第21章 裏切り
「目が覚めたようね」
ハンナの目の前には、見知らぬ大人が立っていた。女の人だ。ママよりずっと大きく、袖から見える腕は筋の入った筋肉が盛り上がって見えている。ハンナは、突然のことにただ驚いてその女性を見つめていた。
「かわいげのない子。睨みつけるなんて。しつけもしていない親の質の悪さが丸わかりだね。ま、馬鹿な親に育てられたのは、あんたの罪じゃないけど。生まれてきたのは間違い」
ハンナは、西の国の言葉に反応して、その女の人を睨み付けた。ママのことを悪く言われ気分を害したのと同時に、会ったこともない大人の女の人に『生まれてきたのが間違い』とまで言われて頭にきたのだ。ハンナは、女の人を睨み付けたまま怒りの声を発した。西の国の言葉で。
「あなた、誰ですか? なんでそんなこと言う……」
そこまで言って、ハンナは、自分の両腕が手首のところで太いロープで固く縛られていることに気が付いた。次に、自分の足元にあるものを見てハンナは驚いて声をあげた。
「レオ! どうして、いったい……」
小さなレオ、本物のレオが小さく丸まって眠っている。目の前の女は嫌な笑いをひとつ浮かべた。ハンナは慌てて立ち上がろうとして平衡感覚を失い、倒れて顎を強く打った。よく見ると、足首にも手首と同じロープが巻かれている。
「誰か! 助けて!」
非常事態なのは明らかだった。ハンナが転がった物音と、その叫び声で、小さなレオは目を覚ました。レオは、ロープで巻かれた手と足が旨く動かないとこにびっくりしている。小さなレオを怯えさせないよう、ハンナは笑顔を作って小さなレオに声をかけた。
「レオ、大丈夫?」
「ハンナ、どうしてこんなことしてるの? ゲームなの? 大きいレオがね、上の世界にはいろいろなゲームがあるって言ってた。とっても面白いんだって」
「あ、ああ、そ、そうだね。ゲーム、みたいなもんかな」
「やっぱりそうかぁ! 僕、ゲーム初めて!」
そう言うと、レオは女の人を見つめて自己紹介を始めた。
「僕ね、レオって言うの。あなたはだあれ?」
あまりに素直に明るい声で聞かれた女の人は、予想していなかった事なのか、驚いた表情をして素直に名前を答えた。
「ライラ……」
「あ、僕知ってるよ。その名前。僕ね、隠していたパトラのマントをセバスチャンに見つかっちゃってね。ベッドのマットの下に入れてたの。そしたら、セバスチャンが見つけたの。だって、急にベッドのシーツを洗うって言うんだもん。僕、凄く叱られると思ったの。
でもセバスチャン、『そのマント着て、このパンパスグラスというところに行きなさい。宝物が隠してあるから探してごらん。そうしたら好きなところに行けるよ』って、絵を描いたのをくれたの。絵はね。とっても上手だから、イチゴの畑までは、すぐに行けたんだ」
あどけない笑顔でライラに向かって、小さなレオは話を続けた。
「僕、どうしてもそこへ行きたいの。連れて行ってくれる? それでね、セバスチャンね、朝にね、とっても長い説明をしながら、美味しいパンをくれたんだ。これを持っていきなさいって。その時に、新しくパン屋さんに来たライラおばさんのパンはとても美味しいって言ってた。あのね、パンはね、本当にあんまり美味しくって、パンパスグラスに行く前に食べちゃって、すごい風が来て動けなくて、起きたらステンドグラスのおうちにいた。マシュマロ美味しかったぁ。
また食べたいなぁ。あのパンをあの飲み物につけて食べたいなぁ。ねぇ、ここはどこ?」
そこまで話すと、レオはふと思いふけるような顔になった。
「僕がお部屋を出る時、セバスチャン、目からお水、《涙》をたくさん出してた。《泣く》は、声を出すんでしょう? じゃあ、声を出さずに涙だけ流すのはなあに? あ、思い出した! 僕、地図の場所に早く行かないと死んじゃうんだった。セバスチャンが、そう言ってたの。
ねぇ、早く行きたい」
ハンナは、小さなレオが断片的に伝える情報を整理しようとした。何を言っているのか、いまひとつよく分からないのは、目の前にいる女の人も同じ様子だった。けれど、『地図の場所に行かないと死ぬ』というのは穏やかではなかった。
話している言葉から考えて、この女の人は、ママの知り合いに間違いなかった。さっき夢で見た、いや、聞いたはずの何かがもう思い出せなくなっていることに気づいたハンナは、今のレオの言葉が大切な何かのヒントのような気がしてならなかった。
「ウエストエンドから来たんですか?」
ハンナの言葉に、女の人は、一瞬身構えた様子を見せ俯いて笑った。
「だったら何?」
「ママも、そこから来たって……」
ハンナは、祈りの部屋のステンドグラスが、砕けたところまでは覚えていたが、強い光が光った後のことは覚えていなかった。ガラスの破片は身体のどこにも飛び散っていなかった。目が覚めるとここにいたのだ。
ここは、明らかに二階の自分の寝室だ。レオは、早く行こうよと言い続けている。なぜ誰も助けに来ないのか。今、何が起きているのか。ハンナには分からなかった。
「あんたの母親は、ほんとにユラ神の末裔なのかね。あの婆さんがどっかに消えて、ひとりになってから泣きわめくばっかりで、何の対応策を考えることもしてないよ。ありゃ、落ち着くまでしばらく時間がかかりそうだ。こっちにとっちゃ都合がいいけどね。自分の家の、娘の部屋に結界が張られたことにも気が付かない。灯台もと暗しだね。まぁ、あんたの母親は、泣くばっかりで、探そうともしてないがね。
全く母性ってのは厄介だね。妖術の敵だ。あんた、母親が家のどこに《ユラの命》を隠してるか知ってるかい。あのステンドグラスの部屋にあるはずなんだがね」
「何で、あなたにそんなこと教えなきゃいけないんですか」
「あんた、《ユラの命》が何なのか知ってんのかい?」
ハンナは言い返せなかった。そもそもこの家でそんな話をママとしたことも無かったからだ。
「やっぱりね。あんたの母親は、ユラ神の歴史を自分の代で終わらせる気なんだ。そんなこと、あたしが絶対に許さない。あれは、ユラ神だったサラ様の命だ。あれを受け継ぐのは、始めからあんたの母親なんかじゃないんだよ!」
「じゃあ、それはあなただって言うんですか? あなたみたいな神様ならいらない!」
ハンナの声に、その大柄の女性は真っ赤な顔で怒鳴った。
「大人に口答えすんのもあの女に習ったのかい? 見かけと違って随分気の強い子だね。何も知らないくせに、あんたらのせいで大勢の人が祖国を失ったんだ。呪われた子供は生まれるべきじゃなかったんだよ。その気持ち悪い耳、切り落としてやろうか?」
ハンナの心は、鋭い言葉で何度も切り付けられ続けた。これまで気味悪がられたことは何度かあった。けれど、会ったこともないこの目の前の人物は、自分とママを普通ではないくらい嫌っている。友達から嫌われるという体験を味わったばかりのハンナは、思わず声を荒げた。それは、本当はニーナに向けて言いたかった言葉だった。
「あなたが、私を嫌いなのは、なんでか分からないけど、それで気が済むなら、好きなだけいじめればいい。どんなにいじめられたって、痛くもかゆくもないわ。どうしてか分かる? あたしだって、あなたなんか、大っ嫌いだからよ! 大嫌いな奴にいじめられて、傷つくなんてあり得ない。ムカつくだけ! 無理して仲良くしなくていいから、せいせいするわ!」
ハンナがそう叫ぶと、周りの景色が少したわんだような気がした。
「好きなだけ、叫んでな」
「何をするつもり?」
「ねぇ、これもゲームなの?」
ふたりの会話が、小さなレオは理解ができないようだ。
「この子の希望を叶えるだけさ。さあ、行くよ」
「待って!」
ふたりの話を聞きながら、少し怯えた顔をしていた小さなレオは、ライラの腰辺りをぎゅっと抱きしめた。ライラは驚いた表情で両手を上げたまま固まっている。
「やったぁ。ライラ、ありがとう!」
小さなレオを引きはがすと、ライラは呪文でレオを眠らせ、後ろの壁に向かって話し始めた。
「準備はいいよ。そこにいんだろ、婆さん」
ライラがそう言い終わると、パトラが姿を現した。疲れ切ったような顔をしている。
「見つかっちまったね。約束どおり、その子をパンパスグラスへ連れて行くさ。その代わりそれが終わったら、あんたはこの国から出てお行き。守れないって言うんなら、この話は無しだ」
パトラが見事な西の言葉を話していることに、ハンナは驚いた。
「ああ、約束するよ。ただ、もう一つ条件がある。この娘と、ふたつの水晶を交換する。あの馬鹿で無能な母親に、そう伝えな。あいつが持っていても意味がない」
ライラはそう言うと、ハンナの方に振り返り呪文を唱え始めた。ハンナを救おうと手を伸ばしたパトラは、ライラの右手から放たれた強い光によってまた吹き飛ばされた。
「パトラばあ様!」
ハンナは、その声を最後に動けなくなった。あっという間に壁が四方八方から迫ってきた。立ち上がろうとすると、斜めになった床のせいで転がってしまう。何がどうなっているのかと顔を上げると、目の前には空一面に大きな瞳が現れた。瞳は笑っているような形をしている。天から声が聞こえてきて、ハンナはもう一度立ち上がろうとしたのだが、つるつるした急こう配の地面のせいで、また転んでしまった。
「やめときな、丸いガラス玉の中で立ち上がるのは無謀だよ」
ライラは、親指と人差し指で、小さなガラス玉をつまんでいた。どうやらハンナはその中に閉じ込められているようだ。ライラは、そのガラス玉を身に着けていたネックレスの金具にはめると、パトラに向かって指図をした。
「あんた、こうなることは分かってたはずだろ? 歳には勝てないってことだよ。年寄りは、さっさと若者に道を譲るべきなんだよ。無駄な結界は、早く取り払った方がいいよ。あたしのいた国のユラ神様も、同じようなことをし続けて、この世界からあっという間に消えちまったんだ」
「残念だけど、この世界には、《守るべき秩序》ってのが、あるんでね」
突っ伏して倒れていたパトラはそう言うとゆっくりと立ち上がり、ライラに向かって持っていた杖を振り上げた。が、ライラの胸で光っている、ガラス玉に閉じ込められたハンナに気が付くと、振り上げていたその杖をだらりと下ろした。
「やれやれ、厄介なことになりそうな匂いがプンプンするね」
「じゃあ、約束果たしてもらうよ」
ライラが小さなレオを肩に担ぐと、パトラはうなだれたまま窓のところまで歩いていき、指輪から青白い光を天に向けて発した。ほどなくしてピンク色の羽根を持つペガサスが空から滑るように降りて来た。
経験者ルークを背に乗せ、ペガサスは窓の外から宙に浮いたままこちらを見つめている。ガラス玉の中で、ハンナはその様子を見つめていた。
約束······。パトラばあ様が、あのライラという人と?
ハンナは、この村で最も信頼を置いていたパトラでさえ、信じていいのかわからなくなった。ガラス玉の向こう側の景色は、すべてが丸く歪んで見えている。隣にいたライラという女の人は、恐らくペガサスを始めてみたのだろう。動けなくなって、窓の外を見つめていた。
「窓から飛び降りるよ」
「え? そんなことしたら、落ちちまうじゃないか。あたしは騙されないよ」
「見てな」
パトラはそう言うと、勢いよく窓の外に飛び出した。ライラが止める間もなかった。空に舞ったパトラに向かって、ルークがその長い手を伸ばし、空を旋回したペガサスの背にあっという間に乗せた。
「早く。ミチコが気付いたようだ。これならパンパスグラスまで一分だよ」
パトラが叫ぶその言葉に、大きな体を窓の外に半分出し躊躇していたライラは、小さなレオを胸の前に抱え直して、目を閉じたまま背中から思い切り身体を外に投げ出した。
ドアが開く音がして、ガラスの壁の向こうにママが恐ろしい形相で部屋に飛び込んできたのが、ハンナには分かった。ネックレスが宙に浮くと、ハンナの身体も浮いた。ペガサスが、まっすぐこちらに向かって突進してくる。落ちていく感覚のまま上を見あげると、窓の外に向かって泣き叫んでいるママの姿が見えた。
次にハンナが見たものは、頭上の真っ青な空と、足元に見える、歪んだ小さなコテージの屋根の映像だった。
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