第12章 ウエストエンドの宝

 花の谷フラワーバレーの春の朝、夜明けの時間は、ライラが思っていたよりもずっと早かった。西の国と違って、日の出の時間が早く、とても寒い。それでも、腕をあげられないほどに服を着込んで店にやって来ていた身体は、パンを作り出して三十分もすれば、汗をかくくらいになり、一時間後にはライラは半袖ブラウス一枚になっていた。

「このオーブン、凄いわ。こんなものを簡単に作る国と戦って、勝てるわけがないのよ」

 ライラはグリーングラスの国旗のマークの付いたオーブンを睨んでからそう呟き、お腹にたまったうっぷんを晴らすかのようにパン生地を作業台に力強くたたきつけた。パンをこねる音が聞こえる厨房にはライラしかいなかった。店長兼オーナーのトリーゴは、一昨日おとといのテストでライラが作ったパンを味見して、大きく頷き、まだまだだけどオッケーだなと言った。

 週三日、ライラはここで働かせてもらえる約束を取り付けた。故郷で使っていたオーブンと違って、ここの近代的なオーブンは、発酵時間を自動で判別し、ライラの想像以上の火力で、パンを焦がすことなくあっという間に香ばしく焼き上げていく。トリーゴは、焼き時間とオーブンの使い方、この店で売れているパンについてだけをライラに説明して、後は気候変動に応じて小麦粉やミルクの量を調整するようにと言い残し、まだ仕事の初日からいきなりライラひとりだけにして出勤しなくなっていた。調理台の上には、作るべきパンのリストがずらりと並べてある。

 ある程度は確認していたのだが、相変わらず汚いその文字は読むだけでも一苦労だった。文字を読むことをすっかり諦めたライラは、おおよその勘で、覚えているパンを数種類作りあげた。一昨日焼き上げたパンの大部分が、オーブンを使いこなせなかったせいで、硬さが今一つだった。トリーゴは、致命的な失敗が無けりゃいいよと全く手を貸してくれなかったので、ライラは、自分が作っているものが正解なのかどうかさえ分からなかったのだ。

 うまくできなかったもう一つの理由が別にあった。ライラは、あの日危うくテストに遅刻するところだった。テストだと分かっておらず、働くのだと思っていたライラは、オーブンの使い方もろくに教えてもらえず、いきなりパンを作るよう言われた。それは、先週末、新聞で大騒ぎになった事件があった日だ。その出来事を思い返しながら、ライラはふと時計に目をやった。もうすぐ六時だ。

 このパンが全部売り切れたらいいのだけれど。

 パンを作っている間は、集中しなければいけないとライラは首を振った。六時五分前になる頃には、下ごしらえをした終えたすべてのパンが焼きあがり、ライラはそれを並べると、厨房に戻ってまた一枚ずつ服を体に重ねだした。

「ごめんね。遅くなっちゃって。すっごい、完璧ね、ライラ。一体何時に来たの?」

 元気な声で、アミが外の扉の鍵を開けて入って来た。厨房まで入って来たアミにライラは紙を差し出した。

「三時半。だから、だいたい四時。あの、これ、読めない……」

 トリーゴの書いたメモを見て、アミはやれやれという顔をして、右手を顔の前でひらひらさせた。

「いいって、あいつ、勝手に理想を描いてんのよ。あたしはね。そのうち、ライラの考えたパンが食べたいなって思ってるの。なんて言うか……新作ってやつ? マンネリ化しててお客も減ってたしさ」

 ライラは、それを聞いてほっとした笑顔になった。

「では、帰る。おつかれ」

「それも言うなら、『それではお先に失礼します。お疲れ様でした』だね。トリーゴの真似してると、ろくなことになんないよ」

 アミは笑いながら木の椅子を厨房の真ん中に二つ並べて置き、それからライラに手招きした。

「ねぇ、店を開けるまで、まだ一時間もあるんだからさ、一緒に朝ご飯しよう。沢山作って来たんだ。お野菜のスープだけど好きかな?」

「お金、ない」

「やだ、もう。お金なんか取んないわよ」

 アミは手早くカップと小皿を並べた後、店からいくつかパンを持ってきてトレーに並べて、いたずらっぽい笑顔を見せライラに聞いた。

「さ、どのパンを召し上がります?」

 ライラは、レーズンとクルミがたっぷり入った全粒粉のパンを指さした。

「オッケー。じゃあ、カットしよ」

 アミができたばかりのパンを均等にスライスしていく。外はカリッとしているのに、中はまだ出来立てとあってふわふわだ。

「上出来、上出来!」

 アミの嬉しそうな笑顔を見ていると、ライラは自分にもそんな笑顔の時期があったことを思い出し、もう一度未来を見られるかもしれないという淡い期待を持ってしまいそうになった。

「はい。どうぞ。で、この残った半分は、ライラの特別手当ね。寒い中ありがとう」

「ありがとう、アミ」

 ライラは、まだ湯気の立っているパンを受け取り、スライスしたパンを口に含んだ。懐かしい故郷の味にこの前よりはかなり近づいてきた。

「うわっ。これ、すんごい美味しいわ。うちの奴の作ったやつよりいいかも。あ、これオフレコね。オフレコってわかる? 誰にも言わないでねってこと」

「オフレコ」

 ライラが、そう言うとアミは笑顔で頷いて、唇の前で人差し指だけを立ててあてた。

「そう、オフレコ。それにしても、ライラのパンって世界一かも。まだ二回目なのにこの出来でしょう。末恐ろしいわね。独立して店でもオープンされたら最強のライバル店になっちゃうわ」

 ライラは、パン屋さんになっている自分の姿を思い描き、幸せな気持ちが広がっていくのを感じた。アミの持って来たスープもとても美味しく、ふたりは、美味しいを互いに連呼しながら、大きなパンの半分をふたりで食べきった。空腹が満たされた二人は、口数が減り、まったりとした時間が店の中に流れていた。

「ああ、お腹いっぱいだと眠くなっちゃうわね。ね、コーヒー飲む? 目、覚めるよ」

 ライラは、コーヒーという単語に反応して、首を左右に振り、明らかな嫌悪感を顔いっぱいに表して見せた。

「え? コーヒー嫌い?」

「苦い」

「まあね。でもそれが良いんだけどさ。ミルクと砂糖入れてみたら? カフェオレならいけるんじゃない? 胃にもちょっとは優しいし」

「カフェオレ……」

 ライラは、土曜に訪れたカフェのメニューの真ん中あたりに書かれていた、千五百グランドルという文字を思い出した。

「お金、ない」

「もう、ライラ、あんたいい加減にしてよ。お金取らないってば! なんでそんな人を信用しなくなっちゃってんの? こっちは雇い主だよ。それにね、カフェで飲むのと違って、家でならそんなにお金かかんないわよ。それと、今後『お金、ない』って言うのは禁止。それ言ってると、ずっとお金に嫌われるって、うちのばあちゃんが言ってたもん」

 アミは、少し気分を害したという顔で、持ってきていたポットを開けて、蓋部分のカップに黒い液体を注いで、香りを嗅ぎ口に含んだ。

「うん。おっけ。今日のもうまく淹れてある。ライラには、あまあまちびっこアレンジ」

 アミは厨房にあった大きなカフェオレボウルにコーヒーを注ぎ、その上からパンに使うミルクと砂糖をこれでもかという程入れ、マドラーでぐるぐるとかきまぜてからライラに手渡した。どうやら、アミは黒い液体のまま飲みたいようだった。

「あたしは、ブラック派なのよね。あ、砂糖もミルクも入れないってこと。本当は、その方が、断然コーヒーの味の違いやおいしさが分かるんだけど」

 ライラは、あまり気が進まなかったのだが、黒い液体が、柔らかなベージュ色に変化していることに少し安心して、それにゆっくり口を付けた。一口だけ飲んで、ライラは驚愕した。この前飲んだ千グランドルの飲み物とは別物だった。甘いものとミルクが好きなライラは、驚いた顔のまま、またカップに口を付けた。甘いミルクの香りが口に広がり、最後にほんのりと苦みが残る。強い香りは変わらずあるのだけれど、味は完璧にライラの好みだった。

「ちょっと固くなったパンにつけると、美味しいよ」

 そう言うとアミは、お弁当にと持ってきていた固くなったパンをちぎってライラに手渡した。言われるがまま、カフェオレにパンを付けると、ベージュの液体がパンに開いた気泡にするすると吸い込まれて少ししんなりする。それを口に放り込むと、ケーキのような柔らかな食感と甘い味がして、ライラはすっかりカフェオレにはまってしまった。

「ふふ。その顔は、気に入ったって感じね。よかった。でもこのカチカチパンは、あたしのランチだから、家に帰ってから古くなったパンで試してね」

 ライラは、笑顔で頷いた。ライラはすっかりコーヒーのとりこになった。アミが教えてくれた方法でコーヒーを淹れるためには、ライラはもう少し働いてコーヒー豆と道具を買うお金を貯める必要があるらしい。

 自分はいつまで、この村に居られるのだろう。全てが終わった後、私は何をするのだろう。

 いつか自分でコーヒーを淹れて飲むことが、ささやかな夢となったライラには、その前に終えねばならない大きな仕事があった。

 甘いものを口に入れてすっかり幸せ気分のライラとアミが、一昨日おとといの事件の話をし始めた頃には、店の外が賑やかになっていた。厨房から店の方を覗くと、お客さんが店の外に列を作っているのが見えた。

「え? え? どういうこと? こんなこと、いままでなかったんだけど」

 そう言うと、アミは、大急ぎでエプロンを付けて店へ向かった。

「ライラ、ありがとう。朝早かっただろうから、しっかり睡眠とってね。じゃ、また明日。お疲れさま」

「おつかれさま……でした」

 七時にはまだ十分ほどあったのだが、アミは店を開けた、外に列を作っていた十名ほどが、雪崩のように店内に入ってきた。

「アミ、今日、どうしたの? 朝の六時前から、すんごいいい香りで起こされたわよ」

「そうそう、これまで七時前まで匂いしなかったからさ、時間間違えたかと思って慌てたよ」

「いや、それは……」

 アミが苦笑いする横で、お客さんたちは、ライラがさっき焼き上げたばかりのパンをあっという間に買って行った。その姿を見ていたライラは、天にも昇るような幸せな気持ちになった。

 自分が作ったものが、こんなにこの村の人達に買われていく。しかも驚くように沢山、ライラには考えられないような金額のパンをだ。パンを手に取る誰もが笑顔だ。ライラは、ゆっくりとお客さんたちの間をすり抜けて、アミと目を合わせ、軽く会釈をしてから店の外に出た。驚いたことに、まだまだ多くの人が、細い路地を通り抜け、パン屋をめがけてやって来ていた。

「やだ。七時前に開いてる!」

「え? じゃ今度はもっと早く来なきゃ。全粒粉パン、残ってるかしら。うち大人数だから」

 ライラと同じくらいの歳に見える二人の女性が、大ぶりのかごを抱えて店に入って行く後姿を目で追った。ライラは自分が誇らしかった。ウエストエンドの小麦粉の扱いなら、誰にも負けないわと、ライラは小さく異国の言葉で呟いた。ユラ様が愛した味だ。最後にもう一度お届けしたかった……。ライラは、上を向いて涙を止め、ゆっくりと決意した顔で広場とは反対の図書館がある方向へと歩き出した。

 図書館の前を通り過ぎ、道なりにまっすぐゆっくりと五分ほど進むと、沢山の木と生垣に囲まれた小さなコテージが見えてきた。朝の光がコテージを照らしている。ライラは、この村に来てからまだ三日だったが、何度もこの家の周りを偵察していた。

 ここにユラ神の末裔が暮らしていることを知ったのは、この村に来たばかりの日だった。あのボバリー家の事件があった日だ。ライラは、自分の復讐が後押しされているような気がして、この家の娘を見た時には鳥肌が立った。

 先週の土曜、偶然見かけた娘の後をつけ、大きな屋敷へと向かった。その時のライラに確信はなかった、が、その娘の持っていた花束から匂い立つライラックの香りが、十年の記憶をさかのぼらせ、直感的に娘の後を追わせたのだ。


 その娘が入って行った屋敷は、見たこともない位に大きな屋敷だった。一人息子の誕生会があるとかで玄関では多くの人々が荷物を抱えて並んでいた。ライラは、屋敷の向かいの街路樹に身を潜めてしばらく様子を伺った後、術でその姿を消し、塀に沿って止めてあった馬車の屋根に飛び乗り、それから塀の上から屋敷の中を覗いていた。十年近くユラ神に仕えて厳しい修行をしていたライラは、いくつかの能力を身に着けていたし、何かを嗅ぎつける嗅覚はやはりユラ神の血を継ぐものだった。

 あの娘が再び屋敷から出てきて、門を出たころ、塀の脇の太い木の枝には、別の女の子がよじ登ってきていた。その女の子は、走り去る娘を木の上から見下ろし、薄笑いを浮かべた後、手に持っていたものを空に飛ばしていた。ライラは、木から下りていくその女の子の姿を見て、この家の異様さをすぐに感じ取った。術を使って姿を消し塀の上にいるライラの姿は、木をつたって降りていく女の子にはもちろん見えてはいない。嫉妬と憎悪、それが何層にもなって、木から降りていく女の子の周りで渦を巻いていた。

 屋敷の門を出たところで娘が老婆に話しかけたのが見えた。ライラには、その老婆が精霊使いだと一目で分かった。未来を見る力は無くても、ライラは、どんなに小さな精霊も見逃しはしなかった。老婆の周りには、虫たちと精霊たちが飛んでいたのだ。娘の目にはそれは見えていないようだった。怯えたように弱々しくふらふらと走り去ってゆく娘には、さっき見た女の子の妖気が移り、重くのしかかっていた。

 老婆が屋敷に入る前、小さな子供が屋敷から飛び出してきた影が見え、それから間もなく、乾いた音が、屋敷の中で何度も響いた。娘を追いかけようと思っていたライラは、その銃声のような音に動きを止めた。老婆と小さな子が小屋のようなところへ入った後は、暗闇の中、玄関ドアに殺到する人々で屋敷は大混乱に陥り、人の上に積み重なって人が倒れていく光景をライラは見ることになった。怖くなったライラは、娘の後を追って元来た道を全速力で追いかけた。

 あの屋敷は何かが変だ。そして、この村には、何かが起こり始めている。

 ライラはあっという間に、力なくふらふらと走る娘に追いついた。そしてついにこのコテージへとたどり着いたのだ。

 あの夜、コテージの周りには、風の精霊たちが心配そうに中の様子を覗いているのが見えていた。あの夜以来、この家の周り以外には精霊が見当たらなくなった。おそらくどこかに匿われているのだろう。

 ライラはあの夜、このコテージの前で、迷うことなく全ての精霊が眠りにつく呪文を唱えた。四枚の羽根を広げて不安そうに飛んでいた見張り役の精霊たちは、ふわふわと力なく花壇の花の葉の上に横になった。風がぴたりと止んだことを確認してから、ライラは姿を消したままでゆっくりとドアに近づいた。十数年も執念で追いかけてきたユラ神の末裔の姿を見たライラは、愕然となった。

 その姿はやせ細り、かつてのような美貌はどこにもなく、輝いていたブルーの髪もすっかり白くなり、その輝きはすっかり失われていた。十年以上の辛い逃亡の日々が、自分の従妹の姿をここまで変えてしまったのかとライラは言葉を失った。自分は恨みの中で術を身に着け、体力をつけ、痩せ細るどころか。全身に筋肉が立派についていた。自分よりも幸せになっているはずで、憎むべきはずの従妹の姿は、気の毒なほどげっそりとやせ細っていた。その足は、長いスカートでふくらはぎしか見えてはいないが、おそらくほとんど毎日家に引きこもっているような者の足だった。そして、それは祖国で最後に見たユラ神の姿にそっくりだった。

「ライラ、あの可哀そうな子を、ミチコをどうか守っておくれ。お前にしか頼めない」

 それが、ユラ神の最後の言葉だった。ライラには到底理解することのできなかった言葉だったが、今目の前にしたその姿は、《可哀そう》という表現がぴったりに見えた。その輝きは、今、この娘の方へと移っているのかもしれなかった。

 ユラ神は、子孫が覚醒すると数年でその命を全うする。どこに逃れようと、それからは逃れられないのだとライラは思った。ライラは、コテージの前で娘が話す内容をドアの外で聞き耳を立てて聞き、その娘がハンナと呼ばれていることを知った。ユラ神の末裔ミチコが、ハンナという娘の妖気を術で払っているのが、ライラには分かった。

 あの術は、あの女がウエストエンドに来た時にユラ神様が授けたものだ。あの裏切り者は、それを人々にではなく自分たちのためにだけ使っている。そもそもユラ神の素質のない者が、なぜ後継者になれるんだ。なぜ、私がユラ神になれないんだ。

 ライラが再びその怒りに包まれたとき、ふと、ミチコが窓の外を見つめたので、ライラは焦った。感情は、妖力を弱める最大の要因だ。コントロールしなければ、復讐は果たせない。

 湧き上がる怒りの炎をコントロールしようと、ライラは深く息を吸ってそれから大きく吐いた。ハンナが二階へ連れて行かれるのを見届けると、ライラは、コテージを離れ、大きく息を吸った。一日中歩き回っていた身体は、相当疲弊している。何せ、今日この村に着いたばかりなのだ。そして、ライラはトリーゴとの七時半の約束を思い出した。

 もっと情報がいる。態勢を整えてからだ。確実に復讐をやり遂げるために……。

 ライラは図書館の前まで来ると姿を現し、紙袋に入れていたパンに手を伸ばした。もう一度、あんな幸せな日が来ることがあるのだろうかと、ライラは、右の口角だけをあげて自嘲するように微笑み、来た道を引き換えした。


 次の日は、村は事件の話で大騒ぎだった。パン屋のテストに合格し、オーナーの好意でそのままそこに泊めてもらったライラは、目覚めるとすぐ、急いで裏切り者が住むコテージへ向かい,

様子を伺った。が、もうそこには精霊たちはいなかった。ライラは安心して中の様子に聞き耳を立てていたのだが、ミチコはずっとあの娘の横に付き添っているようだった。昼過ぎにミチコが色鮮やかなステンドグラスの部屋に入ったことを感じ取ると、後は何も感じなくなった。

 こんな小さな部屋に結界が貼られている。いったい何のために?

 ライラには、ひとつ思い当たることがあった。あの裏切り者がウエストエンドを離れてから、一族が大切にしていた、未来と過去の水晶が消えていたのだ。きっとこの結界の張られたステンドグラスの部屋のどこかに、あの水晶は隠されているに違いなかった。

 ステンドグラスの窓の真下まで来ると、ライラはあることに気が付いた。そのステンドグラスは、七色の蝶が妖術で繋がっていて、ひときわ強い結界を張らされているのだ。ライラは考えた。自分が使える最も効果的な妖術は何なのか。

 まずは、あの老婆の力を抑え込まなければ。

 そうしてその日のうちに、ライラは精霊使いの老婆が住むという南の島へ飛んだ。パン屋のアミは疑うことも無く、その場所を教えてくれた。予想通り、もう日が暮れかけているのにパトラという老婆の家の外には新聞記者たちがうろうろしていた。ここにも精霊の姿は見られない。

 老婆は家から出ることもできない様子だったが、家からは美味しそうなスープの香りがしていて、その香りでそこにミチコがやって来ていたであろうことは明らかだった。

 何も情報を得ることのできなかった新聞記者たちは、『あれほどのけが人を出しておきながら、指輪の儀式をしたのか』と、家の外から声をあげて叫んでいた。この老婆は、怪我人を見捨てて何事もなかったかのように指輪贈呈式を行い、レオに豪華な指輪を授けていると新聞に書き立てられている。誰かを、何かを、とにかく批判しなくては気が済まないのだろう。

 ライラは、祖国での最期の日々を思い出した。ユラ神様は、人々がユラ神を煙たがるようになってからは、すっかり家に引きこもるようになり、それからは自分だけを頼ってくれた。

 従妹であるユラ神の末裔ミチコは、ことごとく家事が出来なかった。あの従妹が国に戻って来たわずか二週間の間に、ユラ神様は出来る限りのことを教えたいと言い、家のことは全てライラを見習ってできる限り覚えるようにと、ミチコに言った。

 ユラ神としての教えについては、ライラが家に帰った後、ふたりだけになってから奥の部屋で教えていたようで、最期の最期になってもライラは、ユラ神の教えを直接伝えてもらうことが出来なかった。その悔しさが憎悪と嫉妬に変わっていった。けれども、ライラがどんなにミチコにつらく当たっても、ミチコは全く弱音を吐かなかった。料理の腕は、瞬く間に上がり、特にユラ神の大好物だったスープはライラが作るものと変わらない出来栄えになっていった。

 そのスープの香りが、今、辺りに漂っているのだ。この香りが過去へと自分を引き戻し、怒りの炎を増幅させてゆく。 

 十数年前の満月の夜、ユラ神の家にミチコが突然戻って来て、それから二週間後の新月の夜、国を守るユラ神の末裔であるはずの女は突然逃げた。翌朝早く、ライラはユラ神の家でその事実を知り、修行に耐えられず逃げ出したのかと思い、腹の中でせせら笑っていた。が、その日のうちに、ユラ神様は東の果ての国グリーングラスの軍人に連れて行かれた。結界が破られたのだ。ライラもまた、訳も分からず何日も独房に入れられた。何故結界が破られたのか、思い当たる節はひとつしかなかった。

 牢から解放された時には、ウエストエンドはグリーングラスの属国になっていた。ライラの家族も、一族全てが家も畑も失い国を追われた。ライラの父は、遠く離れた国で農夫として雇われ、ささやかな暮らしで満足することをライラに願ったが、ライラには復讐の炎を消し去ることなど決してできなかった。

 自分の娘と孫だけを無事に逃がし、兄弟、身内に何の相談もなく国を売ったユラ神に対して、失望と怒りの心が消えなかった。どうして自分たちを助けてくれなかったのかと責める心を持ち続けた。どんなにひどい目にあっても、ライラは国から逃げることは無かった。住む家はなくなったが、精霊の森の中で暮らし、ユラ神へ罵詈雑言を浴びせるまではと耐え忍び、その帰りを待ち続けた。けれど、ひと月後、あっけなくユラ神様は帰らぬ人となった。

 あの従妹は、一体何をしに戻って来たのだ。国を滅ぼしただけではないか。そうだユラ神様の予言の通りだ……。呪われた子を連れ、国を滅ぼしにやって来た。そして多くの術を身につけると、ユラ神の命ともいえる宝を奪って逃げた。ユラ神は、それを判っていてあの娘を国に入れたのか? 

 陽がすっかり落ち、漂う美味しい香りに耐え切れなくなってきた新聞記者たちは、ぞろぞろと帰り始めた。

 ミチコはさっきコテージに戻って来ていた。ここには今、あの老婆ひとりきりのはずだ。

 ライラは、煮えくり返るはらわたをどうにか抑えながら、姿を消したままで、パトラの家の呼び鈴を静かに押した。この怒りの炎が、過去の記憶まで全て焼き尽くしてくれればいいのに。と、思いながら。

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