第23章 ハンナと龍

 足元には、巨大スクリーンが広がっている。どうやら、ハンナの身体は、宙に浮いているようだ。ハンナは、空高い場所から下を見下ろしていた。

 焼け落ちる家々、逃げ惑う人々、泣き叫ぶ子供たち。見覚えのある四つ角に、古い木でできた建物が真っ赤に燃えているのが見えた。いつか同じようなものを見たとハンナは思っていた。村の中央に見える建物はハンナの村の図書館が立っている場所のはずだった。けれどそれはレンガ造りではなく、古い木造の建物だ。人々が命懸けで書物を運び出している姿も見える。右手の方向に目をやると、海の上には赤い火柱を上げて沈みゆく大きな船が幾つもあった。この村にやって来た日、初めて図書館で見たタペストリーそのものの光景だ。

 ハンナの目の前を、ユニコーンが数頭、叫びながら走り去っていった。夕焼けの太陽の色と、朱色の炎が重なり、世界を赤一色に染めている。

「早く、逃げて! 南の森は、もう終わりよ!」

「もう間に合わないわ。ここにも精霊の領域はなくなった」

「とにかく私たちだけでも、北の国へ! 急いで!」

 あちこちに飛んでいる火の玉のようなそれは、フラワーバレー一帯を焼き尽くすようにあらゆる場所に降っている。その中で、ひときわ大きな火が燃えさかっていたのが、図書館だった。

 そこから飛び出してきた人たちが、沢山の書物を抱えストロベリーフィールドへと走ってゆくのが見えていた。ストロベリーフィールドは、今の大きさよりもずっと大きく、パンパスグラスの丘までずっとイチゴ畑が広がっている。その一部分のエリアだけが、ドーム状の透明な膜で覆われていて、火の粉の被害を受けずに済んでいるようだ。それは、ちょうどハンナが知っているストロベリーフィールドの大きさに似ていた。

 生き延びた村人たちが、火の粉を避けながら次々とストロベリーフィールドにあるドームへと走り込んで来ている。ひとりの背の高い女性が、走り込んでくる人を手招きして誘導しているのが見える。

「もう、村は全滅だ、パトラ」

「これ以上待てない、ドームを封鎖しろ」

「待って! もう少しだけ、待って、お願いです!」

「精霊たちが、もう無理だと言っている」

「お願いです、あと一分だけ!」

「俺たちに言っても、どうしようもないと分かっているだろう!」

「離れろ! 閉じるぞ!」

 大きな本を山のように抱えた男性が、図書館から走り出て、ストロベリーフィールド目指して走っているのが見えた。その衣服は、すすで真っ黒になっている。

「ヒューゴ、早く! 急いで! もう、本なんか捨てて!」

 背の高い女性が、大声で男性に向かって叫んでいる。

「この村の大切な歴史を、あんな奴らに燃やされてたまるか!」

 大きな本を何冊も抱え、とても走りにくそうに見えたその男性は、大声を発しながら必死の形相で、ドームへ向かっている。

 宙に体が浮いたままのハンナの左手には、七色の蝶が色ごとに繋がり一列になってゆくのが見えた。その七つの列が大きな円形に繋がり、蝶の数が増えるほどにくるくると回転しながら大きく広がっていく。ハンナの脳裏に伝説の歌が悲しく響いた。

「パトラ、危ない!」

「離れるんだ、パトラ!」

 大きな声と共に、ドームの入り口に立っていた女性が、羽交い絞めにされ無理やり中へひきずられていくのが見え、泣き叫ぶ声が聞こえた。

「嫌よ! 嫌! ヒューゴ! ヒューゴォォォ」

 大きな火の玉が、ストロベリーフィールドへ向かって落ちてくるのが見える。ハンナには、その映像はまるでスローモーションのように見えた。その大きな火の玉がストロベリーフィールドの真横に落ち、火の粉が飛び散った。その数秒前にドームは完全に閉じていた。白煙が渦巻いて漂い、辺りを覆っている。空に飛んだ多くの書物が、辺り一面に散らばった。火の粉の付いた紙が舞う。さっきまで走っていたはずの男性の姿はもうどこにもなかった。

 七色蝶は、見たこともない巨大な大きさの虹の輪になって、天高く昇って行く。いや、自分の方に向かってきている。ハンナは、宙に漂いながらその輪をくぐった。くぐらされたという方が適切だろう。

 見る間に足元には銀色の大きな扇のようなものが、一枚、また一枚と浮かび上がった。その扇は、魚の鱗によく似ていた。銀色に光輝く鱗に覆われた物体は、伸びてどんどん大きくなっていく。大きな鱗は全身に広がっていき、身体は伸び続ける。その物体は、苦しさにもがきながら、のたうち回るように宙を舞っている。ハンナの身体は、その物体に影のようにまとわりつき共に宙を舞っている。まるで、その物体を上から見下ろしているような感覚だった。

「龍だ!」

 ドームの中で、人々が口々に声をあげているのが聞こえていた。肩を寄せ合い小さくなっていたドームの下の人々が、まっすぐ上を見上げているのが分かる。

「なんなのこれ!」

 ハンナが叫ぶと、竜巻のような突風が吹いた。自分が声をあげると、足元にいる物体、いや、銀の龍も同じように口を開けた。息を吸っているのか、吐いているのかはハンナには分からなかった。次の瞬間、空が真っ暗になり、風に乗って横から叩きつけるような暴風雨が吹き荒れた。真っ赤に燃え盛っていた村は、一瞬で鎮火した。

 ようやく平衡感覚を取り戻したハンナは、自分が銀色の龍の上に立っているのだと理解した。そんな馬鹿なことがと思いながら、ハンナは下を見た。その瞬間、銀の龍は下へと向かって急加速していった。長い髭をたなびかせながら、龍はストロベリーフィールドのドームの上ぎりぎりを滑空する。畑にぶつかる寸前、地面に激突すると思ったハンナは、思わず顔を右上にそむけた。と、今度は龍は右上方へと旋回しながら高く上昇してゆく。ハンナは回転しながら一瞬、ドームの中を覗くように目を動かした。人々がこちらを凝視しているのが見える。

 陽が落ちかけた紫色の夕景に気を取られたハンナの身体は、太陽の方角に向かって天高く昇って行く。火の玉が降ってきている方向と逆方向だと気づくと、ハンナは後ろを振り返った。すると、振り落とされるのではないかという勢いで、龍は夕焼けの太陽と逆方向へとターンした。

 川の向こうの高い建物には、グリーングラスのドラゴンが描かれた旗が揺れている。不思議なことに、ハンナの知っているあの大きな川は無く、代わりに黒く焦げた川のように見える大地がふたつの国の間を国境のように分けていた。グリーングラス側から無数の火の玉が飛んできて、フラワーバレー一帯を焼き尽くしていることに気づいたハンナは、思わず叫んだ。

「やめて!」

 ハンナが叫ぶと、龍の口からは大量の水があふれ出た。水は、大きな流れとなり、グリーングラスの方角へと向かう。ハンナは、訳が分からなくなった頭で、うまく動かない自分の身体をほどこうと手を振った。すると龍は剣のように一直線の姿勢となって、黒く焼け焦げた地面を割るように思い切り激突した。

 激震が村を襲い、ドームの中で人々が肩を寄せ合ってしゃがみこんでいるのが見える。その激震は、どうやら川向うでも同じように襲っていて、高く見えていた建物は大きく傾き、崩れている。ハンナが、くるくると回りながら辺りを確認すると、龍が体を回転しながら上昇し始めた。大きな竜巻が発生して村や街のあちこちを進み始める。ハンナは思わず動きを止め、足元の龍に叫んだ。

「やめて!」

 龍は動きを止め、ゆったりと空に漂った。けれど、その時にはもう龍は何度も旋回した後だった。龍が旋回した後には集中的な激しい豪雨のような雨が発生し始めている。雲が大きく渦を巻き、灰色の雲の中心にはドーナツ状に穴が開いた。その穴は、グリーングラスの空の上に大きく広がってゆく。

 突如、巨大なダウンバーストがその穴から地面に向かって爆破したかのような衝撃波を与えた。衝撃波は川向こうの一番高い建物を襲い、聞いたことの無いような轟音が響いた。グリーングラスの背の高い建物も、街も、粉々に砕け散っていくのがハンナの目に映った。

 黒こげの国境のようだった場所には、龍が激突した時にできた巨大な長いくぼみがいくつも見えている。その場所は川となり、その川は見る間に増水して川幅は海のような広さになった。

 村に漂っていた黒煙は、今や全て川向こうに移動していて、川向こうの街中に煤けた黒い雨が降っている。空から見る限り、川向こうの街には人ひとり見えない。戦いが始まる前に何処かに隠れているのかもしれなかった。

 陽が完全に落ちて、辺りに暗闇と静寂が訪れた。川向こうの国は、真っ暗だった。月の周りには、七色の《月輪》が光り輝いている。月を取り巻く七色の光の内側に、一回り小さな虹の輪が浮かび上がった。蝶の虹だ。ハンナが呆然とした表情で月を見上げていると、龍もゆっくりと上昇し始めた。蝶の輪が、自分に向かって再び迫ってくることにハンナは気が付いた。

 足元に見えていたドームが開いて、少しずつ人々が出てきているのが見える。焼け焦げた匂いのするストロベリーフィールドに散らばった本を、背の高い女性が、一冊、また一冊と拾い集めている。その女性は、パトラと呼ばれていた女性だった。

 あれは、もしかして……?

 ハンナは、自分が過去にいるのだとようやく分かった。これは恐らく、グリーングラスの戦いの映像だ。パトラと呼ばれていた背の高い女性は、本を胸に抱えてうずくまり、大粒の涙を流しながら天を仰ぐと、大声で叫んだ。

「精霊たち、龍、ねぇ、聞いてる? こんな世界で生きていて、何になるっていうの? この身体も命も全部、あなたたちに差し上げるわ。その代わり、最大級の呪いをかける方法を、あたしに教えて頂戴!」

 泣き崩れるパトラの周りに、同じ年ごろの女性たちが取り囲み、肩を抱いて一緒に泣いていた。もしかしたら、同じように大切な人を失った人たちかもしれなかった。

 闇に包まれていた村に、ひとつ、またひとつと灯りが灯り始めた。何もなくなった村の人々は、それでもどこかから持って来た明かりを灯し、心を寄せ、力を集め、ひとりでは到底耐えられなさそうな境遇に、皆で立ち向かおうとしているようだった。村のあちこちで、助け合い、焼けた家の資材を片付ける音が、いつまでも聞こえている。

「ハンナ、待って! 僕も連れて行って!」

 突然聞こえてきた声に、びっくりしたハンナが後ろを振り返ると、龍はその身体を半回転させた。そこには、とても小さな龍がいた。長さも短く、空を飛ぶ姿もふらふらとぎこちない。

「ねぇ、これって、何て言うゲーム?」

 ハンナは驚きすぎて言葉が出て来なかった。何故ならその声は、小さな本物のレオ、そのものの声だったからだ。小さな龍は、速度と角度の調節ができないのか、止まることが出来ないようで、飛びながらハンナに向かって激突してきた。ぶつかって飛ばされた先には、七色の蝶の輪が待っていた。ハンナと小さな龍は、ひとつになってその輪をくぐった。

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