第8章 名前のないもの

 石造りのドアの向こうへ消えて行った男の子を見送ってから、しばらくの間、小さな子は天窓を見上げていた。男の子が無事に上の世界に出たことを確認すると、小さな子は、ピンと立ち上げていた耳をもとの状態に戻して笑顔になり、テーブルのところまで戻ってきた。飲み干されたオレンジジュースのグラスを見て、ふふふとほほ笑んでから、食べつくされたスミレのクッキーを盛っていた皿を見つめ、わずかに残っていたフルーツを一粒口に入れた。

「これが甘酸っぱい味。甘いと酸っぱいが一緒になった味。ブルーベリーは甘酸っぱい」

 小さな丸い実を噛みながら、小さな子は、その物の味と、その味に相応しい言葉を記憶しようと繰り返し口にした。丸い実の色は、さっきの男の子の瞳の色に似ている。

 あの男の子は、ここではレオと呼ばれているようだ。レオは、食べ物には《味》というものがあると教えてくれた。そして、《味》にはいくつか種類があって、口にした時に飛び上がりたくなるような嬉しい気分になるものを「美味しい」と言い、二度と口にしたくないと思うものは「不味い」と言えば良くて、それ以外の味は「まあまあ」と言うらしい。そして、レオが「美味しい」と思っているのでも、他の人には「不味い」こともあるらしかった。

 小さな子は、意味が分からない、という風に首を振って、もう一粒だけ残っていた実を口に放り込んだ。

「甘酸っぱい……」

 小さな子は、この言葉をもう一度呟いた。ここでレオが何かを食べるたびに、小さな子は「味」の種類をひとつ覚えることができた。けれども、レオはここではいつも「美味しい」と言いながら飛び跳ねていて、小さな子には未だに「不味い」の味が正確にはどんなものか分からなかった。自分には、飛び上がりたくなるような《味》は、どんなものか分からなかったし、二度と口にしたくないものも無かったので、これまでのすべてのものが「まあまあ」なんだろうなと小さな子は考えていた。レオにとっての「美味しい」は、自分にとっては「まあまあ」なのだ。

 上の世界では、レオ以外にパパとママ、そして、ニーナという名前が、いつも遠くで聞こえていたが、上の世界で食事をしている音が聞こえている時でも、誰も「美味しい」、「不味い」、「まあまあ」などとは言っていなかった。小さな子が、その事を疑問に思って、レオに尋ねた時、レオは俯いて、「うちの家族は食事の時には会話なんてないんだ」と見たことのない表情をしていた。小さな子は、そう聞いても、《家族》とは何だろうと、首をかしげることしかできなかった。

 食べ物を運んでくるだけの者は、……確か、セバスチャンだ……。あれは、《家族》に入るのだろうか。この中に書かれていることが全てわかったら、何か変わるのかもしれない。

 小さな子は、ここ数日でレオという男の子から得た情報を頭の中で組み立てながら、椅子から立ち上がり、天井まである棚にびっしりと積み上げられている本の背表紙の列を見上げた。あの子に会うようになってから、これまで耳だけで聞いていたいろいろな情報が頭の中で繋がり始めているのだ。

 ここの世界以外を知らない小さな子には、上の世界のことは全てが音だけで想像する世界だった。歌うように話すママと呼ばれている人や、ニーナというわがままな女の子のことや、その太りすぎている体型のことも知っているが、小さな子は、太りすぎという型を見たことが無かったので、どういうものかが分からなかった。レオという子の話では、あの子よりも上にも横にも広がっているという意味らしい。パパという人の声は、低く太く、いつも何かしら物を買ったり売ったりという話を誰かとしているようだ。

 パパが話す相手は大勢いていつも違う人で、パパの言うことに反対できる人はいなさそうだった。そして、パパという人が、あまり良いことではないことをしているらしいことも、小さな子には分かり始めていた。ここに来た人たちが、玄関から門まで出て行くとき、いつもパパという人について、酷いことをいっていたからだった。上の世界では、目の前にいる時と、いない時では、違うことを平気で言うのが当たり前のようだった。

 数日前から、レオの誕生会で指輪の贈呈式があるという話で、上の世界は騒がしかった。今日のランチが台無しになったのも、その準備で忙しかったせいだ。小さな子は、誕生会というものが何か分からなかった。生まれた日を祝うというものらしいということは理解していたが、《生まれる》の意味が、そもそも分からなかったし、自分がいつ生まれたのかも知らなかった。

 高い所に見えている穴から、外に出てみたいと思ったことはあったが、そこにはどうやっても手が届かないし、部屋の外に出ると君は死んでしまうのだと、いつも来る男が怖い顔で言っていた。

 上の世界には、男、女、どちらでもない人、という区別があり、大人、子供、どちらでもない人、という区別もあるようだった。小さな子は、レオという子に会って初めて、大人と子供の違いが分かるようになった。セバスチャンが大人だという事もよく分かった。けれども、いまだに女の子というものを見たことが無かった。ニーナと呼ばれている子は女の子で、女の子が大人になって、子供が《生まれる》とママになり、パパは、男の子が大人になってママを見つけるとなれるものだ。そうレオは話していた。

「僕って、何なのかな?」

 小さな子がそう尋ねた時、

「僕と同じくらいだから、男の子だよ。大人はさ、僕たちよりもうんと上の方に大きいんだよ。ほら、セバスチャンみたいに。今度さ、家族の写真を持ってきてあげるよ。そうしたら、もっとよく判ると思うんだ」

 レオという男の子は、さっきそう話していた。小さな子には、写真の意味がよく判らなかったが、辞書の挿絵のようなものらしいことは分かった。小さな子はその《写真》というものを早く見たくて、次にあの子が来るのはいつだろうかと待ち遠しくなった。時々やって来るレオという男の子は、雪のような顔をしていて、眠くなる前の空のような頬をしていた。そのことを指摘したとき、男の子が言った言葉を聞いて、小さな子は、物には《色》があるという事も知った。

「ほっぺが夕焼け空みたいに赤いの、僕、凄く嫌なんだ。早く白くならないかな」

「夕焼け? 赤い? 白く?」

「え? 君、赤色とか白色とか分かんないの?」

「色ってなあに?」

「えっと……言葉で言うのって、難しいな……。あ、そうだ、今度来るときに色鉛筆を持ってくるよ。色鉛筆に、色の名前が書いてあるからさ」

「色の名前……」

「うん、物に名前があるでしょ。色にも名前があるんだよ。味に違う名前があるのと同じ」

 レオという男の子は、少し説明できたことを誇りに思ったのか、いつもしている蝶々のような胸元のリボンを前に突き出して、誇らしそうな顔をしていた。

 レオという子は、いつも「靴」というものを履いていた。セバスチャンという者も履いていたのだが、それはとても大きくて、テカテカ光る虫のような色で、足が紐でぐるぐる巻きにされているように見えていて、ちっとも履いてみたいとは思わなかったが、男の子が履いていたものは、紐のない、男の子の髪の色と同じような夜の空のような色だった。小さな子は、それを履いたことが無かったので、男の子にお願いして一度だけ履かせてもらったことがあった。それはいつも履いている柔らかいものと違って、硬くて頑丈なものだった。歩くと音が鳴るのも面白かったが、足がとても重くなったように感じて、長い時間動けそうにないものだった。

「靴が無いと、外には出られないよ。足を怪我するからね」

 レオと呼ばれている男の子はそう言っていた。小さな子は、溜息をひとつついた。どちらにせよ、自分は上の世界の人間ではないのだから靴は必要ない。そう考えるしかなかった。

 セバスチャンという男は、明るくなると一度、暗くなる頃にもう一度、ここへやって来ては、毎日口に入れるものの説明をしてから、その食べものを置いて行った。それ以外は何を聞いても答えず、下の世界で生まれた者は、この部屋から出ると死ぬということ以外、何も話すことをしなかった。

 そして月に一度、髪を切る時には、ママという人にそっくりな目と髪の色だと溜息をついていた。溜息の理由は分からなかったが、小さな子は、髪や爪が伸びることがとても不思議だった。紅茶色の髪が、床に散る様子が面白くて、いつもずっと見つめていた。

 それ以外の世界は、あとは耳で想像するか、文字ばかりの本の挿絵を見て想像するしかなかった。誰も文字を教えてはくれなかったので、棚にある本は何の助けにもならなかったし、それが一体何なのかと思っていた。レオという男の子に文字を教えてもらうまで、その中にたくさんの面白いことが書かれていて、書かれていることが分かるようになると世界が何倍にも広がるのだということを知らなかった。

 初めて本というものを広げて見た時は、最初は訳の分からない小さな模様が幾つも並んでいて、少しも楽しくなかった。唯一、辞書という本にある小さな挿絵だけが目で確認できた。初めてそれを見た時には小さな子は思わず感嘆の声をあげたのだった。それから小さな子にこっそり文字を習い始め、少しずついろんなことが分かるようになるのが楽しくて仕方なかった。

「絵が好きなの? ここには、紙もペンもないね。今度持ってきてあげるね。セバスチャンに見つからないように隠せる場所も考えなきゃね」

 レオという男の子は、ここへ来る度にそんなことを言って、次に何かしら見たことのないものを持ってきてくれた。小さな子は、レオが持って来てくれたペンと便箋いうものに感激し、毎日こっそりとそれに小さく絵を描いた。便箋という薄くて軽いものは、上に大きなマークがついていて、それはこの家のシンボルの《ドラゴン》なのだとレオは教えてくれた。びっしりと絵を描き込んだ便箋は、小さく指で八つに切って更に折りたたんでから、中を見終わった本に挟んでいった。殆どの本は何が書いてあるかわからなかったが、とにかく見た本には切った便箋の切れ端を挟んだ。もう手が届くところまでの本には全て便箋が挟んである。

「どうやったら、あの上の本に手が届くのかな……。今度、レオって子に聞いてみよう」

 小さな子は、小さく呟いた。最近ではレオという子がやって来るのが、とても待ち遠しい。小さな子は、レオという男の子を実際に見るまで、自分の外見について考えたことは一度も無かった。いつも来る男も、上の世界からこっそりやって来るようになったレオという男の子も、自分とは違う容姿を持っているらしいことが小さな子は気になっていた。上の世界のふたりの耳は、自分の者とは全然違うようだ。が、レオという男の子に出会った時は、その子の大きさが自分と同じくらいであることにとても感激していた。

 上の世界の人達は、みんな平たい耳をしているのだろうか。あの男の子の髪は、靴と同じ色で目もそうだ。あの色の名前は何というのだろう。セバスチャンという大人は、卵の殻と同じような色の髪で汚れているみたいだ。瞳は晴れた日の空の色だ。自分の目の色は何の色なのだろうか。今度あのレオという子が来たら、これも聞いてみよう。

 小さな子は、聞くべきことを忘れないようにと、思い出したように本棚まで駆け寄り、本棚の一番下の端の赤い背表紙の本を引っ張り出して、その表紙を開いた。その本は、中が大きくくり抜かれていて、そこには折り畳まれた便箋とペンがあった。レオが持ってきてくれたペンを隠すための偽物の隠し本だ。本は本物なのだが、もともとここにはなかったものだった。レオの話では、それはニーナが一番嫌いな本らしかった。いろいろな形がたくさん書かれている本だ。小さな男の子は、便箋の上の方に大きな本棚と小さな人の絵をひとつ、それから目の形の絵をひとつ書くと、もう一度空を見上げ、大きな溜息をつき呟いた。

「僕にも、名前があればいいのに……」

 絵を描き終わると、小さな子は、ペンと便箋を本に仕舞ってから、ベッドの上で横になって、上の穴から見える外を見つめた。実際には、穴ではなく天窓だったのだが、小さな子は《窓》という言葉さえ知らなかった。空にはミルクをこぼしたようなものがゆらゆらと形を少しずつ変えて揺れながら動いていた。小さな子は、あれは何という名前なのだろうと思いながらも、眠くなってきた身体を、もう一度起こしてペンを取りに行くほどの力はもう出なくなっていた。

 窓枠の端には小さな虫が止まっているのが見えている。ふたつのノートの切れ端みたいなものを、本のように開いたり閉じたりしている。小さな子は、それが虫だという事だけは知っていた。きっとあれにも名前があるのだろうが、小さな子は名前を知りたいとは思わなかった。あれは《虫》と呼んでいいものだ。食べ物を持ってくる男が、虫は悪いものを沢山運んでくると言いながら、この部屋にいた粒のような虫を足で踏みつぶしたことがあった。一匹引き入れると、次の日にはとてもたくさんの虫がやって来るのだと言い、とても嫌な顔をしていた。

 動かなくなった踏みつぶされた虫は、まだ微かにうごめいていたのだが、紙にくるまれ何処かへ連れて行かれた。小さな子は、その日から虫が大嫌いになった。部屋には、その日以降、虫が出ることは無かったが、時折、天窓に本を開いたり閉じたりするような虫が止まっていることがあった。今もその虫が真上にいるのが見えているのだ。

「上の世界はどう? 虫がいる世界なんか、僕は行きたくないけどね」

 小さな子は、ベットに寝転がったまま、上を向いて呟いた。目を閉じ、耳を立て、上の世界の音に集中した。風が何かに当たる音の隙間から、お皿にフォークやスプーンが当たる微かな音、テーブルの周りを歩き回るセバスチャンともう一人の何かがひきずられるような重そうな足音。椅子がきしむ音、その他にも、何の音かわからない音が幾つも聞こえてくる。いつもと変わらない音の重なりが心地よく、小さな子はうつらうつらとし始め、目を閉じうたたねを始めた。

「僕にも、名前があったらいいのに……」

 寝言のようにもう一度同じ言葉を小さく呟き、小さな男の子はベッドの上で寝息を立て始めた。天窓の外からは、蝶が男の子を見下ろしている。風は温かく、もうすぐ夏でも来るのかと思われるような午後の日差しが天窓から降り注いでいた。


《レオ、あなたは、レオよ》

 小さな子は、まどろみの中で遠くに声を聴いた。気がした。

 レオ……?

 目の前には、見たことのない顔が、笑顔で自分を見つめている。その瞳はオレンジジュースの色だった。その瞳から、水のようなものが溢れ続けていて、オレンジジュースに混ざるように見えた。

「ありがとう。レオ。……ごめんね」

 そう言うと、その顔は少しずつぼやけていった。次の瞬間、誰かに身体をすごい力で掴まれ上から押さえつけられたような気がした、それから何かで頭からすっぽりと覆われた。覆われたもので、呼吸が苦しくなる。必死で息をしようとするが、空気が肺に入ってこない。

「この子は、死んでいる。いいな、死んだんだ。もう動いていない」

 聞き覚えのある声が遠くに聞こえる。この声は……パパの声だ。セバスチャンの足音が聞こえる。覆われていたものが外され、息ができるようになったが、また違う顔がこちらを見つめている。誰なのかは、分からない。また何かで覆われそうになるのが見えた。小さな子は、夢の中で自由に動けなくなった手足を必死で動かした。言いようのない恐怖を感じ大声を発したが、その音はなぜか単音で、音の強弱はつけられるのに思ったような声が出ないのだ。何とかして欲しくて、必死に声をあげるが、声は、「あ」に近い音しか出ない。そして、声の音量をあげればあげる程、顔の上に覆われたものが、布の上から一層強い力で押し付けられてきた。

 苦しくて、息ができない。誰か……助けて。小さな子の脳裏に、セバスチャンが踏みつけた紙にくるまれうごめいていた虫の映像が蘇る。恐怖から逃れようと叫び続けていると、同じような音が近くでもうひとつ聞こえることに、小さな子は気づいた。単音の「あ」……。

「おめでとうございます。元気な男の子です」

「レオ……」

「え? あ、ええ、もうレオと名付けられているのですか。少しお待ちください」

 慌ただしく、走り回る幾つもの足音が聞こえる。「あ」の単音は、自分以外にも、やはりもう一つ聞こえている。呼び合う様に、声を発しあい、互いの存在を確かめ合う。間違いない。もう一人の自分が、声を出している。声に答えようと、声のトーンをあげる度、上から押さえつけられて呼吸ができなくなり、意識が遠のいていった。完全に意識を失うと思った瞬間、大きな音でドアのチャイムが鳴る音が聞こえた。覆われていたものからふっと力が抜け、空気が再び肺に戻って来る。すると、急に全身を覆っていた外からの強い力が外れ、次いで固いものの上に転がされるのを感じた。全身を冷たい感触に包まれたことと、放り投げられた痛みで声を出す力を一気に失った。遠くにセバスチャンの足音が聞こえ、そして遠のいていく、続いて玄関のドアが開く音が聞こえる……。

「赤ちゃん、大丈夫?」

 遠くから、聞いたことのない声を聴いた。澄んだ夏空のような、温かい響きだ。これを飲めば赤ちゃんは元気になるという声が聞こえる。澄んだ温かい声の、しばらくの沈黙の後、ドアが重い音を立てて閉じられた。セバスチャンが近づく足音がまた聞こえる。そして、今度は優しく抱え上げられたのが分かった。冷たく固いものの上に載せられていた身体は、温もりに守られている感触に変わった。しばらくするとセバスチャンが廊下を走る足音と共に、頬に風を感じた。

 玄関のドアの開く音、冷たい風と幾つもの香りの中にオイルランプの香りが交じる。枯草の音、コツコツという音、小さな子は身体がどんどん冷えていくのが分かった。寒さに唇が震え、声さえもう出なかった。ゴゴゴゴゴ……と鈍い音の後、記憶にある匂いの場所で、今度は柔らかいものの上に置かれた。

「これが、私にできる精いっぱいのことです」

 セバスチャンの声が聞こえて、口の中に何かを入れられるのを感じた。口に入ったその《味》は、とても表現できるものなどではなかった。舌の奥にいつまでも残り、唾液を飲み込むのも嫌なのだ。けれど、溢れる唾液を飲まずにはいられない。一度でもう十分すぎるくらい嫌な《味》を、セバスチャンは再び口の中に擦り付けてきた。抵抗しようと「いらない」と言おうとするが、単音の「あ」しか、やはり声は出てこない。

「すみません。苦いでしょうね。後で、美味しいミルクをお持ちします。ああ、何て可哀そうな。お願いです。どうか、これを飲み込んでください。お母様の為にも、どうか生き延びて」

 セバスチャンは、「あ」の口のまま開かれた口の中に、もう一度、何かを塗り付けてきた。小さな子は、声を限りに叫んだ。

《いらない! いらない!》

 しかし、やはり口から出ている声は「あ」だけだった。そうか、これが《不味い》だったのか。二度と口にしたくない味だ。ずっと昔から知っている。初めて知った味は、甘くて美味しい味ではなく、苦くて不味い味だった。


 小さな子は、深い眠りの中で、夢と現実の狭間を行き来していた。再び、ゴゴゴゴゴ……と、今度はとても大きく近くに音がして、セバスチャンのせわしない足音がした。テーブルの上で皿やグラスをガシャガシャと重ねる音が聞こえる。

「お食事のお時間です。本日は、ビシソワーズ、ジャガイモの冷製スープと、バジルパスタ、デザートには、フレッシュなイチゴでございます。まだ出回る前に、農家から届けられましたので、どうぞお召し上がりください」

 小さな子は、その声に反応して目をこすりながら身体をベッドの上で起こした。どうやら、現実の世界に戻ってきたようだ。眠っている時に見えるものは《夢》というのだと、レオは教えてくれた。小さな子は、レオに《味》について教わってからというもの、この同じ《夢》をよく見るようになっていた。けれど、《夢》というよりは、本当に体験した出来事のように、いつも口の中には《不味い》ような味がした気がして、目が覚めるのだ。セバスチャンは、いつものように、何をするわけでも無く、ただ黙って傍に立っている。セバスチャンはコホンと咳払いをしてから、珍しく言葉を発した。

「あの、あれだけのおやつを全て召し上がられたのでしょうか?」

 小さな子は、無言でコクンと頷くと、ベッドから降りて椅子に腰かけた。バジルのいい香りが食欲をそそる。実際には、おやつはレオという男の子が全部食べたので、小さな子のお腹はかなり空いていた。

 変な《夢》……。《不味い》味……。

 夢を見た後の常で、見た夢のほとんどのことは起きた瞬間に忘れてしまっていた。けれど、小さな子は似たような夢を、ここ最近何度も見ていた。夢を見る度に小さなピースは埋まっていき、もうすぐ全体が見えてくるような気がして、小さな子は、レオからもらった便箋とペンを手にしてからは、その絵を描いておくことにしていた。今、覚えていることは、《不味い》記憶だけだった。どんな味だったかは記憶にはもう無いのだが、小さな子は、自分が《不味い》を確かに既に知っていたことに気が付いた。けれどそれをどう絵に描こうかと、口を動かしながら、小さな子は考えていた。考えながらもフォークに器用に深い緑色のパスタを巻き付け、口に運ぶ、優雅な動きで小さな男の子が食器を扱う姿を見て、セバスチャンは満足そうな顔をしていた。

 このパスタは《美味い》ではなく、《まあまあ》だ。だって、飛びあがりたくないのだから。そう言えば、セバスチャンが夢に何度も出ていたなと、小さな子はそこまで思い出した時、ふた口めを口に運ぼうとした手をぴたりと止めた。フォークに巻き付いたバジルの葉から目が離せなくなったのだ。その様子に気が付いたセバスチャンが怪訝な顔をし小さな子の皿を覗き込んだ。

「虫でも入っていましたか?」

《虫》という言葉に小さな子は、一瞬、条件反射的にぎくりとなった。セバスチャンは、その様子を見て一層慌てて、今度はじっと上から皿を見回し始めた。小さな子は、虫に関係する何かを夢で見た気もしたのだが、今の関心はそこにはなかった。フォークに巻き付いているパスタの上のバジルの《色》に小さな子の神経は集中していた。このバジルと同じ《色》のついている夢を今日は見たのだ。それも、この色だけをはっきりと鮮明に覚えている。夢の中で、自分にレオと呼びかけた顔があった。そのオレンジジュース色の瞳には水のような液体がいっぱい溢れていて『ありがとう』と言った。最期の言葉の意味は、小さな子には分からなかった。

 最も印象に残ったのは、その人はこれと同じ《色》の服を着ていたことだった。それは、今、自分が着ている服の色と同じ色なのだ。小さな子は、今すぐ走り出し、便箋にこのことを描きたい衝動に駆られたが、セバスチャンがいたので、立ち上がることも何もできなかった。小さな子は急に食欲を失ったような様子を見せて立ち上がった。

 早く、早く描かないと、忘れちゃう……。

 小さな子は、フォークを置くとすっと立ち上がりベッドへ向かうふりをした。

「もういらない」

「どうかされましたか?」

「お腹いっぱい」

「だから、あんなにいっぺんにおやつを召し上がってはいけないのです。では、全ておさげします。フルーツがお好きなので、せっかく今年一番に取り寄せたイチゴなのですけれど、ヘタを取ってしまっていますのでね。新鮮なうちにひとつくらいお召し上がりになりませんか?」

 セバスチャンの問いかけは、いつも的確だった。本当はお腹も空いているし、イチゴは毎年この時期を楽しみにしていた。小さな子は、渋々といった風を装って椅子に戻って座り、デザートフォークでイチゴを一粒突き刺して口に運んだ。甘い香りと、蜜の香りが口いっぱいに広がり、小さな子は何とも言えない幸せな気分になった。これを持っていかれてしまうのは惜しいと思い、慌ててふたつ目にフォークを差した。その様子を見て、セバスチャンは少し笑ったように見えた。お皿に可愛らしく並んでいたすべてのイチゴは、いつの間にか全て小さな子の口の中へと消えていった。

「結局、十個のイチゴは全部お腹の中ですね。ブルーベリーもおやつに召し上がっていたようですし、お腹を壊さないといいのですが」

「平気だよ。甘くて美味しかった。ありがとう」

「それはよろしゅうございまし……」

 少し体を前に倒して、そこまで言いかけていたセバスチャンは、突然、その動きと言葉を止めた。ゆっくりと上体を起こすと、表情の無くなった顔で、トレーの上に食器を載せ、ランプを下げて無言のまま部屋を出ていった。小さな子は、自分の犯した失敗に気づいてはいなかった。《甘い》という言葉、《ありがとう》という言葉は、レオがいつも言っていて、ついそれを真似てしまったのだが、小さな男の子がその言葉を使っているという事は、セバスチャンにとっては違和感でしかなかったのだ。

 ドアが閉まったのを確認すると、小さな男の子は本棚の端まで走って行き、便箋とノートを取り出して、急いでパスタの絵と服の絵を描いた。それから、《不味い》を絵にしようとして、何を書いていいか分からず、とりあえずイチゴの絵を描いてから、幾つもの線でイチゴの絵を汚しておいた。気になったことを絵にして安心すると、小さな子は、また急にお腹が空いて来るのを感じた。おやつは全部レオという男の子にあげてしまっていた。パスタを一口とイチゴ十粒だけでは、お腹が鳴るのは当たり前の状況だった。

「お腹空いた」

 小さな子は、呟きながらペンを隠し本の中にしまい、ベッドに横になって天窓を見上げた。本のようなあの虫はいなくなっている。暗くなるといつもいなくなるのだ。

《レオ、あなたは、レオよ》

 優しい声が、小さな子の耳から離れなかった。ここにいるママの声とは別の声のようだった。もう一度、あの人に会いたい、と、小さな男の子は、祈りながら再び目を閉じた。

 どうしてあの子の、レオの夢を見たんだろう……。

 小さな子は、夢の中で自分と同じ色の服を着た人の言葉を思い出し、足りなかった大切なものが満たされていくような感触を柔らかいベッドの上で体中に感じていた。

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