第25章 パトラの遺言

 パトラとハンナ、そして眠り続ける小さなレオの三人は、経験者ルークと共に大きなペガサスの背に乗って南の島のパトラの家まで運ばれた。眠るレオをしっかり胸に抱えたハンナがルークの前に、ルークの後ろにはパトラがくくり付けられ背負われていた。その顔色は土色に変わり、口を大きく開けたまま天を仰ぐように頭は後ろに倒れ、力の入っていない手足は、だらりと垂れさがっている。

 ペガサスに乗った経験者が、子供二人とぐったりした様子のパトラを連れてやって来たのを見て、パトラの家の周りでまだ様子を伺っていた記者たちは、最初は驚きすぎて静まり返った。が、ペガサスを家の前に残して全員が家の中に入ると、記者たちはすぐに騒ぎ始め、家の周りは騒然となった。明日の新聞の表紙になることは間違いなさそうな雰囲気だ。

 パトラとレオをベッドに運んだ後、ルークは去り際に悲しげな瞳でハンナに囁いた。

「準備が整う前に、こんなことになるなんて、可哀そうに」

「あの、私」

「ああ……、ごめん。可哀そう、は違うな。それだと、僕まで可哀そうってことになるからね。改めて言うよ。おめでとう。君は今日から《経験者》だ。準備が整っていない者がどうなるか、楽しみだよ。何かあったら僕を呼んで。少しは手助けができると思うから。僕も先輩たちに色々教わったんだ。あ、自分から教えて欲しいって言わない限り、誰も助けてはくれないからね。僕のことを強く願い、その指輪を空にかざすだけでいい。それと、出来るだけ夜中は勘弁してね。美容に悪いから」

「え?」

 ルークは精いっぱい明るく笑わせようとしたつもりだったのだろうか、少し微笑むようにそう言った。ルークが何を言っているのか分からなかったハンナは、聞きたいことが山ほどあったのだが、また表情のない顔に変わったルークは、あっという間にペガサスと共に去って行った。家の外では、記者たちが再び大騒ぎする声が聞こえている。

 ルークが立ち去った後、ほぼ入れ違いにパトラの家にやって来た人物がいた。ハンナのママだ。ママは、前庭のゲートをくぐるまでに記者たちの質問攻めに合いもみくちゃにされたようで、髪を振り乱し、息が切れた状態で部屋のドアを開けて入って来た。ママは部屋に入るや否や、ものすごい力でハンナを抱き締めた。その温もりでようやく緊張が解けて安心したせいだろうか、ハンナの瞳からは大粒の涙が溢れ出た。

「ああ、良かった……。もう、戻ってこないかと……」

「水晶で見えたのかい」

 囁くような擦れたパトラの声がして、ママは驚いた顔でベッドを覗いた。パトラの隣ではレオがすやすやと丸まった姿勢で眠り続けている。

「パトラばあ様! どうして……」

 げっそりとやつれたパトラの顔を見てハンナのママは声を失っている。ハンナは、パンパスグラスでのパトラと森の精霊との会話を思い出し、パトラがもうすぐこの世界から消えてしまうのかもしれないと思うと、不安でたまらなくなった。

「ミチコ、さっきはすまなかったね」

「いえ、今朝、話を聞いていたとおりに心の準備はしていたのですけれど。目の前であんな風に娘を奪われるとは思っていなくて。でも、パトラばあ様を信じてよかった」

「未来が見えるってのは、時には役に立つもんだ」

 ハンナは、ふたりの会話がよく分からなかったが、ママがパトラばあ様を信じていることと、ハンナが危ない目に合うことも予測していたのだろうということだけは分かった。ここへやって来たのも、きっと全てが分かっていたからだろう。

「ハンナ、こちらへ」

「パトラばあ様……」

 ハンナは、溢れてくる涙を止めることが出来ず、まだしゃくりあげていた。

「こんな風に、お前を導いてしまったことを許しておくれ。お前に罪はないのに」

「パトラばあ様、もしかして……」

「ああ、そうだよ、ミチコ。この子は《経験者》として認められた。その神秘の力は、これからこの子が自ら見つけていくだろう」

「では、守り人は……」

「レオ、だよね。パトラばあ様。さっきレオが小さな龍になっていたよね。ジャックがペガサスになったみたいに。でも、私、あんな精霊のしもべなんてなりたくない。《経験者》になんか、もうなりたくない!」

 ハンナは、泣きながらパトラの手を握りしめた。パトラの隣に眠るレオの指輪には、立派な赤い石だけが光っていた。パトラは、粗い呼吸をしながら何度か頷くと目を閉じた。ママは、はっとした顔になり、反対側のパトラの手を取った。

「パトラばあ様、しっかりしてください。まさか、妖術の力を手放したのですか?」

「ああ、ミチコ。私はね、許されないことをしてきた報いを受けるだけさ。自分の運命に背を向け、逃げ続けた結果だ。すまないが、私の力は全て……あのライラという女に」

 パトラは言葉を詰まらせると、何度もむせるように咳き込んだ。ママが急いで術を唱え、持ってきた薬をパトラに与えると、パトラは落ち着いた呼吸になり目を閉じた。

「まだです。まだ逝ってはいけません! パトラばあ様」

 それからパトラは、ママに介抱されながら数時間だけ命を長らえた。もしかすると森の精霊が言っていた通り、ただ猶予の時間を与えられただけかもしれなかった。ハンナもママもできる限り側でパトラを見守った。パトラがその後、しばらくして再び意識を取り戻し、最後に残した言葉は遺言となった。その遺言を、ハンナは信じられない気持ちで聞くことになった。

「いいかいハンナ、良くお聞き。《経験者》は、悪と戦うヒーローなんかじゃない。森の精霊たちのしもべだ。それが嫌だというのなら、逆らっても構わない。けれど、精霊たちの領域を守ることだけは、忘れてはいけない。そして、どんなに逆らいたくとも、どうやってもその力を使いたいという欲望には逆らえないという事を、いつかきっとお前は気付くことになる。

 お前に与えられたその力は、まだ、不完全だ。何故なら、お前は最期の課題を乗り越える前に、その赤い石を手にしてしまったからね。これから先、何が起こるかは私にも判らない。それ以上に、このレオに起こることは、もっと予測できない。

 ……ミチコ、こんなことになって本当にすまない」

「パトラばあ様、私と交わした約束をお忘れですか。私たちを受け入れてくださっただけで十分です。あの時、何が起こっても決してお互いに謝ったりしないと約束したではありませんか。私にとっては、どんな結末も自らの決断で、自ら招いたものなのです。決してパトラばあ様のせいではありません」

「ああ……、そうだったねぇ……。あの頃が懐かしいねぇ」

「ここで初めてお話をしたのが、昨日のことのようです」

 パトラはうっすらと力ない笑顔を見せた。

「ハンナよ」

「はい。パトラばあ様」

 ハンナは、パトラが見る間にやせ細っていく姿を見て、初めて人の《死》というものを身近に感じていた。顔の皮膚が、頭蓋骨に沿ってぴったりとへこみ始めている。その姿は子供のハンナにはとても恐ろしいものだった。けれど、ハンナはパトラの手を握って離さなかった。

「百年前の戦いのお話をする約束だけどね、もう果たせそうにない。お前の母親に、全て話してあるから、しっかり教えてもらって頭に入れておきなさい。これからのことを思うと不憫で仕方ないが、ミチコに叱られるからもう謝ったりしないよ。その代わり、お礼を言わせておくれ、私のところに来てくれて本当に嬉しかったよ。

 お前に出会わなければ、私はこれからもずっと生きていたのかもしれないが、これで良かったのだ。これから私の行く世界が、どんな世界でも受け入れられる」

「パトラばあ様……」

「私は、この国のため、精霊のため、そう言い訳をしながら自分を納得させてきた。けれど本当は、グリーングラスへの復讐をしたかっただけだった。あのライラは、百年前の私そのものだ。長い年月をかけて、その時を持っていた。ひとつだけ言っておくよ。あの戦いは、私たちが間違いを起こしたことが始まりだ。お前の父の国だけを責めることなどできない。

 私は自分の命と引き換えにと言いながら、結局誰よりも長生きすることを望んだだけだった。精霊たちは、私の望みを全て叶えてくれた。その見返りに、私は守り人と経験者を送り続けた。

 子供達に夢を与え、残酷に奪ってきたこの身は、決して天から許されることは無いだろうが、けれど、それがこの国を守って来たのだ。この国を守りたくないというのであれば、それでもいい。だが覚えておきなさい。お前に与えられた精霊の力は、人々を救える力でもあるのだよ。

 そして、その小さな子、レオは、お前のための守り人ではない。精霊とこの国を守るもので、龍になる前の、今は小さなみずちだ。経験者のおまえは、少しだけこの子に先んじた経験者として、守り人レオを育てていくのが役目なのだ。

 おまえも見ただろう。小さな龍を。まだまだ龍とは程遠い。あれはみずちというものだ。精霊に認められるものになるか、脅かすものになるか、今は私にも判らない。物事の良しあしも知らず、様々な感情もこれから覚えていく子だ。精霊たちと遊ばせたことも、虫たちと遊ばせたことも無い子だ。そんな子に未だかつて石を与えたことは無いのだよ。この子は、これから越えねばならぬことが沢山出てくるだろう。グリーングラスの血を引く子を、村人が受け入れるかどうかは疑わしい。けれど、精霊たちは受け入れたのだ。

 いいかい、精霊たちに悪意などない。彼らは自分たちの領域を守りたがっているだけだ。かつてのように、精霊と、そうでないものが共に暮らせることを望んでいるのだ。それを、私は自らの欲望のために利用した。これからのことは、お前の心次第でいかようにも変わるだろう。けれどハンナ、決して私のようになってはいけないよ。

 お前の父親がパンパスグラスに埋めたものはね。恐らくは、我々が作り上げたものを改良した、もっと恐ろしいものだ。グリーングラスは、そのありかを知ってはいるが、ここが精霊たちに守られている限り、見つけることは不可能だ。いつか、それは、あの国へ帰り、あの国の存続を脅かすものになるはずだ。我々が、自ら作ったもののせいで灰にされていったようにね。

 小さなレオはね、これは私の想像だが、あの箱を開けるようにと、あの丘へと送られたのだ。それがグリーングラス軍からの命令だとは夢にも思っていやしないよ。いいかい、決して、この国の中で、それを開いてはいけない。

 この子は、いつしか龍になる日が来るだろう。それまで、しっかり導いてあげるんだ。お前が諦めた時、この子も力を失う。ハンナよ、その力をどう使うか、これからは自分で考えて未来を決めてゆくんだよ。ルークに教えを請いなさい。私が教えられることはもう無いのだから。

 未熟なお前は、完全なるしもべにはなってはいないはずだ。まず自らの心をコントロールしなさい。未だ見たことが無いその力がどんなものなのか、私もこの目で見て見たかった。けれど、この命は、本来は数十年前に尽き果てていたはずの命だ。これ以上、懺悔しながら生きることは、もう……」

 パトラは、眠るレオの顔を見つめながら、その言葉を最期に静かに旅立った。小さなレオは、パトラが動かなくなってしばらくしてから、目を開けた。

「パトラ、どうして動かないの?……死んじゃったの? お休みしてるの?」

「たった今、遠いところに旅立たれのよ」

 涙ぐむママは、取り乱すこともなく淡々とパトラの衣類を整えていた。

「ここにいるのに?」

「そうね。身体はね。でもね、これはね、入れ物なの。中身のパトラはもういないのよ」

 レオは不思議そうな顔をして、パトラを見つめていた。けれど、涙は流してはいなかった。誰かを失って悲しいという感情の強さは、その誰かとどれくらい長く記憶に残る楽しい時間を共に過ごしたかによって変わるのだ。今目の前にいるレオは、おそらく無感情の状態だ。パトラが消えたところで、涙など出ないのだ。

 そんなレオを導くなんて……。

 ハンナは、戸惑う心と膨れ上がる不安に押しつぶされそうになった。《経験者》になりたかったのは、単に周りが褒めたたえていたから、北の山に行けると思ったから、そんな理由だった。ハンナはこの小さなレオと似ていた。この村に来るまでは無感情で、無感動な子供だった。それは、人から遠ざけられて生きてきたことが大きく関係していた。だからこそ、この小さなレオを育てるのには適任なのかもしれなかった。

 ハンナが他人に興味を持た無くなったのは、村々を渡り歩いていた時に《気持ち悪い》と言われたことが始まりだった。気持ち悪いと言われたその耳は、グリーングラスの者の証だった。その軍事力で多くの国を屈服させてきたグリーングラスを嫌う人々は、皆その耳の形を、グリーングラスの象徴として嫌悪していただけだったのだが、幼いハンナにはそれが分からなかった。

 人と関わることは、ハンナにとって最も苦手なことだった。けれど、幸いにもハンナには不思議な力があった。周りの人が、自分をどう思おうと気にならない強い心と自分だけの世界があった。それこそが虫たちとの会話だった。大切なことは、いつも虫たちが教えてくれた。何かを失って悲しいという気持ちを一番最初に教えてくれたのも、虫たちだった。どんなに仲良くなっても、彼らはすぐにいなくなってしまうからだ。幼いころから失う事ばかりを知り、孤独な中にはいたが、友達が欲しいと思うことも、この村に来るまではなかった。寂しいと感じたことも、人を羨んだことも無かったし、人を憎んだことも無かったのだ。今朝までは……。

 ハンナが、ニーナのことを思い出すと、指輪の中央の石が焼けるように熱くなった。

「熱っ!」

 その声にハンナのママが心配そうにハンナに近寄って来て、ハンナの指輪を見つめた。レオも驚いた顔をしてハンナを見つめている。

「あなたも、これから大変かもね。パトラばあ様は、大変な約束を精霊たちと交わしたのよ。

 ハンナ、レオ、さぁ、儀式の時間よ。お利口さんにして、じっとしていてね」

「お利口さんって、何?」

「じっとしているだけでいいのよ。声を出さずにね。パトラばあ様を見送るの」

 そう言うと、赤い目をしたママは長い呪文を唱えだした。パトラの身体は、いくつもの小さな光となって、夕焼けの空へとたなびいて消えていった。ベッドの上には、整えられた衣服だけが残った。煙のような白い光は、ストロベリーフィールドへと向かっているようだった。

 あの人に会いに行ったのかな。

 この南の島のパトラの家で初めて出会った日の事や、ストロベリーフィールドをうろついて叱られたこと、村での掟を厳しく教えてくれたこと、誕生日の度に優しい笑顔で小さな石を授けてくれたこと。昔のお話を聞かせてくれたこと……。ハンナは、ついさっき見た過去の映像が蘇り、一体パトラは自分のことをどんな気持で見ていたのだろうかと思った。

 パトラばあ様、本当は……。

 ハンナは白い光を目で追いながら、溢れてきた涙を止めた。窓の外では、大騒ぎする記者たちの声がいつまでも聞こえていた。

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