第36章 蛟(みずち)の覚醒

「レオ、君は一体何をしたんだ……?」

 ザグレブが驚いた表情でそう言いかけた時、大きな轟音とともに白い煙が川の上流で上がった。怯えたレオが、ハンナにしっかりとしがみつく。赤い光は綺麗に消えてしまっている。

「いったい何だ?」

 ガイヤが立ち上がった。

「上流で何かが起こっている……すぐ行かにゃならん」

「フラムがいれば、きっと大丈夫だ。ハンナがヤギたちから聞いたという、工業用の金属を探す作業が本格的に始まったのかもしれん。ハンナ、ひとつの石の教育はこれで終わりだ。後は自分で実践して身につけていきなさい。私とガイヤはひとまず上へ向かう。君はどうする」

 このエリアも間もなく精霊の領域でなくなるのかもしれないという気持ちが、ハンナを動揺させていた。サウスエンドも、フラワーバレーも、この北方エリアも、自分がいる場所は次々に消えていく。消えるというより、別の場所へと変化していくのだ。

 ラクスが言うように、本当に私は《疫病神》なのかもしれない。

 ハンナの様子を見て何か思ったのか、ガイヤがハンナにゆっくり近づいて来て、ハンナの肩に手を置いた。温かみのある大きな手が、少し震えているようにハンナには感じられた。

「ハンナ、そんな怖い顔をしていたら、精霊の領域は守れないよ」

「だって、私どうしたらいいか……。何もできないし、ママの言う通りに、いい子にする事しか考えてこなかったし、自分がどうしたいかなんて聞かれたことも殆ど無かったから……」

「何のために、レオがいるんだい?」

「え?」

「レオはね、君を守ってくれる。何があってもね。だから君は、自分がしたいことを思うだけでいいんだ。それも誰にも教わらなかったのかい?」

「でも、レオに何かあったら……」

「レオはね、精霊と一体化している時は……」

「あ、そうか。傷つかないって、ルークが言ってた」

 ガイヤは頷いた。

「だから、危ないと思ったら、レオのことは精霊に預けるんだ。君のことは、精霊となったレオが守ってくれる」

 ハンナは大きく頷いた。その姿を見てザグレブはハンナに声をかけた。

「ハンナ、レオ、こちらへ」

 ザグレブに呼ばれ、ハンナはザグレブの側に近寄った。レオはハンナにしがみついたままだ。

「危険だと思ったなら、すぐに逃げるんだ。逃げることは恥ずかしいことではないからね。何度も言うが、我々の成すべきことは……」

「精霊の領域を守ること、ですよね。何ができるか分からないけど、私も行きます」

「では、行こう」

 ガイヤが大型の猛獣のような姿の麒麟に姿を変えて宙に浮いた。ハンナはレオの顔の高さまでしゃがむと、レオの肩に両手を乗せて笑顔を見せた。

 レオを怖がらせてはいけない。ハンナはそれだけを考えていた。

「ねぇ、レオ。皆と一緒に、川の上の方へ行こう。精霊たちのために頑張れる? これはゲームじゃなくて、精霊たちが大切にしているものが取られちゃったから、それを取り戻すの」

 レオは、眉間にしわを寄せながら頷いた。

 ハンナがバングルの赤い石を一度叩くと、白いみずちが姿を再び現した。

 みずちは、どことなく、大きくなっているようだ。飛ぶたびにその脚もがっしりしてきている。

 ハンナがみずちに乗りザグレブ達に続いて行くと上流には数十秒で到着した。山頂まで来ると、かなり険しい山であることがハンナに判った。その山頂に人々がうごめいているのが見える。

 上流にはもともと木は植わっていなかったようで、ザグレブの言ったとおり、大きな石がごろごろしている。そのひとつひとつの大きさは、ハンナの背丈よりも大きいように見えた。

 ザグレブは、山からかなり離れたところの上空で、ハンナに「ここでじっとしていなさい」と言い残し、麒麟と共に遠くへと前進して行った。

 下を見ると、緑色の軍服を着た多くの人々が、石に穴をあけて、筒状のものをその穴にねじ込んでいるのが見えた。峰の反対側の上空にはザグレブが浮いている。どうやらその先へ進むのをやめたようだ。

 その隣には二羽の鳥が見えていた。距離が離れていて小さく見えているが、おそらく大型の鳥、火の鳥フェニクスと鳳凰リベラだ。

 南の仲間だけ……。ラクスはどこへ? どうして私はここに一人離れて居なきゃいけないの?

 ハンナがラクスの守り人であるユニコーンを探しながら上空で辺りを見渡していると、下の方で叫ぶような声が聞こえた。その数分後、再び轟音と共に白い煙が上がった。どうやら、さっきの白い煙は、この石を粉々にするためのもののようだ。さっきまで大きな塊だった石は、粉々に砕け散って、下流へと転がり落ちていくのが見えた。

 こんなにひどい騒ぎなのに、鳥は森から一羽も飛び立たなかった。ハンナの耳には、動物たちの声も虫たちの声も聞こえなかった。山全体がまるで死んでしまったかのように静まり返っていて、その中で軍服を着た者たちが叫ぶ声だけが聞こえている。

 ふと、ハンナの視界の端で、山の中にいる白い馬が目に入った。山頂の岩場がちょうど途切れているあたりで、背の低い草と木々に身を隠すようにじっとしている。

 あれは……?

 その馬の頭には角があった。間違いなくユニコーンに姿を変えたパルスだ。低い木々の間からユニコーンは顔を出していた。峰の反対側にいるザグレブ達には見えていないのか、誰も動く気配はなかった。

 不思議なことに、ユニコーンの背中には、ラクスが乗っていなかった。

 いったい、どこに? 探さないと。

 ハンナがそう思うと、途端にみずちは動き始めた。ゆらゆらと空高い所から山頂へ向かって降下し始めたみずちに気づいた南の領域の仲間が、慌ててハンナの方へ向かってくるのが見える。

「レオ、ねぇ、レオ、何してるの? じっとしてなさいって言われたでしょ?」

 みずちは一向に言うことを聞かない。ハンナの心の奥底にある《ラクスはどこ?》という気持ちの強さが、じっとしていなければいけないという頭ではわかっていることを超えていたのだ。みずちは、ただ単にハンナの意思に従っているに過ぎなかった。

 幸い、ハンナの戸惑う心のおかげで、少し進んだところで仲間に取り囲まれ、ハンナは上空で動けなくなった。空のより高いところから、ザグレブがハンナを叱る。

「ハンナ、じっとしていることさえ君にはできないのか!」

「あの、違うんです。ユニコーンが見えて、そしたらラクスがいなくて、心配で心配で、すごく気になって。そしたらみずちが勝手に……」

「ハンナ、自分の心をコントロールしなければ、何もできないよ」

 火の鳥に乗る南の長フラムが、優しく声をかける。

「ごめんなさい」

 謝るハンナにザグレブは、怒鳴って悪かったと言いながら、指をさした。

「ラクスはそこだ」

 ザグレブが指さした先を見ると、七色の尾を持つ鳳凰リベラの上、ラルフの後ろにくっつくようにラクスがいた。全身が泥だらけになって、長い黒髪まで真っ白だ。

 ラクスはハンナと目が合うと、「ふん」、と言いながら横を向いた。

「ちょっと、ラクス、あんた心配してもらったのに、その態度ってないんじゃない?」

 ラルフが後ろのラクスに向かって声をかけた。

「心配してくれなんて頼んでないし。勝手に心配してんじゃないわよ」

 ふてくされるラクスにラルフが笑いながら言う。

「ま、そんなみっともない姿じゃ、ハンナじゃなくてもみんな心配するけどね。勝手に」

「うるさい! あんたあたしより若いくせに生意気なのよっ!」

「照れなさんなって」

「ラルフ、あんたってマジむかつく」

「あ、やっとあたしの名前呼んだじゃん。良かったぁ。覚えてないんじゃないかと心配してた」

 ラルフは、言い合いをしながらもなぜか楽しそうだ。その姿は、言い合いをしながらも助け合っていたマルグリットとニーナのようだ。ハンナは、あんなに会いたくない二人を何故思い出すのだろうと不思議な気持ちになった。

 フラムが、ハンナに声をかけたので、その懐かしい記憶は途中で途絶えた。

「我々が到着した時、ラクスさんがちょうど汚染源を確認したところでした。その時、少し上流の峰の反対側からやって来たあいつらが、突然山頂の石を爆破させたんです。守り人パルスが、ラクスさんを守って助かったものの、全身が石の破片で真っ白に」

「ユニコーン……パルスは、一体何をしているの?」

 ハンナの問いに、ラクスがうなだれた。

「傷を……負ってる。飛べないんだ」

「え? 精霊と一体化している時は怪我しないんでしょ?」

「地上に降りて、姿を元に戻して一緒に汚染源を探してたんだ……原因となった場所を」

「じゃあ、すぐに緑の石で助けなきゃ!」

 ザグレブが、ハンナに声をかける。

「ハンナ、パルスは今、精霊になっているからあれ以上酷くなることは無い。ラルフが到着してあの白煙の中からラクスを助け出すだけで精いっぱいだったらしい。パルスは咄嗟に姿を変えたんだろうが、すでに怪我を負っていて飛べなかったようだ。問題は、次に姿を変えた時だ。その時に助ける。これは全て、ラクスに任せきっていた私の責任だ」

「だって、すぐ助けないとあいつらに見つかっちゃうよ! すぐそばにいるじゃない」

「彼ら、グリーングラス人にはね、我々のことは見えないんだよ、ハンナ」

 フラムが言う言葉の意味が、ハンナには分からなかった。するとザグレブが呟いた。

「いや、このふたりの姿だけは、ひょっとすると彼らにも見えるかもしれん。だから、出来るだけ離しておいたんだが。とりあえず、今はそれよりもあれを止めることだ」

「具体的な方法は考えているのですか?」

 フラムが尋ねる。

「川沿いの林をまず焼いて、奴らを遠ざける」

「それなら任して」ラルフが手を挙げた。ザグレブは頷いてから、ハンナの方へ向いた。

「間もなく、雨が降る。火があがった後、集中的にこのエリアへ雲を誘導して奴らを撤退させよう。ハンナ、これは水の精霊、みずちの仕事だ。できるかい?」

 ハンナは面食らった。そんなこと、やったことも無いからだ。

 ハンナの後ろに立っていた南の長フラムが苦しそうな声を出した。

「でもそんなことをしたら、きっと、川も湖もさらに汚染されます……」

 ザグレブは、俯きながら呟いた。

「必ずもう一度復活させる。万が一それが叶わない時は、この領域を離れる時期が来た。ということだ」

「ここを諦めるってこと?」ラルフが叫ぶ。

「もう嫌だよ。また諦めるなんて! 南の海だって、あたしが見落としたせいで、汚染が広がって、あっという間に消えて。フラムは私のせいじゃないって言うけど、あたし、あたし……」

 叫ぶラルフは鳳凰リベラの背にまたがったまま小さな拳でその背を何度も叩いていた。ラルフの背中側からラクスがそっと手を差し伸べ、上からその拳を握った。

 それに驚いて振り返ったラルフに、真っ白に汚れた顔でラクスは静かに言う。

「今回も、あんたのせいじゃないよ。あたしが……見落としてたんだ」

 ラルフは下を向いて、声を殺して泣き始めたようだった。小さな滴が七色にキラキラと輝く鳥の背にポタポタと落ち始めた。

『ねぇ、ハンナ、雲を誘導するって、どうするの?』

 突然ハンナの頭にレオの声が反響した。ハンナは答えられなかった。

 何もできないまま放り出されたことに戸惑い、皆の話を聞いても何もできない自分に腹も立っていたのだが、そんなことが全て頭から消える程に、突然レオの声が聞こえたことに驚いた。

「どうした、ハンナ」

 ザグレブがハンナの異変に気付いて声をかけた。

「あの、レオの声がして、『雲を誘導するって、どうするの?』って」

「それは、君の声であり、レオの声だ。自分の心に強く話しかけなさい。大切なことは、自分が雲を誘導するのだと強く信じて思う事だ」

 大きな爆音がして、三度目の白い煙が上がった。ユニコーンは、相変わらず低い木に頭をうずめている。

「時間が無い。ラルフ、行くぞ」

 火の鳥に乗るフラムが先陣を切って進んだ。鳳凰リベラに乗るラルフが涙をぬぐってそれに続く、その背にぴったりとくっついて座るラクスが、ラルフに向かって叫んだ。

「思い切り焼き尽くしちゃってよ! きっといつかまた、透き通る川と緑の大地にするからさ! あ、パルスだけは燃やさないでよ」

 少し笑顔になったラルフが宙を舞う。火の鳥が舞ったその後には、雨のような火の粉が降り注いだ。鳳凰リベラの羽ばたきひとつでその炎はあっという間に山の中腹から山頂へと登っていく。

「ハンナ、私がパルスを救い出し、奴らが撤退し始めたのが見えたら、雲を呼びなさい。いいね」

 ユニコーンの元へ飛んだザグレブが、ユニコーンから姿を元に戻したパルスへ強い緑の光を放っているのが上空にいるハンナの眼に見えた。ガイヤも姿を戻してその横に座り込んでいるようだ。

 精霊と一体となった守り人は、姿を元に戻さない限り、その経験者は他の誰も助けることは出来ないのだとルークが言っていたことをハンナは思い出した。

 山に放たれた火が、グリーングラスの人々が持って来ていた火薬に引火して、山のあちらこちらで爆発の音と共に白煙が上がり始めた。火に囲まれ、逃げ惑う人々が上空から見える。

 かつて見た《グリーングラスの戦い》の映像が、ハンナの脳裏をよぎった。多くの人々が山を逃げるように下りていく。スノーマウンテンの向こう側には黒い雲が見えていた。

 ザグレブがまだパルスを介抱しているのが見える。火の手は見る間に彼らの方向へ向かって進んでいく。

《雲よ、早くここへ来て》

 ハンナが心で祈ると、蛟は軽く何度かくるくると回転したが、雨どころか、遠くに見える雲も全く動かなかった。上空から全てが見えているのに、ハンナには何もできなかった。

《どうしよう。一体どうすればいいの……》

 燃え盛る火の中で、いつまでも飛び立たないザグレブとガイヤ、怪我を負ったパルスの姿が煙に巻かれていく。ガイヤがむせ込むように地面に倒れるのが見えた。

「お願い! レオ 皆を助けるのよ! 私たちが助けるの!」

 ハンナが叫ぶと、突然、白いみずちはその口から突風を吐き始めた。遠くにあったはずの雲は、山の上空へと移動し、渦を巻き始める。みずちは息を吐いているのか、吸っているのか判らない。次の瞬間、空が真っ暗になり、風に乗って横から叩きつけるような暴風雨が吹き荒れた。

 山から流れ出した水で、川は見る間に増水し、辺りを真っ赤な色に染めていく。それはまるで、山が血を流しているようだった。

 山の下の方には小さな山小屋が見える。人々はそこへ逃げ込んでいるのかもしれなかった。

 その山小屋にも赤い水が押し寄せていた。

 『グリーングラスの人々は、敵ではない』というザグレブの声がハンナの頭に蘇る。

 自分の父親がグリーングラスの軍人であることを恥じることは無いのだ。グリーングラスの血を引く自分だって、この国の人々の敵ではない。と、ハンナはその言葉に救われていた。

「レオ、もう止めて!」

 ハンナが叫ぶと、蛟の口から今度は大量の水があふれ出た。山頂で砕かれていた岩が、雪崩のように山の斜面を転がり落ちていく。そのうちのひとつは山小屋の屋根に激突して、屋根を吹き飛ばした。中から多くの人が飛び出し、麓へ向かって走っていくのが見えた。

 漂っていた黒煙は、東側へ移動していて、東側一帯に煤けた黒い雨が降っている。

 

 これ、何処かで、観た……。


 真っ赤に燃え盛っていた山は、一瞬で鎮火していた。

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