第37章 鈍色の部屋
もういいよ、レオ。さあ、戻るよ。皆を探そう。
ハンナが心で祈ると、周りの空気が一瞬たわんだ気がした。ハンナの周りにはずっと灰色の雲がまとわりついている。長くたなびく雲は蛟となったレオを包み込むように取り囲み、その長い巨大な形の雲の前方にハンナとレオはいた。レオは、精霊と繋がり蛟へと姿を変える度に、その大きさも長さもひとまわり大きくなっているようだ。ハンナの視界は舞い上がる黒煙で遮られている。北の仲間の姿はもうどこにも見えなかった。少し前まで見えていた地上もよく見えなくなっていて、鎮火されたはずの地上がどうなっているのかだけがハンナには気がかりだった。
長い雲の先頭から頭を少し出して立っていたハンナの足元には蛟の頭がある。蛟の後ろには、その何倍もの長さの雲がつながっていて、地上から見えるその雲の姿は、巨大な鼠色の龍のようにうねって見えていた。
ハンナは、白と黒の煙の間から垣間見えた変わり果てた地上の姿にようやく気づくと、焦って何度もレオに心で語りかけた。だが、濃い灰色の雲から滝のように流れ落ちていた雨粒がその音をかき消しているかのように、蛟となったレオにはその声は届かないようだ。不思議なことに、南北に延びる長い龍のようなかたちの雲を境にして、グリーングラスに近い方の東側にだけまだ激しい雨が降っていた。
《グリーングラスの人々は敵ではない》
何度そう聞かされても、ハンナにはそのことがまだぼんやりとしか理解できてはいなかった。けれど、グリーングラスの血が自分の中に流れていることを思う度、彼らが敵ではないという言葉に救われてもいた。今ハンナの心には、ただ、美しい森や湖や川を汚す者たちを止めなくては、仲間を助けるために戦わなくては、何か役に立ちたいという思いだけがあった。そして何よりも、領域を守る者となった日から、この仲間たちから必要とされたいという思いがハンナの中に芽生え始めていた。その思いはハンナと蛟を動かし、《自らの頭で何をすべきか考える》ということを学び始めていた。
空の上にいたハンナは、北の仲間に言われるがまま焼けた森を守ろうと祈り、蛟はその心に答えて燃え盛る森の上に暴風雨を呼んだ。けれど煙に巻かれ苦しみ、泥まみれになりながら逃げ惑っている地上のグリーングラスの人々の姿に気が付いた時、ハンナは心の中に言いようのない苦しみと戸惑いを感じたのだ。逃げ惑う人々の姿は、かつて見た映像に重なっていた。
それはグリーングラスの人々ではなく、かつてのパンパスグラスの人々の映像だった。
ルークが言ったように、きっとこの人たちは傷つけてはいけないんだ。でも、でも……。
自分自身の思考とリンクしているはずの蛟は、その時、何故かハンナのいう事を全く聞こうとはしなかった。それはハンナの心の奥にある「ためらい」の気持ちとリンクしていたからだ。声を出すとまた蛟が水を吐き続けるかもしれないと恐れたハンナは、心の中に矛盾と疑問を抱えながら、懸命に『もういい、もういい、もう止めて』とひたすら祈り続けていた。
少しずつ煙が東の方へと消えていくと、地上に倒れている緑色の服を着た人々や、助け合い支え合いながら山を下りる人々がハンナの眼に映った。それを目にした瞬間、ハンナはたまらず声を発してしまった。
「レオ! もういいってば! 早く仲間のところへ戻ろう!」
ハンナが恐れていた通り、ハンナの声と共に蛟はその大きな口を開け、竜巻のような風と雨を地上へと叩きつけはじめた。
逃げ惑う人々の上部に見える山肌の崖が崩れ始めたのを目にしたハンナは、反射的に蛟を逃げ惑う人々の方へと向けていた。
あの人たちを助ける。
ハンナの頭にはそれだけがあった。けれど、ハンナの想いとは逆に、蛟が急降下して地面に近づくと同時に地上には横殴りの雨が打ち付けてしまうことになった。
早く助けなくては、崖が崩れてしまう。あの人たちを元いた場所に返すの。
蛇行しながら地上へ向かっていた蛟は、そのハンナの想いと共に突然その速度を落としはじめると今度は天高く舞い上がりだした。そして、蛟の口から吐き出されていた水は止まり、今度は轟音を立てて蛟が息を吸い始めると地上から天空へと竜巻が大きな渦となって登っていった。竜巻は目にも止まらぬ速さで倒れている人々や逃げ惑う人々を吸い上げ、蛟はその口から人々を次々に飲み込み始めた。
ハンナはその光景を目にして、数秒間思考が完全に停止したような感覚に陥った。
レオ、一体何を?
怖ろしい光景を目にして混乱したハンナは、蛟が再びその姿をひとまわり大きくしたように感じて我に返った。それから蛟は何度も何度も竜巻を起こし、その度に、その大きく開いた口へとグリーングラスの人々を吸い込み、一通り吸い込むとまた少し大きく長くなっていく。
まさか、彼らを食べて成長しているの? レオ、あなたはいったい……。
ハンナは大きく一度頭を振り、周りにいたはずの北の長ザグレブや南の仲間のことを探そうと後ろに首を振った。その動きに合わせて蛟は後ろへと振り返るだろうと思ったのだ。けれど、蛟はどこまでも真っ直ぐに暗い東の空の方へと飛び続けた。巨大な海のように見える大河をあっという間に超えると、ハンナの視界の先には背の高い光る建物が幾つも現れ始めた。それはかつて過去の映像で見た崩れた塔とは違って、その何倍も大きく高くそびえたつ建物で、その数は数えきれないほどだ。光る建物の周りだけが青く輝いていて、ハンナは一瞬その美しい姿に心を奪われた。
その時だった。ハンナの身体にこれまで感じたことが無いような痛みが貫いた。予想していなかった強い痛みで、ハンナの意識は遠のいていき、蛟が地上へ向けて落ちていく浮遊感覚を身体に感じた。頬に受ける風を遠のく意識の中で辛うじて感じることが出来ていたのだが、それは蛟も同じだった。ハンナと蛟を守るように包んでいた雲はもう周りにはたなびいてはいなかった。ひとつになったままふたりは地面に向かって落ちていく。蛟の頭上にいたハンナは力なく蛟の角に背中で寄りかかり、そしてそのまま蛟の腹側へとずり落ちてしまった。
けれど蛟はその手でハンナをしっかりと受け止め、どのような姿勢になろうともハンナの身体は蛟から離れることは無い。薄れる意識の中でハンナはその手を蛟の赤い石に無意識に触れてしまった。その瞬間、ふたりは分離し、強い光の中で蛟はレオに姿を変える。落下していく感覚を身体に感じながら、ハンナは遠くで人々の叫び声が聞こえた気がしたのだが、それは、悲壮な叫び声ではなく、何故か歓喜の歓声のようにも聞こえた。
『ハンナ、ねぇ、僕、負けたの?』
遠のく意識の中、ハンナの頭の中でレオの声が静かに響いた。と同時に、ハンナの瞼の裏は突然再び強い光が射したように明るくなった。落下しているはずの自分の身体が再び上昇し始めるのを感じたハンナは、身体に力が戻り始めると、ようやく薄く目を開けた。
「ハンナ、大丈夫?」
ハンナの眼の前には、レオの顔があった。全身が柔らかいものにくるまれているような感覚で、さっきまで感じていた痛みはもう無かった。心配そうに眉間にしわを寄せたレオが、じっと自分のことを見つめていることに気が付いたハンナは、ゆっくりと起き上がりながら顔を左右に振り、今自分がいる場所を確認しようとした。
「ここは、どこ?」
ハンナのその声にレオは安堵したのか、ほっとした表情でいつものような柔らかい笑顔を作った。
「僕もよくわからないの。お空にいたはずなんだけど……。ここ、僕が前にいたところとよく似てるけど、なんだかもっとふわふわしてるね。お空が見える窓はないし。でも、ハンナが一緒なら僕怖くないよ。《怖い》って気持ちは、《嫌い》に似てるね。虫を見た時の気持だよって、大きいレオが教えてくれたんだけど、僕、もう虫も怖くなくなったから。あ、ハンナ、僕、ゲーム負けたのかな。また引き分けなの? どうして僕たちここにいるの? 今ね、僕、とてもとても変な気持ちなの」
難しい顔を作りながら、支離滅裂に話すレオの頭を撫でながら、ハンナはため息をついた。
「そうね、私もよくわからないけど、これだけは確か。これはゲームじゃないよ、レオ」
「あ、そうだった。精霊たちが大切にしているものが取られちゃったから、それを取り戻んだったっけ。取り戻せたの? ねぇ、ザグレブが言ってた《領域》ってなあに? ねぇ、それってなあに? 僕はね、あの赤い川のことだと思ってた。うんとね、それでね、ハンナが『雲を呼ぶ』って言ってたから、何とかしなきゃって思った。でも、とっても変な感じになったの。《悲しい》とも違うし、《嫌い》とも違う。《不味い》の気持ちにちょっと似てるけど、ちょっと違う。それでね、変な感じのままでいたら、お水、じゃなくて、雨、がいっぱいいーっぱい降ってきた。そうしたらとても気持ちが良くなった。本当に凄く変な感じ。赤い水と緑の人達を見るとね、とても変な気持ち。だから、僕、赤い水も緑の人達も、見えないところに消したかったんだ……けどさ、ハンナが助けたいって言うから……。ねぇ、ハンナ、僕、なにか間違えた?」
ハンナは、一生懸命自分の気持ちを伝えようとするレオの話を耳で聞きながらも、自分たちがいる場所がどこなのかを何とか把握しようとしていた。ふたりがいる部屋は、四方が鈍い銀色の壁に囲まれていて、窓も出入り口も見えなかった。ランプさえないのに部屋の中は明るく、その光がどこから来ているのかさえハンナには分からなかった。足元は柔らかく、床一面がベッドのようだ。どこもかしこも同じ色で囲まれているせいか、自分が部屋のどのあたりにいるのか、壁までの距離感さえつかめないような部屋だった。
レオは、ハンナの不安をよそにずっと話をし続けている。レオが精霊と一体化していない時は、レオとハンナは石に触れない限り互いの感情を読むことが出来ない。今何が起こっているか分からず、不安でいっぱいの状況下では、レオに気持ちを読まれないことはハンナには幸いなことではあった。
レオの感じた《変な気持ち》というものが何なのか、ハンナにはもちろん判別することは出来なかったが、それでもあの時、蛟の頭上で自分自身が感じた気持ちと、レオのそれがリンクしていたとするならば、その気持ちの一部はハンナが感じていたものに他ならなかった。
「レオ、あのね、もしかしたらそれは、《怒り》なのかもしれないね」
「怒り?」
「うん。虫たちに囲まれてレオがとても嫌な気持ちになっていた時、私が助けてあげられなくて、でもレオは許してくれて、仲直りしたこと覚えてるかな」
「うん、覚えてるよ。ハンナがごめんなさいって言った時?」
「そう。あの時、私の心の声を聴くまで、レオが私の方を見てくれなかったよね。あの時、ずっとレオが感じていた気持ちが、
ハンナは、相変わらず部屋の様子を見回しながら、レオとは目も合わせずに答えていた。レオは、しばらく眉間にしわを寄せて何かを思い出している様子を見せていたが、斜め上を見上げるようなしぐさを見せた後、言葉を発した。
「うん。あの気持ちに似てる。でも、ちょっとやっぱり違う。僕、あの山の上にいた人たちには『僕を助けて』とは思わなかったもん。助けて欲しいのに助けてもらえなかった時のあの気持ちは《怒り》って言うの? ねえ、《敵》って何? ハンナやパルスが言ってた《敵》って何? あの人たち助けたかったの?」
「……わからない。でも、ルークが……」
「ザグレブやルークは、『敵じゃない』って言ってたよ。ねぇ、《敵》って何?」
「そうね……嫌な気持ちにばかりさせる、嫌いな人のことかな……いなくなってくれれば嬉しくなるような人とか……」
レオがハンナを再び質問攻めにし始め、ハンナは適当に答えていたのだが、その質問に答えた時、レオが飲み込んだ人々のことを思い出した。ハンナは背筋が凍り付くような心持ちでレオに向き直った。
「ねぇ、レオ、あの人たち、どうなったの?」
「あの人たち?」
「覚えてない? 私は、助けようと思って……」
「うん。だから、よく覚えてないけど、どこかにいると思う」
「何をしたか覚えてないの、レオ」
「変な気持ちになってから、よく覚えてないの。でもハンナの声は聞こえてたよ」
レオは、あどけない顔でほほ笑んだ。そのあどけなさはハンナには一層怖さを感じさせるものだった。
あの人たち、レオの口に吸い込まれた人たちは、一体どうなってしまったんだろう。北の仲間たちは無事なのだろうか。ハンナが彼らを最期に見たのは地上で煙に巻かれていた姿だった。
ハンナは次々頭に浮かぶ恐怖と戦っていた。誰かに助けて欲しいと叫びたい気持で一杯になり、指輪を見つめながら祈り始めた。
ルーク、お願い。助けに来て。怖いよ。
突然、青白い光が指輪から立ち上がると、部屋の中を四方八方へと漂い始めた。いつもなら空へと高く突き抜けるはずのその光は、部屋中を漂ったのち、やがて細かい粒子となって霧のように砕けていく。ハンナとレオは、その光を目で追っていたが、光が消えると同時に四方を囲んでいた銀色の壁が大きくたわんだかと思うと、その姿を徐々に変え始めた。言葉を失っていたレオとハンナの眼の前に、揺らぐ黒い影が現れたのは、その時だった。
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