第20章 ホーム スイート ホーム
十数年前、ユラ神の家にミチコが突然戻って来た。そして二週間後の新月の夜、国を守るユラ神の末裔であるはずの女は突然逃げた。翌朝早く、ライラはユラ神の家でその事実を知り、修行に耐えられず逃げ出したのかと思い、腹の中で笑っていた。が、その日のうちに、ユラ神様は
牢から解放された時には、ウエストエンドはグリーングラスの属国になっていた。ライラの一家も、一族全てが家も畑も失い国を追われた。ライラの父は、遠く離れた国で農夫として雇われ、ささやかな暮らしで満足することをライラに願ったが、ライラには復讐の炎を消すことなど決してできなかった。
自分の娘と孫だけを無事に逃がし、兄弟、身内に何の相談もなく国を売ったユラ神に対して、失望と怒りの心が消えなかった。あんなに尽くした自分たちをどうして助けてくれなかったのかと責める心を持ち続けた。どんなにひどい目にあっても、ライラは国から逃げることは無かった。住む家はなくなったが、精霊の森の中で暮らし、ユラ神へ罵詈雑言を浴びせるまではと耐え忍び、その帰りを待ち続けた。けれど、ひと月後、あっけなくユラ神様は帰らぬ人となった。
あの従妹は、一体何をしに戻って来たのだ。国を滅ぼしただけではないか。そうだユラ神様の予言の通りだ……。呪われた子を連れ、国を滅ぼしにやって来た。そして多くの術を身につけると、ユラ神の命ともいえる宝を奪って逃げた。ユラ神は、それを判っていてあの娘を国に入れたのか?
ユラ神の最期の予言は、実は誰にも伝えられることは無かった。それは、グリーングラス軍がやってくる少し前のことだ。ユラ神は、ライラに向かってこう言った。
「遠い精霊の国の《ロゼの丘》という名の場所に、決して触れてはならないものが眠っている。それをグリーングラスに戻せば、私たちの国もまた昔のように戻れるかもしれない。
けれど、ライラ、昔のように戻ることが、良いことなのかどうか、私には判らないし、残念だけれど私はそれを見ることは出来ない。見たいとも思わない。ライラ、あなたは、きっと幸せになれる。人と比べ、人を妬み、人を恨む心を捨てさえすれば」
ライラが、フラワーバレー北方にあるというその場所を目指し歩いていたのは、この国に着いてすぐのことだった。けれど、そこにはどうしてもたどり着けなかった。かつてユラ神が自国にかけた結界と同じものが村の北部に張られているのは明らかだった。
村まで戻り彷徨っていたところでパン屋の夫婦に助けられ、ユラ神の末裔まで見つけられた。この奇跡のような出会いは紛れもなく、十年以上の長い年月を耐え続けた自分に与えられたご褒美だと思った。これが復讐への導きでなくてなんだというのだ。あとはあの娘を処分するだけで良かった。それが、祖国を裏切った女に対する最も効果的な復讐だ。けれどユラ神の予言だけは頭から離れなかった。毎日、コテージの前で怒りをコントロールしながらも、家の中から誰も出て来ないことに安堵もしていた。
今朝、パン屋の前に行列を作る人々を見て、もしかすると自分にも幸せな日々が来るのかもしれないと思ったのは事実だった。けれどこうしてまたこのコテージ前に立つと湧いてくる怒りを止めることは出来なかった。
ふと、人の気配がして、ライラはコテージの中を覗き込んだ。そこにはあの妖気に取りつかれていた娘が、精気を取り戻した顔で手紙を読んでいる姿があった。一昨日の夜から、昨日と、ずっと眠っていたようだ。おそらくミチコが術を使って眠らせていたのだろうとライラは思った。ライラは姿を消したまま用心深く中を覗き見た。ユラ神の末裔は、しばらくすると家から出てきて、どこかへ向かうようだった。出てきた娘は、ずいぶんと思いふけったような顔をしている。ライラは上空に風の精霊が飛んでいるのに気が付いて、息を殺し、姿を消したままその後を付けた。
しばらく進むと、三人の少女が喧嘩を始めたのが遠くに見え、ライラは驚いた。同じく空の高いところで風の精霊もくるくると驚いて回っているのが見えた。
よく見ると、あの事件の日、木に登っていた女の子に間違い無かった。声は遠くて聞こえないのだが、どうやら、ハンナという娘があの事件の犯人だと言われているように聞こえた。ライラは呆気にとられ、姿を隠したまま木陰から三人の様子を見つめていたのだが、言いがかりをつけている女の子の妖気が尋常でないことがすぐにわかった。
この娘は、一体、何に怯えているのだろう?
ライラがそう思った瞬間、パシッと音がして、ライラの足元近くまで本やノートが飛んできてどきりとした。どうやら事件の犯人扱いされたユラの末裔ハンナは、泣いているようだ。そうして泣きながら来た道を戻って行った。ライラと精霊たちは、慌ててハンナの後を追った。
図書館のところまで来ると、ハンナがパンパスグラスの方角へと曲がったのを見て、精霊たちが一斉に《向かい風》を発生させると、あっという間にどこかへ消え去り、前を行くハンナという娘は、畑の中を四方八方めちゃくちゃに歩きだした。
ライラは後ろを歩きながら、やれやれと呆れていた。けれど驚いたことに、この少女は、これが結界の幻影だという事に気が付いているようだった。老婆の名前を連呼すると、風を止めろと叫びだしたのだ。果たして、この娘は、どれくらい覚醒しているのかと、ライラは気になった。結界の風は、精霊が起こしたものだ。どうやら、この娘にはそこまでは分からないようだった。
敵にするには未熟すぎる。これなら始末は簡単だ。
ライラは先回りしてユラの末裔の家へと急いだ。慌てて図書館まで来ると、細身の少女が青い顔をして立っていた。もちろん少女は、姿を隠しているライラには気づかなかった。
姿を消したまま、ハンナの住む家に先にたどり着いたライラは、妖精たちの香りに気づいて妖術を強め、今度は木の上に隠れた。家の中には人の気配がする。ほどなくしてハンナが家に戻って来ると、ひとしきり声がしてからドアが突然内側に開き、どしんと大きな物音がした後はすっかり家の中は静かになった。入り口横の窓から様子を覗いたハンナは息を呑んだ。グリーングラスの軍服を着た子供が見えたからだ。
あの女は、やはりグリーングラスのスパイに成り下がったに違いない。あれは誰の子だ?
ライラは、考えた。ミチコも、あの老婆も、ほとんど休まずに交代で結界を張り続けているとしたら、今頃すっかり疲弊しているはずだ。未熟なユラ神の末裔は、ユラ神として人々を救っていた母親と違って、非力すぎて妖力が続かない。その孫は、恐らく覚醒さえしていない。あの老婆とは、もう話が付いている……。
多くの事が一度に起こる時、祈りの力が緩む時が必ず来る。今日がそのチャンスかも。
ライラは、ニヤリと笑ってから、ようやく訪れたチャンスを前に、浮かれるような心持ちで、コテージの外、ステンドグラスの窓の下に身を隠した。
『あんたは、きっと幸せになる。人と比べ、妬み、恨む心を捨てさえすれば』
頭の中に、ユラ神様の言葉が揺れた。
私の幸せは、国を滅ぼしたすべての者が消えること。これは妬みや恨みじゃない。間違いを正しているだけだ。
ライラは、自分の都合のいいようにユラ神の言葉を捻じ曲げて納得した。そうすることでしか、自分の生きて来た道を肯定することが出来なかった。美味しそうな匂いが辺りに漂ってきて、ライラの空腹を極限まで刺激した後、突然雨が降り始めてライラの身体を心と同じくらいに冷たくしていった。赤いステンドグラスに打ち付け落ちていく雨のしずくは、心が切り裂かれて拭き出た血の色に思えた。雨が上がった後のライラの身体は冷え切っていたが、心の中は煮えたぎっていた。
お前さえいなければ……お前さえ、やってこなければ……。
一瞬、結界が緩む気配を感じたライラは、その好機を逃さなかった。心の底から湧いてくる呪う力で、これまでに発揮したことのないくらいの力で、目の前のステンドグラスへ全身から発する妖力をぶちまけた。ステンドグラスの蝶たちは、守ってもらえるはずの力を失い、あっという間に天高く散って行った。ライラは、持てる限りの力で室内に呪いの風を送った。向かい風の強さが、あの老婆の力の強さを示していたが、すでに疲弊しきった力だった。
なかなかやるね。でもここまでだ。
ライラは、すべての怒りを力に変え、パトラへぶつけた。鋭い光が室内に放たれる。老婆は自分を守るのに精いっぱいの様子だった。歪んだ笑顔をみせながら、ライラはミチコを怒りの力で吹き飛ばし、窓から室内へと飛び込んだ。床に突っ伏して気を失っているグリーングラスの軍服を着た小さな子を肩に担ぐと、今度はハンナの脚を力任せに掴んで反対側の肩に乗せ、ふたりを抱えたまま姿を消した。
ライラの高らかな笑い声が、祈りの部屋に響き渡り、そして次第に遠のいていった。
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