第33章 ノースランドの小さな家

 スノーマウンテンを超え、夕焼けを左手に見ながらまっすぐ進むと、十分程度で濃い緑色の大地が広がって来るのがハンナの眼に映った。背の高い濃い緑色の木々の森が、どこまでも続いている。

 緑色の森の間には、夕焼けに染まって赤紫や朱色に光る湖が幾つも見えていた。その小さな湖は、水玉模様のように森の中に点々と存在していて、大きいものから小さいものまで、その数は無数にあった。

 ハンナの前を飛んでいる二組の経験者と守り人が、ゆっくりと降下して、ひとつの大きな湖のほとりに降り立った。ハンナもそれに続いて地上に降りると、急いでレオの赤い石に触れた。

 みずちがレオに姿を変えたことを確認すると、前にいた四人は無言で森の奥へ歩き始め、ハンナとレオもその後に続いた。森の中は静かだった。ハンナの隣では、レオが耳を立ち上げている。あまりにも静かすぎるのだ。

 ここにも虫たちも動物もいないのかな。森の木も草花も普通に見えるのに……。

 ハンナがレオと同じように耳を立ち上げかけた時、森の奥から美味しそうな香りが漂ってきていることにハンナは気が付いた。レオが辺りの様子を伺うように鼻を動かしながらハンナに声をかける。

「ねぇ、ハンナ、すごく美味しそうな匂いがするね。僕、お腹空いた」

 その声に、前を歩くリベラが笑顔で振り返った。ビーズの沢山付いたスカートは、赤い夕陽を受けてオレンジ色に光って見えた。

「帰ったら、きっと、すぐ晩ご飯だよ。暗くなると危いから、急ごう」

 白い煙を煙突から吐き出している小屋は、湖から歩いて一分もかからないところにあった。

 鬱蒼とした森の木々で隠れて見えなかったその小さな小屋は、ドアがひとつと、長方形の窓がドアの両側にあるシンプルな造りの家だ。

 ハンナは、その小屋がはっきりと見えるところまで来ると、自然に耳をぴんと立てていた。中でひそひそと話す数名の声が聞こえてくる。


「まったく、なんだって俺たちにばかりお荷物を押し付けるんだよ」

 張りのある低い声が、少し憤慨した様子で話している。それに答えたのは、高い声を持つ女の子のようだ。

「ほんと、あのラルフって子、来たばかりだって言うのにさ、あたしたちのボスを無視して、確認もせずに勝手に手を挙げるなんてね。そもそも、あの子自身がお荷物なのに」

「まぁまぁ、精霊使いがライラに変わったんだから、やり方が変わっても仕方ないのさ。それに、一番最初に終わらせておく方が、好きな石を選べていいじゃないか」

 太い落ち着いた声が、女の子をなだめている。女の子が反論する声が聞こえる。

「でも、教育ったって、あたしは嫌だからね」

「ま、終わらせたら次の場所に行ってくれるんなら、明日にでも、いや、今晩にでも適当に教えて追い払いたいよ。それでなくても、寝る場所が狭くなってうんざりしてるのに。来たばかりのあの四人だけでも手いっぱいだ。でしょ?」

 再び張りのある低い声が、誰かに同意を求めていた。ここにいるメンバー以外にもあと四人いるという事だったが、ハンナの耳にはいつまで経っても、声は三つしか聞こえてこなかった。


「ね、ハンナ、《お荷物》って何?」

 下を見ると、レオがハンナと同じようにしっかり耳を立てていることにハンナは気が付いた。その声に後ろを振り返ったラルフがそれに気づき、耳を立ちあげたままのレオに近寄る。

「お荷物だって? え? 何? 誰かが、お荷物って言ってるのが聞こえでもしたの?」

 ハンナは慌てて否定しようとしたのだが、それよりもレオが答える方が早かった。

「俺たちにばかりお荷物を押し付けるんだ……って、聞こえたよ。あのお家の中に三人いるね」

 先頭を歩いていた黄色い髪のフラムは、家の前で立ち止まると、レオに振り返って言った。

「レオ、人の話を勝手に聞くのは、とっても失礼だ。それから、聞いたことをすぐに口にするのも止めなさい。結果的に、君が損をする。ラルフ、家に帰っても余計なこと言うんじゃないよ。いいね」

「なんで? なんで、こんなひどいこと言われてるのに、黙ってなきゃならないの?」

 フラムはそれに答えることなく、向き直って家の前の階段を上った。隣にいたフェニクスが、なだめるようにフラムの腕を取り、腕を組んで歩き始めた。リベラが、困ったような顔してその後に続く。

 レオは、習ったばかりの失礼という言葉を思い出していたようで、小さな声でごめんなさいと言い俯いている。けれど、それが何故なのかわからないレオは、納得のいかない表情をしている。

「ねぇ、ハンナ、《損》って何?」

「あとで教えてあげるから、レオ、ちょっと待ってね。少しだけお利口さんでいてね」

 レオは、こっくりと頷いた。それからレオは、一切口を開かなくなった。どうやらレオは、《お利口さん》という言葉を、《黙る》という行為だと解釈してしまっているようだ。

 ハンナは、そのうちちゃんと訂正して教えなければと思いながらも、今は誤解しておいてくれた方が都合が良さそうだと思い、レオの誤解をそのまま放置した。

 突然、内側からドアが開くと、細身の長い髪をした子が家の中から顔を出した。足音に聞き耳でも立てていたのだろう。

「遅かったね。やっぱり、南の人達って、のんびりしてるよねぇ。寒いところが嫌で南に戻ったのかと思っちゃった。うちのボスが食事を作ったから、どうぞ入って遠慮なく召し上がれ」

 ハンナは、さっき聞こえていた高い声の主が、この女の子かと思いながら、まじまじと見つめた。ハンナよりは随分お姉さんに見えるが、なんとなくとげのある言い方をしていて、決して感じが良いとは言えなかった。

 誰かに似ているなと考えていたハンナは。それがマルグリットだと気が付いた。スレンダーな肢体に長い髪。眼鏡こそかけていないが、皮肉たっぷりの言い回しはニーナと話す時のマルグリットにそっくりだ。

 口げんかして別れたままであることを思い出したハンナは、少し苦い思いが胸にこみあげるのを感じた。隣でレオが同じようにじっとその子を見つめていることに気づいたハンナは、思わず無言でレオの手を引っ張った。皆が順に席につくのを見て、ハンナはレオを入り口ドアの側に座らせてから、その隣に腰をかけた。

 大きなテーブルを囲んで座っているのだが、それは等間隔ではなかった。テーブルの半分にはもう食事を終えかけている三人が広々と座っていて、残りの半分のスペースに六つの椅子が窮屈な状態で並んでいた。

 大きな木を切っただけのテーブルは、ほぼ円形だが、所々がくぼんだり、出っ張ったりしていて、レオはその出っ張りを不思議そうに触っている。

「私たちもう食べたから、じゃね」

「俺も寝る。明日から偽物探しだ」

「じゃあ、私も先に休ませてもらうかな」

 三人が一斉にテーブルから立ち上がった時、奥の部屋からトレーにスープ皿を六つ乗せた大男が現れた。筋肉の塊という表現がぴったりの、引き締まった身体をしている。しなやかな身体つきで、その顎は特徴的なデザインの髭に覆われていた。トレーに添えられた左手の指には、年季の入ったごつごつした感じのシルバーのリングが光っている。

 その大男は、くっつくように並んで座っていた六人を見て、一度眉間にしわを寄せ、立ち上がった三人を睨みつけるような様子を見せた。そうして、ゆっくり六人の前にスープ皿を置くと、ハンナとレオに向かって頭を下げた。

「ノースランドを取り仕切る、ザグレブです。こちらの四名の方たちも、最近このエリアへ避難して来られているので、あまり詳しくはないでしょうから、何かあったら何でも私に聞いてください」

 ザグレブと名乗ったその人の声は、さっきの三人の中にはなかった声だった。ザグレブは、立ち去ろうとする三人に向かって無表情で言葉を投げた。声を荒げているわけではないが、無言の圧力がその場を一瞬で緊張感でいっぱいにした。

「お前ら、いい加減にしろ。明日は我が身だとは思わんのか。それが、初めて来た客人に対する態度か。それ以上くだらんことを続けるなら、俺を含め、お前たち全員をスノーマウンテンへ移動させる」

 その場を立ち去りかけていた三人は足を止め、慌ててテーブルに戻って来た。

「冗談だよ。冗談」

「ていうか、なんで、人が食べてんの見てなきゃいけないの。テーブルだって狭いしさ。これも親切心だよ。あたしたちがここにいる意味なし。それに、挨拶なら、来た方がするべきでしょ」

 言い訳をするふたりの横で、何も言わずに縮こまっているもうひとりの者は、ハンナの眼にはずいぶん歳をとっているように映った。その胸には太いチェーンが見えていて、その上で大きな赤い石がひとつ輝いている。

「礼儀がなっておらず、申し訳ありません」

 ザグレブが頭を深く下げる。ハンナは、レオが自分の腕を引っ張っていることに気づいた。

「レオ、皆に挨拶したいのね」

 レオは何度も首を小さく振って頷いた。ハンナがレオに『もういいよ』と言って立ち上がると、レオもつられて立ち上がった。

「ハンナ・フレデリックです。こんにちは」

「えっとね、僕、レオって言うの。守り人レオじゃないよ。ザグレブさん。こんにちは」

「あ、ああ、こんにちは」

「あなたたちはだあれ? 名前が無いから挨拶しないの?」

 その場にいた三人は、小さな子の鋭い指摘に慌てて順番に名乗り始めた。

 レオにはもちろん悪気はなかったのだが、『挨拶ができないのは名前が無いからで、名乗らずに名前を聞くのは礼儀がなっていない』ということを頭にインプットしているようだった。最初に名乗ったのは、太い落ち着いた声の男で、さっきまで縮こまっていた人だった。

「わたしは、ガイヤと言います。この経験者ザグレブの守り人です。大変失礼しました」

「あたしは、経験者ラクス。生まれも育ちもこの北エリア」

「僕は、ラクスの守り人、パルス。さっきの失礼な態度をお詫びするよ」

「お詫び? って何?」

 レオは真顔だ。面食らったパルスは、謝ったつもりなんだけど、と言葉を濁した。

「何だ、謝ったのか。僕全然わかんなかったよ。相手と仲良くなりたいなら、心からごめんなさいって言わないといけないんだよ。変な謝り方!」

 それを聞いて、不機嫌な顔だったザグレブは、ガハハハと大声で笑った。レオは、それを見てガハハハッと真似をしている。ハンナは焦って、レオの口をふさいだ。

「あ、あの、すいません。ちょっと、この子、時々変なこと言うので……」

「ごめん……」

「え?」

「さっきは、ごめん。俺、嫌な感じだったかな」

 パルスがそう言うと、レオは笑顔になった。パルスのところまで飛ぶように走って、パルスをぎゅっと抱きしめている。ラクスはそれを見てふんと言って外に出ていった。

「こんな時間に何処へ行く?」

 ザグレブがラクスの後姿に声をかけた。パルスが、慌ててラクスについて行く。

「月光欲してくる。すぐ戻るよ。じゃ、みなさん、おやすみなさい」

 ラクスは、最期まで謝らなかった。レオは、それを見つめて呟いた。

「ねぇ、ラクスは、みんなと、仲良くなりたくないの?」

 その場にいた皆が、一瞬顔を見合わせたように見えた。

「気分を害させてすまなかったね。なんていうか、反抗期ってやつなんだよ」

 ザグレブは、その場にいた皆に詫びながら、冷めないうちにどうぞとスープを勧めた。それは野菜を煮ただけの質素なスープだったが、一日慌ただしく飛び回ったハンナには、とても落ち着く味だった。

 ザグレブが、パンの入った大きなカゴを手に戻って来て、ガイヤがそれを皆に切り分け始めた。ガイヤは横目でザグレブの機嫌を伺っているようにハンナの眼には映った。

 ザグレブとガイヤは空になっている食器を片付けると、温かいお茶を用意しますねとキッチンへ姿を消した。他の四人が静かにスープを口に運んでいる隣でレオは、これはニンジン、これは玉ねぎ、これはじゃがいもと言いながら一つ一つ口に入れている。

「ねぇ、ザグレブ、反抗期、って何?」

 トレーにお茶を載せて戻って来たザグレブは、レオの前にどしりと腰をかけた。ふたり分の幅を取って座ったザグレブは、その大きな手をテーブルの上で組み、夢中でスープを食べながら尋ねるレオを微笑んで見つめた。ガイヤはどうぞと言いながら、お茶を皆に出している。

「反抗期っていうのはね、自分でこうやりたい、自分で決めたい、自分はこう思うっていう風に、自分自身がどういう考え方をするのかを見つけていく大切な時間だよ。だから、自分がやりたいと思っていることを止められたり、思っていたことと違うことをされたりするとあんな風にとても怒るんだ。

 風邪とかの病気と同じでね。かかっても必ず治る。治るというよりは、治す方法を自分で見つけてゆくんだ。自分の心とお話をする、とても大切な時間なんだよ。どこまでがいいことで、どこからがダメなことなのかを自分の頭で考えなきゃいけない。

 そして、自分の想いとは関係なく、できないことや、納得できないおかしなことも世の中には沢山あるという事を知るんだ。

 その時期はね、自分のことを分かって欲しい、何故まわりの人は、自分のことが分からないんだと、自分のことばかり考えている。

 だけど、周りの人が自分のことが分からないのも、自分と違う考え方なのも当たり前の事だ。自分と他人は違うからね。それに気づくまでそれは続く。それでね、自分が周りの人にとても嫌な思いをさせていることが分かっていても、自分で自分の心を止めることが出来ないんだ」

「その風邪みたいな病気、とっても嫌な病気だね。その反抗期にならない人もいるの? 僕は、かかってない?」

「君も、そろそろじゃないかい? もしかからなかったら、後で大変なことになるからね」

「大変なこと?」

「ああ、心の病気、っていうのかな。とにかく早くかかっておいた方がいいんだよ。

 普通は二回ほどかかるがね。大人になってもかかったままの人もいる。反抗期は大人になる前の神聖な儀式みたいなものだよ。終わったら、ひとつステージクリアだ。

 自分の思い通りにならないこととや、おかしいと思うことがあっても、そのことと折り合いをつけていくことを学ぶんだよ。折り合いって、分かるかい。仲良くするように努力するってことだよ。その時に、何でも許すような大人が側にいると、なかなか治らないけどね。

 いつまで経っても折り合いが付けられなくても、身体だけは、勝手に大人になっているからね。頭が混乱するんだ。自分の思い通りにならないければ機嫌が悪いっていうままじゃ、生きている間ずっと辛いだろうね。

 それを直せるのは、自分自身だけでね。大人になることを認めれば、治るんだよ。嫌なことと折り合いをつけてね。君の隣にいる経験者、ハンナだっけ。ハンナもそろそろ二度目かな」

 ハンナは、無言でスープを口に運んでいたのだが、いきなり話を振られて思わずむせ込んだ。

「はぁ、ええと……」

 反抗期が何なのか、経験者になりたくないと駄々をこねたのがそれにあたるのか、ニーナだけでなく、自分に謝ってくれたマルグリットにまで腹が立っていたのはそれなのか、一度目があったのかどうか、ハンナにはよく解っていなかった。

 隣でレオは、ザグレブの話を理解したのか、分からない単語が多すぎたのか、眉間にしわを寄せて考え込んでいる様子だ。

 皆が食事を終える頃、ラクスがパルスと共に戻って来た。何も言わずに部屋を横切ろうとした姿を見て、ザグレブが声をかけた。

「いつからそんな偉い立場になった。言っとくが、ここはお前の家ではない」

 ラクスは、振り返るとザグレブを睨み付けた。

「こんなド田舎のボロ家、いたくているわけないし」

「ラクスッ!」

 声をあげて立ち上がったガイヤに見向きをせず、ラクスは奥の方へ姿を消した。ザグレブは、何も言わなかった。ドアを激しく締める音が聞こえる。パルスは皆に頭を下げると、同じように奥へと向かった。レオが耳をぴんと立ち上げているのが、ハンナには分かった。

「ラクス、泣いてるよ……」

「レオ、いいから、さっきも言われたでしょ。それ失礼よ」

 レオは、慌てて耳を下げ、ごめんなさいと呟いた。その場の雰囲気を変えようとしたのだろうか、黄色い髪のフラムが、ザグレブに声をかけた。

「とても美味しかったです。やはり北の野菜は、中身が詰まっているというか何というか、とても味が濃いのですね」

「ほんとに美味しかったです。心づくしのお料理、ありがとうございます」

 フェニクスが、優しく微笑む。

「パンも美味しかったです。つい食べすぎちゃった」

 リベラは、お腹いっぱいだと言わんばかりのポーズをして見せた。ラルフも笑顔になる。

「うん。無言で食べちゃったよね」

 皆が口々に感想を言っている横で、レオはひとり、まだお皿にへばりついた玉ねぎと格闘していたのだが、皆の言葉を聞いた後に突然言葉を発した。

「これは、『美味しい』とは違うよ」

 ハンナは、スープのお皿をひっくり返しそうになりながらレオの口を慌ててまたふさいだ。

「ハンナ、そんなことしたら、食べられないよ」

 その場にいた全員が、レオのことを見つめた。ザグレブは、また、ガハハハッと笑うと、レオの頭を撫でた。ガイヤは呆れたような顔で口を開け、レオを見つめている。

「美味しいとは違うか?」

「うん。もっといっぱい食べたいって思うけど、立ち上がりたくはないもん」

「え?」

「あ、あの、すいません。このレオは、多分ですけど、『美味しい』は『立ち上がってしまう味』だと思っているのだと思います。いや、ほんとに、このスープ美味しかったです!」

 ハンナは焦って立ち上がって御礼を言った。その姿を見てレオが叫ぶ。

「ハンナには、すごく美味しかったんだね! よかったね!」

 レオが満面の笑顔でそう言うと、皆がくすくすと笑いだした。ザグレブは笑顔でレオに話しかけた。

「もっといっぱい食べたいのかな?」

「うん。でもね、それはマナー違反だって、セバスチャンが言ってた。

 お料理はデザートまでのバランスが大切なんだって。だから、どんなに美味しくても、ひとつのものだけをお腹いっぱいまで食べちゃダメだよって。でも、僕のいたところ、美味しいものなんてなかったから、ひとつのものだけをお腹いっぱいまで食べたことなんかないの」

 ハンナは、その場から逃げたい衝動に駆られていた。幸いザグレブは、笑っている。

「そうか。でもここではコース料理は出ないし、デザートも無いからね。それだけしかないんだよ。だから、それだけでお腹いっぱいにしなきゃいけないんだ。もう少し食べるかい?」

 レオは、嬉しそうな顔で頷いた。ザグレブがレオの皿に少しスープを追加すると、レオは再び食べるのに夢中になり静かになった。和んだ空気の中で、再び黄色の髪のフラムがザグレブに話しかけた。

「ザグレブさん。それで、私たちがお手伝いできることはあるのでしょうか。さすがにお世話になりっぱなしという事もできませんので」

「もちろんです。この辺り一帯にある湖をご覧になったでしょう。そのすべてを守るだけでも大変なのです。明日の早朝、皆さんをある湖までお連れします。すべきことは山のようにありますから」

「ところで、ザグレブ、このふたりの教育はどうするつもりだ?」

 ガイヤの言葉を聞いたレオが、にっこり笑いながら突然叫んだ。スープはあっという間にすっかり平らげてしまっている。

「ねぇ、教育ってなに? 今晩にでも適当に教えてって………」

 ハンナは、必死でレオの口を押え、引きつった笑顔を見せた。

「教育ってね。君に何か新しいことを伝えるために、大人が頑張るってことだ。だから、適当になんてやっちゃいけないんだよ。明日ね、しっかりと君たちに教育もするからね。精霊たちの願いなら、ちゃんとしなくてはね」

 ザグレブは笑いながら、最後まで食べていたレオの皿をようやく引き上げると、レオの口元と、それを押さえていたハンナの手を、持っていたタオルで優しく拭った。

「さぁ、レオ、もう寝る時間だよ。これから、大人たちだけでお話する時間だからね。狭いけれど、隣の小屋に屋根裏部屋ロフトがあるから、ガイヤに案内してもらいなさい。時間が無くて、掃除があまり行き届いていないが」

 その言葉を聞いて、ガイヤが立ち上がった。どうやら、リベラとラルフも《大人》として扱われているのか、ふたりは立ち上がらなかった。

 ハンナは、ゆっくりと席を立ちレオの手を引いた。手にランプをふたつ持って、家の外に出たガイヤに驚きながら、ハンナとレオも外に出た。

 空に見える満天の星は、フラワーバレーのものと少し違うような配列に見えているが、澄んだ空気の中で美しく輝いている。星を見て家のことを思い出したハンナは急に心細くなった。

「ママ……」

 その声に驚いたガイヤとレオがハンナを見つめる。

「どうかしましたか?」

「大丈夫です。あの、明日、教育が終わったら、一度家に帰れますか」

「さぁ、どうでしょう。それを決めるのは、精霊たちですからねぇ」

 ガイヤは、向き直ると、家の裏手に回った。そこにはひとまわり小さな小屋があって、中にはヤギが二頭並んでいた。どうやらヤギ小屋のようだ。

 入って来たハンナたちに驚いて、ヤギはバタバタと逃げ回った。小屋の中にある狭い階段を上ると、下を見下ろすように張り出した部分があった。ザグレブが言ったとおりの狭い屋根裏部屋ロフトのような作りだ。そこに小さな木箱が繋げて並べられていて、その上に大きなクッションのような枕がいくつか載せてある。

「急ごしらえで、すまないがね。ここが寝床だ。家の中で眠らせてあげたいんだが……」

 ガイヤが、気の毒そうに言葉を濁したのを見て、ハンナは明るく答えた。

「いえ、ヤギたちと一緒なら安心だし、平気です」

 ガイヤは、不思議そうな顔をして、「火事には気を付けて、眠る前には消すように」と言い残し、持っていたランプをひとつだけ置いて外へ出ていった。レオは、不安そうな顔をしていたが、ハンナが並んだ箱の上にクッションのような枕を並べて寝転がると、一緒になってその場に横になった。ハンナはレオが横になるとすぐにランプの灯を消した。

 少し開けた天窓からは、柔らかい月の光が差していた。階下ではヤギたちが小声で鳴きながらゴソゴソと動く音が聞こえる。

「ねぇ、ハンナ、このベット、固いね」

「うん。そうだね」

「ハンナ、どうして笑ってるの?」

 ハンナは、答えなかった。レオが眠りにつくまでハンナは歌を歌った。フラワーバレーの伝説の龍の歌だ。少し寂しげな調べが小屋の中で小さく響く。レオは、言葉の意味が分からず何度か質問したが、ハンナは答えずに歌い続けた。そのうちレオが静かになると、ハンナはゆっくりと起き上がり、手すりにつかまって階下を見下ろした。

 二頭のヤギが上を見上げていて、見下ろしたハンナの視線をまっすぐに受け止めた。暗闇の中で、微かな月明かりを反射した黄色い四つの光が、ハンナをじっと見つめていた。

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