軍服の人々の列が通り過ぎていく。そこから少し離れて後ろに繋がる人々が押し寄せる波のように迫って来るのが見えると、ガラスは再び動いてその口を閉じ、完全に外の世界とガラスの向こう側の世界は分断した。

 人々がガラスの建物の外周にあふれ出すと、さっきまで動いていた地面はぴたりと動かなくなった。すすり泣く人々は携えていた花々をガラスの前に置くと、ひとりひとりと来た道を戻ってゆく。少し離れると、戻ってゆく人々の足元にも再び動く地面が現れていて、やはり脚を動かさずに遠ざかって行くのがハンナの目に映った。

 高い銀色のガラスで囲まれた建物の周りは、あっという間に同じ大きさの花で埋もれていき、何倍速で動く映像のように何度か陽が沈み登っていく映像がハンナの前に繰り返し現れる。人々は皆、同じように脚を動かさずにガラスの前までやって来ては、ガラスの入り口の前に花を置き、また脚を動かさずに去ってゆく。

 ハンナはガラスの前に立ち尽くしながら、花を携える人々の列がいつまでも続くのを見つめていた。何度目かの太陽が昇り、人々がいなくなるまでハンナの目の前には同じ景色がずっと見えていた。人々が供えた花で辺りは一面の花畑となり、目の前のガラスにその花々が映っている。華やかに見える色彩の中にハンナはいたのだが、それほど多くの花に囲まれているというのに花々の香りが漂ってくることは全く無かった。

 「ルベウス王……女王……」

 ハンナは、ガラスの塔を見上げ呟いた。自分の姓にルベウスとつくことが何を意味するかをハンナは知っていた。ハンナが聞いていたママの話は、おとぎ話のようだったが、この過去の映像は、自分に何かを伝えようとしている。あの列の先頭の棺に眠る女王と呼ばれた人は、自分にとって一体何なのか。誰であったとしても、自分とつながる人であることは間違いないのだが、少しも悲しくは無いのは、自分との関わりがこれまで一切なかったせいだ。レオがパトラの死を悲しまなかったように、ハンナには悲しさは溢れては来なかった。ハンナは自分が見せられているその映像の意味を懸命に理解しようとしていた。

「私、ハンナ・フレデリック・ルベウスです。何故こんなこと見せるの?」

 ハンナが天を仰いで小さな声をあげると、驚いたことに再びガラスが音も無く動き始めた。強い光を乱反射しながら、大きな壁がドアのように左右に割れて開いていく。建物の中から明るい光が放たれ、中から人の姿をした者が現れた。ハンナは目を凝らしてその姿を見つめた。その全身には布が巻かれている。

「HA……NA……」

 その機械が擦れ合うような音には聞き覚えがあった。ガラスの部屋にいた人物だと気付いた時、ハンナの身体は、元の世界へと強大な力で引き戻される感覚に包まれた。

 痺れたような痛みが頭に走り、ハンナは頭を左右に振ったが、目の前の映像は変わらなかった。横たわる自分の前に、布を巻いた人物が、さっきの映像と変わらずハンナの目の前に立っている。それがまだ過去の映像なのか、今のものかを判断しかねているハンナの耳に、再び奇妙な音が聞こえてきた。

「HA……NA……」

 突然、布を巻いた人物の左側から大きな顔が現れて、布を巻いた人物は全く見えなくなった。ローブをまとった男がニタリと笑いながら、ハンナの目の前に立ちはだかっている。

「いやぁ、実に興味深い」

 ハンナが男の顔を確認しようと、焦点を合わせて見つめていると、その男の後方で再びガラスの壁が光った。その後ろには銀色の台が見えている。何かが乗っていることに気づいたハンナは目を凝らし、遠くを見た。その台の上に乗っていたものは、目を閉じ横たわるレオだった。


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