第38章 布を巻いた者
「実に興味深い」
それは異国の言葉だった。くぐもったような低くかすれた声は、部屋の上のほうから聞こえてくるようだ。けれどその言葉の意味は、ハンナとレオには理解できないものだった。
波打つ黒い影が少しずつ大きくなってレオとハンナの方へと近づいて来る。その形は背景との境界線があいまいで、漂うように動いていた。足音もなく近づいてくるその影は宙を浮いているように見える。床とその影の間には陽炎のように揺らめく隙間があった。
『ねえ、ハンナ、あの黒いのなあに? なんか変な音が鳴ってる。あれが鳴いているの?』
レオは囁くようにハンナの心に問いかけていた。耳をぴんと立ち上げているレオは、驚きで目を大きく見開いて黒いバングル中央の石をぎゅっと握りしめている。おそらくレオは本能的に言葉を発してはいけないと察したのだろう。ハンナは答えなかった。答えられなかったという方が適切だ。ハンナは恐怖で固まりながらも、後ずさりしつつレオを自分の背中に隠した。
鈍色の部屋は消えて、ハンナとレオの周りにあった壁は、一面が透明ガラスに変わっていた。ガラスの向こう側には真っ青な色だけが見えている。揺らめく黒い影は少しずつその焦点を合わせ、縦や横に広がる楕円形を作り始めている。
まるで空の上に浮いているような錯覚を覚えるような部屋の中で、ハンナは、パンパスグラスの丘で見た巨大な森の精霊を思い出し、ここにいるのは一体何の精霊なのかと、その影を凝視していた。大きな影は少しずつ虫の羽音のような音を発しながら、虫の触角のようにその一部を何本も伸ばし始めた。
「実に、興味深い」
再び異国の言葉が聞こえると、影はその触覚のように見える部分をハンナの方へと伸ばした。
「いったいどのような分子構造で……」
ハンナたちには理解不能な言語で、その物体がゆらぎながらハンナの指輪へと長く伸び始めたので、咄嗟にハンナは恐怖から俯いて瞼を閉じ、腕を後ろに回した。その時、ハンナの頭に再びレオの声が響いた。
『ハンナ、怖い……。あれは僕たち?……』
その意味が分からずハンナは後ろにいるレオの方へと一度振り返り、レオを守らなければという思いで再び勇気を出して目を開けた。
レオの見つめる方向へと再び振りむいたハンナは、息を呑んだ。黒い影の中央にレオとハンナがいたのだ。鏡のように映っているわけではなく、あらゆる方向から撮影したようにふたりの姿をいくつもスライドショーのように映していた。その周りには不思議な模様と文字が幾つも描かれている。黒い影は、わずかに地面から宙に浮かせたままで、長い触覚のように見える部分を何本もハンナとレオの周りに張り巡らせ始めた。
「どうやって、この国の上空を飛べたのだ?」
ハンナとレオは押し黙ったままでその影を見つめていた。ふたりには、遠くから聞こえてくるその言葉は奇妙な音でしかなかったからだ。
「どうやら言葉が分からないようだ。やはりグリーングラスの者ではないのか?」
ハンナは、黒い物体がレオに触れようとその触手のような部分を伸ばすのを見て、咄嗟にレオが握りしめていたバングルの手をほどき、その赤い石に触れた。蛟となっている間は、レオは傷つかない。その必死の思いでハンナは赤い石に触れ、《飛べ‼》と祈った。
白い蛟が光を放ちながら姿を現し、ハンナはその上に飛び乗った。周りを取り囲んでいた黒い物体は瞬時に消え去り、異国の言葉がさらに大きく部屋の中で響く。
「実に素晴らしい! 我らの進化の証だ!」
高い天井へと向かい、蛟は力強く飛んだ。ガラスの天井はハンナが思った以上に高いところにあるようだ。天井のガラスが見えてきて、これなら容易く天井を突き破って外へ逃げられそうだとハンナが安堵した時、ハンナの全身に強烈な痛みが走った。
ハンナがガラスだと思っていたその天井は、ガラスではなかった。空を映す鏡のような湾曲した丸い物体が幾つも繋がっていて、その下には無数の穴が開いたネットのような無色透明の網が張り巡らされている。その不思議な物体を見つめながら、ハンナは蛟の頭の上で後ろへゆっくりと倒れていった。
ぐったりとした姿でハンナは蛟の身体にへばりつくようにずり落ちたのだが、それを蛟が小さな前足で受け止めた。蛟は柔らかい床にハンナを降ろすと、ハンナを守るようにとぐろを巻き、そのまま全く動かなくなった。その目だけは、じっと前を見つめている。
黒い物体が、いくつもの長い触手を伸ばし、渦を巻きながら再び蛟の周りをまわり始めると、蛟となったレオは、ひとまわり大きくなったその口を大きく開け威嚇するように黒い物体を睨み続けた。意識を失ったハンナに変わり、今、蛟は自らの意思で動き始めていた。
「どういうことだ。このような組成は見たことが無い。実に興味深い。我々の血に繋がる一族に何が起こったというのだ。それに、この敵意の波動。お前は言葉だけでなく、自らの祖先さえも分からないというのか?」
蛟は何度も口を開き、回り続ける物体を威嚇するのだが、その度に長い触手が蛟の口に向かって伸びてきた。蛟がそれを避けようと首を振る度に、とくろを巻いたその胴体部分にわずかな隙間が開き、気を失ったままのハンナの姿が見え隠れする。別の触手がそれに気づいたかのように赤い石を探して、とぐろを巻いた蛟の身体の隙間を漂い始める。
細い紐のようになった黒い物体の触手が、赤い石の上で小さく渦を巻きだしたことに気づいた蛟が大きく暴れ始め、ハンナの身体は投げ飛ばされるように床に放り出された。ハンナの身体は、あっという間に黒い物体に覆われていく。
「その紅い石は単なる赤鉄鉱のはず。ルベウスか。この石から出ていた青白い物体は一体なんだ。答えろ」
蛟は恐ろしい形相で、ハンナを覆う黒い物体にとびかかると、頭を激しく左右に振りながら黒い固まりの中へその頭を突っ込み、ハンナを探し出そうともがいた。
「その石の中にある何らかの不純物が、我らにとって未知の何かなのか? この者は我らによく似ているが……遺伝子的には遥か西方の国の者と、この国の者との混血。しかも王家の遺伝子の一部を持っている……。我らが長年探し続けていた反乱分子の子孫に間違いない。随分と見た目が変わっていて気づかなかったが、やはりあの時の子供か。のこのこと自らやって来るとはな。これも遺伝子のなせる業か。
身体には特有の
黒い固まりの中にいる間、意味不明の言葉が延々とハンナの耳に聞こえ続けていた。ハンナは身体を動かそうともがいていたのだが、蛟の柔らかい口にくわえられて助け出されるまでは、手も足も何かに縛り付けられているかのように動けなかった。蛟に助け出され、ようやく手足を動かせるようになった時、黒い物体は、小さな粒子となって消えていった。黒い物体は消えているのに、異国の言葉は変わらず室内に響いている。
ハンナは蛟の口にくわえられたまま手を伸ばして上体を起こし、そっと蛟の顔に掌をあてた。レオの怒りがハンナの身体に浸透してくる。
『ありがとう、レオ。もう大丈夫、私は平気よ。降ろしてくれる?』
その心の声に気づいた蛟はその大きな目をハンナにぐるりと向けた。姿を変える度大きくなる蛟は、その胴体と頭のバランスはまだ三頭身の可愛らしさを残しながらも、その目の大きさは、もうハンナの顔よりもずっと大きくなっていた。
怒りで我を忘れたような様子だった蛟が、ハンナをくわえていた口を大きく開き、ゆっくりとハンナを地面へと降ろした。ハンナは右手で蛟の身体に寄りかかりながら立ち上がり、音が響く方向がわからないまま、上に向かって声をあげる。
「あなたたちの言葉は、分からないわ。だから、何を言っていても意味全然分かんないし、全然怖くなんかない。私たちをどうするつもり? レオを傷つけたら、精霊たちが絶対にあなたたちを許さないから。もちろん私だって、絶対に許さない!」
怖くないと言ったハンナの言葉は、嘘だった。本当は恐ろしくてたまらなかった心で、レオのために奮い立たせるように、その声に徐々にその力を込めた。しばらくの沈黙の後、ハンナの左側前方のガラス壁の一部分に突然人のような形の者が姿を現した。ガラスの前に立っているようだ。全身が幅広い包帯のような布で覆われていて、その表情は全く見えない。
怒りの表情で口を開けたままの蛟の頭を優しく撫でてから、ハンナは一歩前に出て蛟を背に立った。もう蛟はハンナの背に隠れることが出来ないほど大きくなっている。
「どうしてこんなことをするの? ここはどこ?」
ようやく人らしきものが見えた方向に向かってハンナは声をあげた。布で覆われたその人は、近づくことなく、じっと立ち尽くしている。
「ウエストエンドの遺伝子と、グリーングラスの遺伝子を持つ者が、元パンパスグラスの言語を話す……か。実に興味深い」
その声は、今度はハンナの背後から聞こえていた。異国の言葉でハンナには意味は分からなかった。振り変えるとそこには、見覚えのある服を着た人物がふたり立っていた。そのうちひとりは長いローブをまとって眼鏡をかけている。その緑色の服は、まぎれもなくグリーングラスの軍服だった。
「ここ……まさか……」
「どうやら本当に何も知らずに我が国に侵入したようですね」
ローブをまとっていない方の人物が、もう一人に声をかける。その言葉も異国の言葉だ。
「どうだかな」
薄い唇を片方だけ引きつらせるようにあげて嫌味な笑みを作りながら、ローブをまとった人物がハンナに近づいて来た。後ろからもう一人もついて来る。ローブをまとった人物は、ハンナの前まで来ると、なめ回すような視線で蛟を見つめてからハンナに向き直り、ローブの肩の上にある小さなブローチ状のものにそっと手を触れた。
「これで、分かりますかねぇ。私の言葉が。全く、こんなに使われていない少数派民族の言語にシグナルを合わせるのは本当にうんざりしますねぇ。自分が哀れでみじめな国の人間になった気がして本当にぞっとします。ああ、嫌だ嫌だ」
ローブをまとった人物は、嫌味な笑みを浮かべたまま、ハンナに語りかけた。言葉が分かったハンナは驚いた表情で相手を見上げた。よく見ると、耳に聞こえてくる音と、相手が話す口の動きは一致していないのだが、その意味が伝わってくる。
そしてハンナは気が付いた。この人物には見覚えがある、と。
半歩右後ろに下がり、ハンナは蛟を背に隠そうとしたが、大きな蛟はハンナの力では容易には動かない。蛟が自らの力でずるずると後ずさりする姿を見て、ローブをまとった男は再び声を発した。
「どうやら覚えていただけていたようですね。あの時と同じようにそれをかばう姿は実に美しい。まぁ、もうあなたの方が、その変異体よりもずっと小さいようだが」
ハンナはその人物を睨み付けた。それは、ボバリー家でママを撃った奴らを先導していた男に違いなかった。
「あの時は、我々の仲間もひどい目にあいましたからねぇ。まぁ、軽く痺れたくらいでしたが。不意を突かれてしまって、哀れな国のちびっ子にやられて撤退だなんて、えらく恥をかきました。何しろ空を飛びながら電光を発生させる子供を始めて見たのでね。一体どんな兵器を開発したのかと思っていましたよ……おかげで新たな技術を開発する契機となり感謝しています。
どうでしたか、この部屋の天井は凄いでしょう。でもあなたの電光より少し強い程度で、死に至るほどではありませんから安心してください。ここは、サンプルを収集する部屋なのでね。生きたまま捕獲しなくては意味が無いのです。しかしやはり、あの蛇のような生物は見間違えではなかったようだ。同じような生物兵器をあとどれくらい所有しているのです? どうやら成長もするようだ。他の生物兵器の力はあなたより強いのでしょうか。
我々の国に度々災いや自然災害をもたらしていたのは、恐らく未知の兵器だとは思っていましたよ。西側の人間は信用ならない民族ばかりですからねぇ。哀れな国の者たちが、これまで細々と生き抜いた秘密がその兵器だったということでしょうか。いやはや、実に興味深い」
「兵器……」
ハンナが初めて蛟に乗った日、感情のコントロールができず、気付いた時には多くの人が地面に倒れていたことを思い出した。ハンナは《兵器》という言葉に一瞬たじろぎながらも、『軽く痺れたくらいだった』という男の言葉に少し安堵もしていた。
「あなたの後ろにあるそれのことですよ」
「何言ってるの? 意味わかんない」
ハンナがそう声を荒げた時、蛟が口から突然息を吐いた。前にいた男のローブが大きく揺れ、後ろにいたもう一人の人物と共によろけると、機械が擦れ合うような音が部屋中に反響した。
「申し訳ございません」
ローブをまとった男が頭を下げた方向は、ふたりの男たちの後方だった。ハンナがその方向を向くと、先ほど姿を見せていた全身を布で巻いた人物がそこにいた。いつの間に移動したのか、音も無く移動している。さっきまでとの距離感とは違うのだが、相変わらず距離感が良くつかめないのは、その身体が黒い物体と同様に宙に浮きながら動いているためだ。
ハンナは訝しそうにその姿を見つめた。ローブをまとった男は、異国の言葉で何度かその布を巻いた人物とやり取りをした後、悔しそうな表情を見せ、横を向いたままハンナに命令した。
「おい、お前、ご挨拶をしろ。恐れ多くもタンタム様が、お前の名を知りたいとのことだ」
ハンナがふんと鼻を鳴らし、横を向くと、そこには蛟の目があった。その目はハンナをじっと見つめて動かない。ハンナの頭の中で『礼儀がなってないね』というレオの言葉がこだまする。
「分かったよ、レオ」
そう言うと、ハンナは小さなため息をつきながら布を巻いた人物へ向き直って、声をかけた。一体、この人はどこにいるのだろうと思いながら。
「ハンナといいます。ハンナ・フレデリック・ルベウス。こっちはレオ。兵器なんかじゃないわ。精霊の守り人よ。もしあなたたちの仲間を怪我させていたとしたら、きっと許してくれないかもしれないけど……」
ハンナは、ルークの言葉を思い出しながら、自分が人から恨まれているかもしれないということを思った。謝るべきなのかどうかもわからない納得できない心で、言葉を続けた。
「でも、あなたたちのせいでママが大怪我したり、森や湖や海がダメになってるの。知ってる? だからみんなで元に戻そうとしてたんだから。なんであんなひどいことするの? どうして私たちはここにいるの? あなた一体誰なの? 怪我してるの? 私、皆のところへ帰りたい。
お願い、ここから出して。こんな変なところにいたくない」
ローブをまとった男は、慌てふためいた表情でハンナの前に立ち、その言葉を遮った。
「おいお前、何と失礼な。お前の国では、それが挨拶か。申し訳ございません、タンタム様」
それからまた何度か機械が擦れ合うような音と異国の言葉で何度かのやりとりが聞こえていたが、不思議なことに、ハンナの心にはもうレオの恐怖や怒りの感情は共鳴してこなかった。
「タンタム様、後は我々にお任せください。は? どういう事でしょう? ええ、分かりました……。では」
布を全身に巻いた男は、ひとしきり何かを伝えた後、小さな霧となって消えていった。まるでパトラが無くなった時のようだとハンナが驚いた表情で見つめていると、ローブの男が、忌々しそうにハンナに呼び掛けた。
「おいお前、ハンナとか言ったな。お前の親が王家と一遺伝子の一部分でも繋がっていたことに感謝するんだな。さもなければとっくに解体研究へ回されていたところだ。タンタム様のご厚意で、食事と部屋を用意する。先ほどのスキャンの検査結果でもその栄養状態と身体組成の数値は最悪だ。調査に耐えられる身体になった後、より詳細な遺伝子調査をしてからお前の処分は決定される。
その化け物兵器については、確認しなければならないことが山ほどあるのだが……タンタム様が、その化け物に強く関心を示されておられるのでね。悪いが……」
ローブの男がハンナに手をかけようとした途端、蛟がハンナを守ろうとして、ハンナを頭上に持ち上げて、もう一度飛び上がった。
ローブをまとった男は、相変わらず嫌味な笑みを浮かべていたが、そのまま部屋から姿を忽然と消した。ガラスを突き破ろうと再び部屋を高く飛ぼうとする蛟の頭上にいたハンナが、『それ以上飛んでは駄目!』という思いは、その身体に再び強い衝撃を受けるタイミングよりわずかに遅かった。
前回の衝撃よりも強い痛みがハンナの身体を襲う。蛟の頭から滑り落ちたハンナを蛟は前足で受け止め、ハンナを守るように床の上で再びとぐろを巻いた。だが、床に横たわっていたはずのハンナの身体は、アリ地獄の巣に落ちるかのように柔らかな床の底へと深く吸い込まれていった。
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