第6章 ともだち
《経験者求む!》
村の図書館前の掲示板に貼ってあった大きなポスターを見つめ、ハンナは大きな溜息をついた。ポスターには、心躍るような文字が並んでいる。
《イチゴ畑での一日だけの運搬のお仕事です。《経験者》は一日百万グランドル。収穫のお仕事は《候補者》可。一日一万グランドル。あなたも一緒に働きませんか?》
今年ようやく十二才になる予定のハンナは申しこむことができない。資格がないのだ。
「経験者か、候補者だけかぁ……」
ハンナは、再びポスターを残念そうに見つめた。
「一万グランドルでも、ママ、喜んでくれるだろうなあ」
残念そうに俯いて、ハンナは、右手の中指に付けているリングを見つめた。石と石の間が、一部分だけ大きく開いているのを見て、ハンナは再び「はぁ」と溜息をつき、とぼとぼと学校の方向に向かって歩きはじめた。
山あいの村の冬は厳しく、特に今年の冬は寒いなんてものではなかった。雪の国から氷の精霊が大挙して押し寄せたのではないかと思えたほどだった。このまま暖かくならないのではないか、今年のイチゴは不作かもしれないと村人たちは心配していたのだが、春のお祭りが近づくにつれ暖かくなって、例年より少し遅れたものの、徐々に街は黄色の花々で埋まっていった。村の北側の外れにある、広大なイチゴ畑、ストロベリーフィールドは、少し前から白い花が満開で、風に乗ってやって来たいい香りが村には充満している。数日前から七色の蝶々たちが、例年どおりにたくさん飛んでいた。もうすぐイチゴの収穫が始まるサインだ。ハンナは毎年多くの人々が、このストロベリーフィールドで働いているのを見ていた。不思議なことにその美しいイチゴは、殆どが村には残らずに、隣の国へ送られていた。噂では、この村のイチゴは、とても不格好で不揃いな形をしているにもかかわらず、他の国では自然受粉のイチゴとして、とても高価な値段で取引されているという話だった。
「配達だけで、そんなにもらえるって、いったいどんな仕事なんだろう」
呟きながら、ハンナがストロベリーフィールドの方向を見るともなく見つめていると、黄色いテントウムシがやってきて手に持っていたカゴの持ち手のところにふわりと止まった。
「ふう。今日は暑くなりそうね。畑のお掃除の仕事もほとんど終わったし、まぁ、お仕事のおかげでお腹いっぱいなんだけど。もう飛ぶ気にもなんないわ。ちょっとだけ休ませてくださる? ああ、あなたの今日のその恰好、正解よ」
黄色のテントウムシは、軽く身づくろいを済ませるとそう言い残し、また羽を猛スピートで羽ばたかせて高速のヘリコプターのように飛び去っていった。今日は暑いくらいの気温になる、と虫たちが朝から窓辺で話しているのをハンナは聞いていた。だから、今日は白い半そでブラウスを身に着け、顔にかかる額の両側の髪だけを三つ編みにし、更に後ろにまとめて大きなブルーのリボンをつけている。スカートとお揃いの色だ。耳は隠したいので、後ろと横の髪は下ろしていた。右手に抱えた茶色のカゴには、お弁当のサンドイッチと、青いリンゴが入っていて、その上から赤と白のギンガムチェックの布が被せてある。この辺り一帯を飛んでいるお腹を空かせた
「ハンナ! おはよう! ずいぶん薄着だけど寒くないの?」
「ハンナ、それ、朝ごはん?」
後ろから元気な声がして振り返ると、大きな本を脇に抱えたマルグリットが立っていた。隣には笑顔のニーナもいる。ハンナよりもひとつ年上のふたりは、ハンナよりも少し背が高い。学校に通い始める前から仲良く遊んでいた友達だ。はるか遠くの国からやって来たハンナに、最初に声をかけてきてくれたのがニーナで、その隣に住んでいるのがマルグリットの家族だった。
マルグリットは学校の中で一番の秀才で、いつも何かの本を持って歩いている。沢山のメガネをコレクションしているらしいのだが、今日は、青いフレームの細い眼鏡をかけていた。まっすぐな黒い髪と、スレンダーな身体、長い手足は、マルグリットの自慢だ。その長い足が目立つように、体にぴったりとしたパンツをいつも履いていた。胸にフリルがいっぱいついた水色のブラウスを着ていて、細い黒リボンを胸のところでネクタイのように結んでいる。長い脚にぴったりフィットしたパンツにはサイドにラインが入っていて、余計に足の長さを強調していた。
マルグリットと対照的な丸い体形のニーナは、最近、ちょっと、というか、かなりぽっちゃりしてきたのを気にしているはずなのだが、今日も朝から手には大きな菓子パンを持っていた。透き通るようなプラチナブロンドの髪を、肩の所で二つに分けて、丸いおだんご髪にして結び赤い水玉毛様のリボンを付けている。大きく広がるバルーンスカートは、その体型をカバーするどころか、丸い体型をさらにいっそう強調させていた。ウエストあたりからスカートがパラシュートみたいに広がっていて、毎月少しずつサイズが大きくなっているようだ。おそらく外国製の複雑な地模様があるスカートは、太陽の光にあたって玉虫色にきらきらと光っていた。
「あ、おはよう。これね、ランチだよ。ニーナ、それは?」
「ブランチ」
「あんた、ブランチは、朝ごはん《ブレックファースト》とランチを一緒にしたってことだよ。だから、「ブ」+「ランチ」なの。その場合は一日二食の人のことを言うの。朝ごはん食べて、ランチも昼に食べて、晩ご飯も食べて、その間にも食べてるんだから、それは、《
ダイエットする気、絶対ないよね。それに、そのスカートじゃ、早く走れないでしょ。《経験者》どころか、《守り人》にもなれないよ」
笑いながら、片方の口角だけを上げたマルグリットに、ニーナはムキになって怒った。
「《経験者》や《守り人》になるのに、服装のきまりや、体重制限なんて無かったもん!」
ニーナが怒りに任せて、右手に持った菓子パンを振り上げたその時だった。はるか高い空から
涙を目にいっぱいためて、空を見上げるニーナが、ハンナは気の毒になり、持っていたカゴからランチのサンドイッチの半分をニーナに差し出そうとしたのだが、マルグリットに腕を掴まれた。マルグリットは首を左右に振っている。
「ニーナ、これってきっと精霊たちからのメッセージだよ。た、べ、す、ぎってね」
ニーナは顔を真っ赤にして、目を吊り上げてマルグリットを睨みつけている。
「ふん。ダイエットすればいいんでしょ! 明日からするもん!」
「明日からねぇ。そのセリフ、もう何回聞いたかわかんないけどね。ダイエットって《今日までは、ご飯をいっぱい食べる》って意味だったっけ?」
「そんなに意地悪なことばっかり言ってたら、《守り人》になってくれる人は出てこないよ! 痩せてたって、本で勉強ばっかりしたって、ずっと《経験者》になんかなれないよ!」
ハンナは、二人が口げんかをしているのを、ただ黙って見ているしかなかった。いつもの光景だ。このふたりは、何か話題を見つけては口論している、なのに、ずっと仲良しだから、ハンナにはそれが不思議で仕方がなかった。いつだったか、マルグリットにニーナのことが嫌いなのか好きなのかと聞いた時、『好きに決まってるよ。ニーナは一緒に育った姉妹みたいなもんだからね』と、マルグリットは、笑って答えていたが、姉妹のいないハンナには、その意味がよく分からなかった。ハンナの年齢が、ふたりよりも一つ下という事もあるのだろうが、ふたりの友達同士としての距離感は、ハンナとの距離感とは全く違っている気がして、ハンナは二人といるといつもなんとなく疎外感を感じるのだが、かといって二人が嫌いなのかというとそうではないし、ふたりの方もハンナを友達だと周りに話していた。ハンナは友達っていうものは、《ただの知り合いよりは話をするが、一定の距離感を保つ人たち》のことをいうのだと思っていた。だから、ふたりとは喧嘩などしたことが無かったのだ。
好きでも喧嘩ってするんだなぁと、ハンナが呆れながら、ふたりの言い争いを見ていると、再びハンナの後ろから、声がした。
「朝っぱらから、騒々しいねぇ。どっか、よそでやっとくれ」
頭から紫の布をすっぽりかぶった老婆が後ろに立っていた。精霊使いのパトラだ。
「悪い気と言霊のせいで、精霊たちが飛んで行っちまったじゃないか。今日は、あたしの、百歳の誕生日なんだがねぇ」
いつも音もなく現れるパトラは、村の南の外れに暮らしている。こんなに朝早い時間に、村の真ん中で会うことは珍しい。どこかへ出かけた帰りか、これから向かうところなのか、手にはリボンの付いた小さな黒い箱を持っている。腰が深く曲がっていて、小柄なパトラの顔は、三人の顔の位置よりもずっと低いところにあった。パトラは、深く被ったフードの下から、白い眼を光らせながら、三人を下から上目遣いにじっと見つめている。三人は、顔を見合わせ、パトラのただならぬ妖気に圧倒されて後ずさりした。マルグリットが、真っ先に言葉を発し、ハンナもつられて思わず謝ってしまった。何もしていないのに。
「す……みません。パトラばあ様」
「ごっ、ごめんなさい」
「よそでやりますぅ」
三人は大急ぎでその場を立ち去った。学校が見えるところまで逃げるように走って来て、ようやくマルグリットが後ろを振り返った。大きなパラシュートスカート姿のニーナが、とても遅いスピードでハンナとマルグリットに追いつこうとしているのを見て、マルグリットが遠くから声をかけた。
「ニーナ、大丈夫?」
「うん。ごめんね。マルグリット」
先に謝るのは、いつだってニーナの方だ。マルグリットが、追いついたニーナに尋ねた。
「ねぇ、パトラばあ様、今日、お誕生日だっけ?」
「先月、確か、お祝いしていたような……」
「うん。先月も、その前の月も確か百歳だった」
ハンナの言葉に、三人は、またやられたと言って声を上げて笑った。これで何度目か分からない。パトラは絶対嘘をつくと分かっているのに、また騙されてしまう。すべては、あの妖気のせいだ。けれど、村で一番の精霊使いのパトラばあ様の機嫌を損ねたら、この村では《経験者》になることは難しいのだ。三人は、学校へ向かってゆっくりと歩き出した。
「ね、今日の授業、マイクが発表する日だよね」
ニーナが、恥ずかしそうに尋ねる。マイクはニーナの想い人だ。ハンナはマイクという人に会ったことは無いが、ふたりの話では、かなりの好青年らしかった。ニーナはとにかく、王子様系のキラキラ男子が好きなのだそうだ。
「うん。マイク、昨日、十二歳になったからね」
「どうだったかなぁ。まさか、すぐに石が光ったりしてないよね」
「それは難しいと思うけど。私たちも、きっと、もうすぐだよ」
いつの間にか、ふたりは、また仲良さそうに並んで歩いている。
「ハンナも、もうすぐだね」
振り返り、尋ねたマルグリットに、ハンナは黙って頷き返した。ハンナの心の中には、強いひとつの思いがあった。
早く《経験者》になりたい。
ニーナとマルグリットが、少し急ぎ足で学校に向かう。このふたりが、お互いを必要とする《守り人》と《経験者》にならないのは何故だろう。自分にも姉妹がいればよかったのになと思いながら、ハンナも小走りで学校へと向かった。
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