第31章 それぞれの命

 ルークの問いに答えを返すことが出来ず、ハンナは座ったまま俯いていた。ルークは、レオを抱いたままハンナの傍までやって来て跪くと、ハンナを見つめた。

「人間が愚かにも命に優先順序を付ける理由は、欲や名誉のためか、自分と繋がる血のためか、それとも感情抜きに単に傷の程度を比較して優先順位を考えるか、そのうちのひとつだ。

 けれど、精霊の世界にそんなものは通用しない。我々は、その都度、精霊にとってそれが必要な存在かどうかだけで判断する。我々にとっては、どの人間の命も同じ重さだ。どんなに重い傷を負ったものがいても、それが人間であればわざわざ助けたりはしない。だが、軽い傷であっても助けることもある。それが我々に必要なら者ならね。言っただろう、君はもう精霊の側のものなんだよ。けれど不完全な君は、精霊を助ける意思が無ければ、まだただの人間だ。自分に繋がる血の命だけが大切だと考えている。

 いいかい、君がレオを守ることを諦めたから、レオも君を守りたいとは思わなかった。だから君の指輪は光らなかったんだ。まだ分からないのかい? この力は、守り人に与えられたものであって、君に与えられたものでは無い。

 君が何度僕を呼んでもその声が僕に届かなかったのは、君が守り人のことを完全に拒否して見捨てていたからだ。守り人が精霊と一体になっている間は、君の声は僕には届かない。何故なら、本来君を守るのは、君の守り人であり君の精霊だからだ。そして、その守り人でもある精霊は、決して人を傷つけ殺すための道具ではない。君は、レオに最も教えてはいけないことを教えてしまったんだ。

 その力を、自分の欲しい時だけ思うまま使っておいて、同じ人間の中で自分の親だけが特別だと思い、あげくに怯える守り人を放置しておいたままで力をくれと言い、願いが叶えられないと知るや怒り出すだなんて、厚かましいんだよ!」

 ハンナは愕然とした。ルークは言葉を続けた。

「こっち側に来たくないというのなら、その指輪を今すぐ捨てて、その力も手放すんだ。そうすれば君は解放される。けれど、そうなればその母親も間もなく死ぬだろう。僕は、その時、人間となった君も、君の母親も助けることはしない。絶対にだ」

「私が……他の人を傷つけたから?」

「傷つけた、で済んでいればいいけれどね。別に、君がやったことへの罰だなんてくだらないことは言わないさ。因果応報なんて無いんだよ。それが自然の摂理だからだ。一定以上の怪我をすれば人は死ぬんだ。そしてこの世界で死んだものは、ここで二度と蘇ることは無い。実際の世界では、ゲームのように蘇ることなんて無いんだよ。消えたものは戻らない。君が消したものも戻らないのさ。そして君が倒した者が死んで、この世界から消えたとしても、君への恨みの念は、次代へと受け継がれ消えることは無い。

 君が経験者を辞めることを止める気はない。ただ、精霊たちからの許可なき離脱は、守り人の死を意味する。この子は、もう半分姿を変えてしまっているからね。君は、自分の母親と、このレオを殺す気かい? それでもいいなら、すぐにその力を手放すんだ。君のようなものが経験者だなんて、こっちが恥ずかしいよ」

 ハンナの頭は真っ白になった。目の前が真っ黒になったという方が、適切かもしれなかった。もう自分だけの意思で動くことは決して許されないのだ。自分の意思を使っていいのは、守り人と繋がっている時だけなのだ。けれど今躊躇している間などなかった。ママを助けなければ。その思いがハンナを動かした。

「わかったよ、ルーク。それが精霊の望みなら従うしかないって。私、こんなことになるとは思わなかった。何も知らなかったんだもの。自分がしたことがどんなことかも考えなかった。

 私、どうすればいいの? これからは、レオをしっかり守るから。約束するから。その代わりママを助けて。お願い」

「まだ人に頼る気かい? まずはレオを守って、レオの心を元に戻すんだ。話はそれからだ」

 ハンナは、泣く泣くママから離れた。ルークにしっかり抱き着いているレオは、差し出されたハンナの手を取ろうとはしなかった。顔を背け、ルークにしがみついている。

「レオ、ごめんね」

 レオは顔をルークの胸にうずめたまま動かない。

「あのね、わたし、ママがいなくなりそうで、怖くて……ごめんね、でも、ママを助けたいの。お願いレオ、力を貸して」

 ハンナの眼から涙がまたあふれ出た。何もできない自分に嫌気がさした。憧れだった経験者は、ただの下僕だった。しかも、村中の人が自分の姿を見て、憧れるどころか、魔女呼ばわりした現実を見たばかりだった。戦って勝ったはずの敵にとっては、ハンナはただの凶暴な悪なのだ。ハンナが思っていた憧れの経験者は、全くの偶像だった。

 ママの息はほとんど聞こえなくなり、上下していた胸はほとんど動かなくなっていく。溢れる涙を抑えることもできず、ハンナは大きな声を出して泣き崩れた。

 ……私はレオが鬱陶うっとうしかった。レオはそんな私の心に気づいて私を嫌ってしまった。じゃあどうすればよかったの。わからないよ。沢山の人を倒して、レオを傷つけて、ママも助けられない。レオ、ごめんね。ママ、ごめんね。どうしてなの。どうして、私には何もできないの。私は何のために、一体何のためにこんなことをしているの。経験者なんか、少しもカッコ良くない。こんなこと知ってたら、経験者なんかなりたくなかった。でも、でも……あの力が欲しい。自分勝手だって解ってるけど、今は力が欲しい。何でもいい、お願いママを助けて。

 地面に突っ伏して泣いていたハンナの肩には温かい温もりがあった。それは小さなレオの手だった。ルークに抱かれたままレオはハンナをじっと見つめている。レオは、ハンナの肩に乗せた左手のバングルの中心にある赤い石の上に、自分の右手を重ねていた。

「ハンナ、泣いてる……ねぇ、うっとうしかったってどういう意味? 自分勝手って何?」

「そうだねぇ。《鬱陶うっとうしい》は、レオ君の周りに飛んでた虫さんが、レオ君がどんなに嫌だと思っても側にいたように、ずっと嫌な気持ちにさせるようにそこにあるってことかな。それと、《自分勝手》は、自分のしたいことばかり考えて、他の人のことは全く考えないってこと」

 ルークはレオの頬の涙をぬぐいながら、ゆっくりとレオに語った。

「ハンナが、心でそう言っていたのが聞こえたのかい?」

「うん、僕の事、うっとうしかったって。じゃあ僕、ハンナをずっと嫌な気持ちにさせていたの? あとね、自分勝手だって解ってるって。それとね、僕とママにごめんなさいって、ママを助けてって……」

「ああ、そうか。ハンナがレオ君をうっとうしいと思っていたのを間違えてたって気が付いて、ごめんなさいって言ったのなら、間違いを直して謝ったみたいだね。レオ、君はどうする?」

「間違い? 謝る?」

「ああ、ごめんなさい、って心から言うことが謝ることだよ。相手と仲良くしたいときは、間違えたらまず謝ることだ。《間違い》っていうのは、レオ君のことを《守り人レオ》って呼ぶようなことかな」

 レオは一生懸命理解しようと眉間にしわを寄せていた。しばらく考えた後、ルークから離れると、突っ伏して泣いているハンナの背中の上から優しくハンナを抱きしめた。

「僕、ハンナを嫌な気持ちにさせたの? ごめんなさい。でもね、僕、虫が大嫌いなの。凄く、すごく嫌いなの。怖かったのに、どうして助けに来てくれなかったの? 僕のこと嫌い?」

 ハンナは、ゆっくりと起き上がった。首を横に振ってからレオを泣きながらぎゅっと抱きしめると、レオもハンナを抱きしめ返した。そうしてようやくレオは笑顔になった。レオの頬には涙を流した跡が沢山ついている。それを見て、初めてハンナはさっきテントウムシが言った言葉の意味を理解した。

「僕、あの虫が怖いって思っていたの。これって間違えてたのかな……」

 レオは七色蝶を指さした。

「そうね。あの七色蝶たちは、レオのことが、とても心配なだけだから」

「ふうん……。じゃあ、虫にも謝らなきゃ。ごめんなさい」

 レオがそう言うと、蝶たちは、突然一列に繋がって大きな丸い輪を作った。そしてその中に三本の曲がった短い線を作り、笑顔の絵ができあがった。レオは、わぁと声をあげ、手を叩いた。

「もう大丈夫だね。ハンナ、手をママに当てて。覚えているかい? さっきの呪文。精霊たちがこれからも君のママを必要とするかどうかは分からないが……」

「パナケイアよ、この一瞬、この石に宿り給え、でしょ?」

 ハンナよりも先に、レオは得意そうに、ルークにそう言った。ハンナはママのところまで戻り、その傷に触れると呪文を呟いた。すると、緑色の石が光り、煙のように傷口を覆った。その煙は、さっきハンナがやけどをした時とは違って、その傷口だけでなく、全身に広がってゆく。ルークは怪訝な顔をして、その様子を眺めていた。傷口はすっかり塞がっているのに、緑の光と煙は、いつまで経っても消えることは無かった。

「ハンナ、もう傷はすっかり治っているよ」

 ハンナは恐る恐る手を離した。傷はすっかり治り、ママは目を開け意識を取り戻した。

「ママ!」

「ハンナ……ここは……」

「ストロベリーフィールドよ。もう大丈夫。よかった……」

 ママはハンナの後ろに立っているルークに気が付くと、上体を起こした。

「ルークさん、また、この子を助けていただいて……」

「いえ、お嬢さんとあなたを助けたのは、私ではなく、この守り人レオです。私は、その手助けをしたまでです。ところで、あなたは精霊使いですね?」

「そうだよ。ママは、未来が見えるすっごい精霊使いなんだから」

 ハンナは、鼻をすすりながらママを自慢した。

「ああ、ユラ神、の方でしたか。ライラから話は聞いています」

「ええ……」

「緑の石が光を放ち続けたのには、理由があったのですね……」

 ルークは何か言いたげにしていたが、それ以上何も言わなかった。ハンナは、ママがもう怪我をしていないことに安堵して、しっかりとママに抱きついた。横からレオもしっかりと抱きついてきている。七色蝶もテントウムシも、その周りを飛び交っていた。

「今後、守り人を決してないがしろにはしないように」

 ルークは、ハンナを見つめて言った。

「……分かった。私は、もう、精霊側の者なんだね……」

「好むと好まざるとに関わらず、そうなりますね。その代わり、あなたはそのみずちの力を操ることが出来ます」

 ハンナは、パトラの遺言を思い出していた。

『どんなに逆らいたくとも、どうやってもその力を使いたいという欲望には逆らえないという事を、いつかきっとお前は気付くことになる』

 ハンナは、ひとつため息をついた。

「他の石の力は、どんなものなの?」

「それは、これから必要な時に、少しずつ分かりますよ。さて、これからどうされるおつもりですか?」

 ルークはミチコに向かって問いかけた。

「グリーングラスは、数日前から私たちがこの国にいることを把握しています。もうすぐ、彼らは村中を探し回ることになるでしょう。必要とあらば、私たちの命も奪うつもりのようです」

「どうやら、そのようですね」

「彼らが、パンパスグラスに埋められた物を探しているのはご存じですか」

「もちろん、知っています。彼らが見つけることは不可能ですが」

「おそらく、かなりの人数が、ここへやって来るはずです。それを止めなくては」

「そのことでしたら、既に対応済みです。その件で、午後は北の山に呼ばれていましたので。

 途中でこちらに来てしまいましたので、どこまで話が進んだかは分かりませんが、新たな精霊使いのライラが、その危機を食い止めるはずです」

「ライラが?」

 ハンナは、ママと顔を見合わせた。レオは、ライラという名を聞いて、あのパンを食べたいと言い出した。一度言い出すとなかなか諦めないレオは。そのパンがいかに美味しかったかを力説し始めた。あきれ顔でルークはママ向かってに話を続けた。

「そんな旨いパンなら食べてみたいものですね。ところで、さっきの話の続きですが、まずは国中の経験者と守り人が、ロゼの丘に集まるよう連絡が行くはずです。連絡が来なかった者については《偽物》という事がはっきりしますので、今回、偽物を一掃して罰を与えるという事も考えられているようでした。おっと、余計なことは言ってはいけなかったかな」

 ルークは、頭を掻きながら、思い出した、という感じでペガサスを探した。ペガサスは随分離れたところに見えている。

「ジャッキーはね、血を見ると動けなくなるんだよ。小さい時のトラウマでね。あと、石に血が着いたりすると後々面倒だから」

 ハンナは、そう言われて、さっきレオの石にママの血が吸い込まれて行ったことを思い出した。ルークにそのことを質問しようとした時、ハンナの頭の中に大きな声が共鳴した。それは、聞き覚えのある太いライラの声だった。

『パンパスグラスの精霊たちよ。今すぐ、ロゼの丘に集まりなさい』

 ハンナが驚いた顔をしている横で、レオが耳を押さえているのが分かった。同じ言葉が何度も何度も頭の中で響いている。おそらくレオの頭にも響いているのだろう。自分がした悪戯が、どれほど辛いものなのか、思い知っている様子だ。その声が聞こえないママは、レオに大丈夫かと声をかけている。

「では、私たちはこれで」

 ルークが駆け寄る前に、ペガサスは宙へ舞い上がり始めた。ルークが大きくジャンプすると、ペガサスはルークの下に回り込んで、その背中にひらりとルークを乗せた。

「君たちも、行くんだよ。もう飛び方は覚えたね。さぁ、急ぐんだ」

「でも、ママは……」

「残念だが、連れてはいけない」

「ハンナ、行きなさい。ママは大丈夫よ。この結界の中にいる限り安全だから。虫たちもいるもの。それに、あなたはもう……」

「精霊側にいる者……」

 頷くママを見て、ハンナはレオに振り返った。

「レオ、もう一回ゲームだよ。お空を飛ぶよ、いい?」

 その言葉にレオは嬉しそうに頷いて笑顔を見せた。ハンナはレオのバングルの石に触れ、自分自身に語りかけるように祈った。

『ロゼの丘へ行く! 飛べ‼』

 閃光と共に小さな白いみずちが姿を現し、ハンナを頭上に乗せると、あっという間に北の方角へと消え去った。

 黄色テントウムシも七色蝶も、それを見て大歓声を上げていた。

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