第17章 覚醒の兆し

 家の前まで来ると、花の香りがしたような気がして、ハンナは立ち止まった。ライラックの香りだ。けれど、どこにも花は無かった。ハンナは辺りを見回してから、気のせいかと思い直して重い気持ちのまま家に戻った。さっきの夢のような映像のせいか、まだ頭が痛んだ。

 やっぱりママの言う通り、もう少し家でじっとしておくべきだった……。

 パトラのところへ行くと言っていたママは、夕方までは家にいないはずだったが、部屋にはお茶の香りと火の温もりがあることにハンナは気が付いた。キッチンで誰かが火を起こしていたようだ。怪訝に思い、耳を立てた。ハンナの前に垂れさがった耳の上部が、ピンと上に立ちあがる。人が歩く物音が聞こえる。しかもふたりだ。あたりを伺うように身をかがめた時、祈りの部屋からママが出て来たので、ハンナは驚いて動けなくなった。

「ママ?」

「どうして疑問形なの。ママの顔、忘れちゃったの?」

 学校に行かなかったハンナにママは驚きもしなかった。これも偽物か、それとも戻って来ることも見えていたのか……ハンナが次の言葉を考えていると、ママの後ろからパトラが顔を出したので、ハンナは再び驚いた。

「やれやれ、次から次へと、厄介なことになりそうな匂いがプンプンするね」

 パトラは、そう言うと、小さな瓶をママの前に差し出した。

「これ、その子が目覚めたら飲ませておあげ。ま、飲みたがるかどうかは分からんがね」

「でも、この子、どうしましょうか?」

「あの家じゃ、今頃大騒ぎになってる頃だと思うがね」

 ふたりが、ひそひそと祈りの部屋のドアの前で話していると、小さな子が祈りの部屋の中から飛び出して来て、外に走り出ようとした。だが、その子が外に出ようとドアに手をかけた時、突然に内開きに開いたドアにその子の頭が激突して、小さな子は玄関前のフロアにばたりと再び倒れてしまった。

 パトラが知らんふりをして上を向いているのが、これがパトラの仕業だという何よりの証拠だった。倒れている男の子を見てハンナは驚いて声が出なかった。ストロベリーフィールドでうずくまっていた子に違いなかったからだ。

「パトラばあ様! ひどいことを!」ママが声をあげた。

「今、その子に外に出て行かれたら、あんたらこの村で生きちゃいられないよ!」

 パトラは睨み付けるように、珍しく声を荒げてハンナのママにそう言うと、また祈りの部屋へと入って行った。見ると、ママは困り果てた顔でハンナを見つめている。

「ともかく、その子を祈りの部屋に」

「え? だって、きっと怪我してるよ。手当てしてあげないの?」

「いいから、早く」

 ママは、倒れたままの子を抱え上げ、祈りの部屋へと入ろうとしている。

「ハンナも入りなさい」

「え……あの」

「いいから、早くお入り」

 先に部屋に戻ってお茶を啜っていたパトラが小さく声を発した。

 ハンナは、部屋に入って来たママの腕に抱えられている子をもう一度見た。そして、髪の下からちらりと見えたその子の耳を見て、ハンナは雷に打たれたように動けなくなった。

 その耳の上部は、ほんの少しだけ、前に向かって折れ曲がっていたのだ。ハンナの耳と同じように。

 やっぱり……。

 ハンナは、暖炉の上にある写真立てを見つめた。この民族衣装のような服は、あの写真立ての中にいる人物が身にまとっていた服にとても良く似ていたのだ。深い緑色に、金の刺繍の装飾。ついさっき、夢か現実かわからないストロベリーフィールドで、思い出したのは、五歳の時初めて見た、あの写真だった。自分はこの国の敵国の子供であることを知った日のショックは、忘れようが無かった。

「その子はね。混血さ。推測だがね。母親がグリーングラスの軍人だろうね」

 椅子から立ち上がったパトラは、小さな子の額に人差し指をつけながら、何かまじないめいた言葉を唱えると、ママに向かって頷いた。ママは頷き返すと、ブランケットで男の子を包んで、クッションをいくつか並べたベンチの上に男の子を寝かせた。

「しばらくは目覚めないよ。さて、どこから話せばいいのかね」

 パトラはハンナに向き直ると、面倒そうに再び腰かけてテーブルのお茶を飲み始めた。

 ハンナはパトラの「座りなさい」という声に従って椅子に座った。眠ったままの小さな子と、目の前に座ったハンナを交互に見て、パトラは吐き捨てるように呟いた。

「全く、血は争えないね。その耳。あたしには、あの戦いを思い出させるだけのもんだ」

 ハンナは思わず自分の耳に手をやった。

「まぁ、でも、あんたには罪はないからねぇ。なんか意味があって、ここに来たんだろうさ」

 ママは、眠っている小さな子の横に腰かけ、優しくその子の頭を撫でながら、何も言葉を発せずに俯いていた。まるで、これから先の話はパトラばあ様にお任せしますという風に言っているように見える。パトラはお茶を啜った後、深呼吸を一つして、長く息を吐きだしてから話を始めた。

「人生ってのは、予想もしないことが起こるもんなんだよ。友達だと思っていたのに、違ってた、なんてのは、予想の範囲内だ」

 ハンナは、自分が打ちのめされて傷ついた話を軽くあしらわれたと思い少しムッとしながらも、黙ってパトラの話の続きを待った。ママが少し傷ついたような悲しそうな顔をしてこちらを見つめていることにハンナは気が付いた。やはり今朝の喧嘩のことは、もうふたりとも知っているようだった。一体、どこで見ていたのか、どんな妖術を使ったのか、ハンナには見当もつかなかった。パトラは、ハンナの思いに気が付いたのか、言葉を続けた。

「さっきまでね、風の精霊たちが、大騒ぎしながらここにやって来てたんだよ。一斉に興奮しながら話すもんだから、最初は何言ってるのか分からなくてね。順番に話を聞くのが大変だったよ。あんたが、ストロベリーフィールドに入って来てるって大騒ぎさ。この前の誕生会から、ハンナを守るようにと、外の世界にわずかに残しておいた精霊たちに言っておいたから、遠くで見守ってたんだろうね。ハンナが泣いてたとか、大きな声で喧嘩してるとか事細かに報告して、さっき戻って行ったところさ。

 さて、先に言っとかないといけないことはもうひとつある。友達ってのは、十のうち三割くらい嫌なことを本音で言ってくれるもんだ。相手が間違えたことをして、それでも、その相手とまだ友達でいたいなら、はっきり言うべきなんだよ、ハンナ。それで喧嘩しても、なんとなく仲直りできているのが友達っていうんだ。耳障りのいい事ばっかり言ってくれて、いい事しか言わないとか、本心を言うと相手が傷つくと思って遠慮して言わないとか、嫌なことを言われたら相手のことを嫌いになるってんなら、そりゃもう最初から友達でもなんでもないさ。相手を自分の都合いいように利用する関係さ。そんな友達ならいない方がいい」

「でも……」

「自分の意見を持つ権利は、誰にでもある。見る角度で、出る結論も変わる。お前は、自分で考えた言葉で、相手に自分の気持ちを伝えるべきだ。そのとき相手がどうするか、見て考えるんだ。そうすることさえ嫌なら、それは、最初から相手を友達だと思っていなかったってことだ。それならそれで、別にいいんだよ。

 別に無理して友達を作る必要なんかないんだ。友達は作るもんじゃない。気付いたらいるもんなんだよ。そういう相手はね、ずっと会えなくても友達のままさ。皆で仲良くしましょう。なんてのは、夢物語だよ。そんなことが出来たら、世の中から戦争や国境なんかとっくの昔になくなってるさ。話がそれちまったけどね。お前の悩みは大したことないってことだよ。ほんとに友達にしたいんなら、一度ちゃんと喧嘩してからも仲直りができるか、これから自分の目で見てみることだ。世の中にはね、本当に友達にしてはいけない人間ってのもいるからね」

 ハンナは、さっき見たニーナを思い出すだけで気分が悪くなった。忘れかけた怒りの感情も一緒に蘇ってくる。

 もう一度ニーナやマルグリットと話なんてできるわけがない。仲直りなんかできなくても、友達でなくても構わない。

 ハンナは小さな子に再び目を移した。

「あの、この子は……」

「今朝、ストロベリーフィールドの結界が揺れてね。見に行ったらこの子がいた。だから、連れてきたんだよ」

「え?」

 ハンナは、さっき見たものは、やはり夢だったのかと、訳が分からなくなり始めた。

「あたしゃ、なんだかお腹が空いてきたんだけどね」

 その言葉を聞いて、何か簡単につまめるものでも持って来ましょうと、ママは部屋から出て行った。パトラは、沢山食べるからできるだけ大盛りにしてくれと言い、ママが部屋から出たのを見届けてから、小声でハンナに話しかけてきた。

「いいかい。今から言うことは、村の精霊たちと、お前の母親から聞いた話だ」

 あらたまった様子のパトラの言葉に、ハンナはパトラを見つめ返した。パトラの話は、大筋だけのものだったが、ハンナには受け止めきれないほどの話で、話を聞いている間もほとんどの話が他人事のように聞こえていた。


 パトラの話によると、ハンナが生まれて間もない頃、グリーングラスで王が毒殺されかけた。暗殺事件は未遂に終わったが、隣国経由で入って来たウエストエンドの飲み物に毒が入っていたことが分かり、パパを王にしようと画策するママの仕業だと噂された。パパは、疑いを晴らして王への忠誠を示したいのであれば、隣国パンパスグラスをグリーングラスの領地にしろとの王の命令に従って、戦いに赴き亡くなった。

 その頃ママはハンナを連れ祖国に戻ろうとしていたのだが、混血のハンナが、村外れの結界から先に進めないと知ると、その結界を張ったユラ神と称する自分の母に、『会いたい、家族を守りたい』と、精霊を通じ懇願した。数日後、精霊から手紙を受け取り、月に二度、満月と新月の時、交易という名の密輸貿易のために、決まった場所の結界が解かれることを知ったママは、それを利用してハンナを連れ祖国に戻り、およそ二週間、身を潜めユラ神から多くのことを学んだ。けれど、千里眼を身に着けると、戦地で亡くなった自分の夫の姿を水晶玉の中の映像として目撃してしまった。

 祖国に戻って二週後の新月の真っ暗な夜、再び結界が解かれた時、ママは祖国を離れた。その隙をつき、結界の脇で二週間見張り続けていたグリーングラス軍の精鋭部隊がウエストエンドに乱入した。そうして、逃げるママとハンナには目もくれず、東の果ての国の軍人たちは、ウエストエンドの王の城へ向かい、王を脅しグリーングラスに従わせ、属国とする書類に署名させることに成功した。

 その日を境にユラ神信仰は廃止され、国を滅ぼした忌み嫌われる疫病神としてママの母親は投獄され、長く結界を張り体力を失っていたウエストエンドの最後のユラ神様は間もなく亡くなり、一族は全てを失った。ユラ神様の最期の力で何とか難を逃れ国外に逃げることができたママとハンナもウエストエンドからも追われる身となったのだが、実際に追われているのはハンナの方だった。ウエストエンドからは国を滅ぼした《呪われた子》として、グリーングラスからは、反乱を企むものの末裔まつえいとして追われることになったのだ。


 話の途中でママが焼き目のついた美味しそうなオープンサンドイッチとチーズガレットを持って来たので、話は中断した。チーズガレットはハンナの大好物だ。ママはハンナを元気づけようとしてくれたのだろう。パパの好物でもあったようで、いつもその話をハンナは聞かされていたので、いつの間にかハンナにとってはパパを思い出す香りとなった。幸せな家族の香りだ。

「ちょうど、昔の話が終わったとこだよ」

「そうですか。ありがとうございます。自分がしてしまったことを話すのは、まだ辛くて……」

「じゃあ、あたしゃ、サンドイッチからいただこうかね。こっからは、あんたが説明しておくれ。最期にあたしから伝説について話してやるよ」

 パトラはそう言うと、嬉しそうにオープンサンドとガレットを二切れずつ取り皿に乗せて交互に頬張り始めた。いつもは、あっという間に自分が平らげるガレットが、パトラの口に消えていくのをハンナは無表情で見つめていた。頭の中で、いろいろな疑問が浮かんでは消える。けれど、まとまらずに質問することもできなかった。自分が《呪われた子》であると言われた事に打ちのめされていたのだ。

 ママは、キッチンから小さなスツールを持って戻って来ると、その上に浅く座った。

「この村に来て、すぐに図書館へ行った時はね、ウエストエンドから逃げていた時だった。

 ママは、そこで生まれて初めて《地図》というものを見たわ。グリーングラスでは、すべての国はグリーングラスの一部として書かれていたし、ウエストエンドにいた頃は、学校に行っていなかったから、精霊の分布図は知っていても、それぞれの国が勝手に線を引いた《国境》なんてものがあるという事さえ知らなかったの」

「地図?」

「自分がいる場所をね。知りたかったの。パパが最後にいた場所も知りたかったし、昔のお話もね。だから、パトラばあ様のところへ行ったのよ。ハンナ、覚えていないかもしれないけど、この村へ来て二日ほどは、宿に泊まっていたのよ。パトラばあ様に出会っていなければ、私たちは、まだ家も無く旅をしていたと思うわ。ここのお家は、もともとパトラばあ様が、住んでいたお家なの」

 三つ目のサンドイッチを皿に取り、ガレットを口に入れながら、パトラは頷いた。

「南の島で会った時から、ハンナは精霊と遊んでたっけねぇ。たまげたよ。ユラの血ってのは大したもんだってね。あたしゃ、あの子たちを見えるようになるだけで何年もかかったからね」

「あ……あの時ね……龍を見たんだ」

 長い間口にできなかったことを口にしてから、ハンナはしまったと慌てて口を閉じたのだが、口から出てしまったものは引っ込めようが無かった。パトラは食べていた手を止め、ハンナを見つめている。

「ハンナ、あんた起きていたのかい? 本当に? 大人の話の邪魔になるからと思ってね、今この子にかけているのと同じように、妖術かけて眠らせていたはずなんだがね」

 ハンナは、つい先ほどパトラが男の子にしたことを思い出した。男の子はすやすやと眠っているが、同じようなことが自分の身にもあったのだろうか。

「いえ。あの、起きていたというか、急に深い水の中で息ができなくなって、上を見たら七色蝶がいて、繋がって虹みたいになって、ちょうど伝説の歌みたいに。それからとっても高いところで何かが光って向かってきて……よく判んないけど、多分龍かな……って。それと、頭に虫の冠付けた人が泣いてて……でも、夢かもしれない。目が覚めたらベットに寝てたから……」

「パトラばあ様、この子眠っている時も耳が聞こえているのかもしれません」

「半分起きてて、寝ぼけてるってことかい?」

「それに近いかもしれませんが……気配を聞いているのかもしれません。とにかく聞いているのです。まるで目で見ているように。あの時、私は夫に出会った話をしていたはずですから。

 ハンナ、あなたが見たそれね、ママがパパを初めて見た時に見た景色そのものよ。そのお話を、あなたが眠っている隣でパトラばあ様にしていたの。それとも、五歳の時に聞かせたお話が、頭の中でごちゃ混ぜになったのかしら。あの時も、眠そうにしていたから」

 パトラは険しい顔をして、食べる手を止めたままだ。

「いや、もしかしたら……そんなことは考えにくいのだけれど」

「何でしょうか、パトラばあ様」

「ハンナ、他に同じようなことは無かったかい? 例えばだけどね、起きているのか眠っているのか判らないくらいの、身体で感じているけれど、後で目が覚めるようなことだよ」

 ハンナのママは、驚いた顔をしてパトラを見た後、息を止めてハンナを見ている。ハンナは、体験したことを思い出し、夢だと思うんだけど……と話し始めた。

 今日、目の前にいる小さな子をストロベリーフィールドで見た話と、ルークとジャッキーの話だ。ストロベリーフィールドで、馬に乗ったパパらしき人と若いママも見た、虫たちが沢山話をしていた、というハンナの話を聞くと、ハンナのママは椅子から突然立ち上がった。喜んでいるのか悲しんでいるのか、解らない表情だ。

「間違いなさそうだね」

「ええ、パトラばあ様」

「しかし、あんたと違うところがひとつ……」

「はい。この子は、過去の中を旅しています。黄色の水晶を受け継ぐものです」

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