第18章 異形異種

「やはりそうか。やっかいな匂いが、プンプンするが、大きな希望の光だ……」

 パトラは秘密めいた笑いを浮かべ、ママは小さく頷いていた。ハンナは、なぜか急に胸がドキドキするのを感じた。たった数日で、どれほど自分の知らないことを一度に聞かされるのかと緊張していたが、今こんなに胸がドキドキするのはなぜなのだろう。パトラばあ様はハンナの顔を見つめ、低い声で囁いた。

「ハンナ、あんたは覚醒していたんだ。ユラ神の血を引く者としてね。しかも、この村に来たばかりの、三歳の頃にはもう、覚醒し始めていたんだろう」

「か、く、せ、い?」

「ああ、ユラ神の末裔として生き始めたのさ。けどね、あんたが見えるのは未来じゃない。過去だ」

 ハンナは頭が真っ白になった。

「過去……。ママみたいには、なれないの?」

「ハンナ、私たち一族には、過去を旅する者と、未来と今を行き来する者がいるの。未来に行くものだけがユラ神になれる。けれど、あなたは……」

「過去しか見えない。だから、ユラ神にはなれないってことだ」

 ハンナはユラ神になることなど考えたことはなかったが、ママのような能力が得られないことに自分に失望してしまった。

 過去が見えて、どうなるって言うの?

 ハンナのがっかりしている様子を見て、パトラはハンナの手を取り、微笑みかけた。

「いいかい、ハンナ、お前は過去が見える。それが、どれほど人の心を癒すことになるか、分かる日がいつか来るだろう。もちろん辛い事もあるさ。忘れた方がいいこともある。

 けれどね、その過去があるから、未来の一歩を間違えずに踏み出せるってこともあるんだ。何より、お前はこれで、この国で必要とされているということが分かったんだよ」

 ハンナはパトラの行っていることが理解できなかった。隣では小さな子が寝息を立てている。

「この子は……誰?」

「この子はね、レオの双子の兄だ。二卵性双生児ってわかるかい? 別々の卵が母親のお腹の中で別々の子供になって二つの命ができたってことだ。この兄の母親は、さっきも言ったように、恐らくグリーングラスの軍人さ。産んだのは、軍人の母だ。弟の母は、遺伝学的な母だが、おそらくボバリー夫人だ。これは五年前のお産に立ち会った者だけが知っている事実だろうね。あたしだって知らなかったことだよ。どういういきさつでこんなことになったのかは神のみぞ知るだ。お産の場にいた者には、その事を話そうとすると、死の呪いが発動するように仕組まれていたようだからね。レオが生まれた時にその場にいて、まだ生きているのは、今でも働いている執事のセバスチャンだけさ。それ以外のものは、皆おかしな死に方をしているらしい。その子の右手、見てごらん」

 ハンナはパトラに言われるがまま、男の子の右手を見た。そこには、古めかしい何百年と時を超えて来たかのような鈍い色の美しい細工の施されたリングがはめられていた。

「本当は、その子の名前が、レオで、誕生会にいたのはレオの弟だ。だが、レオと呼ばれているあの子には生まれた時から名前が無い。だから本物のレオを隠し、あの子をレオって呼んでるんだ」

「名前が無い?」

「ああ、グリーングラスの風習でね。異種には名前を与えられない。出生の儀式も行わない。異種異形に名前を与えると、名前を与えたものが死神に取りつかれると信じられているんだよ」

「異種異形?」

「混血のことさ。純血主義を目指す国らしい話だね。グリーングラスの血以外は認めたくないんだよ。弟の方はね、耳がね、明らかにグリーングラスの者と違ったんだよ。まっすぐで平べったい、あたしたちと同じ耳さ。つまり、グリーングラスからすれば異種異形さ。一方で、こっちのレオはグリーングラスの耳を持って生まれた。産まれたのがこの国だったから、あの弟はまだ命があるだけましさ。全くひどい迷信に基づいた風習だよ。

 けれど、可哀そうなことに、この国で暮らすにはね、ハンナ、あんたのような耳を持つ方が普通じゃないと言われる。だから、ボバリー伯爵は考えたんだよ。名無しの弟の方をこの国で育てるために一計を案じた。本物のレオ、グリーングラスの血を引く子供を地下深くに隠し、いなかったことにした。けれどやはり迷信を笑い飛ばす勇気はなかった。だからグリーングラスから見れば異種異形の、あたしたちと同じ血を引く弟の方には名を付けないままにレオと通称で呼ぶことにした。けれどあの子は、本当は誰でもないんだ。本物の兄のレオはね、人質みたいなもんだよ。可哀そうな話さ」

 ハンナは、誕生会で見たレオの綺麗に撫でつけられた髪から出ていた平たい耳を思い出していた。ふと横を見ると、ママが真っ青な顔をしている。

「ハンナに名前を付けたせいで、あの人は死神に取りつかれたのでしょうか?」

「そんな迷信信じるんじゃないよ! 馬鹿ばかしい!」

「……レオの偽物」

 ハンナはそう言うと、黙りこくってしまった。指輪の偽物くらいなら、笑っていられるが、迷信を信じて人を偽物扱いするなんて。友達の偽物どころの話ではない。忘れていた怒りの炎が、再び心でうごめきだすのをハンナは感じ始めていた。

「あの子、弟の方はね、この国では名前が無いから指輪も無いんだ。だから父親が大層な指輪を外国から取り寄せて作っていたよ。どうせ自分と同じように途中で石が割れて経験者になれませんでしたっていう事にするつもりなんだろうよ。精霊が作ったものでない宝石は、後で売ればいいだけの話だしね。

 まったくあの狸親父は気に食わないね。この国で出回っている偽のリングの大半は、ボバリー家が国の外から買い集めた輸入品のトルマリンだ。だから帯電する。あたしの目はごまかせないさ。誕生会で風船が割れたのは自業自得だよ」

「パトラばあ様、レオのお母さんが軍人って……」

「ああ、こっからは子供のあんたにはちょっと刺激の強い話になるんだけどね。あんたの父親は、騙されて戦争に駆り出され、この国の北方のパンパスグラスの丘で死んだ。という事になっている。精霊の谷の隣にある丘だ。その時、敵の連合軍のボスに従っていたのがレオの母さんだ。噂じゃボバリー伯爵の愛人だったという話さ。ボバリー家は、その頃からグリーングラスに豊富な資金を送ってくれていたグリーングラスにとっちゃ体のいい金づるさ。この国は精霊たちの力で、今は何とか中立国になっているけどね、昔はグリーングラスの領地だったんだよ。

 数年前の二度目の戦いの前までは、あの丘は毎年精霊たちと秋の収穫を喜ぶ場所で、それは美しい場所だったんだ。そもそもあの丘で戦いがあった形跡はないんだよ。けれどね、グリーングラスが探している物があの丘には埋まっている。

 この場所が中立地帯でいられるのは、それが本当の理由さ。《守り人》は、本来、あの丘に住む精霊を守る者で、《経験者》たちは、守り人と国を守り戦う者たちの総称だった。けれど、今や形骸化しちまってるよ。そして誰もあの場所に行こうとはしなくなった。あの場所に赴いたものたちが、皆戻ってこないからだ。唯一の生存者だったのがレオの母親だ。

 けれどレオの本当の母親も、この子を産んですぐに亡くなっている。自然死だったかどうかも怪しいもんだよ。あの二卵性の双子はね、領地時代にグリーングラスの最先端の医療技術でできた子だよ。

 本来は、どちらの子も、苦難を乗り越えてこの世に奇跡的に生まれてきた喜ぶべき子供だったんだ。ところが、生まれてみたら、うちひとりは、耳があたしらとは違うときた。そっからあの家の悲劇は始まったね。実際のところレオの母親は、その前から妊娠していたのではないかという噂まであったんだがね。

 貿易で成功して富を得るようになった頃から、あの家の悲劇はもう始まっていたのかもしれないね。隣国の王の飲み物に毒を入れる手引きをしたのはボバリー家で、そのおかげで小さな酒屋から大豪邸に住めるほどの貿易商になったって噂もある。

 ともかく、生まれてからはこっちの兄、本物のレオは、誰にも知らされずにずっと地下の部屋でひとりきりで暮らしていたはずなんだ。ボバリー夫人は、この兄の存在さえ知らないはずさ。グリーングラスの血の子が生れ落ちたと知れば、プライドの塊のようなあの夫人はきっと発狂していただろうからね」

 パトラは、そこまで一気に話すと、一息ついてお茶を啜った。そして、すこし悲しそうに眉を寄せると、まだ眠っているレオの顔を見ながら言葉をつづけた。

「この前の誕生会には弟の方のレオに指輪を授けに行ったつもりだったんだけどね。その前日、弟の方から、お願いがあると言われてね。誕生日当日には、バースデーソングが聞こえたらすぐに玄関の前にいて欲しいとね。で、地下に連れて行かれて、この子に初めて会ったんだ。名無しの弟の方はね。直感的にこの子が身内だと分かっているようだったが、兄だとは思っていないだろうね。何せ、この子の方が、色も白く体も小さい。ましてや、弟は自分に名前が無いなんて夢にも思っていない。この兄のレオのために一生懸命さ。指輪を授けられないかと弟に言われた時は驚いたよ。

 その後に、弟の指輪の贈呈式もあるはずだったんだけどね。知っての通り、あの騒ぎさ。最初に部屋を真っ暗にしたのも、風船を割ったのも恐らくは姉の方だがね。あの子も弟に頼まれてやったことだろうし、あそこまでの騒ぎになるとは夢にも思わなかっただろうよ。

 気の小さい娘が、今頃どんな気持ちでいるのか、可哀そうで考えたくないがね、あの子のやったことは、悪戯では済まされない。多くの人がけがをした。れっきとした犯罪だ。おそらくもう、あの娘の指輪に石は光ってやしないだろうよ。

 騒ぎの後、誰もいなくなった屋敷でね、指輪の儀式をしようにも、指輪はもう地下で暮らす兄のレオの指に光っちまった後さ。そもそも弟は名前が無いってことなら、指輪は最初から光らないんだよ。

 ボバリー男爵は最初っからずいぶんと立派な指輪を用意していたからね。あたしは弟の方に、指輪は父親が持っているとだけ伝えて帰って来た。可哀そうで見ていられなかったね。その翌日には、あの弟はぴかぴかの指輪をしてるときた。

 幼い弟からすりゃあ、指輪は与えられたらオッケーくらいに思っているんだろうさ。これから毎年あの指輪には、偽物のトリマリン石が光るんだろうよ。あの家のすることは全く理解不能だよ。こっちは、翌日から新聞に《けが人を見捨てて儀式をした》って書かれるわ、追い掛け回されるわで、えらい迷惑さ。

 とにかくね、この兄の方は、感情というものに乏しい。ずっと微笑んでいてね。恨みや悲しみもない。純粋培養の見本みたいだよ。けれど、初めて家族以外のものに出会った衝撃は大きかったのかもしれないね。外に対する関心を増幅させてしまったのかもしれない。

 それにしても、この子、どうやってあの家を抜けだしたんだろうね。あの部屋のドアを開けられるのは、中にいる者以外考えられないんだがね。あの家の全員が、誕生会の日から好奇の目で見張られているから、屋敷の外に出るのは相当難しかったはずなんだが」

 パトラの話を神妙な顔つきで聞いていたハンナの頭には、パトラがさらりと言った二つの事柄だけがずっと重く残っていた。

 パパは、この国の北側で死んだ。パンパスグラスの丘で。その敵に従っていたのがレオのお母さん……。そして、もうひとつ大事なことがあった。あの風船を割ったのは、レオの姉、つまり、ニーナだ。ハンナは今朝のことが頭に蘇り、苦々しい思いと、あのニーナの演技にまんまと騙された自分に腹が立ってしょうがなかった。

 このレオという子は、パパの仇の子供なのだ。そして、あの姉も薄汚い嘘つきだ。ハンナは、誕生会で出会った時の偽物のレオの『ありがとう』さえ言えない態度や、今目の前ですやすやと眠っている本物のレオや、嘘を公言して自分を傷つけた姉のニーナを含め、あの家の全員に対してどうしようもない不快感が込み上げてくるのを止められなかった。

「ハンナ、あんたは、何の罪もないのに、訳も分からず二つの国から疎まれている。その子も、あんたと同じなんだよ」

 パトラの言葉にはっとして、目線を移すと、心配そうに視線を投げかけているママの姿にハンナは気が付いた。どうやら、知らぬ間にレオのことを睨みつけていたようだ。

 ニーナのことは許せない。けれど、確かにこの子に罪はなかった。分かっているのだけれど、この思いはどうすればいいのだろうと、ハンナは自分の中の怒りと折り合いをつけることがどうしてもできなかった。

「それとね、さっきも言ったが、あんたの父親は、パンパスグラスの丘に《何か》を埋めている。精霊たちの話では、何かとても不吉なものだと言っていた。それからしばらくして、あの丘のパンパスグラスの色が変わった。それを遠くから見て知った村人は、パンパスグラスの色が血の色に変わったと言い始めた。それからは皆怖がって誰も近づかなくなって、祭りの舞台も村の時計台前に変わったんだ。

 あんたにここまで話をするのはね、あんたが、その子と繋がっているからだ。なんか理由があるはずだ。それが何かは、まだ分からないがね」

 ハンナは、ずっと無言で俯いて話を聞いていたのだが、その言葉に顔をあげた。

「ママ、パトラばあ様、お願いがあります。パパが戦った場所へ行かせてはもらえませんか。遠くからでも構いません。どうしても見てみたいんです。お願いです」

「ハンナ!」

 ママが悲壮な声を上げた。

「パンパスグラスの丘へ行きたいというのかい? いったい何のために?」

 パトラばあ様が、右側の眉毛だけを吊り上げ、上目遣いにぎろりとハンナを見つめている。

 ママが、「やめて頂戴」と、小声で言ったようだった。

 ……何のために?

 ハンナには、その答えは無かった。けれど、直感的に、行かなければと、頭の中で何かが囁くように聞こえたのだ。何よりも、自分はもうその場所に立っていたはずだ。あれが夢でなければ……しばらくの沈黙の後、か細い声で、同じセリフがもう一度発せられた。

「パンパスグラス……行かなきゃ」

 その声は、ステンドグラスの窓の下からかすかに聞こえていた。眠っていたはずの子が、ゆっくりとブランケットから頭をもたげ、上半身を持ち上げようとしていた。その小さな子、本物のレオは怯えるような、それでいて決意のこもった鋭い目をハンナの方へと真っ直ぐに向けていた。パトラは、驚きすぎて声を失っている。こんなに早く目覚めたことに驚いているのか、その子がパンパスグラスの丘に関心を示していることに驚いているのか、ハンナには分からなかった。

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