憎みたかった
「春さんは元彼を本気で愛していたんだね。」
それは愛された元彼が羨ましいと妬む拓馬が自分の心を必死に取り繕う言葉だった。言葉の終わりに残されたニュアンスにはその蟠りが残っている。しかし拓馬のそんな心情は春には伝わっていない。愛していた、その拓馬の言葉だけに春は反応し首を横に振った。
「愛してなかったの?」
愛って、一体何なのだろうか。その問いの答えは自分にとって永久に見つけられないものだと春は思う。
「憎しみってもっと炎みたいにメラメラと情熱的に燃えている物だと思っていた。」
春は自分の乾燥した手の甲を撫でる。もしかしたら、今頃左の薬指にあったかもしれない無機質な輝き。元彼と付き合ったばかりの時、金属アレルギーだからと言って春はそれを拒否した。春と元彼の辿る運命が決定的になったのはその時かもしれない、と思うと春は妙に納得する。自分のそんな可愛くないところが自分をこんな惨めな人生に陥れたのだ。
「でもね、全然冷たいの。裏切られた経験を燃料に必死にもがいても、すぐにプシューって何かが抜けて、腑抜けの空みたいになっちゃう。憎んでいるはずなのに、思うように憎めないの。」
「憎むってどんな風だと思っていたの?」
拓馬の問いに春はしばらく考え天井を見上げた。
「もっとこう、睨みを聞かせて暴れ回って喚き散らして、相手の人生をめちゃくちゃにしたいって怒りで体が熱くなるの、そんな感じだと思っていた。」
そう語る春は異常なほど落ち着いていて春は自分と真逆の様子を口にしているんだ、と拓馬は感じ、同時に春が感情を表に出し暴れ狂いたいと思っているようにも見えた。
「憎みたいの?」
憎しみなんぞ抱かない方がいい、そんなことを春は分かっていた。ただ自分の宙ぶらりんな情を着地させたいためだけに、持ちやすく都合のいい被害者意識の落ちぶれた姿を憎しみという形にして後生大事に抱きしめていたいだけなのだ。
「うん、憎みたかった。これじゃまるで私の愛が最初からないも同然の、ちんけなおままごとだったみたいだもの。」
春が振られたのは二年前。元彼の子供はもうそろそろ二歳になるのだ、と時の流れの早さを知る。愛情を受けすくすく育ち、きっともう歩き回って言葉も話しているのだろう。家族として彼らが絆を深めている間、自分は一体何をしていたのだろう、そう考えれば考えるほど春は虚しくなる。
(私が死を望んだ時、元彼は新しい命に新たな人生の訪れを感じ心を躍らせていた。)
「でもダメなの、彼のことを思い出しても白くモヤがかかっていて楽しかったことだけ綺麗に思い出せて。忘れられそうなほどもう私の日常に元彼はいないのに、美しい夢のように脳みそに存在がこびりついていて。」
初めて愛していると言われ抱きしめられた日のことを春は思い出す。少し臭くて厚い胸板を春はなぜか愛おしいと思った。彼と私が一緒に生きることが私たちの望む未来なのだと信じて疑わなかったあの頃は、自惚れていてそして確実に幸せだった。どんな不幸が待ち受けていてもきっと一緒なら乗り越えられると春は信じていたのだ。
まさかその不幸が、信じた相手によってもたらされるとは思いもしなかった。
「憎みたい、それだけ私が本気だったって、知らしめてやりたい。」
「誰に?彼に?」
別れたい、その言葉が元彼の口から出た瞬間春の額に押されたdrop outの烙印。自分の存在が否定された瞬間、春の中の歯車は動きを止めた。本気で好きだった、本当は浮気されて許せないぐらい身も心も捧げていた、私の前から去るならば一緒に死んでしまえばいい。その思いを春は元彼に知らしめたかった。けれど春の口から出たのは祝福の言葉だ。きっと脳の誤作動だろうと春は元彼が去ったこの家で立ち尽くしながら思っていた。
「さぁね、知らないわ。」
とぼけた顔も拓馬にまじまじと見られれば、陰鬱な表情へと変わっていく。もう枯れ果てて出ないと思っていた涙は、拓馬に拭われるのをいいことに抑えることも出来ず春の頬を伝う。
「春さんは、本当に元彼を愛していたんだね」
拓馬は春の頭に手を置いた。え?と声を漏らし春は拓馬を見上げる。
「何言っているの?私の話、ちゃんと聞いてた?」
頷く拓馬を見て春は口をへの字にする。
「分かっているでしょ、本当は。」
春の心に憎しみがあることに、春は気が付いていない振りをしている。物分かりの良い大人なふりをして、落ち着いたように見せているだけだと拓馬は春の様子を見て悟ったのだ。そんな拓馬の予想は的を得ていて、春は何も言い返すことが出来なかった。
「愛していたから、憎んでもそれを表に出していないだけ。燃え盛る愛情を勝手に鎮火されて、春さんの中にはもう燃料も火を起こす気力も残ってない。それだけ春さんは全身全霊で元彼を愛していた。」
拓馬は春の肩に自分の額を置いた。
「まだ、死にたい?」
拓馬の声が春の体内に響き渡る。
「死にたくないよ。」
拓馬の後頭部をそっと撫でる春の身体は少しだけ震えていた。いつもは意識しない汗腺から流れる汗を感じ、肩に乗るぬくもりで春の心が癒される。
「なんで?」
拓馬の鼻息で、拓馬の顔が自分の方に向いたことを春は知った。鎖骨に当たる拓馬の鼻は日本人にしては鋭利である。春は生唾を飲み、それすら拓馬に知られていることがなんだか恥ずかしかった。
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