第13章 むかし昔のお話

 五歳になったばかりの頃、もらったばかりの指輪をはめて、ドキドキしながらママの秘密の《祈りの部屋》に初めて入った時、ハンナは、あまりに普通の部屋だったことに驚くと同時に、その期待外れな部屋の様子に、かなり落胆したのを覚えている。

 もっと、何か謎めいた不思議なものや、魔法の道具、祈りの道具や古文書なんかが、山のようにある部屋を想像していたからだ。その部屋は、二階にあるハンナの部屋と同じような造りで、違うことと言えば。窓が、全てステンドグラスになっていて、外からは覗けないようになっていることくらいだった。

 窓の下にクッションを並べた長いベンチがひとつと、部屋の真ん中には丸テーブルと椅子が二脚あるだけの部屋で、テーブルの横には小さな造り付けの暖炉があり、暖炉の上には小さな写真立てが置いてあるだけの殺風景な部屋だった。指輪を貰った日、ハンナはその部屋でママから『むかし昔あるところに……』という言葉から始まるお話を聞いた。

 今、ハンナの目の前に広がっている映像は、どうやらその時のもののようだ。あの頃まだ幼かった自分が、眠そうな顔をして、ママの前に座っている。自分自身のはずなのだが、手も足も、何もかもが、今の自分と比べると、ずいぶんと小さくて短かった。

 確か、さっきまでニーナの家にいた。気分が悪くなり、屋敷の外でパトラに会い、急いで家に戻って来た。それから……。これは、夢? ああ、身体が重くて動かない。眠い……。

 ママが話してくれたお話の細かいところまでは覚えていなかった。ハンナは、目の前で語られる話に耳を傾け集中しようと頑張った。ママはハンナの目を見つめながら、お話を始めた。


「むかし昔、あるところに、西の果ての国ウエストエンドという小さな国がありました。その国の小さな村にひとりの女の子が産まれました。女の子の家は、先祖代々、未来を見ることのできる不思議な力を持って生まれる者がいる一族で、その村では、ユラ神様と呼ばれ、国民から慕われていました。なぜならその未来の予言は必ず当たったからです。その女の子も次のユラ神様になると信じられていたのですが、女の子はいつまで待ってもユラ神になれませんでした。そんなある日、ユラ神様は、恐ろしい予言をしたのです。

『遠くない未来に、この村に災いをもたらす子供がやって来る。その子は、遠い東の果ての国イーストエンドからやって来るだろう』

 気の弱い村人たちは、この予言に震え上がり、災いを防げる手立てはないのかと、ユラ神様に尋ねました。するとユラ神様は、ひとつだけ方法があると答えました。

『その子をできるだけ早く小さいうちに亡き者にする事。さもなければ、この国はユラ神を失い、世界から消えてなくなるだろう』

 戦いとは無縁の穏やかな村人たちは、子供を葬るなんてとても恐ろしくて考えられず、東との交流を全て止めるしかないと考えました。村の長は、国王の所へ出向いて、ユラ神様の予言と、それを防ぐことができる唯一の方法を王に伝えました。

 ウエストエンドの国王は、このユラ神様の予言にいつも助けられていたので、この話を聞くとすぐ、東の国からやって来る人を国から残らず追い出すように国民に命じ、ウエストエンドの人たちは、決して誰も傷つけたりはせずに、理由も言わず、ただ無言で彼らを追い返しました。

 追い返されたことに腹を立てた人々は、怒って国に戻り、酷い目にあったと国民に話し、それがとうとう東の果ての国イーストエンドの王の耳にも届くようになりました。小さな西の国に入れなくても大して困らないと思っていた王は、数々の美味しい物や美しい布が、ぴたりと手に入らなくなると次第に焦り始め、品物だけでもウエストエンドから東の国へ送らせようと、様々な方法を試みましたが、もうウエストエンドの商人に連絡をとることは出来ませんでした。

 東の果ての国イーストエンドの王は、何とかウエストエンドとの交易を復活させようと、遠縁の中で、力も知恵も知識も勇気もある、戦いに最も秀でていた信頼できる男を、ウエストエンドへ使いとして送るよう命じました。

 その男には、『万が一の時に使うように』と、ガラス瓶に入った《何か》が手渡されていました。その瓶は鉄製のとても重い箱に入れられ、その上から木箱で覆われていました。外側の箱の蓋はモザイク柄で、国の紋章のドラゴンが描かれている、とても美しい箱でした。

 その箱を使いの男に手渡す時、細い銀縁のメガネをかけた痩せた男は、こう言いました。

『くれぐれも、単なる好奇心でその蓋を開くことの無いように。この箱は、一旦閉じると、次に開くときには瓶の中の液体が流出するようになっているのでね。万が一の場合にだけ、その箱を開けばいいのです。分かりますか? まぁ、その時は、あの国もあなたも存在することは出来なくなるでしょうが……。それがあなたのような、王から遠く低い身分の者に有難くも与えられた任務です』

 選ばれた使いの男は、万が一の場合などあるわけがないと考えていました。不思議な力を持つ人々が住むという西の小さな国の噂など信じておらず、妖力や魔力も、自らの強い剣の力でその魔力を操る者を切り捨てればよいだけのことだ。戦いの苦手な国民など、少し脅して駆け引きすれば、すぐに国王の望むものを差し出すだろうと、わずかなお付きの者たちだけを連れ、意気込んでウエストエンドへ向かいました。

 ところが、その使いの男でさえ、どうやってもウエストエンドの隣の村から先には一歩も先に進むことはできなかったのです。ウエストエンドの隣の村までは行けるのですが、そこから先は、どこまで行っても広い畑が広がるばかりで、馬車を引き連れて違う道を何度通っても、男が畑をどれほど歩き回っても、また国境の村に戻って来るだけでした。国境の隣の村人たちは、『あの国は国民もろとも突然消えた、きっと何かの恐ろしい疫病か、呪いを受けたに違いない』と恐れていました。

 それを聞いたお付きの者たちは、恐れおののいて、使いの男を置いて、さっさと諦めて東の国へと戻ってしまいました。実際には、ウエストエンドは、ユラ神の強い祈りの力で作られた結界という魔力で守られていて見えず、中に入れなくされていただけでした。村に繋がる道は、その不思議な結界の力で、ひとつ残らず見えなくなっていたのです。

 使いの男は、『あの国は消えた』と、言われれば言われるほど、それまであまり興味のなかった、西の小さなウエストエンドという国を、どうしてもその目で見てみたくなりました。ついこの前まであった国が、戦争も自然災害も何もないのに消えてしまうなど、考えられないことだったからです。

『本当に何かの魔力が使われたのかもしれない。魔力や妖力を使うには、必ずそれを手伝う精霊たちが必要なはずだ。精霊たちを囮にして動かすことができれば、もしかすると魔力も封じ込められるかもしれない。このまま国へ戻るなど、一族の恥だ。もしできなければ最後の手段、この箱を開けるまでだ』

 そう考えた使いの男は、国境の村を離れ、精霊を捕まえようと精霊の谷へと向かいました。

 その頃、ユラ神様の娘は、深い山の中で、数多くの試練を受けていました。多くの修行者が、様々な国からその山にやって来ていて、皆が、それぞれの不思議な力を天から授かるために集まっている場所でした。ユラ神様は、恐ろしい予言の後、娘を一刻も早く次のユラ神にするためにその山に送ったのです。ユラ神様には、その子が必ずいつか帰ってくるということが分かっていました。しかし本当は、女の子は帰って来てはいけないのです。できるだけ、ウエストエンドから離れたところへ娘を送る。それだけが、ユラ神としてではなく、母親としてできるたったひとつのことでした。

 殆どの修行者たちは、その山に来て一週間以内に、過酷な環境に耐えられずに、『不思議な力など得られない、霊力を得られるなんてまやかしだ』と文句を言いながら、山を下りて行きました。そんな中で、女の子は、半年近くもその山にいて、数々の術を身に着けました。

 けれど、春や夏には沢山手に入れることが出来ていた果物や木の実やキノコは、寒い季節がやって来るとたちまち無くなってしまい。たまに見つけても、女の子は、谷に住むお腹を空かせた生き物たちに食料を分け与えてしまい、自分のことを後回しにしていました。そのうち高い山には、時折木枯らしが吹くようになり、何日も食べるものがなく、耐えられなくなった女の子は、ユラ神様になることを諦めて、ようやく山を下りる決心をしました。

 山の中を歩き続け、女の子は、真夜中になってようやく麓の丘までたどり着いたのですが、それは女の子の国から反対側の《精霊の谷》でした。山を下りて安心した女の子は、厳しい寒さの中で、とうとう意識を失って倒れてしまいました。

 精霊の力で結界が張り巡らされた山に入って来られるものは限られていました。《魔力があるもの》か、《魔力があるものに導かれたもの》のどちらかだけです。

 助けを求めることもできず、力尽きて倒れた女の子の周りには、すっかり女の子と仲良くなっていた精霊たちが、心配して飛び続け、それから何日も、女の子を見守り続けました。女の子といつも一緒に遊んでいた虫たちは、枯葉に貯めた水を運び、蜂たちは蜜を運んで、女の子にあげました。山の生き物たちは、夜の寒さから女の子を守るために、沢山の落ち葉を集めて運んできました。女の子は、薄れる意識の中で、その様子を枯葉の下から見ていました。けれど、どうやっても起き上がる力は出てきませんでした。ただ、枯葉の下になってからは、寒さだけはしのげるようになりました。

 ユラ神として認められて、国に帰れるようになったら、きっと、あなたたちに御礼をするからね。女の子は、毎日そう思いながら、枯葉の下で、どんどんと動けなくなっていき、ついに水を飲む力も失ってしまいました。

 そんな女の子の目の前に、精霊たちをなんとかして捕まえて、ウエストエンドの入り口をその魔力でこじ開けようと考えている、東の国の使いの男がやって来たのです。大きな網を抱え、麻酔銃を持ち、谷へとやって来た男は、見事なピンク色に染まった広大な丘にたどり着くと、初めて見たピンク色のパンパスグラスの大草原に感嘆の声をあげました。馬を降りて近くの木に縛り付け、丘を登って下を見下ろし、風が吹きつけてくる方向に目をやると、丘の下、森との境が谷になっていて、一か所に固まって精霊たちが飛んでいるのが目に入りました。

 男は有頂天になりました。男がこのピンク色に染まる丘に来たのも、精霊を見たのも初めてのことでした。思っていたよりもずっと小さい精霊たちは、四枚の羽根で不規則に飛び回っていました。男は駆け寄って網を四方八方へとやたらめったらと振り回したのですが、全く捕まえることなど出来ませんでした。

 腹を立てた男は、麻酔の槍を詰めた銃を構えて、狙いをつけ、精霊に向かって一発、発射しました。けれど、銃の名手の男でも、想像以上の速さで飛び回る精霊を捕らえることなど、無理な話でした。発砲音に驚いた精霊たちは、あっという間に飛び去ってしまったのですが、普通なら、それでいなくなりそうな精霊たちは、また舞い戻り、枯葉の山の上で、再びぐるぐると回り始めたのです。針の先端には、どんな強い動物も倒せるほどの麻酔が塗ってあったので、少しかすればいいだけだと、男は自分に言い聞かせ、心を落ち着けて再び狙いを定め、麻酔銃を撃ちました。が、やはり今度も精霊には当たらず、枯葉の山にがさりと音を立てて麻酔の針は沈んでいきました。

 使いの男は、再び舞い戻ってきた精霊に狙いをつけました。その時、枯葉の山が微かに動いたのです。男はぎくりとして動きを止めました。

 熊か? 狼か?

 男は、神経を集中させて、うごめいている枯葉の山にめがけてもう一発、麻酔銃を発射しました。すると、うごめいていた枯葉の山は、完全に沈んで動かなくなりました。精霊たちは、天高く昇って行ったのですが、そこから離れる気配はありませんでした。

 それを見て安心した男は、一体どんな動物が潜んでいたのかと、恐る恐る枯葉の山を、網の先で払いのけました。山のような枯葉の下から出て来たものを見て、男は息を呑みました。そして、震えながら後ずさりしました。そこにいたのは、まだ幼い、やせ細った、青色に光る長い髪を持った女の子だったからです。自分がしてしまったことに慄いた男は、息もせずぐったりしている女の子を抱きかかえ、とにかく何とかしなければ、と焦りました。

 こんなところに少女が? 親が捨てたのか? 道に迷ったのか。いや、今、そんなことはどうでもいい。ああ、どうすればいいんだ。少なくとも二発は命中している。大きなヒグマが完全に動けなく量の麻酔だ。この子を死なせてしまうかもしれない。

 男は女の子を抱き上げ、持っていた水筒から水を飲ませようとしたのですが、力尽きていた女の子は、それを飲むこともできませんでした。万が一、麻酔で落ちてしまっている喉に水を入れれば、肺に入ってしまうかもしれない。そうなれば、女の子は助からない。男は、自分が麻酔銃を撃つずっと前から、すでに女の子が瀕死の状態であったことなど、全く知らなかったので、全てが自分の責任だと思い込みました。実際、麻酔銃の針は、女の子には当たってなどいなかったのです。女の子を心配して飛び回る精霊たちが、魔力で麻酔銃の針も跳ね飛ばしていたからです。

 男は、空を見上げて、空高く飛んでいる精霊たちに懇願しました。

『頼む。この子を何とかしてくれ。私のせいで死んでしまうかもしれない。だから、どうか、私の自分勝手な過ちを許してくれないか。君たちを傷つけるつもりはなかった。

 どうしても、ウエストエンドに行きたかっただけなんだ。君たちと一緒ならきっと道が見つかるなどと思って、馬鹿なことをした愚かな私を、どうか許してくれ。この子には、罪はないはずだ。すべて私の罪だ。君たちにしたことも、この子にしたことも、生涯をかけて償おう』

 女の子の頭上のはるか高いところで渦を巻いて飛んでいた精霊たちは、男の言葉を聞き終えると、何かひそひそ話を始めてから、一斉にどこかへ消えてしまいました。男は、『許してなどくれるはずはないのだ、浅はかな欲と見栄と自尊心のために、関係のない子を死なせてしまった』と、後悔してもしきれない思いで、女の子を抱え呆然としていたのですが、しばらくすると精霊たちが、列になって戻ってきました。

 精霊たちは一列になって、草の茎を運んでいました。そして、男の腕の中で後ろにがくりと落ちていた少女の頭のところまで飛んできて、その長い草の茎を女の子の口に入れ始めました。女の子の少し開いた口の唇の端には紫色の蝶がすっとやってきて止まり、その触覚で、《もうちょっと右、少し左》と、指図をしているように見えます。そうやっているうちに、その長い茎は少しずつ、女の子の喉の奥へと入っていき、その上に黄色いテントウムシたちが枯葉で作ったじょうろのような形のものを運んできました。

 男は、呆気にとられてその様子を見ていたのですが、茎を無事に女の子の喉の奥に入れ終わった精霊たちは、今度は男の腰にぶら下がった水筒と胸ポケットをつつき始めました。男は、ああ。と小さな声を上げ慌てて水筒の水をその枯葉のじょうろに少し入れました。更に胸ポケットに入れていた、東の国に伝わる妙薬も少しその中に混ぜたのです。精霊たちは、輪になってじっと女の子の顔の上をくるくると回って離れません。男は、祈るような気持ちで、水と薬を枯葉のじょうろに少しずつ入れていきます。けれど、二度、小さな枯葉のじょうろが空になっても、女の子は、ピクリとも動きませんでした。

 腕の中でぐったりした女の子の顔を見つめながら、やはりもう駄目かと諦めかけた時、色の異なる七色の蝶がひらひらと大挙して押し寄せ、一斉に男の目の前で輪になって繋がり始めました。七色の蝶たちは、それぞれの色ごとに列を作り天高く昇って行き、ピンク色と青い空色の世界の中を横断するように鮮やかな色の大きな虹を作りました。

 呆気にとられ、その様子を男が見つめていると、蝶の虹のはるか向こうに白っぽい光が鋭く細く走ったのが男の目に映りました。その光はジグザグに進んでいるようです。男は、遠くで雷が発生していると思い、女の子を仰向けのまま抱きかかえ、山道を走ろうとしたのですが、背負っていた大きな重い木箱と女の子の両方を抱えては走るどころか、立ち上がることさえ出来ませんでした。男はしばらく考えた後、目の前に見えるピンクのパンパスグラスの株を、手袋をボロボロにしながら力任せに引き抜いて穴を掘り、背負っていた箱をねじ込みました。そうしてその上に土を被せて持っていた網を突き刺し、深い緑色のスカーフを目印に結びました。

 それから男は、木箱を結んでいた紐を女の子に結びなおし、動かない女の子を抱えて走り丘を駆け出しました。すると、男の腕の中で揺れていた女の子は、口に入れていた枯葉が落ちた途端に、ゲホゲホと咳き込みながら目を覚ましたのです。長い草を喉から吐き出そうと、辛そうな咳を何度も繰り返している息を吹き返した女の子に男は驚き、立ち止まりました。命が助かったことに心から安堵し、女の子を背中から降ろして胸に抱えました。男が膝をついて、女の子の顔を覗き込むと、青い瞳が、空を見つめていました。

「大丈夫かい?」

 男が聞くと、女の子は空を見上げたまま、何か短い言葉を発しました。

「え?」

 男は聞き返したのですが、女の子は、少し微笑んだような顔をした後、再び気を失いました。男は大急ぎで女の子を担いで丘を下り、木にくくり付けていた馬のロープをほどくと、背負っていた女の子を胸の前に抱えなおして馬に乗り、いくつかの村を抜け、船で海のような大きさの川を超えて、そうしてその日のうちに東の果ての国イーストエンドへと渡りました。実は、ウエストエンドでは東の果ての国イーストエンドと呼ばれていた一帯は、グリーングラスという名前の超大国でした。その後、男はその女の子が健康を取り戻すまで、懸命に介抱を続け、言葉が伝わらない女の子に文字や言葉を教えました。そうしてその数年後には、男は成長したその女の子にプロポーズし、結婚することになりました。

 ……と、ここまでが、少し前の昔のお話。ああ、もうこんな時間。百年前の戦いのお話は、また別の日にね」

 ママは微笑んだ。ハンナがこれまで聞いたことのあった昔話の終わりは、必ず、

《こうして、みんな末永く幸せに暮らしましたとさ》

 という文章で、締めくくられていたが、最後まで、ママの口からその文章が出てくることは無かった。

「ママ、あの、その女の子って……」

「そうね、ハンナが思っている通りよ」

「じゃあ、わたし……」

 ママは、ハンナの目を覗き込むように見つめた。

「あなたは、ウエストエンドの預言者の血と、グリーングラスの王家の血を受け継いだの。そんなあなたを、この国の精霊たちが受け入れ、その指輪を与えてくれた。もう、国々を旅するのはやめましょう。ハンナ、可哀そうだけれど、その耳を、ここの人に見せるのは《経験者》になってからのほうがいいかもね」

 ママは立ち上がり、暖炉の上にあった小さな写真を手に取った。

「もう少し、大人になってから話そうと思っていたのだけれど。今のお話の大半は、ママがパパから聞いたお話。パパの顔、見たことなかったわよね」

 そう言って、ママがハンナの目の前に差し出した写真には、肩に幾つもの勲章を付けた。長いローブを肩からかけた体格のいい男性が、赤ちゃんを抱いた若い女性と一緒に写っていた。若い女性の顔は、明らかにママだった。その写真に写っているママは、今よりもかなり若くふっくらとしていて、異国の綺麗な緑色のドレスを身にまとっている。ふたりとも、いや、三人とも、何の悩みもないような顔をしていて、とても幸せそうな笑顔だ。

「これが、ハンナよ」

 ママが指さした赤ちゃんは、ママが、パパと呼んだ男性を見つめ腕を伸ばして笑っている。男性の顔は、ハンナに似ていた。いや実際は、ハンナがパパと呼ばれた男性に似ているのだ。男性もママもハンナを見つめて笑っている、自然な姿の写真だった。

 その赤ちゃんの耳の形を見て、ハンナは驚き、動きを止めた。自分がそこに映っているのだから、当たり前なのだが、自分の一番のコンプレックスである耳、いつも髪の毛で隠しているその耳の形は、赤ちゃんの頃からずっとその形だったのだ。そして、写真に写っている男性も、また同じ形の耳をしていた。耳の上部だけが、少し前に垂れ下がっている。

 ハンナの耳は、ママや友達が誰も聞くことのできない遥か彼方の音まで聞くことができた。その時だけ、この耳の上部は、必ず立ち上がる。ずっと立ち上がっていれば、妖精やニンフたちのようにかっこいいのに、失敗作の変な耳だとハンナは思っている。この耳の形は、自分以外見たことが無かった。この国に来てから、ハンナはそれを気にしてずっと耳を長い髪や帽子で隠している。

 ママは、動かないで固まったまま写真を見つめているハンナの手から写真を取り上げて、暖炉の上に戻し、ポットとティーカップをトレーに置いた。ハンナは、ママに続いて立ち上がりながら、何かが心の中で引っかかっていることに気が付いた。

 グリーングラス? この国の……敵?

 ママは、もう部屋を出ていて、鍵をかけようとしている。ハンナは慌てて部屋の外に出て、部屋に鍵をかけているママの背中を後ろから見つめた。

 お話の中の精霊の谷は、きっと、今も山の中にあると言われている所だ。そこに行った人には今まで会ったことが無い。ママとパパはそこで出会ったのかな。北には行ってはいけないって、パトラは言っていた。もっとお話聞きたかったな。もう、目が開けていられない……。

 その時、ハンナの身体は、幼いハンナの身体から分離したようにハンナには思えた。まるで自分が二人いるようだった。

 身体が分離し終わったとき、目の前に見えたものは、見慣れた自分の寝室の天井だった。

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