第15章 偽物たち

 目覚めた時には、ハンナは体のだるさがすっかり消えていることに安堵した。昨日まで身体が鉛のように重かった。もう身体の不調はすっかり治っているようだ。身支度を終えて階下に降りていくと、テーブルの上には朝食のサンドイッチが置いてあり、その横にはママの字で書かれたメモ書きがあるのが目に入った。西の国の文字だ。ママは、都合が悪いときにはこうやって暗号のような西の国の文字でメモを書く癖があった。おかげでハンナは西の文字がすっかり読めるようになっている。

《パトラばあ様のところに行きます。日暮れまでには戻ります。無理しないように》

 ハンナは、家から出ることが出来なくなっているというパトラばあ様のことを想像した。

 レオの指輪は、どうなったのだろう……。

 ハンナには、誕生会から逃げるように家に戻った後の記憶がなかった、翌朝目覚めた時は全身が痺れたように身体が動かなかった。

 昨日、目覚めた時、ママが心配そうにこちらを見ていた。ママの話によれば、レオの誕生会で特大ケーキが披露され、電気を消し皆で歌を歌い、レオが蝋燭を吹き消してケーキカットの予定だった。が、何故かいつまでも電気が付かず、ざわつきだした来客の周りで、突然パンパンパンと乾いた音が何度もして、銃声だと大騒ぎになったらしい。人が重なるように玄関から飛び出し、押しつぶされ怪我をした人たちが大勢いて、かなりの数の人が入院したらしかった。

「ボバリー伯爵が、恨まれたり、命を狙われたりするようなことをしていると、多くの人が思っていたってことね。とにかく、あなたが無事でよかった」

 ママはそう言うと、温かいお茶を飲むように勧め、もう少し休みなさいねと部屋を出ていった。どうやら、それからハンナは昨日は一日中眠っていたようだ。

 いくつもの夢を見ていた気がする……。

 ぼんやりしながらテーブルの上の新聞に目をやると、《誕生会の大惨事》、《折り重なる人々》、《銃声と聞き違え》、《一人息子の豪華な指輪》といった言葉が躍っていた。

『地下室のブレーカーを意図的に落とした可能性があり、ゴム風船だけのはずだった風船の中に混ざっていたアルミ風船が、屋敷外の電線に触れてショートしたのが原因と思われる』と記されている。

「誰がそんなこと……」

 ハンナは、それ以上言葉が出てこなかった。暗闇の中、あれだけの人があの玄関ホールに殺到したら、とんでもないことになるだろう。せっかくのママのプレゼントが足で踏みつけられ、粉々になった花瓶と共に玄関ホールに飛び散っている写真が新聞の一面を飾っていた。ハンナは怪我をした人たちのことを思い、自分だけうまく事故の前にお屋敷を離れたことに胸が痛んだ。

 食事を済ませて二階へ戻ると、ハンナは誕生会で見たあのレオの薄ら笑いを思い出して、またどんよりした気分になった。窓の外には虫たちの姿は見えなかった。村全体が灰色でまるで全く違う村になってしまったみたいだ。

 ハンナは手早く着替えを済ませると、ママの言う通りもう少し休もうかと迷ってから、ふたりの友達が気になり、やっぱり学校へ行こうといつもの道を歩き始めた。

 村は、どことなく慌ただしい様子を見せていた。立ち止まって会話をしている人たちからは、皆一様にボバリー家の事件について語っている声が聞こえる。ハンナが図書館の前を通り過ぎたあたりで、マルグリットの後ろ姿が目に入ったので、ハンナは駆け寄り、小さく声をかけた。

「おはよう、マルグリット。大変だったね。大丈夫だった? 怪我とかしなかった?」

「ああ、ハンナ。あなた無事だったのね。良かったわ。それにしても酷い一日だった」

 マルグリットの顔には、いつものような笑顔はなかった。

「ニーナ、大丈夫かな……。マルグリット、何か様子聞いてる?」

「……あの子、変なんだよね」

「変って?」

「怪我はなかったんだけどさ、様子が変わっちゃってて」

「事故のせい?」

「事故が原因の一部ではあるとは思うんだけど……」

 マルグリットは、あまり話したくない、という雰囲気で口をつぐんだので、ハンナもそれ以上は聞かなかった。マルグリットとの友人としての正しい距離感を壊したくなかったからだ。しばらく無言で並んで学校に向かって歩いていると、遠くに大きなバルーンスカートの後姿が見えた。いつもマルグリットに急かされて一緒に学校へ向かっていたニーナが、誰よりも早く学校に向かっている。そのことにハンナは驚いた。

「ねえ、またニーナと喧嘩したの?」

 ハンナが横を向いてマルグリットに話しかけた時にはもう、マルグリットが駆け出した後だったので、質問の答えは聞けなかった。前方には、ニーナに追いつこうとしているマルグリットの姿が見える。マルグリットがニーナに声をかけた途端、ふたりはいつものように、いや、いつもとは比べ物にならない大声で喧嘩を始めたので、ハンナは驚き、ふたりから少し離れたところで足を止めてしまった。ふたりの様子がいつもと違っていたことがふたつあった。ひとつはニーナが大きな叫び声だったことで、もうひとつは、マルグリットが本気で怒っているようで、いつものような皮肉めいた笑顔も見せていないことだった。

 ハンナがふたりに駆け寄ろうとするよりも先に、ニーナのほうがハンナに気づき、ハンナに向かって走り寄って来た。ハンナの目の前まで来ると、ニーナは真っ赤な目をしてハンナを睨み付けた。ハンナの知っているニーナではない。まるで別人のようだ。

「ニーナ、大丈夫? いったい何が……」

 しばらくは唇を噛んでハンナを睨んでいたニーナは、突然発狂するような声を上げた。

「大丈夫? ですって? 何があったかなんて聞かなくても知っているでしょう?」

「あ、あの、大変だったね。怪我とかしてない……」

「はぁ? 大変だったって? 他人事みたいな言い草じゃない? 演技も上手ねぇ!」

「ニーナ……」

「ハンナ、あの日、先に帰ったよね。風船飛ばしたの、あんたじゃないの?」

 ハンナは何を言われているのか、分からなかった。ニーナは見たこともないような怖い表情で、ハンナのことを睨み続けている。

「いい加減にしな、ニーナ」

 マルグリットが後ろから近づいてくると。ニーナは同じ眼差しのまま、ハンナを見ていた眼をゆっくりとマルグリットへ向けた。

「弟のことを悪くいう奴とは、口をききたくないって言ったでしょ」

「悪くって……。だから、私は、事実を……」

「あんたたち、ふたりとも大っ嫌い! どうせ、裕福なうちが羨ましかったんでしょう? ひがみ根性もいい加減にしてほしいわ。ほんっと、身元の知れないよその国から来た貧乏人はたちが悪いって、お父様の言うことは、やっぱり正しかったわ。こんなことになるなら、よそ者なんかに優しくするんじゃあなかったわ」

「ニーナ! やめなっ! それ以上、ハンナのことをそんな風に言うなら……」

「言うなら? 何よ? あんただって、最初に会った時、よそ者なんか信用できるかどうかわかんないって言ってたじゃない! こっちから話しかけて、どんなやつなのか、様子探ろうって言いだしたの、マルグリットの方じゃない!」

「何年前の話してんのよ。ずっと見てたんだから判るでしょ? ハンナがそんなことするわけないって!」

「分かるもんですか! あの日、花束を持ってこられたなんて、怪しすぎるわよ。おまけに騒ぎの直前に姿をくらますなんて! せっかくの弟の晴れの日を台無しにして、可哀そうな弟は新聞にまで書かれて恥さらしになって。指輪は弟に贈呈されなかったって疑うような記事まで出るし。ちゃんと贈呈されているわよ! すっごい立派なやつがね! あんたみたいな貧乏人が持ってる指輪とは大違いのをね! 邪魔しに来たのに残念だったわね。まったく、ムカつくなんてもんじゃないわ! 絶対、コイツが犯人よ!」

 ニーナがハンナの顔の前に右手の人差し指をつきだした瞬間、バシッと冷たい音が鳴り、場が一瞬静まり返った。ハンナは、何が起こっているのかを懸命に理解しようとしていたのだが、目の前にいる人物が、これまで自分が知っていた人間とあまりにも違いすぎて、情報量に頭がついていけなかった。

 突然、大きな泣き声が聞こえて、ニーナが学校とは反対の方向へ走り去って行った。地面に散らばった教科書を涙目になったマルグリットが拾い上げているのを見て、ハンナはようやく状況を理解した。さっきの音は、ニーナが脇に抱えていた本やノートの束を、マルグリットが手ではたき落とした音だったのだ。

 この村では、何があっても、人に危害を加えたものは、《経験者》や《守り人》にはなれない。短気なことで知られているマルグリットは、そのコントロールが自分の一番の課題だと自覚していた。いつも感情を押し殺してはいたが、今回は怒りに任せてあやうく出そうになった手を、ニーナの頬ではなく、物にぶつけたのだ。一緒に落ちたものを拾いあげながら、ハンナは自分の目から温かい液体があふれてくることに気が付いた。たった今聞いた言葉の数々が、心の奥に突き刺さり、血を流す代わりに目から涙になって溢れ出てきていた。

《自分はよそ者で、信用できないと思われていた。いや、現在形で「思われている」のだ》

 その事実を目の前に突き付けられたことは、これまで一度も無かった。いや、無かったのではない。分からないように、ニーナとマルグリットが見えなくしてくれていた。ところが、現実はもっと残酷なものだった。この村に来て初めて話しかけてくれたと思っていたふたり、優しい友人だと思っていたふたりは、よそ者を《偵察》するために、意図的に近寄り、ハンナが信頼に値する人物かを毎日チェックしていただけだったのだ。ハンナが漠然と感じていたふたりとの距離感は、そのせいだったのかもしれない。自分は、その距離感を友人としての礼儀だと勘違いしていたのだ。ハンナは胸が苦しくなり、ますます涙が止まらなくなった。

 そんなのは、きっと、友達とは言わない……。

 ハンナは絶望的な気持ちで拾い上げたノートをマルグリットに手渡した。その様子を見たマルグリットは、声をかけようと口を開きかけたのだが言葉は出て来なかった。ハンナからノートを受け取ると、ハンナの顔を見られないという様に横を向いて呟いた。

「パトラばあ様、指輪授与せずに帰ったかもしれない。あれ、偽物だよ」

 ハンナは驚いて、マルグリットの方へ顔を向けた。けれど、今のハンナにはレオの指輪が偽物かどうかなんて、もうどうでもよかった。ニーナの言葉が頭から離れなかったのだ。ハンナは、今まで誰にも感じたことのなかった《怒り》という感情が、自分の中に芽生えるのを感じた。

「ハンナ、さっきの話、ほんとごめん……」

 絶対に先に謝らないマルグリットが頭を深く下げている。果たしてこれは本物の謝罪なのか。ハンナは溢れる涙を止めることが出来ず、俯いたまま来た道を戻り出した。

「ハンナ……学校、行かないの?」

「指輪も、友達も、この村は、何もかも偽物ばっかり!」

 やっとの思いで小さな声でそう言うと、ハンナは泣きじゃくりながら嫌なことを全部振り払うかのように走り出した。花のない村には灰色の空がどこまでも広がっている。泣きながら図書館の前まで戻って来ると、前の掲示板に貼ってあった経験者募集のポスターの上に、《中止》と赤い大きな文字が殴り書きされているのが見えた。

 あのストロベリーフィールドが消えたっていうのも、偽だ!

 ハンナは心の中で渦を巻く怒りを鎮めることが出来ないまま、ストロベリーフィールドの方向へと図書館の角を曲がった。

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