第10章 交差する過去と未来

 ライラは、休日が大嫌いだ。楽しそうな家族連れやカップルが行きかう姿は、自分がいかに孤独かを思い知る。ようやくたどり着いた村は、そんな楽しそうな人々とは真逆の、どこから見ても陰気な感じの村だった。花一輪も咲いていない、グレーと茶色の村だ。春だというのに街路樹の木々は、葉の一枚さえつけていなかった。花の谷フラワーバレーという村の名前を聞いて、花にあふれた村を想像していただけに、どうしてこんな名前を付けたのだろうかとライラには疑問だった。たくさんの人が行き交う広場のカフェに入り、ライラは生まれて初めてコーヒーというものを飲んでみた。

 それにしてもこれが一杯で千グランドルなんて……。

 ライラにとって、それはあり得ないほどばかばかしい価格だった。ウエストエンド通貨に換算すれば、ひと月働かなければ得られない金額だ。オープンカフェの端に席を取り、ライラは幸せそうな人々の姿を睨みつけるように見つめていた。

 この村の対岸にある東の果ての国、グリーングラス王国に、あたしたちは大切なものを全て奪われた。そしてこの国は、同じように東の果ての国との戦いに負けたのにもかかわらず、今では中立地域となって、のうのうとその国と貿易をして、すっかり豊かになっている。

 何故そんなことができる? 今やグリーングラス領となったウエストエンドとは、かなり前から取引をしていたと聞いたけれど。わずかな金で仕入れたのものを、こうやって法外な値段で売りさばき、人々は豊かになり、幸せな生活を楽しんでいたのか。

 ライラが苦々しい思いで目を閉じると、そこら中に響く楽し気な会話や笑い声に交じって、自分を愛してくれた家族の笑顔が蘇った。初めて味わったコーヒーの味は、今のライラの気持ちと同じように苦く、少しも幸せな気分を感じることは出来ない味だった。

 まったく、こんな不味いものが、ひと月分の給料と同じ金額だなんて頭がどうかしてる。飲む気が失せるような黒い液体の何が美味しいのよ。焦がした炭を入れた水なのかしら。

 ライラは、心の中でそう呟くとカップをソーサーに戻した。カップの中には、まだ黒い液体がたっぷりはいっている。眉間にしわを寄せながらコーヒーを口にしたライラの目の前を、ショッピングを楽しむカップルや、ベビーカーを押す母親が通り過ぎて行った。間もなく昼時とあって、あたりからは美味しそうな香りが漂い始めている。

 ライラは朝から何も食べていなかった。けれど、これからのことを考えると、メニューの中の一番安いコーヒーを注文するのがやっとだった。隣のテーブルから色鮮やかな野菜が添えられているオムレツとガーリックトーストの香りが漂ってきて、ライラはたまらなくなってそちらを見つめてしまった。

「お待たせしました。本日のランチ、キノコオムレツと新鮮野菜のセットです」

 ウエイトレスがにこやかに食器を並べると、隣の年配の夫婦らしき二人は、まぁ美味しそうと言いながら、フォークを手に取った。食い入るように見つめていたライラは、その年配女性と目が合い、相手が会釈をしてきたのだが、気恥ずかしくなって俯いた。ふたりが何やらこそこそと話をしだしたのを気配で感じたライラは、飲みたくもない苦くて黒い液体を一気に飲み干し席を立つと、テーブルにコーヒーと僅かなチップを置き店を出た。

 店の入口の黒いボードには、《本日のランチ:キノコオムレツ、新鮮野菜、コンソメスープ、デザートのセット、たったの三千グランドル》と書かれていた。ライラは、大きく溜息をついて黒いボードを見つめ呟いた。

「春にキノコってあり得ないでしょ。乾燥したキノコなんて……」

 太陽の恵みの詰まった乾燥キノコにたくさんの栄養があることを十分に知るライラは、負け惜しみを言いながらカフェから遠ざかった。どうやったって、あの金額のものは、今の自分には分不相応だ。ライラは噴水のところまで歩いてベンチに腰掛け、目を閉じて出来立てのパンを想像した。

 ユラ神様は、いつもライラの作るパンを世界一のパンだと絶賛してくれていた。目頭が熱くなり、悲しさが空腹感を増幅させる。いや、空腹が悲しみを増幅させたのかもしれない。疲れ果てた身体で、こんなに物価の高い国でこれからどうしようかと思い悩みながら、ライラは何時間もそこに座ったまま途方に暮れていた。

 日が傾きかけた頃、ふとどこからか香ばしくパンの焼ける香りが漂っていることに気が付き、お腹がすきすぎてとうとう幻覚ならぬ幻臭を感じ始めたのかとライラは思ったが、その香りはどんどん強くなってくるようだった。さっきのランチのパンの香りではない。全粒粉パンが焼きあがる懐かしい香りだ。

 ライラは立ち上がり、香りのする方へと歩き始めた。広場にはパン屋は見当たらなかった。辺りを見回しながらしばらく広場を進むと、小さな靴屋の角を通り過ぎたところで、香りが急に薄れた。ライラは、もう一度靴屋まで戻って来ると、その隣の細い路地に大きな体をよいしょとねじ込んだ。香りは確かにこの路地の向こうから来ている。 

 カニのような横歩きで細い路地を少し進むと、すぐに道は広くなった。予想通り、その道の先に、古そうなパン屋の看板があるのが目に飛び込んできた。ライラはたまらず店まで駆け出し、店に入ってショーケースを覗いた。

「いらっしゃい。只今焼き立てだよ」

 愛想のいい、ライラと同じような体形をした女性がカウンターの向こうからライラに微笑みかけた。異国で、笑顔で出迎えられることを予期していなかったライラは、驚きながら小さな声で尋ねた。

「あの、これ、全粒粉、パン」

「そうだよ。よく判るねぇ。うちのパンは、百年ほど前のひいじいちゃんの代からずううっと、ウエストエンド産の全粒粉さ。一時、手に入らなくて代用品使ったことあるけど、まるで駄目だったよ。いろんなの使ったけどね。ウエストエンドの粉に勝るものはないよ。味見するかい?」

 ライラは、思わず頷いた。店番の女性は、ガラスケースの上に紙ナプキンを置き、その上に薄くスライスしたパンを一切れと、小さな瓶に詰めたジャムを置いた。ライラは、自分の祖国のものが一番だと言われたことに胸が熱くなるのを感じていた。

「さあ、どうぞ。絶対旨いよ」

 店番の女性は、ライラに軽くウインクしてみせた。ライラはパンを手に取り、何もつけずに、そっと口に運んだ。ひと噛みしただけで、懐かしいウエストエンドの香りに胸がいっぱいになる。勝手に溢れてくる温かい涙を目頭に感じて、ライラは何度か瞬きをした。

「ね、美味しいでしょ。そのジャムもつけてみてよ」

 ライラは言われるがまま、パンの端にジャムを付けて、また一口、そっと口に含んだ。甘く爽やかな味だった。オレンジに似ているが、もっと甘い。幸せな香りが、口から鼻腔に通り抜けていく。ライラは全身に電気が走ったように幸せな気持ちになった。

「そんなに美味しそうな顔されちゃ、嬉しくて仕方ないね」

「あの、これ、値段、いくらですか」

「一つ丸ごとなら大サービスで、八百グランドル!」

 ライラは、さっき飲んだ黒い液体に出した千グランドルが、惜しくて腹が立った。あんな不味くて高いものに出すんなら、これを買えばよかった。そう思いながら、肩を落とした。その様子を見ていた店番の女性は、少し不憫そうな顔になってライラを見つめ、顔よりも大きなボールのようなパンを、持って来たナイフでさっくりと四等分した。

「これなら、二百グランドル!」

 それを聞いてライラは、ぱあっと明るい顔になり、ポケットから小銭を集めた。ライラがなんとか足りたぴったりのお金を店番の女性に渡すと、店番の女性は紙にくるまれたパンをライラに渡してから、ショーケースに置かれた小ぶりのジャムの便に蓋をして、ライラに差し出した。

「このタンカンジャム、蓋を開けちまって半分しか残ってないけど、もう消費期限ぎりぎりだからさ、持っていきなよ」

 ライラは、驚きながらも、無言でそれを受け取った。貧しい身の上だと思われたのだろうか。今は確かにそうではあるのだが、かつては何不自由なく暮らしていたライラは、自分が施しを受けたことに軽いショックを受けた。

 その表情を見た店番の女性は、カウンターの外まで出てきて、突然「元気だしな!」と言い、ライラの背中を軽くパンパンと音を立てて叩いた。ライラは、またも驚いて目を丸くした。この中立国の人々は、人との距離感が近すぎるのだ。さっきの広場でも、見たことのない肌の色や髪の色の人が行きかっているのを、不思議な気持ちで眺めていた。外から来た人々を受け入れる心がひときわ広いのかもしれないとライラは思った。

 それにしても、この距離感は近すぎはしないか?

 ライラがびっくりした顔で固まっていたので、店番の女性がまた人懐こい笑顔で話しかけた。

「あんた、名前は?」

「ライラ…です」

「ライラ、あんたさ、もしかしてウエストエンドの人? もっとさぁ、堂々としなよ。戦いには負けたかも知んないけど、もう、ユラ神の支配は終わったんだろ?

 グリーングラスのおかげで、随分とウエストエンドも暮らしやすくなったらしいじゃないか。新しい時代が始まってんだよ。うちの旦那ね、このパンパスグラスの軍人だったんだよ。まあ、二等兵だったけどね。それでも、命があって、生き延びてくれて、こうして美味しいパンを焼けるようになったんだ。何の戦績もない、逃げてばかりの卑怯者だから表彰もされないって、皆は小馬鹿にするけれどね、それはあの人が誰も殺さなかったってことだから、あたし喜んでるよ。

 過去をずっと見続けてさ、後ろばっか見て、あの国のせいとか、だれの責任だとか、いつまでも言い続けたり、あの頃はよかったとか、あの時はこうだったとか、そんなこといつまでも言ってたら、ほんとカッコ悪いよ。

 あんたこれからも生きてくんだよ。もっと未来を見な。自分の国はね、自分たちで作るんだ。自分の家族を作るようにね。国の隆盛も衰退も他の国のせいなんかじゃないさ。その結果とか、いきさつがどうあれ、自分たちが、目を閉じていたせいで変化を止められなかったんだ。目を開けていたら、変化を受け入れるか、戦うか、逃げるかは自分で決められるんだよ。いつまでも、被害者面して過去を引きずって生きてんじゃないよ!」

 ライラは、その言葉の悪意のない事実に衝撃を受け、何も言葉が出なくなった。

《ユラ神の支配はおわったんだろ?》

 その言葉は、ライラには理解不能だった。自分たちは、支配などしてきたつもりはなかったのだ。けれど、他の国からは、そう見えていたという事なのだろうか。

「そのジャムね。決して施しなんかじゃないよ。あんたのための元気の元さ。だって、さっき、あんたいい顔してたもん。笑顔でいると、こうやっていいことがいっぱいやって来るんだよ」

 ライラは、自分の瞳から大粒の涙がこぼれそうになるのを感じて上を向いた。

 そうだ、自分はいつも笑っていた。食べるのが大好きで、家族が大好きで、お掃除もお洗濯も大好きだった。あの女がウエストエンドにやって来るまでは……。怒りと恨みの念に取りつかれたようにユラ神の末裔を探し続け、ようやくこの村にたどり着いたのだ。この恨みを絶対に晴らすのが自分の使命だと心の底から信じて疑わなかった。そのために綿密な計画を何年も前から立ててきたのだ。

 それなのに、こんなパン一切れで、食欲に負けるなんてどういうことだ。自分のしていることは、その程度の愚かなことなのか? 

 ライラにはまだ答えは出なかった。けれど、引き返すには遠くまで来過ぎていた。俯くライラに向かって笑顔を見せながら、女性はテキパキと手を動かして働いている。

「それとね。人からなんかもらって、助けられてほんとに嬉しい時はさ、この国では、笑顔で、『ありがとう』って言うんだけどね。まぁさ、文化の違いとかもあるから何とも言えないけど。でも、さっきみたいな顔されちゃ、あげた側が不安になっちまうよ。何だよ、さっきの辛気臭い顔は。

 自分のことを卑屈に思っているとさ、施しを受ける、イコール、恥、だと思うんだよ。受けた恩を忘れなきゃさ、たとえ施しだとしたってどんどん笑顔で感謝して受けとるべきだ。

 何も難しい事じゃない。小さい子がお菓子もらった時みたいに喜べばいいだけだよ。『ありがとう』ってね。それとも、ほんとに嬉しくなかったのかな、そのジャム、相当美味しいはずなんだけど。あのさ、子供たちって、無駄なプライドが無いから素直に喜べるんだよ。あんたのその無用で無駄なプライドは、さっさと捨てたほうがいいよ」

 ライラは、初対面なのにここまでずけずけとモノを言う人間を初めて見た。この国の人々の常なのか、それともこの人特有のものなのか、それは分からないが、とにかく、喧嘩を売られていると思う人だっているかも知れない勢いなのだ。

「んじゃ、練習してみるか。はい、これも持っていきな、ライラ」

 そう言うと店番の女性は大きな菓子パンをライラに手渡した。突然のことに面食らったライラは、一瞬無言で相手の顔を見つめた。けれど、辛抱強く掌を上にしてパンをライラの方に向けたまま、眉毛を上下に動かしながら目の前で次の言葉を待っている様子の女性を見て、ライラは、ぷっと噴き出した。そして、呆れたような表情をした後、微笑んでみせた。

「ありがとう」

「よっしゃあ! 七十九点」

「あの……、減点、理由は?」

「ああ、声が小さいのでマイナス十点と、間がちょっとあいたのでマイナス十点、残りの一点は、あたしの名前を呼んでいないこと。この店の名前、あたしの名前だから。よろしく」

 そう言うと、店番の女性は看板を指さした。ユラ神の末裔を探し出したいという一心で、幾つもの国を渡って言葉を覚えたライラは、今ではあらゆる言語が読めるようになっている。ライラはその文字をゆっくりと声に出した。

「ア、ミ、カ……。ピ、ス、ト、リ、ナ……。ありがとう。アミカ」

「アミでいいよ」

 そう言うと、アミはウインクをまたライラに投げたのだが、ライラにとってウインクは異文化過ぎて、どうにも慣れることができなかった。

 片目を閉じることにどんな意味があるというのだろう……。

 ライラは、もう一度お礼を言って店の外に出た後、入り口の脇に殴り書きしてある紙が貼ってあるのに気が付いた。

《急募! パン職人 時間:朝四時から七時》

 ライラは、ゆっくりと文字を読み終えると急いで店内に走って戻り、すごい勢いでアミに近づいて行った。

「あの、パン、作れ、ます。わたし、パン、作る、ダメ?」

 アミがライラの勢いに押され、後ろに下がっていたところへ、奥から焼き立てパンを幾つも乗せたトレーを抱えた男が出て来た。背は高く、かなり大柄なのに痩せて見えるのは、恐らくこけた頬のせいだ。

「どうした、アミ」

「いや、あの、この人、ライラって言うんだけど。働きたいみたいだけど、どうする?」

 言葉のニュアンスが分かったライラは、今度は大柄な男の前に立ちはだかった。

「パン、作る。作りたい。わたし、働く。いいか」

 その言葉と身体の大きさに圧倒され、男はパンの乗ったトレーを肩より上にあげたまま、後ずさりした。

「ライラ、急にキャラ変わるんだもん、びっくり。ね。あんた、どうする?」

 ライラは、食い入るような目つきで男を見つめ続けた。しばらく考え込んだ後、男はトレーをカウンターに置くと、レジの横にあった紙とペンを取り出し、条件をいくつか紙に書き始めた。

 一、勤務時間:だいたい朝四時から七時

 二、勤務日:だいたい週三日くらい

 三、時給:七百グランドル

 四、勤務内容:パン作り(店頭販売は朝七時からのため、無し)

 五、給料は週払い。毎週末支払

 六、遅刻したら、即解雇

 七、パン不味ければ、即解雇

 八、言うこと聞かなかったら、即解雇

「ま、こんなもんでいいだろ。この条件でもいいんなら来てもいいよ。俺、うまいパンを作るのに命かけている割には、虚弱体質でね。去年大病してからは、気が向いたときしか作らねえから客足が遠のいてんだよ。うまいパン作れるってんなら、俺の舌で確かめてやるから、今日の閉店後、夜の七時ごろにまた来てくれるか。今日ちょっと忙しくてさ。ついでに片付けも手伝ってくれたら助かるけど。明日は休みだからな。ま、俺にゃあかなわないだろうけど、頑張んな」

「良かったね、ライラ!」

 アミが、笑って抱きしめてきたので、ライラは雇ってもらえたのだと勘違いして一緒になって喜んだ。実際のところ、男の話は長すぎて、ライラには半分くらいしか分からなかった。書いていた条件は、異国の言葉の上に文字が汚すぎてライラには数字のこと以外は何のことかさっぱりだった。唯一分かったのは、三という数字の下に書かれた《七百グランドル》という文字だった。おそらく時給だろうとライラは想像していた。

 ウエストエンドにいた頃は、一日に五百ピークス稼ぐのが精いっぱいだった。この国の通貨に換算すれば五十グランドルという事になる。その十倍以上のお金を一時間で稼ぐことが出来るのだ。元々仕事が大好きなライラは、なかなか興奮がおさまらなかった。

「ありがとう、ありがとう、アミ……と……」

「おれば、トリーゴ」

「ありがとう、アミ、トリーゴ」

 トリーゴは、小さく「おう」とだけ言うと、頭を掻きながらこの紙どこに貼ろうかと呟きながら、奥へと戻って行った。

「じゃ今日の七時頃にまた来てね。月曜はあたし朝六時には来るからさ。遅刻したらクビだよ」

「今日、七時頃。遅刻、クビ」

 ライラが、そう言って何度も頷く姿を見て、アミは笑いながらガラスケースの奥から手を振った。ライラは、店を出てから自分が久しぶりに笑っていたことに気づいて、また涙が溢れ出てきそうになった。胸のドキドキは少しは治まりかけていたが、頬はまだ火照っているのが分かった。「未来を見な!」というアミの言葉が、胸の奥深くに沈んでいくのが分かった。

 ふと隣を見ると、シャッターが閉じたままの店の一軒隣に、通路いっぱいに野菜の箱が積み上げられているのが見えた。ライラは、パン屋の前に立ち止まったまま、父の作る野菜を思い出し胸が苦しくなった。その八百屋には、カラフルな野菜が並んでいたが、どれも収穫してから一日は過ぎていそうなものばかりだった。父の作ったもぎたての野菜を無料で食べていたライラには、箱に貼ってある値札に書かれた法外な野菜の価格が信じられなかった。

 この国に、あの野菜を売っていれは、今頃は……。

 ライラがまた後ろ向きな考えを始めていると、十代前半くらいに見えるほっそりした女の子が、自分の背丈の半分はあろうかという花束を抱えてライラの隣を通り過ぎた。フラワーバレーに到着して、初めて見た花だった。少女が通り過ぎた後に、漂ったライラックの香りが、ライラの記憶の奥にあった何かを目覚めさせようとしていた。

 どこかで嗅いだことのある香り……。

 ライラは、遠ざかる少女の後姿を見つめ、自分の記憶の片隅にあった小さな出来事が頭の中でぱっと弾けるのを感じた。小さなフラッシュバックは、大きな線となって、ライラの頭の中で繋がり始めた。ある少女の写真の記憶が、ついさっきすれ違った少女の姿に重なった。ライラは、手に持っていたパンを握りしめて、少女を見失うまいとその後姿を追いかけた。

 ついさっきまで幸せな未来に向かおうとしていたライラの表情は、再び過去の暗い色に覆われ始めた。

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