第34章 ヤギたちの祈り
見下ろした先の二頭のヤギに向かって、ハンナは声をかけた。
「さっきはごめんなさい。驚かすつもりはなかったんだけど、中にいるとは知らなくって。私、ハンナといいます。フラワーバレーから来ました。こっちの子はレオ。多分すぐに出ていくと思うんだけど、しばらく場所を借ります」
二頭のヤギたちは、互いに顔を見合わせると小さく鳴いた。ハンナがそれに答える。
「ええ、私、あなたたちの言葉が分かります。こんな時間にグリーングラスの奴らが来たって、かなり怒っていたようだったんで、そうじゃないってお伝えしたくて、フラワーバレーの歌を歌いました」
ヤギはくるくるとその場を回り始めた。そして、もう一度ハンナを見上げ、何度か鳴いた。
「え? どういうことですか? 詳しく教えてもらえませんか」
それからハンナは、ヤギたちとかなり長い時間会話をした。一頭のヤギがもう眠りたいと愚痴をこぼすまで、ハンナはこの領域に起きた異変を聞き続けることになった。
ヤギたちは、この場所を一刻も早く離れたがっていた。ハンナが最初に聞き返した時、二頭のヤギは、ハンナに懇願していたのだ。
「ここから逃がしてくれ。あとは自分たちで何とでもする。そしてあの家にいる者たちにも、ここから早く逃げろと伝えて欲しい」と。
ヤギたちの話では、この辺り一帯の湖は、赤い色の水に変わりつつあるという事だった。その湖底には、グリーングラス王国が欲しがっている多くの金属が眠っていて、それを少しずつ掘り返し始めるだろうというのだ。その金属を使って様々な種類の工業製品が作られるのだという。
ハンナには、工業製品という物が何を指すかが分からなかったのだが、とにかく便利な道具を作り出すにはその金属が必要で、この辺りの比較的浅い湖の底から、少しずつその金属を掘りかえす計画が進んでいるという話だった。
氷に閉ざされた北の国に何故かグリーングラスの人達が関心を示してやって来て、あっという間に北の果ての土地からその領土を広げていった時、動物たちは、「あんなところに何の用があるのか、スノーマウンテンの方がまだましな土地だ」と不思議がるだけだった。
春になって氷が解けると、グリーングラスの数名の者たちが東の山を越えてやって来た。浅い湖に繋がる北方の川で、魚釣りを楽しんでいるようなふりをして調査を始め、その川底から金属が見つかると、更にその上流、下流へとあちこちを採掘し始めた。
数日前にはその領域が北の湖まで迫ってきていたという。調査のために金属が掘りかえされた場所は、雨が降る度に川から湖へとその金属が流れ込み、北の湖の底には、赤褐色の錆びたような色の水が溜まり始めたという事だった。
湖の中の草は枯れ果て、のどかに湖底で暮らしていた生き物たちは行き場を失った。川沿いの山の木々は切り倒され、弱い地盤は、雨が降る度に動物たちが歩くこともままならなくなっているらしく、その範囲はあっという間に東側の山まで広がり、数日で東側と北側は完全に姿を変えてしまうだろうとヤギたちは怯えていた。
この南側の小屋の隣にある湖にはグリーングラスはまだ手を付けてはいなかった。ここの湖は水深がとても深く、手間がかかりすぎるという事で、グリーングラスが手を付けるのは最後になるだろうとヤギたちは語った。
何よりも、このエリアは一応まだかつてのパンパスグラスの領地だ。勝手な行いは出来ないはずだった。けれど、偽物の経験者と守り人たちが、どうやらグリーングラスの研究者を手引きして案内し、金もうけをしているらしい。
湖底からの水が噴き出している隣の湖だけは安全だと思われていたが、最近では地底深くからとうとう赤い水が噴き出すようになっていて、魚や鳥たちが大騒ぎをしているとヤギたちは悲しそうな声で鳴いた。
隣の大きな湖は、どこの川ともつながっていない不思議な湖だった。山から染み出た水が、地底をつたい湖底からあふれ出ているせいだ。
「私たちが食べに行っている山の草、最近雨上がりには、特に変な味がするんだよ」
二頭のヤギは心配そうに互いに顔を見合わせている。
「そうなのよ。それでね、その草を食べた私たちの乳を、あの家の人達は飲んでいるの」
「そうだ。それでチーズも作っている」
「とても心配なの」
「明日の午後には雨が降る。そうしたらきっとまた他の湖にも被害が広がる」
「私たち、早くここから逃げたいの。鳥たちは、もうほとんどいないし、魚たちは湖の上の方でとても苦しそうよ。他の動物たちも、ここ二、三日で、まだスノーマウンテンの方がましだって言って逃げて、ほとんどいなくなったの。私たちも、出来るだけ早くスノーマウンテンへ逃げたいのよ。
毎日、毎日、祈っていたのよ。ここから逃がしてくださいって、そしたらあなたが来て……」
「今はもう暗いから山に逃げるのは難しい、明日の朝にでもあなたから何とかあの人たちに説明してもらえないか」
ハンナは、分かったと答え、寝床へ戻った。大きなクッションの間に身を沈めると、寒いのかレオはハンナにくっついてきた。薄い毛布一枚では寒いはずなのだが、クッションはぽかぽかと温かかった。クッションの中には何か温かい固まりがあり、どうやらそこが熱を放っているようだ。
ヤギたちはしばらくの間、お願いねと何度もつぶやいていたが、そのうち静かになった。この北エリアにまで広がっている異変を早く伝えねば、けれどそれを話したところで、いったい何ができるのだろうと、ハンナは寝床の中で思いふけった。
ハンナがようやくうとうとしだした時には、気温がかなり下がっていたようで、吐く息が白くなっていた。クッションは徐々に温かくは無くなってきている。寒さの中でようやく眠りに落ちることができたと思った時、急に辺りが明るくなり、ハンナはその朝焼けのような光に向かって薄く目を細く開けた。
その明るい光は、すぐ目の前だけで光っていることにハンナは気が付いた。レオはぐっすり眠っている。
夢を見ているのだと、ハンナは思った。目の前の朱色の光の中にママがいたからだ。
「ママ?」ハンナが声をかけると、ママは微笑んだ。
「ママ、どうしたの?」
ママは何も言わなかった。その代わり、レオの赤い石を指さして、にっこりと笑った。
「え?」
ハンナがレオの赤い石を覗き込むと、赤い光はすっと消えママも一緒に消えていった。
「ママ!」
大きなヤギの助けを求める声がして、目を覚ましたハンナは、瞼の奥に赤い色のママの残像が残っているのを感じた。
隣にレオはおらず、ヤギたちも消えている。
ハンナが大慌てでヤギ小屋の外に出ると、大きなバケツに水を汲んだラクスとパルスが家の玄関に向かって歩いているのが見えた。
「あの、ラクス……さん」
ラクスは、ちらりとハンナを見ると、ふんと顔を背けて、片方の足でドアを開き、家の中へと入って行った。
ラクスのとなりにいたパルスが、笑顔でハンナに声をかける。もともとカールがかかかった髪は、朝の寝ぐせと合わさって膨らみ、倍ほどの大きさになっている。
「やぁ、よく眠れたかい?」
「あ、はい。あの、レオが、いなくなってて。ヤギも……」
「ああ、ヤギは、ガイヤが山に連れて行ってるはずだよ。レオは、ザグレブとお弁当の支度中。寝ていたのは君だけ。働かざる者食うべからずってのが、ザグレブのモットーでね。君も早く顔洗って、手伝わないと、朝ごはんにあり付けないよ。
あとね、ここしばらくずっと天気が良かったけど、明日には雨みたいだから、今日中には教育を終わらせるらしいよ。僕らは、東の森へ偽物探しに出るから。ま、頑張ってね」
ハンナは言葉を挟むすきを与えてもらえなかった。慌てて、パルスについて家の名へ入ると、そこにはザグレブと共にサンドイッチを作るレオの姿があった。
「あ、ハンナだ。あのね。僕ね。皆のお昼ご飯を作っているの。北の湖へ行ったみんなに持っていくんだって。知ってる? お弁当って言うんだよ。朝ごはんはもう食べたよ」
ザグレブは、ハンナにおはようと声をかけた。ハンナが、昨日ヤギたちから聞いたことを話そうとした時、奥からラクスが現れた。
また大きなバケツを持っているが、今度は中身が空っぽだ。ラクスは、ハンナをじろりと睨みつけた。
「ちょっと、あんた、まさかとは思うけど、今まで寝てたの? ただで食べて、寝て、また朝ごはん食べて、教育してもらって、何もせずに帰るつもり?」
ザグレブは、まあまあと言いながら、立ち上がった。
「ハンナ、君は、いつも朝、誰かに起こしてもらって、ご飯も他の《誰か》に作ってもらっていたのかい?」
「はい……」
「そうか。でも、ここではね、自分のことは自分でするんだ。朝ごはんの材料は自分で集めて、自分でご飯を作って、食器も自分で片付ける。大人も子供も同じようにやる。
誰かがやってくれる時もあるが、いつもじゃない。その人がみんなの分まで作りたいと言った時だけ、その人が作る。自分の意思で動くんだよ。考える練習だ。
今日は、みんな忙しいからね。昨日残ったパンがあるから、そこのパンを食べなさい。お昼はレオがみんなの分を作りたいと言い出したので、私と一緒に作ってくれている。
あと一時間もしたら出発するから、それまでに君も自分でできることを考えなさい。
他の四人は、もう北の湖へ行ったよ」
ザグレブの説明が終わると、ラクスが憮然とした顔で、ハンナの前に立った。
「で、あんた、何をするつもりよ?」
「え?」
「自分で考えるって、今聞いてたでしょ。皆のために何が出来んのよ」
「ええと、あの……」
「あんた、どうでもいいけど、自分の頭でちゃんと考えたことあんの?」
ハンナはムッとした。けれど、言われて見れば、今までママの言うことに従って、目立たぬように慎重に生きていただけだった。ママが言うことをやって、ママがダメという事はしなかった。突然自分で何かしろと言われても、皆のために何をしていいかなんてわからないのだ。
「じゃあ、ヤギ小屋の掃除でも頼むかな」
パルスが助け舟を出してくれた。
「ああ、それは助かるね。ちょうど、ガイヤが山にヤギを連れて行ったところだから、今のうちに掃除をしてくれると助かるよ」
それを聞いて、ハンナは大切なことを思い出した。昨日ヤギから聞いたことをひとつづつ思い出し、誰から聞いたかは言わずに、今何が起こっているかだけを皆に伝え始めた。
グリーングラスが湖や川の底にある金属を掘り返している話、それが川をつたって山を越え、少しずつ近くの湖まで迫っていること。赤く染まる北の湖の話、すべての動物たちが、逃げ始めてスノーマウンテンへ向かっていること。偽物の経験者たちが、お金を貰ってグリーングラスの人の手伝いをしていること。湖の水や、ヤギの乳を飲むのは控えた方がいいという事を、思い出すままに話した。
「北にグリーングラスが侵攻していたことは、半年前から知っている。氷の大地に穴だけをあけて帰っていったらしい。氷が解けるの待っていたという事か……」
ザグレブは神妙な顔つきをして聞いていた。その場が静まり返ったことで、レオは何事があったのかという顔をしている。ハンナの話を必死で理解しようとしているようだ、
パルスがザグレブに怖い顔で尋ねる。
「俺たちが、見落としていたってこと?」
「東の川から徐々に入って来ていた可能性が高い。氷が解けてその速度が速まったんだ。この領域の全ての川は繋がっているからな」
そのうち無言で聞いていたラクスが、低い声でハンナに近づいてきた。
「ちょっと、あんた、どうやって、その話を知ったのよ? もしかして、あんたって、やっぱりグリーングラスの……」
「ラクス、もうしそうなら、そんな話を俺たちにはしないはずだ」パルスが言う。
「あ、あの、私、小さい頃から、動物の声が聞こえて、それでヤギたちが、スノーマウンテンへ逃げたいって言ってて……」
「はぁ? ヤギに聞いたとでも言うの? 嘘も休み休み言いなさいよ。大体、どんな動物だって行きたがらないスノーマウンテンに、動物たちが逃げ込むわけないでしょ」
「いや、西の領域に、そういう種族がいる。神と呼ばれていたらしい。ハンナ、君の親は西の人間なのか。グリーングラスとの混血という事だが」
ハンナは頷いた。「母はユラ神だ」と言うと、ザグレブは頷いた。
「けれど、動物たちと近い者が経験者となったとは聞いたことは無いが……。今確かめるから、少し待っていてくれ」
眉間にしわを寄せていたザグレブは、立ち上がると、大きな袋のような鞄を背中から斜めにかけ直し、レオが用意していたお弁当をその中に全て突っ込んでから、赤い石の指輪が光るごつごつした手を握った。そして、一度胸に当ててから天を衝くように握りこぶしを天に向けた。
一瞬光がまっすぐに走って消える。おそらくガイヤに何か信号を送っているはずだ。
すぐにザグレブは、何かを聞き入るように目を閉じた。ガイヤと会話をしているに違いない。
レオは、ザグレブを怯えたような顔で見つめている。それから数分で、ガイヤが戻って来た。ヤギ達は一緒にいないようだ。
「いったいどうしたんだザグレブ。急にヤギを放せだなんて。説明くらいしてくれ」
「ヤギたちは?」
「ああ、いつもなら腹を空かせて草地の方へ行きたがるんだが、さっき聞いた通りに放したら、あっという間にスノーマウンテンの方向へ走っていったよ。うまい餌があるっていえば、すぐ戻って来るはずなのに、一目散に逃げて何度呼んでも帰って来やしない。こんなこと初めてだ。
一体何がどうなってるんだか。いいのかよ、俺たちの食料を生み出してくれる大切なヤギだぞ」
ラクスは、ガイヤの顔をじっと見つめている。
「ハンナの言ったことが事実だった。ということだ、ラクス」
「ザグレブ、わしにも分かるように説明してくれ」
ガイヤが、皆の顔を見まわしている。その隣で、くるくる髪のパルスが、その大きな頭を抱えて小さく呟いた。
「南の四人、あいつら、北の湖に送り出しちゃったよ。何もしないで見るだけでいいとは言っておいたけど。湖底を綺麗にするとか、変な無茶してないかな」
「あたしのせいだって言いたいの? まだ本当かどうかなんてわかんないでしょ。三日前に、北の湖をきれいにした時は何ともなかったじゃない。それに何かあっても、勝手に動いたりせずにザグレブにまず伝えるってこと解ってるはずだけど。あのラルフって、生意気な子以外はね!」
ラクスが引きつった声を出した。ザグレブが呟く。
「いや、ラクスのせいではない。昨日、北の湖の見回りを頼んだのは俺だ」
「うん。だけどさ、今朝、この前の湖で水を汲む係と、北の湖の掃除をする係と、二手に分かれようっていう話をしたのは俺なんだ」
パルスがしょんぼりしている隣で、レオが悪気なく話に割って入った。
「ラクスが先にお水を汲みに行ったから、他の皆は北の湖へ行ったんだよ」
「とにかく、皆で、北の湖に行こう。かなり厄介なことになるかもしれん。ラクス、さっきの水は飲まないように。しばらく置いておくんだ」
ラクスは言われるがまま従っていた。唇をかみしめて、何か言いたげだが、何も言わず準備を始めている。北へ行った四人が気になったハンナが皆に聞いた。
「あの、他の四人と連絡を取る方法は?」
「は? あんた何言ってんの? マジでなんであんたみたいなやつが経験者なのか分かんない」
ガイヤが掌をラクスに向けると、ラスクは押し黙った。
「ハンナ、レオ、君たちが何も知らないという事はよくわかったよ。
その赤い石だけれどね。守り人が、自分の経験者を守るためのものだ。連絡はその経験者と守り人の間ならできるけどね。他の守り人や経験者同士で連絡を取るものじゃない。
守り人が姿を元に戻している時にだけは、指輪のSOSの光に気づくことは出来る。が、今は彼らは恐らく作業中だろうから、守り人は精霊に姿を変えているはずだ。だから無理だろう。
他の守り人や経験者と、いつでも連絡をとることができるのはライラだけだ。
俺たちは、光に気づけばすぐに飛んで行けるからね。今のところSOSは感じないから、彼らは大丈夫だ」
「おい、俺だけ置いてけぼりで、話が見えない」
ガイヤは、皆を見回してうろたえている。
「すまん、ガイヤ、話は後だ、今はすぐにでも北の湖へ飛ばねばならん。ハンナ、悪いが、教育は現場で直接行うことにする。皆、行くぞ」
ガイヤは、そう言われて慌てて外に出ると、あっという間に大きな生き物に姿を変えた。
鹿のように見えるが、脚は馬にも見える。牛のような尾を持っていて、頭はオオカミのようで大きな角をはやしていた。とにかく巨大だ。背中にある大きなコウモリのような羽を広げると、ザグレブがその背中に飛び乗った。その隣でくるくるした巻き毛の白いユニコーンが姿を現し、ラクスが、それにまたがってハンナに振り返り叫んだ。
「あんた、疫病神じゃないの? フラワーバレーの花も消したんでしょ?」
「それは、あたしのせいじゃ……」
そこまで言いかけて、ハンナは本当にそれが自分のせいでないと言い切る自信が無くなった。
あれも、グリーングラスの企みなのだとしたら?
「行くよ! ただ飯ぐらい女!」
ラクスに怒鳴られて、ハンナは慌ててレオの手を取った。
「レオ、またゲームなんだけど、いい?」
「うん、いいよ。皆とゲームなら、僕も行きたい!」
ハンナは少し考えてから、レオのバングルの赤い石を二度叩いた。
レオが自力で戻れるか、試しておきたかったのだ。強い光と共に
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