第30章 緑の石

「パナケイアよ、この一瞬、この石に宿り給え」

 ハンナは、泣きじゃくりながら、ママの傷口に掌を当てていた。指輪の石は光らず、ママの肩の傷口からは血が溢れ、その上をハンナは両手で覆っていた。

『お願い、ルーク、助けて』

 願っても指輪からは青白い光は出なかった。ルークはいつまで待っても、どんなに念じても来なかった。地面に着いたみずちは、ハンナが離れたいと思うと、その身体は簡単に離れた。それからずっとみずちは身動きが取れない様子で、のたうち回っている。

「レオ、願いだから、静かにして! 今、あなたにかまってあげることは出来ないのよ! 誰か、誰か、お願い、ママを助けて! ルーク、早く助けに来て!」

 ハンナは、ストロベリーフィールドの真ん中にいた。あれほどどうやっても入れなかった場所に、何故か簡単に降り立つことが出来たのだ。何よりも、今この国の中で、他に身を隠せる場所がハンナには他に思いつかなかった。

 外から見た時には風が吹きすさび、枯草だらけに見えていたストロベリーフィールドは、今が盛りの赤いイチゴがたわわに実っていて、甘い香りが充満していた。どこからともなくやって来た黄色テントウムシたちが、悲しそうな様子でハンナの周りにいた。七色蝶たちは、ママの周りに並んで止まっている。

 どうやら、みずちは虫が嫌いなのか、一匹虫が飛んでくるたびに大騒ぎをしてのたうち回った。みずちが暴れる度にイチゴ畑は荒らされて、甘い香りが漂った。虫たちは心配して、みずちの周りを飛び交い、その度にみずちが大暴れしている。しばらくすると、沢山の小さな精霊もやって来た。

「なんてひどい……」

「また、葉っぱ色の奴らだよ。きっと」

「ねぇ、お願い。ママを助けて」

 必死にすがるハンナに、精霊たちは申し訳なさそうに言った。

「あなた、経験者になったのね。申し訳ないけれど、もうあなたの願いを聞くのは無理よ。あなたは私たちの願いを叶える側なんだから。そういう誓約でしょ」

「ねぇ、何を言っているの? ママが、こんな風になっているのが見えないの? どうして助けてくれないの?」

「だから、言ってるでしょう。あなたは、私たちを守るのが仕事よ。なのに、あんな風に龍の子をほったらかして。森の精霊が見たら、きっと怒るわ」

「なんなの? 私、そんなこと……経験者の仕事をするなんて、一言もまだ言ってない! なんで、私がレオの方を、怪我をしているママより優先しなきやダメなの?」

「あなたが、経験者だからよ」

「あなたたち変よ。何言ってるか、全然わかんない。早くママを助けて!」

 小さな精霊たちは困った表情で、ハンナを見つめていたが、ハンナの手の甲の上まで飛んで来ると、ハンナの指輪を指さして言った。

「それって、偽物じゃないんでしょう? 龍の子がいるんだから、本物の経験者なんでしょう? ここにだって入ってこられたじゃない。なら、自分で治せるはずよ」

「だから、さっきからやってるけど、だけど、だけど、私には……」

 ハンナは泣きながら助けを求め続けた。ママはどんどん動かなくなってゆく。

「だから、言ってるでしょう。龍の子よりも自分のことを優先するから、力は流れないのよ」

「そうよ。あなた経験者なんだから。龍の子をあんな風にいじめておいて力を貰おうなんて」

「最近の経験者は、質が落ちたな」

「何でこんなのが、認められたんだ?」

「よっぽど私たちの領域への浸食が激しくなったってことでしょう」

「そんなに人手が足りないなら、もう領域を狭めるしかないさ」

「こんな経験者に任せるよりは、そのほうがいいかもね」

「だから、共存なんか、最初っから無理なんだよ」

「パトラも、とうとう消えてしまったみたいだしね」

「この子、ルークより最悪」

 ハンナは、勝手なことを並べ立てて話をし続ける精霊たちに嫌気がさした。

「助けてくれないなら、どっかに行ってよ! 私、経験者になんか、なりたくなかったんだから!」

 驚いた精霊たちは、口々にハンナへの不平を漏らしながら、消えていった。虫たちだけがママを見守っている。みずちは相変わらず、虫が動くたびに大暴れしている。ハンナの両手は、ママの傷口を押さえ続けることで少しずつ赤く染まっていった。

 ルーク、すぐに飛んでくるって言ってたくせに、嘘ばっかり。ママが、ママが、いなくなったらどうすれば……。

 一匹の黄色テントウムシが真っ赤に染まったハンナの手の甲に乗って、ハンナに話しかけてきた。

「ねぇ、あなた、落ち着いて。いつも私をかごに乗せてくれていたでしょう? 私、あなたのおかげでとっても安心できていたのよ。いつだってカゴを揺れないようにしてくれて、とっても優しい心が伝わってきていたわ。あなたは、そういう優しい子のはずよ」

「それが何? 今、そんなこと……お願い、ママを助けて」

「私には、それは出来ない……でも、あなたには出来ると思うの」

「どうやって?」

「まずは、自分よりも、他のことを大切にしなければいけないのではないかしら?」

「こんな時に、何を言ってるの?」

「あなたは、あの龍の子、みずちを見て、何とも思わないの? あなたのママだけが心配なの?」

「当たり前でしょう! だって、ママ、怪我しているのよ」

「あの子も、怪我をしているようだけれど……」

 ハンナは、そう言われて、もう一度みずちを見た。口を開けたり閉じたりして暴れてはいるが、どこにも血一滴たりとも流れてはいなかった。

「暴れているだけよ。かまって欲しくて。今、元に戻すといろいろと面倒なの。あとで元に戻せるもの。だけど、ママは元に戻せないんだよ!」

「心にね、大きな怪我をしているよ。見えないの? 心の怪我は、身体の怪我と違って石の力で元には戻せないのよ。それにあなたは精霊側の者でしょ? どうして人間を優先しているの?」

「私は、精霊側なんてなりたくないっ!」

 大声を出したハンナは、みずちがまた風を巻き起こさないかと慌てたが、今度は何事も起こらなかった。

「自分に都合のいい時だけ精霊を利用しておいて、後は自分のためだけに動くなんて、精霊たちが絶対に許さないわ」

「利用……って……そんなつもりじゃ」

 ハンナは、渋々、赤く染まった手を離すと、ママごめんねと呟いてから、急いでみずちの赤い石に触れ、再びママの元へと戻った。赤い石に、ママの赤い血が吸い込まれるように消えていく。光と共にレオが姿を現すと、ハンナが思ったとおり、レオは大声で泣き叫び始めた。

「いやだ! 僕、虫なんか、大嫌い! 怖い! 怖い! ハンナ助けて! 虫がいっぱいいる! ハンナ! ハンナ!」

 ハンナは、泣きたいのは自分の方だと、レオを無視して涙を流しながら空を見上げた。

 ルーク、どうして来てくれないの? ママが、ママが死んじゃう……。

 レオは、いつまでも叫び続けた。ハンナはレオを助けることもせず、ただ、ママの傷口を押さえることだけしかできなかった。ママの呼吸は次第に弱くなってゆく。そんなママを目の前にして、虫が怖いと叫び続けているレオに、ハンナはだんだん腹が立って来た。

 レオは、ママが見えないの? 自分の怖さの方が、怪我をしているママより重要なの? そうハンナが思った時、黄色テントウムシが呟いた。

「あの子、あなたにそっくりね」

「え?」

 テントウムシが何を言っているのか判らないハンナは、涙を流しながら聞き返した。

「わからない?」

 テントウムシがそう問いかけた時、ようやく空からルークが舞い降りてきた。遠くにペガサスを止めたルークが息を切らせて走り寄って来たのを見て、ハンナの顔は喜びでくしゃくしゃになった。倒れているハンナのママに近づくと、ルークはハンナに言い放った。

「どうして、自分で助けない」

「だって、私、どうやったらいいか……」

「教えて欲しい時は、呼べと言っただろう?」

「何度も呼んだけど、来てくれなかったじゃない!」

 ハンナは、泣きじゃくった。それを聞いて、ルークははっとした顔になった。離れたところでレオが泣きじゃくりながら小さく悲鳴をあげ続けている。

「どうして、自分の大切な守り人をあんな風に放置しているんだっ!」

 ルークは怒鳴った。ハンナは、その剣幕に一瞬涙が止まった。ルークはレオに急いで駆け寄ると、しっかりとレオを抱きしめた。

「レオ君、大丈夫だよ。虫は怖いものなんかじゃないよ。落ち着いて、よく耳をすましてごらん。ほら、みんな君を心配している」

「ほんとう?」

「ああ」

 七色蝶がレオの周りをひらひらと飛んでいる。レオは、耳をピンと立てたが、何も聞こえないと言った。

「セバスチャンが、虫は怖いって」

「その人は、嘘つきだね」

「みんな、セバスチャンの事、そう言うの。ねぇ、嘘つきって、何?」

 ハンナは、聞きながら腹が立った。ママのことを見もしないルークに最も腹が立った。

「ルーク、ひどい! ママのこと見えないの? ママを助けて!」

 ルークは、再び怒りの形相でハンナに向き直ると、さっきとは変わって、静かに答えた。その静かな声が、一層怒りの度合いを現していた。怒鳴るよりも、静かに言葉を発しているルークの方が、何倍も恐ろしく見えた。その声が怒りで震えているのが、ハンナには分かった。

「その言葉、そっくり君にお返しするよ。レオのことは見えないのかい? レオをまず助けるべきだろう。まだ、分からないのか? 君は、もうこっち側の者なんだよ」

 レオは、悲しそうな表情でハンナを見つめていた。ルークに抱かれて落ち着いたレオが、ようやくママの怪我に気がついた。

「ハンナのママ、死んだの?」

 ハンナは、その無神経なレオの言葉に頭に血が上った。

「死んでなんかいない! 大けがをしているの! だから助けてってお願しているのに、いい加減にして! 精霊側とか、こっち側って、いったい何なの? なんでママよりもレオを大事にしなきゃいけないの?」

 ルークの顔つきは、一層険しくなり、ハンナをさげすむように睨み付けた。

「君は何も分かっていないようだから、教えてあげる。我々が人間の命を優先することなど無い。一体何があった?」

「分からない……。突然人がいっぱい来て、ママに逃げろって言われて、でもママが怪我をして。ママを助けようとしたの……」

「助けようと? みずちを使ってか?」

「え?」

「君にその能力はないはずだからね。一体、みずち?」

 そう言われて、ハンナは答えが思いつかなかった。

「分からない。ただ、黒い雲が来て、雷がいっぱい落ちて、人が……たくさん倒れてて……」

「人間を殺したのか?」

「殺す……? わ……わかんないよ。そんなこと」

「自分と蛟が、何をしたのかさえ理解していないようだね。君が、君のママを助けて欲しいと願うように、その倒れた人たちにも君のような家族がいるかもしれない。君が倒してきた人びとの仲間は、これから先、君を決して許しはしないだろう」

「あいつら、ママを殺そうとしたの! でなければ、私たちが……」

「正当防衛ってことかい? 他に方法は全くなかったと? それでもいいさ。ところで、どんな気持ちだい? 多くの人をみずちと共に倒して、自分が誇らしいかい?」

 ハンナは何も言えなくなった。自分のことを一番に考える。それの何が悪いのか、ハンナには分からなかった。人を倒したことを誇らしいなどとは思ってはいなかったが、腹立たしい思いが理性を上回った。向かってくる敵を倒すことしか頭になかった。逃げるためにはどうしようもなかった。

 ……どうしようもなかったんだ。

 それが嘘であることを、ハンナは気が付いていた。




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