第27章 虫を脅かすものたち
ハンナのママは、温かいお茶を入れるとハンナの前に置いた。白い花びらが浮かぶお茶からは柔らかい香りが漂っている。それからママは神妙な顔つきで、パトラから聞いたというこの国の歴史を話し始めた。
ハンナが学校で既に習っていたこの国の歴史は、『この国の豊かな土壌と作物欲しさに、隣国であるグリーングラスがこの国を侵略しようとしたが、この国はそれに激しく抵抗して、戦火によって国のほとんどが焼かれた。完全に負けるはずだった戦いは、突然天から現れた龍によって救われ、この国を守る経験者と守り人のおかげで今ではこの国は中立国として守られ、この国の人々の懸命な努力で再び豊かになった。全ては精霊たちがこの国を愛するが故だ』というような内容だった。
けれど、ママがハンナにした話は、学校で習っていたものとはずいぶん違っていた。
百年と少し前の時代、この国と隣国との間には広大な農園が広がっていて、青々としたその土地は両国の管轄下にあり、グリーングラス農園と呼ばれていた。ふたつの国は、国民同士が仲良く協力して沢山の作物を育てていた。
隣国は、農作物よりも武器や機械を作ることに懸命な工業国で、水も土地も汚れ切ってしまっていて作物が育なかった。この国はそれとは反対に、最新の設備は無いながらも、虫たちの力を借りながら非常に品質の良い作物を作り育てていたが、手作業のためにその収穫数はとても少なかった。
二つの国が協力して、両方の国から飢えを無くそうという目的で、グリーングラス農園の作物は作り始められた。パンパスグラス王国の良質の苗と、隣国の最新鋭の工作機械と育成、加工の技術をかけ合わせることで、グリーングラス農園は年々収穫量を増やし、またその価値も高めていった。お互いの国は長い間、持ちつ持たれつの関係を築いていた。
何度も極度の食糧不足にあえいでいた隣国は、一年中少しでも早く作物を得られるようにと、パンパスグラスに遺伝子操作の技術も伝えていた。遺伝子の組み換えにより、より多くの実をつける強い作物ができるようになり、害虫被害も防げるようになった。それ自体は何ら悪いものでは無く、人々を飢えから解放する素晴らしい技術だった。
当初は自然と共に生きる人々の反対で、その計画はなかなか進まなかったのだが、人々がその問題を気にしなくなり、安全だということが分かると反対活動も下火になった。パンパスグラスの研究者たちは、反対活動が下火になると、その技術を作物だけでなく、虫や細菌にまで応用し始めた。
そんな中で、この国、かつてのパンパスグラス王国はとんでもないものを作り出した。それは、より良い作物を作ろうとしていて、偶然見つかったものだ。その目に見えない大きさの細菌は、本来、作物に付着してその茎から養分を吸い取ろうとするアブラムシなどの虫に寄生するものだった。いくつもの実験を重ね、研究者たちはついに、遺伝子操作されたその特殊な細菌を体内に宿す、ある《虫》を作り上げた。
その虫たちは、人間にとっては無害なものだった。細菌の寄生した虫が作物の一部に付着すると、作物は何故か最初はとてもみずみずしく美しく大きく立派になった。実験室の中で育つ美味しそうな作物を見て、研究者たちは、より良い作物を作る虫たちが完成したと喜んだのだ。が、その種子を増やそうとして実ができると、作物はあっという間に枯れ始め、赤茶色のどろどろした液体へと変化し、可哀そうな虫たちも、同じように溶けて消えていった。
その新鮮でみずみずしい状態のうちにその作物を人が食べるとどうなるのか、科学者たちは知りたがった。純粋な学術的興味で、最初は冗談のように語られていたものだった。けれど当時のパンパスグラスの王は、それを確実な兵器にするために、人への影響を確かめるよう科学者たちに命令を出した。そしてその実験は、この国ではなく隣国内で行われたのだ。軍事力では圧倒的に負けていたこの国は、いつの日か隣国の属国となることを恐れ、表面上は協力しながらも秘かに対抗策を探していたのだった。
その細菌に侵された虫は、極秘裏に隣国へ送る作物に仮死状態にして忍び込ませて送られた。梱包された袋を開けると虫たちが目を覚まし、作物に付着した。しばらくの間はその作物は一見とても上質なもののように見える状態になった。隣国の人々は、その見事な作物を先を争って手に入れた。けれどわずか数日のうちに、その食物を口にした大人から子供まで多くの人が病になり、原因不明の疫病が蔓延したと大騒ぎになった。
この国の王は、『グリーングラス農園は今後は自分たちだけで管理する、さもなければ今後もその細菌は隣国に蔓延することになるだろう』と、隣国の王へ秘かに使いを出した。それは自分たちの悪事を公表することに他ならなかった。
恩を仇で返される形になり、激怒した隣国の王は、その日のうちに軍を動かしこの国に侵攻し疫病の元となった物の証拠探しを始めるよう命じた。隣国軍は、その原因が虫であるという事は突き止めていたのだが、何の虫かも分からず解毒薬も見つけることは出来なかった。
結果、業を煮やした隣国の王は、虫たちが寄生しそうなこの国の作物全てと、研究施設や重要書物を保管する建物すべてを焼き払う命令を出した。実際、この国の作物は汚染などしていなかった。作物を汚染しているのは、虫の中に存在している人間が作り出したわずかな細菌だった。
当初、ふたつの国の間の広大な農園だけが焼き尽くされるはずだった計画は、隣国の人々の怒りの声によって、より大きな計画へと変わって行った。怒り狂った隣国の人々は、聞く耳を持たなかった。平和に暮らし、戦いとは無関係に生きていた家族を苦しめられ、大切な人を失った隣国の人々は決してこのパンパスグラスを許さなかった。解毒薬を見つけることを諦めた軍が撤退すると、この国中に火が放たれ、空からは砲弾の雨が降り注いだ。それがグリーングラスの戦いと呼ばれている、百年ほど前の戦いだ。
あの時、突然の豪雨が発生しなければ、国は焼き尽くされていただろう。精霊使いとして認められたばかりだったまだ十代のパトラは、精霊たちにすがり、ストロベリーフィールドのわずかな場所に結界を張った。もっと力があったなら、あの図書館の全てを覆うような結界が作れただろうが、まだ若く力のないパトラは、数十人の村人を火の手があがりにくい広い場所に集め、それを守るだけで精いっぱいだった。
突然、空に龍が姿を現し、両国はとてつもない地震と豪雨に見舞われ、ふたつの国の間にあったグリーングラス農園は大きな川となり消え去って、どちらの国のものでもなくなった。この国の人々は、それは、この国が龍に守られているというメッセージだと言い伝えるようになった。その後、隣国は、国名をグリーングラスと改名した。あの失われた場所が、自分たちのものであったことを誇示し忘れないため、受けた屈辱を記憶に留めるためだと言われている。
遺伝子操作された虫たちは、全て液体となって消えていった。それからこの国では、遺伝子に関する研究は公には禁止されている。王制は廃止されて中立国となり、二度と争いを起こさない国として、この国は生まれ変わった。
自分の大切な人を失って絶望したパトラは、自分の非力さを恨み、敵を恨んだ。そうして復讐のために強い妖術の力を与えて欲しいと精霊たちに願い、それを得た。それから隣国は他国を脅かすことが出来なくなった。この国へ侵攻しようとしたり、他国へ領土を拡大しようとする度、大きな災いが発生するようになったのだ。それは勿論、パトラとそれに従う者たちによって起こされた災いだった。
それと引き換えに精霊たちが望んだことはひとつ、自分たちの領域をこれ以上犯さないこと。それだけだった。それからパトラは、精霊の領域を守るのが責務となった。その見返りに精霊たちはこの国を守り続け、パトラに力を与えた。けれど、精霊や虫たちの声を聴けるものが年々減り続けると、精霊の領域も年々減り続け、今では精霊の領域はママが持っている古い精霊分布図の半分ほどになってしまった。
パトラは、戦いの被害者となり行き場を失っていた子供たちを集め、精霊たちと共に過ごす楽園を作るつもりだった。けれど、精霊たちは、彼らをパトラと同じように領域を守るものとすることを望んだ。虫たちにしたひどい仕打ちに対する償いを強く求められたのだ。そこで初めて、パトラはかつてのこの国の王や研究者たちが、虫たちにしたことを知ることになった。
あの戦いの始まりが、本当は自分たちの国のせいで起こったものなのだとパトラが知った時にはもう遅かった。パトラは、この国を野蛮な敵国から守るためという大義名分で、役目を果たせそうな子供たちをもう何人も精霊たちに送り続けていたのだ。それは、我々が最後には必ず彼らの側について彼らを守ると言う証で、
その子供たちの中には、精霊の力を得るべきでない子供もいた。人を羨み、妬み、奪うことでしか、自分を守れない、自分が誰よりも正しいと思うような子供達だ。大抵は、その心は、その親から受け継がされたものだった。パトラは、できる限り子供たちを守るため、心の成長を待つことにした。そして指輪を作り、精霊たちにとってふさわしい子供に育てるためという理由を付け、時間をかけて力を得るにふさわしい者を見極めようとした。
いつしか、経験者となって魔法の力を得、隣国からこの国を守るヒーローになることが、村の子供たちの憧れとなっていき、経験者の本来の目的を話すことはパトラにはもうできなくなっていた。その事実は、精霊や虫たちの声が聞こえる者たちだけが知り得るものとなった。
そして当初の目的から大きく外れて、子供たちと精霊の楽園はおろか、経験者となれなかった子供たちの心の歪みまで引き起こし始めるようになっても、もうパトラにはどうすることもできなかった。復讐のために始めたことは、森を、村を、国を守る力に変わり、投げ出すことが出来なくなってしまっていた。なぜなら、それを続けている限り、精霊たちは我々の味方となってくれるからだ。
戦いの数年後に再び飢餓にあえぐことになった隣国グリーングラスは、互いに協定を結ぶことを提案してきた。そうしてこの国からは農作物を、隣国からは工業製品を互いに法外な価格で取引することになった。この国が再び自然の力だけで作り始めた作物は他国でも大いに重用され、隣国以外の国とも助け合い始めた。それらの国全てが、グリーングラスの属国として虐げられてきた国々だった。互いの利益を守り争いを起こさないという日々は、百年の時を経て再び両国を豊かにしていった。
けれどその平和な時代は、ハンナが生まれて間もなく終わった。ハンナの父が、この国の北方、パンパスグラスの丘に何かを埋めてから、両国の均衡は再び崩れ始めたのだ……。
「ハンナ、あなたはもう、精霊たちの側にいるの」
ママの話が終わると、ハンナは自分が《経験者》になりたがった時に、パトラほどにママが喜んでくれなかったことを思い出した。
虫たちをそんな風に利用したこの国の研究者は許せない。それを使って関係ない人々を実験台にして苦しめることを望んだかつてのこの国の王も許されはしない、だからといって、無差別にこの国のすべてを焼き尽くそうとしたグリーングラスも決して許してはいけない。どちらの国民も、殆どの人がそんな争いとは無関係に生きてきたはずだ。
そして、その怒りの力を利用して妖術の力を手に入れたパトラは、結局は、精霊たちに良いように使われていただけだ。子供たちを次々に送り出し、国を守ることにどんな意味があるというのだろう。
パトラが瀕死の状態になっていても、ルークもジャックも涙ひとつ見せなかったことをハンナは思い出した。それは、つまり、パトラを恨んでいたという事なのだろうか。実際に精霊たちに操られているのは私たちの方だ。私は、そのために精霊に捧げられたのだ。
嫌だ。そんなの絶対に嫌だ……。
「ママ、どうやったら、経験者を辞められるの?」
「ママがパトラから聞いていた話では、あなたが得たその力を使う前か、精霊が誓約を破棄してよいと判断した時という事だったわ。もうひとつの場合は、守り人が経験者を必要としなくなった時よ。ねぇ、ハンナ、やりたくないのであれば、今すぐにその指輪を手放しなさい。少しでもその力を使ってしまってから辞めることはきっと難しいわ。その時、レオがどうなるか……」
「そんな……」
「あなたとレオのふたりへ与えられる力と、その見返りとなる精霊たちの要求が何なのか、まだ分からないわ。けれど、近いうちにきっと分かる日が来る」
「やりたくない。って言ったらどうなるの?」
「あなたが守るはずだった精霊のどこかの領域が消え去るのだと思うわ。レオは、もう半分姿を変えてしまっているから、おそらく元には戻れない。その先は、ママにも判らないわ。きっと、あなたたちの代わりに、また新たな経験者と守り人が必要とされるのでしょうね。けれどパトラがいなくなってしまった今、これからどうなるのか全く分からないことだらけになってしまったわ。パトラは、『自分の力は全てライラに』と言っていたから……」
「あの、ライラ……おばさんが、これからは経験者と守り人を決めるの?」
「ハンナ、経験者や守り人は精霊たちが決めるのよ。パトラは、その命令に従って動いていたのだと思うわ。最近は、何年も新たな経験者が出ていなかったから、パトラがその分、懸命に領域を守っていたのでしょうね。
これからライラが何をしようとしているのかは分からないわ。けれど、精霊たちがライラを選んだのなら、それも意味があるのでしょう。でも、これまでとは全く違う世界になるような気がするの」
「ママには、先が見えているの?」
「予言……という事であれば、まだ降りてきてはいないわ」
「どうして? いつも何か見えるんじゃないの?」
「そうではないのよ。見たい時期の見たいものを見られるならどんなにいいか。不確定な要素が多すぎるのでしょうね。説明が難しいのだけれど、ある条件が重なって、どの軸方向へも空間が動かなくなったときに、未来が見えるの。
ママに見えるものはね、いくつもの空間が網の目のように繋がっていて、そのうちのひとつの部屋が、他の部屋と小さな窓やドアで繋がっているような感じなの。ひとつ要素が固まると、窓やドアが消えて、進んでゆける部屋の数が減っていくのよ。そうして、どこにも行けなくなったとき、その部屋の中でスクリーンに未来が映る。選ばれなかった方の部屋、というか別の未来は見えないの。あなたとレオのふたりは、最も大きな不確定要素だから……」
ハンナは、ユラ神は下級のしもべだと、精霊に言われたことを思い出していた。胸に光る黄色の水晶を手に取ると、自分はその下級のしもべにさえなれなかったのだと思った。
経験者になって何になるんだろう。過去が見えて何になるんだろう。どうして私はレオを育てなければいけないんだろう。嫌だ。嫌だ。何もかも嫌だ。この指輪を捨てさえすれば……。
「明日はボバリー家へ行かなければ。多分、明日の昼にはあの屋敷にはもう誰もいないはずよ。ひとつやらなければならないことがあるの。それにしても長い一日だったわ。ごめんなさいね、ハンナ。明日から当分、学校には通えなくなるわ。さぁ、もう休みましょう」
誰もいない?
ハンナは聞き違えたかと思った。ボバリー家にレオを連れて行くのは危険すぎるはずだ。ママは、客間にもうひとつあった大きなソファーベッドを大きく広げ、ハンナを手招きした。何度もここへ来ていたであろうと思われる、手慣れた手つきだ。
「こうやって、ここでふたりで眠るのは、今日が最後よ」
ママの柔らかい香りがハンナを包み、ハンナの頭にママが小さくキスをした。ランプの灯を消すと、新月の夜の暗闇が部屋を漆黒に染めていった。
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