第19章 マシュマロのステンドグラス

 窓に大きく何かが当たる音がした。最初数えるほどだった音は、少しずつ増え始めて大きな音になり、今度は風が窓を揺らし始めた。あっという間に部屋の中は薄暗くなっていった。

「雨だね。今は出かけるなってことだ」

 パトラは、ゆっくりとポットに手を伸ばして、カップにお茶を注いだ。上体を起こしていた小さな子は、音のする方向、窓の外を振り返ってじっと見つめている。その視線の先にはカラフルなステンドグラスに当たる雨粒が、色絵筆で殴り書きしたように斜めに筋を付けているのが見えていた。

「雨……これは、雨。赤、青、緑、黄色……」

 小さな子は、窓を端から端まで見ながら、輝くような眼差しで小さく呟いた。何も言わず立ち上がり部屋から出ていったハンナのママは、ほどなく湯気の立つマグカップをふたつとキャンドルをトレーに乗せて部屋に戻ってきた。その間もずっと、小さな子は、うっとりとした表情でじっと窓を見つめている。

 ハンナは、男の子が見つめる先と、男の子の表情を交互に見つめ、さっきパトラが言った『その子は、あんたと同じだ』という言葉の意味を僅かだが理解し始めていた。斜めにガラスに打ち付けられた雨は、幾つもの筋となり、窓の表面を迷路にはまったようにゆらゆらと下へと落ちてゆく。雨が作り出す模様は、自然が描いた不思議な地図のようだ。

「ねぇ。それ、雨じゃなくて窓ガラスの色だよ」

 ハンナが声を出すと、小さな子、本物のレオは驚いた顔でハンナの方に向き直ってから、何を言っているかわからないという顔でハンナを見つめた。

「まど……って、なあに? ガラスは見たことあるよ。ガラスにも色があるの?」

 ハンナのママは、男の子の横まで来ると、湯気の立つマグカップのひとつをレオに渡し、もう一つのカップをハンナの前のテーブルに置いた。それからママは、レオの肩を抱きよせながらベンチに浅く腰を掛け、柔らかく微笑みレオの顔を覗き込んだ。

「窓っていうのはね、お外が少し見えて、お外に出にくい所にあるのよ。私が、今入って来たところからは、お外に出やすいでしょう? あれはね、ドアっていうの」

「大きいのがドアで、小さいのが窓? じゃあ、ドアは大人で、窓は子供?」

「ちょっと違うかな。窓にも大きい窓と小さい窓があるから」

「窓にも大人と子供があるの? ドアにもある?」

「ふふふ。大きいものが、大人だって、誰に教えてもらったの?」

「レオが教えてくれたんだよ! それでね、僕もレオっていうの。僕は小さいレオ」

「そう。じゃあ、もう一人のほうの大きいレオ君は、言い忘れたのね。大きい子供だって、小さい大人だっているのよ」

 男の子は、驚いた、信じられないという顔で目を丸くしてママを見つめている。

「ほんとに? ぼくは、小さいけど、どっち?」

「そうね、もう少ししたら、大人になる子供よ」

「もう少ししたら、大人になれるの?」

 男の子の目は、キャンドルの灯りを反射してキラキラ輝いて見えた。何かを知ることが、嬉しくてたまらないという顔をしている。ハンナは、悪意がまったく無い様子で質問をする小さな子を見つめていた。今自分がどんな気持ちなのかが自分でも分からなかった。様々な感情が心と頭で混ざり合っていた。

 パトラは、相変わらず片手にティーカップを持ってお茶を啜り、頷きながら二人の話を聞いていて、その顔はさっきまでの表情とはうって変わって、静かな笑顔だった。

「ねぇ、あなたはだあれ? 名前ある?」

「ミチコと言います。それで、こっちが、ハンナ。私はね、ハンナのママよ。パトラばあ様は、知ってるよね」

「うん。あのね。僕ね。パトラばあ様にね、この前、この指輪とお名前を貰ったんだよ!」

 本物のレオは、右手を差し出して満面の笑みを見せた。

「ねぇ、ハンナは男の子?」

 ムッとしたハンナは立ち上がり、きつめの口調で声を荒げた。

「どこが、男の子に見えるって? 失礼しちゃう。女の子に決まってるでしょ。お・ん・な・の・こ!」

 小さな子は、ハンナの剣幕に少し怯えたような様子でブランケットを握りしめて小さく肩をすくめた。けれど、その目は、じっとハンナを見つめている。

「何よ。女の子に見えないっていうの?」

「僕、女の子、初めて見たの。だから……」

「さ、おしゃべりは、後でたくさんできるから、これ、飲みましょうか。美味しいよ」

「美味しい? ほんと?」

 レオの顔は、ぱっと輝いた。両手でカップを握り、じっとカップの中を見つめている。

「ホットチョコレートよ。マシュマロは好きかしら? 熱いから、ふうふうってしてね」

 ママがそう言うと、レオはきょとんとした顔をした。小さなレオが、そのままカップの縁に口を付けようとしたレオを見たハンナは、いてもたってもいられず席を離れ、レオの隣に腰かけた。

 並んで座るにはベンチは少し手狭だったが、レオは誰かが自分に触れる度に、嬉しそうなキラキラの瞳を向けてそちらの方を見つめた。ハンナは、小さなレオに可愛い顔で見つめられ、一瞬どきりとした。それは、これまでに感じたことのない感情だった。

「あのね、こうやるの」

 そう言うとハンナは、ふうと、薄くミルクの膜が張り始めたホットチョコレートの表面に風を立てた。カップの中で小さな輪が波打ち、マシュマロが踊るようにゆらゆらと揺れた姿を見て、レオは「わあ!」と声をあげた。レオはハンナの真似をしようとしたのだが、息を吹く加減が分からず強く息を吹きかけすぎた。液体がカップの中で大きく波打った。

 火傷の心配をして慌てたママが声をあげ、ハンナが「危ない!」と叫んだせいで、レオは小さく肩をあげて縮こまり、眉の端を下げ、怖いのか苦しいのか判らないという表情をした。その瞳にはたっぷりと涙が溢れて潤んでいる。

 茶色の液体が床に数滴飛び散って、小さな水玉模様を作ったのを見て、パトラはおやまあと言いながら、指をくるくる回し始めた。

「レオ、そういう気持ちをね、《悔しい》とか、《悲しい》っていうんだよ。そういう時は、大きな声を出して泣いていいんだよ。《泣く》って分かるかい? 口をあけでごらん。そこから思うまま出る音をね、身体の外に出しちゃうんだ。そうすると悲しいって気持ちが少しは減るからね。そしてね、目から勝手に出てくるのがね、《涙》っていうんだよ。涙はね、嬉しい時も悲しい時も出てくる身体のお薬だ。ここでは大きな声を出していいから、泣いてごらん。《悲しい》気持ちがね、身体の外へ飛び出して行って、すっきりするよ」

 パトラがそう言い終わると、この世の終わりかのような声が、部屋中に響き渡った。

 小さなレオのカップを支えていたハンナは、その声の大きさに驚きすぎて、大きくカップを揺らした。反動で、少し溶けたマシュマロがチョコレート色の液体と共に跳ね、カップを支えていたハンナの手の甲にまるで生き物のようにちょこんと乗った。うわっというハンナの声に驚いた男の子は、大きく開けていた口を閉じ、手の甲に乗ったマシュマロに涙声で話しかけた。

「君は、だあれ? 名前ある?」

 ハンナは、たまらずぷっと噴き出した。それを見て、ハンナのママも優しく笑った。レオは、自分にぴったりとくっついて座っている左右の二人が、笑っている顔を見て、左右を交互に見ながら、ようやく一緒になって笑顔を見せた。ハンナのママは、レオの頬につたっていた涙のあとを指で優しくぬぐってあげた。

「これはねぇ、マシュマロっいうのよ。食べ物」

「マシュマロ……」

 レオは、ハンナの手の甲に乗ったままのマシュマロをじっと見つめている。ハンナは頷くと、手の甲に乗っているマシュマロを吸い上げるようにすっと自分の口に入れた。小さな子は、そのハンナの動きを変わらずじっと注意深く見つめている。ハンナは、今度は自分のカップの中に浮いているマシュマロをひとつすくった。

「ひとつもらったから、ひとつお返しね。はい、あーんして」

 意味が分からずレオはきょとんとしていたが、ハンナが大きく口を開ける様子を見せたので、それに倣ってレオは口を開けた。ハンナは、スプーンに乗ったマシュマロをレオの口に放り込んでから、今度はもぐもぐと噛むふりをして見せた。レオは、また真似てマシュマロを噛んだ。

 二、三度口を動かした後、レオは、ベンチから突然立ち上がった。驚いた、とは違う、喜びでいっぱいの表情だ。そして、カップの中をじっと見つめながら囁くような小さな声で言った。

「これ……《美味しい》だ。《美味しい》だ」

「変な言葉の使い方だね。いったいどこで習った方言なんだい。『美味しいだ』じゃなくて、それを言うなら『美味しい』」

 パトラが、眉間にしわを寄せながら注意していると、レオは、もう一つマシュマロを口に再びホットチョコレートを啜った。レオは、目を大きく真ん丸に開けて、今度は大きな声で叫んだ。

「美味しい!」

「そう、それはよかった。少し溶けているから、チョコレートとよく合うでしょ」

 ハンナのママは、柔らかい笑みのまま、もう少しマシュマロを持ってくるわねと言い残して部屋を出ていった。

「さっきまで、泣いていたとは思えない喜びようだね。まぁ、悲しい時の甘いものは、美味しいって決まってるんだけどね。甘いものも、心のお薬さ」

 パトラは、相変わらず指をくるくるとまわしている。不審に思ったハンナが床を見ると、足元で雑巾がくるくる回っているのが分かった。パトラが術を使って掃除をしていたようだ。ハンナが驚いた顔で下を向いているのを見て、レオも下を覗き込んだ。それから、無邪気な声で、くるくると回っている雑巾に向かって話しかけた。

「君は、だあれ? 名前ある?」

 ハンナは、また噴き出しかけたのだが、驚いたことに下から声が聞こえてきた。

「雨の使いのトリクルよ」

「もういいよ。ありがとうね。お礼は今度するよ」

 パトラがそう言うと、雑巾はぴたりと動かなくなり、ハンナの鼻先をかすかな光が上って行った。どうやら、雑巾を動かしていたのは精霊のようだった。キャンドルの灯りだけでは暗すぎて、ハンナにはその姿をしっかり見ることは出来なかった。雨を連れてきたのもトリクルという精霊の仕業だろう。もちろん、手引きをしたのはパトラだ。雑巾の動きが止まってからしばらくすると、ステンドグラスから明るい光が差し込み始めた。

「トリクル。ねぇ、どうしたのトリクル」

 レオは、突然動きを止めた雑巾に向かって何度も話しかけたが、何度呼び掛けても微塵も動かなくなった様子を見て、小さなレオはすっかり気落ちした表情になった。

「……トリクル、死んだの?」

 その言葉に、皆が驚いてレオを見つめた。

「死んじゃいないよ。十分働いたから、お休みさせているんだよ。ところで、どこで、その言葉を教わったんだい」

 パトラは、レオを睨みつけているようにも見えた。

「あの、レオが、僕じゃない大きいレオが。動かなくなった時は、そう言うんだって。それにね……」

「それに?」

「うん、えっと。『この子は死んだ。もう動いていない』っていう言葉を何度も夢で聞いたの。パパっていう人の声がそう言ってたの。寝ている時に見るのは夢って言うんだって、大きいレオが教えてくれたよ。だから、僕、動かないのは死んでるんだと思ってた」

「ちょっと、また違うね。動けなくても生きてるものは世の中にたくさんあるし、生きて動いていても死んでいるようなことってのもあるからね」

 パトラは無表情でそう言っていたが、その手が怒りに震えていることは、ハンナにもママにも判っていた。こんな小さな子が、そんな言葉を、何度も夢で聞くという事が何を意味するのか。それは想像するのも恐ろしいことだった。ママは、悲しげな顔をして、もう少しおやつを持って来ましょうねと部屋から出ていった。

「ふうん……」

 何か言いたそうな顔で雑巾を見つめるレオを見ながら、ハンナは、この子はまさに死んだように生かされているのだと思った。首をかしげてパトラの話を不思議そうに聞いている可愛らしい顔のレオ。ハンナは、ついさっきまで渦巻いていた憎しみや、言いようのない悲しみが、すうっと心の中から引いていくのを感じていた。

「ねぇ、雨の色が変わったね」

 ハンナは、また後ろを振り返って窓を見て呟く小さなレオの頭を撫でながら、言葉を探し始めた。小さな子にものを教えるというのは大変なことなのだ。

「あのね、これは、窓、ステンドグラスっていうの。いくつもの色のガラスを繋げて造るの。えっと、何て言えばいいかな……。小さいものが沢山くっついて、とても大きくなったってこと。雨っていうのはね。そのガラスに当たっていたものだよ。

 色のないガラスは、お外がとっても良く見えるんだ。色が変わったのは雨じゃなくてガラス。それに、本当はガラスの色が変わったんじゃなくて、お空の色が変わったせい。雨はね、お空からやって来るからじっとしていないの」

「お空?」

「そう、お空。明るい時は、青くって、暗くなったら、黒みたいな濃い青色になるんだ。あ、明るいとか、暗いって解るかな。」

「あ、僕、お空知ってるよ。いつも、その、窓っていうのから見てたよ。でも、僕のところの窓はね、色は無かったよ。そしてね、とってもとっても遠くにあるの。《暗い》は、本が読めなくてランプを付ける時の言葉でしょう? それくらい僕だってわかるよ」

「そっか、雨はね、お空に時々やって来る《雲》から落ちてくるんだよ。お空で動いてるの」

「そっかぁ、時々窓に見えてたあれが雨っていうのか……ねぇ、じゃあ、その雲はどこからやって来るの? 動く白いやつでしょう? 時々変な色になるやつだよね。雲は、雨のお家なの?」

 ハンナは、雲がどこから来るか、確かに学校で習ったのだが、どうやって説明したらいいのか判らず考えあぐねていると、レオが突然、妙な言葉を発した。

「ねぇ、この窓は、とても《美味しい》ね!」

「え?」

「だって、飛び上がりたくなるような色だもの。ほら!」

 レオが指さすステンドグラスの窓は、陽の光で色が濃く深く煌めいていた。

「これはね、《美味しい》じゃなくて、《綺麗》って言うんだよ。ずっと見ていられるでしょ。ずっと見ていたいなぁって思う気持ち。それはね、《綺麗》」

「きれい……。ずっと見ていたいは、きれい」

「そう、綺麗」

「ステンドグラスの窓は、きれい」

 そう噛みしめるように何度か呟いて、レオはハンナを見つめて、にっこりと笑った。

「そんな笑顔見せられたら、何も言えなくなっちゃうわね」

 ママが、篭に山盛りのマシュマロを載せて、部屋に戻って来た。色とりどりのマシュマロは、チョコレートドリンクに浮かべたものよりもふた回りは大きなサイズだった。ママは、作りすぎちゃったかしらと言いながら、テーブルの上にマシュマロの篭を置いた。

「うわぁ」

 小さなレオは、感嘆の声を発してからテーブルの上に身体を乗り出して、マシュマロを見つめ、白、ピンク、水色、緑、と確認しながら歌うように言っていたのだが、「青じゃない」と、突然ぴたりと言葉が止まった。どうやら見たことが無い色があったようだ。

「紫」

 パトラがレオに教えた。

「これは、紫。マシュマロのステンドグラス、きれい!」

 レオの言葉に、そこにいた全員が柔らかな笑顔になった。緊張感が緩み、暖かな雰囲気が漂う。その時だった、突然ステンドグラスの窓が粉々に砕けたのだ。砕け散ったパーツは、蝶に姿を変え、部屋の外へ勢いよく飛び立った。強い風が室内に吹き込み始める。パトラは険しい顔で外を睨みつけた。

「とてつもない妖気だ」

「パトラばあ様……」

「子供たちを連れて、二階へ! 早く!」

「ハンナ! こっちへ!」

 ママは、小さな子を抱えると部屋のドアノブを握った。パトラが、ますます怖い形相になり、呪文を唱えながら窓の外へ強い気を放ち続けているのを見ながら、ハンナはママの呼びかけに従って後に続いた。

 ママがドアを開けた瞬間、閃光が走り、猛烈な風が家の中に吹き込み、誰も身動きが取れなくなった。

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