第7章 姉と弟、兄と弟
真っ暗な階段を一段、また一段、と数を数えながら降り、三十二段目でレオは立ち止まった。最後の一段だけが、左側に幅が無く危険なので、身体を右の壁に寄せながら左に身体を少し回転させ、三角形の形の最後の一段を降り切った。段差がないことをもう一度足先で確認し、平らになったレンガ造りの廊下を左側に進み、真っ暗な中、手探りで左側の壁を触ると、冷たいレンガの感触が掌に広がり、レオは思わず手を引っ込めた。
空気が薄いせいか、蝋燭の灯は少し小さくなっている。先の方に小さく光が見える。明かり取りの窓だ。風のせいかガタガタと窓は音を立てていた。薄暗い中を前方の小さな光を頼りに前に進んで行くと、灯りが徐々に大きくなり、また蝋燭の火が大きくなった。明り取り窓の下まで来ると、レオは小さな窓を見上げた。まもなく正午だ。窓の端には、蝶が一羽止まっているのが見える。
「ほんと、君って、役に立たないよね」
レオは吐き捨てるように言い、窓の前を通り過ぎた。窓がまたガタガタと音を立てる。蝶が開けろと言っているようだが、レオはそれを無視して進んだ。薄暗くなっていく細い廊下は、どんどん暗くなっていく。突き当りから冷たい風が吹いてきて、蝋燭の火がふっと消えると、レオは動じることなく風の吹きこんできた場所を手で探り、両側の石を手で押し広げるようにぐっと左右に押した。すると、地鳴りのようなゴゴゴゴゴゴゴという音を立て、レンガ造りの壁が少し前にずれて、左右にゆっくり押し開かれ、中から暗い廊下に向かって太陽の光が差し込んだ。
「ああ、また来たの」
部屋の中はとても広く、高い天井の上の方から春の柔らかい光が差し込んでいる。部屋の真ん中から下は薄暗く、部屋の端がどこなのか分からなかった。
「どこ?」
「ここだよ」
声が聞こえると、部屋の奥に真っ白な顔が現れ、レオはぎくりとして数歩後ずさりした。ここへ来るといつも肝試しをしているようだ。目の前に誰かがいることを確認したレオは、恐る恐る部屋に入った。目の前の姿形が、自分と似ているので、鏡が置いてあるのかと思ったが、数歩前に進んで、レオは、目の前の景色は鏡に写った自分ではないことに気がついた。おそらく今の自分の表情は、こんな穏やかな笑顔ではないはずで、恐怖で引きつっているはずだった。それに、この部屋に鏡など置いてあるはずがないのだ。
「大丈夫だよ。何もしないよ」
微笑みながら、小さな子はレオのいる方へと近寄って来た。心臓の音が緊張で耳まで聞こえていたが、レオは平然を装って笑顔を作った。小さな子は、微笑んだままレオの横を通り過ぎ、振り返るとレオに手招きをした。
「ねぇ、こっちに肘掛椅子っていうのがあるんだ。買ってもらったんだよ。どうしてふたつもいるのかって、うるさく聞かれたけど。君には少し暗いよね。少し待ってね。オイルランプがあるからつけてあげる。僕、この匂いあまり好きじゃないんだけど、君は暗いところ駄目でしょ」
マッチを擦る音がして、ガラスと金属が擦れ合う音が聞こえた後、部屋の端がふっと丸いオレンジ色の光で包まれた。暗い部屋の端で、オイルランプに火をつけた小さな子が、ふっと笑顔を緩めて、手招きをした。
「まだ怖い? 僕のこと」
「……ううん、こ、怖くなんかないよ!」
レオは、椅子に近寄り、手招きされた方の椅子に腰を掛けた。実際は、その子がランプの光を顔の下から受けていた時は、顔の様子が怖くて仕方なかったのだが、単なる光の加減で恐ろしく見えていただけだった。光の届かない奥には、どうやら簡易なキッチンのようなものもあるようで、小さな子が一生懸命に戸棚から何やら引っ張り出している気配があった。しばらくすると小さな子は、美味しそうなフルーツと、見たことのないようなお菓子をレオの前に並べてから、本でいっぱいのレンガの壁を背にしてレオと向かい合って肘掛椅子に腰かけた。
「スミレのクッキーだよ。食べてみて、どんな味かを教えてよ。きっと、上の世界では食べられないと思うから」
レオは、言われたまま恐る恐るクッキーをひとつつまんで、口に放り込んだ。
その様子を見て、小さな子は微笑みがら黄色い液体をグラスに注いだ。鼻に抜ける春のスミレの香りにレオは目を丸くした。生まれて初めて食べたそのクッキーは、最初は香水を口に入れているような違和感があったが、ほろほろと口の中で砕けて溶けて、甘い練乳か、カスタードのような味が最後に残ったのだ。口の中からあっという間になくなったクッキーの味をもう一度確かめたくて、レオは二枚目のクッキーを頬張った。ミルクの甘さとスミレの香りが口から鼻にかけていっぱいに広がる。
「うわぁ……」
美味しさに驚き、両手にクッキーを掴んだ状態になってしまったレオの前に、小さな子は笑顔でグラスを差し出した。
「はい。どうぞ」
レオは、せっかくの口の中の香りを消したくなかった。だからしばらく躊躇したのだが、しぶしぶ片方の手のクッキーをお皿に戻し、グラスに注がれた液体を口に運んだ。
その液体を一口飲んで、レオは椅子から飛び上がるように立ち上がった。
「ねぇ、これなんて言う飲み物? すごく、すごーく、甘くて美味しい!」
「なんだ、上の世界じゃ、オレンジジュースもないの?」
「オレンジジュース?」
「ああ、太陽の国のフルーツでできるらしいよ。いつも来る男がそう言ってた。僕、その木は本の絵でしか知らないけど。実は何回も食べたことあるよ。まあるい、太陽の色の実だ。実にはいろいろあってね。これは、《タンカン》っていう実だよ。とっても寒い時に食べるんだ」
「ふうん。僕、オレンジジュースなら知ってるよ。けど、もっと、なんていうか、上で飲むやつは甘酸っぱいんだ。あ、このブルーベリーよりももっと酸っぱくて、紅茶に入れるレモンみたいなの。僕、酸っぱいの嫌いなんだ。でもさあ、このジュースって、酸っぱくなくって、すごく甘くて美味しいね!」
レオは、この薄暗い部屋の中で、この小さな子が大層恵まれた生活をしていることに驚いていた。頭が良いことは、最初に会った時から感じていた。学問的に頭がいいというよりは、知恵があると言った方がいいかもしれなかった。言葉で聞いた単語は一度聞いたら忘れないようで、二度目にレオが来た時は、質問攻めにあった。この小さな子よりレオの方が優れていることといえば、自由に外を走り回れることと、両親や友達にいつでも会えることくらいかもしれなかった。
「これ全部パパが持ってくるの?」
レオは、そう口にしてから言ってはいけないことを言ってしまったと後悔した。
あの人が来るわけなどない。この子のことをこんなところに閉じ込めて、ずっと隠し続けているようなパパが……。
「君が言う、パパっていうの、僕、見たことないんだよ。ママっていうのにもね。何する人なのかも知らないし。ここへ来るのは、えっと、背の高い眼鏡をかけた……」
「セバスチャンだと思う」
「多分そうかな。君がここにやって来るまで、僕はずっと音だけを聞いてたから」
「音だけ?」
「うん」
そう言うと、その子は前に垂れさがった不思議な形の耳をピンと立てた。
「今ね、誰か、外で草刈りをしている。それと、今日のお昼ごはんは、野菜フォンデュのはずだったのに、誰かがチーズをほとんど焦がしてしまったみたい。だから、残ったチーズでサンドイッチになったよ」
小さな子は、美味しい野菜フォンデュを食べることができたのは僕だけかと、ふふと笑いながら、高い所にある天窓を見上げた。レオの耳には、窓を叩く風の音以外、何も聞こえなかった。この子の不思議な能力は、あとどれくらいあるのだろう。何故こんなところに閉じ込められているのだろう。この妙な形の耳と能力のせいなのだろうか。レオは、小さな子の耳の様子をずっと見つめ、一度だけ見たことのあるこれと同じ形の耳を持つ人物のことを思い返していた。
「そろそろ帰った方がいいよ。君を探している声も聞こえるよ。あれは君のお姉さんだね。一度会ってみたいな……」
レオは申し訳ないような、苦しいような何とも言えない気持ちになった。その子の耳が前に垂れさがってきたのを見て、レオは立ち上がった。
「ねぇ、来週さ、指輪をもらうんだ。誕生会で」
「ああ、知ってるよ」
小さな子は、笑顔のままだ。一度笑顔になると固まったように同じ表情のまま話すのだ。その笑顔が心からのものなのか、作られたものなのかが分からず、レオは困惑した。この子にだってきっと関係はある。この子の誕生日は、誰にも祝福されないのだろうか。自分の顔にどことなく似ている小さな子の顔を見て、レオは胸が苦しくなった。
「僕、指輪なんか欲しくないな。どうせ友達も来ないし。パパのための会さ」
「じゃあ、何か欲しいものある?」
レオは、しばらく考えてから、テーブルの上を指さして、笑顔で答えた。
「僕、そのタンカン? っていうの? それのオレンジジュースがいい!」
「ああ、そんなことでいいなら、僕から、いつも来る男にお願いする。きっとびっくりするだろうけどね。なんでって聞かれたら、何て言えばいいかな。まぁ、なんとかしてみる」
「ほんと! やった! あんな美味しい飲み物、みんな知らないと思うよ。僕、パーティの会場中走り回って、それを飲んでびっくりした人たちがなんて言ってたか教えてあげるね」
「そんなことしなくても、僕には聞こえてると思うけど?」
小さな子は、耳の先を再びピンと立てた。
「あ、そうだった! じゃ、どんな顔してたか教えてあげるよ!」
ふたりは、声を立てながらも、それでいて静かに笑った。
「ね、早く戻って」
「うん。また来るね。ありがとう」
「ありがとう……」
その言葉は、『相手に何かしてもらった時や、相手を抱きしめたくなったときに使うといいよ』とレオから教わった言葉だった。いろいろな人が、上の世界でしょっちゅう言っているこの言葉を、小さな子は、ずっと聞いて育ってきたのだが、どういう時に使うのか、分かっていなかった。レオに教わって初めて知って使う様になったのだ。小さな子が、挨拶を返した後、レオは振り返って確認した。
「ねえ、前に言ってたけど、ほんとにお花、嫌いなの?」
「大嫌い。その上にいる虫たちはもっと嫌い。羽の音を聞くのもやだ」
眉間にしわを寄せている顔を見て、レオは分かったと答え部屋を後にした。部屋を出る前に、小さな子はレオが持って来ていた蝋燭に火をつけた。その口元は、また優しく微笑んでいる。
「オイルランプを買ってもらったら? 誕生日には、何かもらえるんでしょう?」
わずかに開けたままの重いレンガの扉からレオは外に出た。扉を閉じようと、部屋の外側のレンガを探りボタンを押した。このレンガだけ、真ん中が少しへこんでいるのだ。最初に来た時は、それがどこかが分からず大変だった。だが、小さな子が、どこかにボタンがあるはずだと教えてくれた。灯りを近づけて見ると、手あかがついて黒ずんでいて埃が積もっていないレンガがひとつだけあったのだ。一体、セバスチャンは、一日に何度この部屋に来ているのだろうと考えながら、レオは苦い感情を押し殺しながら下を向いた。ドアが閉じる瞬間、ドアの前まで近寄って来ていた顔が半分見えた。
「ありがとう」
そう言って笑顔のまま、優しく手を振る小さな子の様子を見て、レオは悲しい表情になった。小さな子の笑顔が、本物か偽物かは判別できなかった。ただ、ここへ来るたびに感じるこの胸の奥の嫌な気分と痛みのようなものは何なのだろうとレオは考えるようになっていた。
ここへ来たことは誰にも話してはいけないと、小さな子は言った。もし話せはレオは死ぬ、もうママにもパパにも会えなくなるんだよと話をした時の目は暗闇で鋭く光っていた。レオは身震いをして、細いレンガの廊下を戻り、階段を三十三段登った。さっきの部屋の前で見たのと同じような感触の真ん中がへこんだボタンを探して押すと、天井板がするすると開いた。レオは頭上を見回し、誰もいないことを確認してから外に出た。
穴の周りはレンガで囲まれていた。井戸のようにも水受けのようにも見えるそれは、普段は藁で覆われている。かつては実際にヤギのエサ入れとして使われていたものだったが、実は地下の部屋へ続く入り口だった。そのエサ入れは屋根付きのヤギ小屋の真ん中あたりにあった。
姉のニーナが入学のお祝いに欲しいとせがんで買ってもらったペットのヤギは、しばらく可愛がられた後、放置され、随分前にいなくなったと聞いていた。レオが生まれたことで、ヤギからレオに愛情が移ったからだと聞かされていたが、単に世話をするのが面倒だっただけだろう。
もうとっくの昔にいなくなったヤギの小屋をセバスチャンが今でも毎日掃除をしているのは、いつヤギが戻って来てもいいようにしているのだという噂だった。大人は嘘をつくものだということを、レオはセバスチャンから教わった。エサ入れの周りに散らばった藁を拾い上げると、レオは素早くエサ入れに戻した。
レオがこの入り口に気が付いたのは、蝶を追いかけていた時だった。蝶の後を追って、使われなくなっていたヤギ小屋の中へ入り、エサ入れに止まる蝶を捕まえようとしてつまずいて中に落ちそうになった。その時エサ入れには何も入っておらず、杉板だけが見えていた。エサ入れの底に止まっていた蝶が、またひらひらと外に飛び出したのを追いかけ、小屋の裏でやっと捕まえられると思った時に、小屋の中から妙な物音が聞こえてきたのだ。草陰から覗くと、エサ入れの中からセバスチャンが出て来たのを見て、レオはひっくり返るくらい驚き、びっくりして声も出なかった。
セバスチャンは持っていた重そうなトレーを横の棚に載せてから、板が見えていたエサ入れに板が見えなくなるまで藁を敷き詰め始めた。その様子を小屋の陰からこっそり眺めながら、レオは溢れ出る好奇心を押さえることが出来なくなった。大きなトレーに食器とランタンを載せたセバスチャンが遠ざかったのを見届けると、レオは再びそっと小屋に入り、セバスチャンが敷き詰めた藁をどかした。
そこには、さっき見た板がやはり見えていたのだが、叩いても押しても開くことは無かった。しばらく考え込んでいると、蝶がひらひらと目の前を横切り、さっき見た時と同じ位置に止まった。よく見ると蝶は、その細い触覚で、板の一部を叩いているように見える。レオは蝶が触れている板を押してみたが、やはり何も起こらなかった。
「なんだよ。期待して損した。でも、絶対入れるはずなんだよな」
蝶は相変わらず、その触覚を上下させている。蝶が止まっている板の端を見ると、先端が少し欠けているのが分かった。
「押して駄目なら……」
レオは、板の端のところの欠けたくぼみに指をかけ、板を上に引き上げた。するとエサ入れの半分がするすると開いたのだ。そこから下を覗くと、暗闇に続く階段が見えていた。
あの時の興奮と好奇心と恐怖心をレオは生涯忘れることは無いだろう。真っ暗な階段を下りて、最後の一段を踏み外し、痛い足を引きずって廊下の端までたどり着いた時、壁の向こう側から聞こえた声にどれほどの恐怖を覚えたことか。あの日から、レオは二日に一度はここへ来るようになっていた。小さな子の言う通り、セバスチャンが来る時間は決まっていて、その直後なら誰に会うこともなかった。問題は、エサ小屋までの往復を見られないように注意をすることだけだった。
レオは、敷き詰めた藁を確認して、ふうと息をつくと小屋から出て、服に着いた藁を払い、あたりを伺いながら表玄関の方へと向かった。来週の誕生日には、絶対にあの子にも喜んで欲しいとレオは考えていた。あの子は、間違いなく自分の兄か弟か、少なくともこの家に関係する者のはずだと、一目見た時から感じていた。だが、あの子は、自分が誰かさえ知らないし、自分の顔さえも見たことが無いようだった。あの暗い地下の奥の部屋にいる理由は分からなかったし、誰にも話すことは出来ないことだということだけは分かっていた。そして、あの子のために自分は何をすればいいのか、レオには思いつかなかった。
来週まであと数回は行くチャンスはある。今度は、色鉛筆を持っていこう。家族写真もだ。それからその時に直接聞いてみよう。今一番欲しいものを。
レオは、何事もなかったかのような顔で、玄関前に短くなった蝋燭と燭台を捨てて、小走りでダイニングへと向かった。家の中から姉のニーナが、今日のランチはレオの好きなチーズサンドだと、叫ぶ声が遠くに聞こえていた。
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