第14章 夢か、現実か
ハンナは何度も夢を見ていた。
虹色蝶が大きく輪になって繋がり、空高く舞い上がった蝶たちが、虹を作って回りだす。そのはるか上空を金色の龍が舞っている。黄色い大きな月が龍の向こう側に見えるのに、雨などどこにも降っていないのに足元には水浸しになった街と濁流が見える。
思うように動かない足で、ハンナが前に一歩進もうとした時、遠くから、途切れ途切れの悲壮な声がいくつも聞こえてきた。龍は、水面ぎりぎりで身をかわすと、天空に頭を上にして高速で再び舞い上がり、一直線の剣のようになった。その形のまま、龍は水面を二つに叩き割った。目の前には轟轟と音を立てて流れ落ちる滝が現れ、地面はどんどん左右に広がっていく。そうして、その先に対岸が見えなくなるほどの川が広がった。
ハンナが立っていた足元はあっという間に水が引いて広大な畑が広がった。月が消え去ると、今度は明るい太陽の光が差し込んだ。たわわに実る赤い粒が見えたかと思うと、大きかった粒はどんどん小さくなっていき、白い可憐な花々だけになる。すると今度は一瞬で、一面が緑の畑に変わり、次にビニールに覆われた土だけの畑に変わった。花が咲いて実がなる映像を逆回転で見ているようだ。
今度はストロベリーフィールドの真ん中に自分が立っていることに気づいたハンナは、もう一度空を見上げた。そこには金に輝く星のような光が小さく、一瞬煌めいて消えていくのが見えていた。立ち尽くすハンナの前に、長い鬣をなびかせた栗毛の馬が現れ消えていった。一瞬のことではあったが、その馬にまたがる人物には見覚えがあった。深い緑色の軍服、大きな手、それは間違いなくハンナの父だった。その身体の前にはもう一人、大きなマントで父の胸に巻き付けられている人物がいた。その青い髪にも見覚えがあった。間違いない。ハンナのママだ。
目の前で見た若い二人は、写真で見ていたふたりよりもずっとリアルだった。ママの年齢は、今のハンナとあまり変わらないくらいだろう。マントの下から見えたドレスは汚れてはいたが、全身が白いもののようだった。何か音が響いた気がして、ハンナは後ろを振り返った。後ろには何もなかったが、音は響いている。
これは、虫の羽音だ。
ハンナがそれに気づき、再び天を仰ぐと、ちょうど馬が走り去っていった方向に、沢山の精霊と虫たちがストロベリーフィールドの畝のぎりぎりのところまで二人を追って羽ばたき、これ以上は進めないという表情でふたりの背中を見つめているのが見えた。ハンナは、振り返った虫たちに手を振ったが、精霊も、虫たちも、ハンナには目もくれず、すぐ横をすっと通り過ぎてスノーマウンテンの方角へと去って行った。
わたしのこと、見えていなかったのかな……。あぁ、そうか。これは……夢?
ハンナの耳には、いくつかの声が聞こえてきた。遠ざかる声を聞き取ろうと、ハンナは耳の先端をピンと立てた。虫たちの姿は、もうすっかり見えないが、森の中を進んでいるようだ。どうやら、虫たちと小動物が、木の上から声をかけている。聞いた感じでは、虫が四種類、木の上に小動物が一匹、足元に二匹、ついさっきまで五つは聞こえていた精霊たちの羽音は、森の中ではひとつだけになった。音だけなので、話をしている虫たちと動物たちが何なのかまではハンナには分からない。
「どうだった?」
「うん。無事に港に向かうみたいだ」
「助かるといいけど」
「きっと、大丈夫さ。
「けれど、あの子は、よそ者よ」
「龍の世界に、《よそ者》とかないさ。そんなこと言うなら、俺たちだって、
「私たちも、どこにでも行ければいいのに」
「どこにだって行こうと思えば行けるさ、その代わりに、安全が保障されなくなるぜ。いいのかよ、鳥のエサになっても」
「それは困るけど。何とか鳥たちと仲良くなる方法は無いのかしら」
「そりゃ、葉っぱ色の服の奴らと、この村の奴らとの関係と同じくらい無理な話さ」
「この閉じた世界で生きることが、俺たちの定めだ」
「でも、不便すぎるよ。次の契約の時には、村の中までは飛べるようにパトラに交渉しようよ」
「森の恵みだけを食べる契約は辛いよな」
「生き物のお肉って、美味しいのかしら」
「考えただけで恐ろしいからやめてよ」
「だけど、葉っぱだって、実だって、生きているのよ。命を奪うのは、同じじゃない?」
「そりゃそうだけどさ……」
「村の奴らは、生き物の肉も、木の実や葉っぱも両方食べられるように、俺たちとは違う造りになっているとパトラが言ってたぞ。《歯》が俺たちと違っていて、何でも食べられるように、天から与えられているんだと」
「じゃ、俺たちには、そもそも口に入れることもできないのか?」
「お間の色違いの奴は、生き物食ってるじゃないか」
「パトラとの契約だからね。あたしは、菌しか食べないけど」
「まぁ、菌だって、生きてるっちゃ生きてるよ」
「あんた、生きてるもの食べてみたいの? 例えば、こいつとか?」
「美味しいかな?」
「何だって!」
「やあねぇ。冗談よ」
ハンナの耳に、動物と虫たちの笑い声が聞こえ、ハンナも一緒になってくすりと笑った。
「ねぇ、ところでさ、あいつが《ロゼの丘》に埋めたものは、何だと思う?」
「さあな。あの葉っぱ色の奴が、何を考えていたかまでは分からんよ」
「銃の腕前は、まあまあだったわ。網を振り回した時は笑っちゃったけど」
「なかなかカッコ良かったわよ。顔もね。私好み」
「そうか? あの子を胸に抱えてピーピー泣いていた時は、相当カッコ悪かったぞ」
「え、私、あれ見てすごく感動していたのよ」
「どおりで、丁寧にあの子の唇の上に止まって、奴の気を引いていたわけだ」
「それで最後には、葉っぱ色の男の頭のど真ん中に乗ってたよね」
「そ、そんなんじゃないわ! ストローが喉にちゃんと収まるように誘導してたんだから」
「うん、わかりやすくて助かったわ」
「それに、皆だって、最後はあいつの頭に乗ったじゃない」
「だって、心配だったし」
「あの子の顔が見やすかったからさ」
「それにしても綺麗な空色の髪と瞳だったな。パトラ以外で話できたのなんて初めてだからさ、ほんと驚いたよ」
「また、会えるかな」
「生きていたらね」
「にしても、葉っぱ色の奴に連れて行かれて大丈夫なのか? 前に村を燃やした奴らだろ」
「そんな物騒な奴を、どうして中に引き入れたの」
「だって、仕方ないだろ。他にいなかったし。あのままじゃ、あの子、死んでいたよ」
「そうね。やむを得ず入れちゃったわ。パトラに何て説明しようかしら」
「ほんとに、いい子だったよなぁ。俺、何回も木の実を貰ったぜ。まさか、自分は食ってないなんて思わねえもん」
「あんたは、食べ過ぎなんだよ」
「だって、そうしないと冬眠できねえだろ。お前だって、いつも頬っぺたはちきれるくらい貰ってたじゃねえか」
「つまらない喧嘩、やめて頂戴。森の品位が下がるわ」
「ねぇ、トリクル。この後どうする?」
「そうね、まずは、あの埋められた場所が分からなくなるようにしなくては」
「どうして?」
「あいつら、絶対、取りに戻って来るわ。これ以上、黒い力で森を荒らされてはいけない」
「そうだね。でも、あそこさ、お祭りでいつも村の奴らが勝手に使うんだよな」
「今年も、いっぱいお裾分けくれた」
「困ったわね」
「何かいい方法ないかな」
「この前来た、《経験者》ってやつとか、何とかできないかな?」
「そりゃ、《守り人》次第だろうけどな。あいつらパトラと繋がってるぜ」
「やっぱり、相談するならパトラしかいないと思うけど」
「だからさ、訳の分からない奴を中に引き入れちゃ駄目なんだよ。パトラがいつも言ってるじゃないか」
「終わったことを、何度もぐちゃぐちゃ言うなよ。そんなこと、トリクルだってわかっているさ。あのままあの子が死んでたら、お前どうすんだよ」
「どうもしないさ。それが運命なら従うべきなんだよ。命はいつか終わるんだ。俺たちだって、村の奴らだって、何世代も繋がってはいるけど、形は似てるけど同じじゃない」
「あんた、たまにはまともなこと言うのね」
「俺は、《経験者》だろうが、《守り人》だろうが、パトラだろうが、信用しないぜ」
「パトラだって、いつかはいなくなるもんな。俺たちよりずっと長くこの世界に居るけれど」
「じゃあ、その時、私たちの声は、誰に伝えればいいのかしら」
「きっと、パトラと同じ形で、同じではない誰かさ」
「あの子が戻ってきたらいいのにな」
「トリクル、どう思う。あなたもいつか消えるの?」
「この世界に変わらないものなんてないわ」
「精霊の領域ももうほとんど残っていないものね」
「死んだ世界だらけになって来たよな」
「共存する世界があるだけまだましよ」
「共存、って……奴らが勝手にそう呼んでるだけだろ。迷惑な話さ」
「俺の夢なんだ。トリクルが話してくれた世界。共存とは違う」
「私の夢は、もっと小さいわ。四つの違う季節を全部見ること。絶対叶わないけど」
「秋生まれは、丈夫なんだぜ」
「でも、暑いっていうのがどんなのか、体験してみたかったの」
「次の次の代が体験してくれるよ」
「そうね、次の次の代も、その次の代も残して、あの畑で飛んでもらわないと」
「まったく、厄介な契約を、パトラとしちまったもんだ」
「厄介で、安全で、幸せな約束だよ」
「共存が、か?」
「ねぇ、いつか、パトラと同じ形の、同じではない誰かが、ひとりもいなくなることもあり得るのかしら」
「そんな日が、来ないとは言い切れないわ。現に、もうほとんどの奴らが、私たちの声を聴けなくなっているもの」
「なんだか、淋しいわ」
「それが運命なら、従うしかないさ」
「さぁ、山に戻りましょう。特に冬眠する者は、早く戻って。また春に会いましょう。何かあったら精霊の谷へ連絡して。その時は、くれぐれも小人の森に失礼が無いように注意してね。私はパトラに報告をしてくるわ」
「ええ、ありがとう」
「トリクルも気を付けて」
「長いこと、雨雲を止めてくれてありがとう。助かったよ」
「御礼は私にじゃなくて……」
「
「ええ」
「残った仕事を押し付けてごめんよ」
「気にしないで、さあ早く行って。皆、ありがとう」
「じゃあね」
「またね」
「また春にね」
「私はもう会えないけど、次の代の子たちを宜しく」
「任しておいて、今日のあなたの勇姿を語り継ぐわよ」
「さようなら」
「さようなら」
「穏やかに眠れますように」
「また森に帰れますように」
幾つかの羽音が交差し、藪の中を小動物たちが歩く音が聞こえた後、ハンナは耳を閉じた。
突然辺り一面が横殴りの猛吹雪となって、ハンナは急に目も開けていられなくなった。小さく縮こまって少しでも風をよけようと地面に伏せた。
寒い、寒い……。
ハンナが心で叫ぶと、目の前は真っ暗になった。そうしてハンナは突然途切れた映像にはっとして飛び起きた。
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