あとどれぐらい涙を流せば


「例え土下座してまで別れたい女だとしても、付き合っていた時彼に愛されて幸せだったの。」


 拓馬は春の肩から離れ、春の顔を見る。もう春は涙を流していなかった。


「愛されたから強くなれる、でも愛されたから脆弱になってしまうこともある。」


 なぜ春が笑っているのか、拓馬には理解できなかった。今にも消えそうな、風にあおられゆらゆら揺らめく蝋燭の灯のように揺れる春の瞳は拓馬には端麗に見えた。


「元彼に浮気された時、初めて人を殺したいと思った。それも一瞬の気の迷いなんかじゃなく、しっかりとこの胸に存在している願望として。まるでクリスマスのチキンのように油っこくてムカムカと胃に残る嫌な感情だった。自分はこんなに下品な人間なんだ、って思い知らされて辛かったなぁ。」

 

 拓馬は静かに春の話を聞いている。


「初めて殺したいと思った人が最愛の人だったなんて、皮肉な話よね。」


 膝を抱えて足の隙間に顔を埋める春。拓馬は春の頭に手を伸ばした。


「素敵だよ。」


 言われ慣れていない言葉に春は吹き出した。


「何が?」


 口元に手の甲を置いて拓馬をからかうように笑う春。拓馬は少しも表情を変えなかった。


「春さんの、全部が。」


 春の笑顔は固まり、ゆっくりと手が口元から離れていく。奥歯を噛み締めなければ何かが溢れ出しそうで、春は喉の痞えを取るように生唾を飲み込んだ。


「な、何言っているのよ」


 拓馬から目を逸らし春は俯いた。けれど今も拓馬からの温かい視線を感じてしまい、春は堪らなく苦しんだ。今まで誰にも打ち明けられなかった心の内を拓馬に話し、春の心に蓄積された憂戚は勢いをもって流れ出てしまいそうだった。終わったことを数えている人生、それもまたいいものだと春は自分に言い聞かせていた。けれど内心、この苦しみから解放されたいと思っていた。


 吐き出す苦さ、向き合う辛さは幾ばくか。でももう独りではない、この苦しみを分かち合ってくれた人が、ここにはいるのだ。春は顔を上げて拓馬の存在を確認すべく、床に置いてある拓馬の手の小指に自分の小指をくっつけた。交わる二人の小指は綺麗に交差し熱を育んだ。


(誰かと一緒に居て、こんなに心地よいと思ったのはいつ振りだろう)


 決して恋愛感情ではない二人の情愛は、形を持たず二人の間で浮遊している。その浮遊が織りなす、溶けてしまいそうな温度に春はまた涙を流した。


「嘘じゃないよ。」


 知っているよ、その言葉は春の口から出ることはなく春の心にとどまり続ける。静かに涙を流す春は、拓馬の目にはその姿が紅涙を絞っているように見えた。


(あとどれぐらい涙を流せば、元彼のことを忘れられるんだろう)


 春の肩を抱いて拓馬はそんなことを思った。春に拭えない傷を負わせ、のうのうと生きていられる元彼の存在が拓馬は忌々しくて仕方ない。健気に耐えてきた春を知ればその嫌悪感は増すばかりである。胸元に来る春の頭に頬を当てて拓馬は春の心の憩いが与えられることを切に願った。


 乱れていた春の呼吸は段々落ち着いて規則正しい寝息へと変わっていく。拓馬の肩にかかる春の体重も重くなっていき、拓馬は春を支えながら絨毯の上に寝転がった。


 春にタオルケットをかけて拓馬はテンポよく二の腕を叩き、春を深い眠りへと誘う。仕事の疲れも重なって春は少しの物音では起きないほど爆睡している。春の寝顔を見ていると、拓馬も小説を書いた疲労を思い出しいつの間にか眠ってしまっていた

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