第16章 パンパスグラスの憧れの人

 遠くスノーマウンテンのはるか上空には、季節外れの真っ黒な雪雲が見えている。角を曲り、ストロベリーフィールドの中に入って数メートルも進むとすぐに猛烈な風が前から吹き上がってきた。前方には、荒れ地が広がっていて、村人が言う様に、まるで《呪い》にでもかかったように寒々しく見える。

 ハンナは、それが偽物であることは信じて疑わなかったが、どうすれば本物の世界に入れるのかが分からず、強風の中、荒れ地を右に左にと歩き回った。が、どこをどう歩いても、花の香りさえしてこなかった。しかも畑の入り口から十歩ほどしかどうやっても前に進まないのだ。

 まさか、本当に消えてしまったの?

 ハンナの頭にふとある考えが浮かんだ。今なら、誰も見ていないこの時期ならば、精霊の谷からスノーマウンテンまで行けるかもしれない。もう学校に行く気もないし、自分が消えたって心配する友達もいない。止めに来る精霊もいない。ママは怒るだろうけれど、こんなチャンスはそうないんだから、皆が隠そうとするものを見つけてやる……。

 ハンナは怒りに任せてやたらめったらと動いていた歩みを止めた。すると、あんなにひどく吹いていた風が少し収まった。ハンナの様子を伺うように、風はハンナの周りをぐるぐるとまわっている。

 間違いない。これは、妖術だ。

 ハンナは確信すると、ストロベリーフィールドを横切ることを諦め、畑の外周に出た。畑を横切る近道ではなく、外周に沿って作られた道を沿いに歩くことにしたのだ。思ったとおり、風は畑の中ほどには吹き付けることは無かった。はるか彼方に見えているスノーマウンテンに照準を合わせてゆっくり歩き始める。大きな畑の外周はとんでもない距離だ。けれど、反対側まで歩けば、山道に続くはずだった。

 そうして少しの風を受けながら外周を十分ほど歩いた時、畑の中に一か所だけ風が強く吹いているのが見てとれた。よく見ると、そこだけ枯草がくるくると舞い上がっているのだ。それはハンナが立っている場所から少し先の畑の畝の端だった。しかもそこには小さな黒い影が動いている。気のせいではない。何かが、そこにいるのだ。立ち入り禁止だと言われているこのエリアに、ハンナのほかに入ってこようとする者がいるのだ。

 目を凝らし外周からぎりぎりまで近づき、ハンナは、風が渦を巻く畑の中に再び足を踏み入れた。突然風は激しくなり、砂埃が舞い上がる。激しく舞う風の中、腰をかがめて進んでいくと、前方に紫色のローブが風になびいているのが目に入った。黒くうごめくように見えていたのは、この紫のローブだったのだ。このローブには見覚えがあった。パトラがいつも被っているローブだ。背格好からしてパトラに間違いない。ありったけの力を込めてハンナは前に進み、パトラに追いつこうとした。風は収まるどころか、さらに一層強くなり、砂埃で目を開けるのも精一杯になってくる。

「パトラばあ様! わたし、ハンナよ! ねぇ、風を止めて!」

 ハンナは、音を鳴らして過ぎていく風の中で、声を張り上げて叫んだ。風の圧力で、体力が消耗していくのが分かる。脚の力が入らず、風に負けて後ろへと押し返される。

「パトラばあ様!」

 何度かの呼びかけの後、黒い影はぴたりと動かなくなった。ハンナの声が届いたのかもしれなかった。ゆっくりと影がこちらを向こうと振り返った瞬間、小さな紫のローブは、大きな風の音と共に、天高く巻き上げられて行った。するとローブの下の小さな影は、いっそう小さくなり、とうとう動かなくなってしまった。

 一体全体、パトラばあ様は、何をしているのだろう。そもそも自分で張り巡らした結界のはずなのに……。

 そこまで考えて、ハンナの頭には、ある疑問が沸いた。本当にパトラばあ様なのか、確かめようと、荒れ狂う風の中、右肘で顔の前を覆い、身構えるような姿勢でハンナはゆっくりと前に進んだ。小さく動かなくなった物体が、徐々に近づいて来る。砂埃が舞う中、小さな塊に手が触れるところまで進んでから、ハンナはもう一度声をかけた。

「パトラばあ様?」

 小さな塊は、すさまじい風の中で丸まっていて、全く動かなかった。風から身を守ろうとして、頭を膝の間に入れてうずくまっていたのだろう。その塊は、パトラよりもずっと小さかった。そこにいたのは、見たことのない民族衣装を身に着けた子供だった。その服を見て、ハンナにはある記憶が蘇った。

 小さな子は、ゆっくりと顔を上げ、風の中、目を細めながら呟いた。

「僕を、連れて行って」

 それだけ言うと、男の子は気を失い、そのままの姿勢で転がった。ハンナは反射的にその子をかばうように覆い被さり、天に向かって力の限り叫んだ。

「パトラばあ様! 精霊たち! どっちでもいいから、とにかくしばらく風を止めて!」

 今までにこんなに怒った自分の心と向き合ったことは無かった。何をやってもうまくいかない現実に、ハンナは勝手に溢れてくる涙を止めることが出来なかった。腹立たしい思いと、悔しい思い、悲しい思いが入り混じる。

 こんな小さな男の子ひとりを助けられないのに、何の力もないのに《経験者》になんかなれる訳ない……。どうせ、自分は、よそ者だ。

 ハンナが衝動的に怒りに任せてはめていた指輪を外そうと指輪に手にかけたとき、指輪の六個の石から空に向かって明るい光が昇っていった。驚いたハンナが空を見上げると、頭上高く、はるか上空にとても大きな白い鳥が飛んでいるのが目に入った。

 その真っ白な鳥が徐々に降下しきて、自分より大きいことに気付いた時、ようやくそれが鳥ではなく、大きな白い馬だとハンナには判った。真っ白の胴体の付け根から羽の先までが、見事なグラデーションになっていて、その翼は先端に行くほど濃いピンク色になっている。飛ぶ馬の周りは、光り輝いていて、太陽がふたつあるように見える程だ。下から馬の腹と広げた羽根部分を見ていたハンナは、見たことのない景色をただ茫然と見つめていた。

 ユニコーン? 違う、ペガサスだ!

 ペガサスがさらにハンナの方へ向かって降下して来ると、その背中に見たことがある人物が乗っていた。かつてお祭りの広場で見た、大勢の人に囲まれサインや握手を求められていた人物、光り輝く《経験者》その人に間違いなかった。《経験者》は、ハンナの真横まで来ると、片手でハンナをがっしりと掴み、ペガサスの背に引っ張り上げた。

「あの子を、助けて!」

「しっかり背中につかまって。こいつ、勝手に動くから」

 澄んだ張りのある声で《経験者》がそう言うと、ペガサスは左旋回して大きく翼を広げて、ハンナを乗せて天空高く舞い上がって行った。後ろからは猛烈な竜巻のような風が襲ってくる。ハンナは言葉を失ったまま、《経験者》の背中にしがみついていたのだが、しばらくすると視界が落ち着いてきて、竜巻も遠くなり、周りを見られるようになった。

 眼下に広がる景色は、学校で習った地図通りだった。この国の景色を空高い所から一望して、ハンナは感嘆の声をあげた。空からフラワーバレーを見たのは勿論生まれて初めてだった。

 スノーマウンテンはいつもより低い位置に見え、ストロベリーフィールドはとても小さく見えた。大きな時計台も、あっという間に鉛筆くらいの大きさにしか見えなくなった。パトラの家が岬の先端に見え、東側の大きな川のはるか向こうには、黒い雲に覆われた街が見えた。背の高い建物がたくさん見えている。

「あの子を」

 そう言いかけて、ハンナはストロベリーフィールドにあの人影がないことに気が付いた。

 あれは、夢?

「もう少し、観光したいところだろうけど、ごめんね。こいつ勝手に動くから」

《経験者》が、優しい声でそう言うや否や、ペガサスは急旋回し、山の麓に見えている広大な丘に向かって降下し始めた。丘の上では、何かがふわふわと飛んでいる。大きな羽のペガサスは、地面に着くと、その羽を畳み始めた。ハンナの耳には、いくつもの小さな声が聞こえる。

「ちょっと、ルーク、あんた、何さぼってんのよ」

「あんた、しばく」

「給料減らす」

「ちょっと顔が良いからって、何でも許されると思うなよ」

「いや、僕に言われてもねぇ。こいつ勝手に動くから」

 ペガサスの背から飛び降り、ハンナを降ろすと、《経験者》は、ペガサスの頭で光っていた赤い石に触れた。ハンナがそれを見つめていると、その石は閃光を放って周りを見えなくさせた。光が消えると、そこにもう翼の生えたペガサスはいなくなっていて、《経験者》の格好によく似た人物がもうひとり立っていた。

「さっきから聞いてりゃ、勝手に、勝手に、ってさ、いきなり助けに行くように指示したのは、ルークの方じゃないか」

「だって、あんな妙な光を見たら、気になるだろ」

「ちょっと、いい加減にしてよね。今頑張らないと、夏に寝転がる場所さえなくなるんだから。さっさと片付けてよね」

「ほんと、パトラも、もう少し体力のあるベテランをよこしてほしいもんだわ。こんな若手じゃ、いちいち説明しないと動かないんだもの」

「ちょっと、君たち、ひどいな。これでも俺たち、村の祭りじゃ大人気だったんだぜ」

「僕の方が、ファンレター多かったけどね」

「小さな子供だから、可愛がられているだけさ」

「ちょっと! あんたたち! ほんとに、マジで、やる気あんの? その石、潰すわよ」

「いいぞ、トリクル。やっちゃえ!」

 小さな羽音で飛び回る精霊は何度か目にしたことはあったが、その怒った顔をハンナは初めて見た。呆然としながら、精霊に叱られている《経験者》を見て、自分がママに叱られている時と変わらないなとハンナは思った。

 これ……ほんとに《経験者》? あのきれいなペガサスさんは、どこへ?

 ハンナが心の中で呟いた時、《経験者》そっくりの格好をした人物が声をあげた。

「そうだよねぇ。こんな奴が《経験者》で、僕が《守り人》なんて、あり得なくない?」

 ハンナは驚いて振り返った。

「あ、僕ね、《守り人》の通称ジャック。ほんとはジャッキー。あ、変身してもジャッキー」

「お前、それじゃ意味不明だろ」

《経験者》が笑いながら、目の前に広がる背の高い草を、持っていたナタで刈り始めた。たった一太刀で、目の前の草は遥か遠くまで消え去った。よく見ると、草の先端の穂先部分だけを精霊たちが一生懸命運んでいる。風に乗ってたなびいて見えていたのは刈り取られたパンパスグラスだった。どうやら刈り取られた穂先をだけを運んでいるようだ。

「ジャック、さっさとジャッキーに戻って、運んでよ。またパトラにぶっ飛ばされるよ」

「そうだ、ジャック。さっさと運べ」

「君に言われたかないね、ルーク」

「あの……すいません……」

 ハンナが声を出すと、そこにいた全員が、ハンナを見つめた。皆、無言だ。

「あ、ごめん。こいつ勝手に動くから」

《経験者》ルークがそう言ってジャックの赤い石に触れると、さっきまで《経験者》そっくりの格好で立っていた《守り人》ジャックは、再び美しい羽のペガサスに戻った。どうやら、なにか気に食わないらしく、何度も声をあげて嘶いている。

「わりぃ、俺、馬語、わかんねー」

 ペガサスの周りでは精霊たちが、クスクス笑いをしている。

「『僕がいないと何もできないくせに、威張ってんじゃねぇ、このへなちょこ経験者、それに僕は馬じゃなくて、ペガサスだ……』って、言ってます」

 大きな羽を広げて嘶いていたペガサスは、その動きを止めた。精霊も《経験者》ルークも、ハンナの顔をじっと見つめている。

「今、僕に向かって、何て?」

 超が付く程の輝く端正な顔が、魅力的な低音ボイスでハンナにゆっくりと近づいて来る。長いまつ毛が、ハンナの鼻に触れそうなほどの近さだ。ハンナは顔を真っ赤にして、たじろいだ。

「あの、えっと、だから……私じゃなくて、ペガサスさんが、そう言ってて。私、解るので」

 ハンナの言葉が終わる前に、ペガサスは羽を大きく広げると、精霊たちによってくくり付けられていた荷を背に天高く飛んで行った。

「こら! 待て! この野郎! お前こそ、へなちょこ《守り人》だろーが、戻ってきたらただじゃおかねぇ」

 ハンナは、憧れの《経験者》像が音を立てて壊れていく気がしていた。その輝く姿は数年前に見た時と変わっていないのだが、中身とのギャップがあまりにも激しすぎた。

「ねぇ、あなた、私たちが見えても怖がらないってことは、精霊使いなのかしら? どっかで会ったことあるような気がするんだけど。前にここに来たことない?」

 小さな精霊が近寄ってきて、今度もハンナの鼻先で止まった。

「精霊使いではないです。昔よく一緒に遊んだけど……ここへは初めてきました」

 ハンナは精霊にそう言うと、今度は、空に向かってまだ怒鳴っている経験者ルークに向かって、後ろからお礼を言った。

「助けてくれてありがとう。でも、あの、ここはどこですか」

 長い髪をポニーテールにしてなびかせながら振り返ったルークは、爽やかな、というより冷静な笑顔に戻っている。

「ああ、ここ? 《パンパスグラスの丘》って村では呼ばれてるかな。精霊たちは《ロゼの丘》って言ってるよ。秋は一面淡いピンクで、それはそれは美しいんだ」

 まるで二重人格みたいだ。と、ハンナは思った。

「でもね、残念なお知らせがある。この先へ足を踏み入れたものたちは、元の世界へは戻れない」

 ハンナは、その冷たい笑顔が恐ろしくなった。《経験者》は森の方を指さし、表情を消して呟いた。

「そこにね、埋まっているから……覚えといて」

 指さされた先には、背の高いパンパスグラスの株から顔を出し、薄汚れた布が風に揺らぐのが見えていた。長い柄の先に結ばれているようだ。その声を最後に、ハンナの視界は暗くなった。目の前が再び明るくなると、ハンナは、風が吹きつけるストロベリーフィールドに立っていた。頭がキリキリと痛むのが分かった。

 今のは、全部、夢?

 小さな子は、やはり消えている。一体、どこからが現実で、どこからが幻なのか。

 あの憧れの経験者は、本物だろうか。確かにペガサスの背に乗った感触はあったのに。

 頭の痛みが治まらず、一向に止まない風に戦いを挑むことを諦め、ハンナはスノーマウンテンに背を向けた。

 ハンナが再び来た道を戻り始めると、不思議なことに風は巻き上げるのをやめて、後ろからの追い風として優しく吹き付けるようになった。図書館の曲がり角の手前まで来ると、風はすっかり止んでいた。驚いたことに、曲がり角には、こちらを見て心配そうに立ち尽くしていた人物がいた。マルグリットだ。

 ハンナを見つめる、マルグリットは幽霊でも見たような顔つきだ。

「ハンナ……何をしていたの?」

 無言で横を通り過ぎようとするハンナに、マルグリットは再び声をかけた。

「どうして、ストロベリーフィールドなんかに……?」

「よそ者を偵察?」

「そうじゃない。わたし、ハンナがそっちに走ってくのが見えたから心配で」

「安心して、フィールドには呪いをかけてあるから。幽霊もいたよ」

「え?……」

 凍り付いた表情のマルグリットは、それ以上何も言わずハンナからすっと離れ後ずさりした。

 私たちの関係は偽物なのだ。この会話だって偽物だ。

 ハンナの涙はすっかり乾いていた。ハンナは冷めたような表情で家の方向へと戻って行った。

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